<メッセージノート>
恐れながら喜ぶ( 世界史第二部の始まり)
A イエス様の墓に起こった異常な出来事
1) 墓の蓋を開いた天使 (1-4)
さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。(1-4)
2) 天使の伝言 (5-7)
天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」(5-7)
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ12:28-30)
B 復活は現実となった
1) 恐れながらも喜んで弟子たちのところに走る二人のマリア (8)
婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。(8)
2) 復活されたイエス様の最初の指示 (9,10)
すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」(9,10)
メッセージのポイント
私たちは「恐れながら喜んで」生きています。私たちの心のすべてを見通し、私たちの生死もその手の中にある方が、同時に、ご自身が苦しむことをいとわないほど愛していてくださるのです。権威があって、甘やかすのではなく時には厳しくしっかり育ててくれる。私たちを救い出すためには自分の命を顧みず守ってくれる。そのような方が私たちの主、神様です。だから私たちは、時々に訪れる出来事に恐れたり喜んだりを繰り返して生きる者ではなく、何が起こっていてもイエス様を見上げて恐れながら喜んで生きる者なのです。
話し合いのために
1) マリアたちは何のためにイエス様の墓に向かったのでしょうか?
2) 恐れながらも大いに喜ぶとはどのような心境なのでしょうか?
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<メッセージ全文>
恐れながら喜ぶ( 世界史第二部の始まり)
A イエス様の墓に起こった異常な出来事
1) 墓の蓋を開いた天使 (1-4)
さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。(1-4)
最初に出てくる二人のマリアについては少し後からお話することにして、最初に天使に注目しましょう。イエス様を処刑した人々は弟子たちがイエス様の亡骸を盗んで、本当に復活したと言いふらすことを恐れて番兵を置いていました。しかし屈強な兵士が驚き恐れて死人のように、顔面蒼白で動けなくなってしまうような出来事が起こりました。その姿は稲妻のように光り輝く顔で、雪のように白い衣を身につけていたと記されています。雪のように白いというのも、実際には見たことのないような色だったでしょうが、稲妻のような輝きというのはなんという表現でしょう。それは私たちが想像するようなほのぼのとした姿ではなく、恐怖を覚えるような凄みのある姿であったようです。兵士たちにとっては、聖書の中に時々登場するけれども、実際には見たこともない、そして想像をはるかに超えた「天使」が、葬られたイエス様の側に立つ者として現れたことが、この非常な恐れを引き起こしました。天的な存在が介入してくれば、自分たちにはなすすべもない、下手をすれば命を落としかねない事態に放り込まれてしまったのです。しかし、天使は兵士たちには構わず、婦人たちに語りかけます。天使は神様からの使者です。あなたが神様の側にいるならば、天使がどのような姿で現れようと恐れることはありません。5-7節を読んでみましょう。
2) 天使の伝言 (5-7)
天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」(5-7)
婦人たちも兵士と同様に、恐れ、言葉を失っていた事でしょう。しかし彼女たちには、天使の言葉で、この異様な人物がイエス様のメッセージを伝える天使であることが分かり、その話の内容を受け止めることができました。ここには、二つの命令が含まれています。「空の墓を見なさい」「弟子たちにガリラヤに言ってイエス様と再会するように伝えなさい」の二つです。そして「確かに伝えましたよ」と念を押しています。
私たちは、それぞれの様々な過去に絶望して、聖書を手にし、また教会に来たのです。そこには、2000年も前にイスラエルに実在した人物が実は神なのだが、あなたのために十字架で殺され、しかし復活して今も生きておられると、どうやら本気で信じている人々がいました。そしてあの天使のように勧めるのです。「ほら、墓は空っぽです、あなたもイエス様に会うべきです!」。素晴らしい方だよと、人は勧めてくれるけれどもまだ確信が持てないと、あなたが思っているなら、あなたはちょうどこの婦人たちのように空の墓を見つめているようなものです。天使は彼女たちに「先にガリラヤに行っているイエス様に会えるように弟子たちに勧めなさい」と続けています。それは私たちにとっては、「私の主は今も生きておられる」ということを可能性や願望としてではなく、現実として受け取るためにはどうしたらいいのかという問いに対する答えです。多くの弟子たちにとってガリラヤ地方は生まれ故郷です。イエス様にとっても短い生涯の殆どを過ごしたところでした。「ガリラヤに向かえ」それは、私たちにとって、「墓は空っぽ=主は生きているという希望を持って、新しく生き直してごらん、必ず主に会えるから」という勧めです。それなら、このことはずっと先にならなければ実現しないことなのか?そうではないのです。婦人たちは、次の箇所にあるように、恐れを心に残しながらも、大いに喜んでかけ出してゆきます。そうしたら意外にも早く、復活された主は彼女たちの前に姿を表されたのです。イエス様に従い始めた人は皆、聖書に記された主の言葉、勧めを心に留めて、イエス様の歩みを追って歩み始めた途端に、日常の中に数々と現される恵みによってイエス様は現実の方となって下さる、という経験をします。望むと望まざるにかかわらず、いつの間にか肩に重くのしかかる荷物が増えてもう歩けなくなってしまうので、私たちは助けを求めます。イエス様の答えはこうです。
