<メッセージノート>

2013/4/7 使徒言行録 6:8-7:8
ステファノに学ぶ「アブラハムの生涯」  

A ステファノの逮捕

1) ステファノの能力はどこから? (6:8-10)

さて、ステファノは恵みと力に満ち、すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行っていた。ところが、キレネとアレクサンドリアの出身者で、いわゆる「解放された奴隷の会堂」に属する人々、またキリキア州とアジア州出身の人々などのある者たちが立ち上がり、ステファノと議論した。しかし、彼が知恵と“霊”とによって語るので、歯が立たなかった。(6:8-10)



2) 最高法院に引き出され弁明の機会を与えられる (11-15)

そこで、彼らは人々を唆して、「わたしたちは、あの男がモーセと神を冒涜する言葉を吐くのを聞いた」と言わせた。また、民衆、長老たち、律法学者たちを扇動して、ステファノを襲って捕らえ、最高法院に引いて行った。そして、偽証人を立てて、次のように訴えさせた。「この男は、この聖なる場所と律法をけなして、一向にやめようとしません。わたしたちは、彼がこう言っているのを聞いています。『あのナザレの人イエスは、この場所を破壊し、モーセが我々に伝えた慣習を変えるだろう。』」最高法院の席に着いていた者は皆、ステファノに注目したが、その顔はさながら天使の顔のように見えた。(6:11-15)



B アブラハムと私たちをつなぐもの

1) 神さまに呼ばれて新しい道を歩み始める(7:1-5)

大祭司が、「訴えのとおりか」と尋ねた。そこで、ステファノは言った。「兄弟であり父である皆さん、聞いてください。わたしたちの父アブラハムがメソポタミアにいて、まだハランに住んでいなかったとき、栄光の神が現れ、 『あなたの土地と親族を離れ、わたしが示す土地に行け』と言われました。それで、アブラハムはカルデア人の土地を出て、ハランに住みました。神はアブラハムを、彼の父が死んだ後、ハランから今あなたがたの住んでいる土地にお移しになりましたが、そこでは財産を何もお与えになりませんでした、一歩の幅の土地さえも。しかし、そのとき、まだ子供のいなかったアブラハムに対して、『いつかその土地を所有地として与え、死後には子孫たちに相続させる』と約束なさったのです。 (7:1-5)


2) 約束を信じ、待ち望んだ子が与えられた (6-8)

神はこう言われました。『彼の子孫は、外国に移住し、四百年の間、奴隷にされて虐げられる。』更に、神は言われました。『彼らを奴隷にする国民は、わたしが裁く。その後、彼らはその国から脱出し、この場所でわたしを礼拝する。』そして、神はアブラハムと割礼による契約を結ばれました。こうして、アブラハムはイサクをもうけて八日目に割礼を施し、イサクはヤコブを、ヤコブは十二人の族長をもうけて、それぞれ割礼を施したのです。(7:6-8)



メッセージのポイント
奉仕者として選ばれたばかりのステファノは、使徒たちと同じようにしるし、不思議な業を行い、反対者と議論することも出来ました。聖霊が彼を語らせたので誰も議論に勝てる人はいませんでした。聖霊と神様の知恵に満ちた人だったからです。しかし、論敵たちのねたみによってユダヤ教のリーダーたちの前に引き出される事となりました。ステファノは弁明を求められると、民族の父祖アブラハムの生涯から話をはじめました。人々はアブラハムを大変尊敬しているように見えましたが、実はアブラハムの信仰を継承してはいないこと気付かせようとしています。アブラハムは神様を信じる人なら誰にとっても信仰の父祖です。その人生の歩み方、神さまとの関係の保ち方は私たちが受け継いでいます。

話し合いのために
1) 今回はなぜ民衆もステファノに敵意を持ったのでしょう?
2) ステファノが弁明をアブラハムの生涯から始めたのはなぜですか?