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ12:28-30)
B 復活は現実となった
1) 恐れながらも喜んで弟子たちのところに走る二人のマリア (8)
婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。(8)
ガリラヤ湖の西岸の町マグダラ出身のマリアはイエス様に七つの悪霊を追い出していただいて以来(ルカ8:1-3)、イエス様と弟子たちの宣教活動を支えてきた女性たちの一人です。ここでは、もう一人のマリアと紹介されているのは、ヨハネの兄弟ではない方の、もう一人のヤコブという弟子と、その弟のヨセフの母です。彼女もマグダラのマリアと同様にイエス様の働きを支えてきました。すべての福音書が、男の弟子たちではなく、この女性たちが、安息日が明けるが待ちきれなかったようにイエス様の墓に向かったことを記録しています。そして最初に彼女たちに、その復活の姿を表されました。聖書が作り話なら、こんなことは書かれていなかったでしょう。ペトロによって指導された教会の都合で編集されたものなら、ペトロやヨハネに最初に現れたとするのが自然です。今よりはるかに男性中心社会、女性、子供は男性の財産の一部のように扱われた時代です。ところが、イエス様は女性たちに先に現れました。その中でもマグダラのマリアが際立っています。イエス様の葬りに一番心を砕いた彼女に、復活されたイエス様は一番に会ってくださろうとしています。天使の言葉を信じて走りだした二人の心は、「恐れながらも大いに喜んで」います。聖書はこの恐れについて詳しく語っていないので想像するしかありませんが、イエス様の死体はなかった。天使はよみがえったと告げた。という喜びの中に、信じられないことが神様の手によって進められているという恐れ、あるいは本当にそうなのか?やはり本当に再会することなんてありえないのではないかという恐れかもしれません。
マグダラのマリアは、社会的に評価の低かった女性の中にあっても、さらに評判の悪い人だったようです。宗教家、道徳家から見れば罪深い女という目で見られていた人だったと思われます。 しかし、マリアは自暴自棄にならず、人生を捨てず、イエス様に賭けました。 彼女もまた先に紹介したイエス様の言葉に従いました。そして誰よりも早く復活の主と共に歩む人となったのです。
イエス様は常に、道徳家、宗教家が忌み嫌う人々の傍らに寄り添って下さる方です。この方の中に道を、真理を、命を求めるなら、あなたは重荷を下ろすことができます。救われます。最後の9,10節に目を向けましょう。
2) 復活されたイエス様の最初の指示 (9,10)
すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」(9,10)
ここでついに、私たちが誰よりも注目するべき方が登場されました。イエス様は、天使の指示に従って弟子たちのところに急ぐ二人を待ち構えておられました。イエス様の復活後の第一声は様々に訳されていますが、イエス様はアラム語を話されたので「シャローム」というアラム語、ヘブル語のごく普通の挨拶の言葉でした。Hiと同じでいつでも使える便利な言葉ですが、あなたに平和、平安がありますようにという意味を持つ言葉です。劇的ではありませんね。日常的です。以前、主と共にいることは、彼女たちにとってはあたり前のことでした。しかしそれがイエス様の十字架の死というひどく非日常的な出来事によって断ち切られました。復活は、彼女たちに共にいるイエス様を返したのです。イエス様は再び彼女たちの日常となられました。しかしそれは全く新しい日常でもあるのです。イエス様を信じてバプテスマを受けても、目に見える日常は変わりません。問題が消えてなくなるわけでもありません。ただ決定的に違うことは、死に打ち勝った方が共にいて下さる、という点です。しかし、イエス様が天に帰られた今、私たちはマリアたちのように、イエス様の足を抱き、その前にひれ伏すことはできないのでしょうか?いいえ、神様はそのために、教会を目に見えるキリストの体として備えてくださったのです。私たちが愛し、愛されて生きるためのベースキャンプとして、ひれ伏して礼拝できる所として、備えてくださったのです。
メッセージのポイント
私たちは「恐れながら喜んで」生きています。私たちの心のすべてを見通し、私たちの生死もその手の中にある方が、同時に、ご自身が苦しむことをいとわないほど愛していてくださるのです。権威があって、甘やかすのではなく時には厳しくしっかり育ててくれる。私たちを救い出すためには自分の命を顧みず守ってくれる。そのような方が私たちの主、神様です。だから私たちは、時々に訪れる出来事に恐れたり喜んだりを繰り返して生きる者ではなく、何が起こっていてもイエス様を見上げて恐れながら喜んで生きる者なのです。
話し合いのために
1) マリアたちは何のためにイエス様の墓に向かったのでしょうか?
2) 恐れながらも大いに喜ぶとはどのような心境なのでしょうか?