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<メッセージ全文>

2013/4/7 使徒言行録 6:8-7:8
ステファノに学ぶ「アブラハムの生涯」  

A ステファノの逮捕

1) ステファノの能力はどこから? (6:8-10)

さて、ステファノは恵みと力に満ち、すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行っていた。ところが、キレネとアレクサンドリアの出身者で、いわゆる「解放された奴隷の会堂」に属する人々、またキリキア州とアジア州出身の人々などのある者たちが立ち上がり、ステファノと議論した。しかし、彼が知恵と“霊”とによって語るので、歯が立たなかった。(6:8-10)

先々週、始まったばかりの教会で、集う人々の生活面でのリーダーとして「奉仕者」と呼ばれる人々が七人選ばれたことをお話しました。ステファノはそのうちの一人です。この箇所を読むと「奉仕者」の働きは、人々への生活面でのお世話に留まっていたわけではなかったことが分かります。12人の弟子たちと同様に、彼を通して奇蹟が起きていました。権力者にとってはとても危険な存在となっていました。反対者との議論にも優れていて、だれも敵わなかったのです。しかしその理由は、彼の個人的な才能ではなく、 「彼が知恵と“霊”とによって語るので」 とあります。イエス様は受難週のエルサレムで、終末の徴について尋ねられた時に、「様々な徴が起こる前に信じるものは迫害を受け、逮捕されることになる。それはあかしをする機会となる。そのために弁明の準備をする必要はない。どんな反対者でも、対抗も反論できないような言葉と知恵を、私があなた方に授ける」とおっしゃいました (ルカ21:15)。このことが、ステファノにも実現したのです。神様がその働きに用いるのは、一部のリーダーでもなく、何かの才能に優れている人でもありません。奉仕者の選考基準は、「霊と知恵に満ちている人」でした。それはどちらも神様からの賜物であって、その人の生まれついての能力ではありません。これは、あなたもステファノと同様にイエス様の働きの最前線に置かれていることを意味しています。牧師やリーダーのゲームを見ている応援団ではないのです。皆さんがプレーヤーです。イエス様を信じて新しい歩みを始めた人はだれも自分には「持っていない」という言い分けはできません。持っていなくても、与えられるのです。プレーヤーとして走りだすなら、それが必要な局面で与えられることをあなたも経験することができます。


2) 最高法院に引き出され弁明の機会を与えられる (11-15)

そこで、彼らは人々を唆して、「わたしたちは、あの男がモーセと神を冒涜する言葉を吐くのを聞いた」と言わせた。また、民衆、長老たち、律法学者たちを扇動して、ステファノを襲って捕らえ、最高法院に引いて行った。そして、偽証人を立てて、次のように訴えさせた。「この男は、この聖なる場所と律法をけなして、一向にやめようとしません。わたしたちは、彼がこう言っているのを聞いています。『あのナザレの人イエスは、この場所を破壊し、モーセが我々に伝えた慣習を変えるだろう。』」最高法院の席に着いていた者は皆、ステファノに注目したが、その顔はさながら天使の顔のように見えた。(6:11-15)

議論では敵わなかったステファノの論敵は、民衆、リーダーたち、律法の学者たちを、扇動して襲わせ、今ステファノは引き出されています。ここで彼らが「モーセと神」を冒涜すると言っている意味は、言い直されているように「律法と神殿」でした。偽証人の訴えは、ステファノが神殿を破壊し、旧約の教えを捨てさせようとしている、というものでした。ステファノはそんなことは言わなかったでしょうが、権力者、宗教家たちには、まさに、そう思えたのでしょう。自分たちの権威を象徴する神殿の無意味さを明らかにし、神様の戒めを守ると言いながら、実は自分たちの言い伝えを人々に押し付けていた彼らを最初に非難したのはイエス様でした。それが彼らを起こらせ、イエス様を十字架につけてしまったのです。ようやくイエス様を処刑することができたのに、弟子たちが、イエス様はよみがえられたと言い始めていたので、同じ怒りをステファノに向けたのです。ステファノの顔は天使のように見えたと書かれていますが、十字架の上のイエス様と同じ聖さを見たのでしょう。しかしそれは、彼らの良心を呼び覚ますのではなく、怒りを更に強く燃え上がらせたのです。イエス様の正しさを求めるなら、それを都合悪く思う人々の敵意を買うことになります。神様は必要なら私たちをそのような局面に立たせるでしょう。しかし、そのようなときには、立派な弁明をするのに必要な聖霊の満たしと知恵を与えられます。それはイエス様の約束です。


B アブラハムと私たちをつなぐもの

1) 神さまに呼ばれて新しい道を歩み始める(7:1-5)

大祭司が、「訴えのとおりか」と尋ねた。そこで、ステファノは言った。「兄弟であり父である皆さん、聞いてください。わたしたちの父アブラハムがメソポタミアにいて、まだハランに住んでいなかったとき、栄光の神が現れ、 『あなたの土地と親族を離れ、わたしが示す土地に行け』と言われました。それで、アブラハムはカルデア人の土地を出て、ハランに住みました。神はアブラハムを、彼の父が死んだ後、ハランから今あなたがたの住んでいる土地にお移しになりましたが、そこでは財産を何もお与えになりませんでした、一歩の幅の土地さえも。しかし、そのとき、まだ子供のいなかったアブラハムに対して、『いつかその土地を所有地として与え、死後には子孫たちに相続させる』と約束なさったのです。 (7:1-5)

イエス様がおっしゃった弁明の機会がステファノに与えられました。彼は、なんと創世記の初めから解き始めました。民族の父アブラハムの物語です。創世記12-36章に当たる部分です。アブラハムは、神様と、イスラエルのみならずすべての国民との関係史のキーパーソンです。神様の呼びかけに応えて、それまでの生き方や財産を惜しまず、ただ神様の導きに従って、新しい人生を歩み始めた人です。しかもこの時アブラハムは75歳、若者ではありません。日本でいえば、後期高齢者の再出発です。しかも、この時には子供もいない境遇でした。神様の過酷とも思える命令です。しかし、彼が従ったことによって、神様の祝福はすべての人にもたらされる準備ができたのです。父アブラハムだけではなく、全て神様に従おうとする者は、自分に、あるいは他の何かに従う事を捨てる必要がありました。何を第一にするかという問題です。自分を一番大事にしても、家族を一番大事にしても、仕事を、趣味を一番大事にしても幸せにはなれません。一番大切にしなければならないのは、神様の言葉です。それは愛する人々物事を忘れる、憎むということではありません。自分の好きな人々や物事を本当に大切にしたいなら神様の言葉に従うしかありません。アブラハムはそのお手本です。


2) 約束を信じ、待ち望んだ子が与えられた (6-8)

神はこう言われました。『彼の子孫は、外国に移住し、四百年の間、奴隷にされて虐げられる。』更に、神は言われました。『彼らを奴隷にする国民は、わたしが裁く。その後、彼らはその国から脱出し、この場所でわたしを礼拝する。』そして、神はアブラハムと割礼による契約を結ばれました。こうして、アブラハムはイサクをもうけて八日目に割礼を施し、イサクはヤコブを、ヤコブは十二人の族長をもうけて、それぞれ割礼を施したのです。(7:6-8)

約束の地にたどり着いたアブラハムに、神様が、彼の子孫がやがてエジプトで奴隷となり400年後に解放され、再びここに戻ることが出来る (創世記15:13-18) という、出エジプト記の出来事を預言しているところです。神様の計画は何世代にもわたる壮大なものです。それに比べれば人の視野は狭いのです。狭ければ物を見誤ります。イスラエルはすっかりアブラハムの信仰を失っていました。手の内にある無意味で有害なものに固執して、神様が再びイエス様として現れて、私に従いなさいと言われても、自分のすでに持っているものを惜しんで従うことができませんでした。鈍感な反対者は「素人のくせに聖書の専門家である私たちに聖書を教えようとしているのか」と呆れていたでしょう。しかし、鋭い人は、心の奥底では、自分は本当には神様に従ってはいないのではないかという不安が生じるとともに 矛先が自分に向けられていることを感じていたでしょう。
このままではいけないのではないか?そう気付くことは貴重なことです。しかし踏み出さなければ「このまま」は変わりません。しかし新しく踏み出すためには、古い自分と決別しなければならない。それが、自分は「持っている」と思う人ほど難しいのです。このようなジレンマを感じているなら、もう一度、アブラハムの物語を創世記で読むことをお勧めします。

メッセージのポイント
奉仕者として選ばれたばかりのステファノは、使徒たちと同じようにしるし、不思議な業を行い、反対者と議論することも出来ました。聖霊が彼を語らせたので誰も議論に勝てる人はいませんでした。聖霊と神様の知恵に満ちた人だったからです。しかし、論敵たちのねたみによってユダヤ教のリーダーたちの前に引き出される事となりました。ステファノは弁明を求められると、民族の父祖アブラハムの生涯から話をはじめました。人々はアブラハムを大変尊敬しているように見えましたが、実はアブラハムの信仰を継承してはいないこと気付かせようとしています。アブラハムは神様を信じる人なら誰にとっても信仰の父祖です。その人生の歩み方、神さまとの関係の保ち方は私たちが受け継いでいます。

話し合いのために
1) 今回はなぜ民衆もステファノに敵意を持ったのでしょう?
2) ステファノが弁明をアブラハムの生涯から始めたのはなぜですか?