<メッセージノート>
ステファノに学ぶ「ヨセフの生涯」
この族長たちはヨセフをねたんで、エジプトへ売ってしまいました。しかし、神はヨセフを離れず、あらゆる苦難から助け出して、エジプト王ファラオのもとで恵みと知恵をお授けになりました。そしてファラオは、彼をエジプトと王の家全体とをつかさどる大臣に任命したのです。ところが、エジプトとカナンの全土に飢饉が起こり、大きな苦難が襲い、わたしたちの先祖は食糧を手に入れることができなくなりました。ヤコブはエジプトに穀物があると聞いて、まずわたしたちの先祖をそこへ行かせました。二度目のとき、ヨセフは兄弟たちに自分の身の上を明かし、ファラオもヨセフの一族のことを知りました。そこで、ヨセフは人を遣わして、父ヤコブと七十五人の親族一同を呼び寄せました。ヤコブはエジプトに下って行き、やがて彼もわたしたちの先祖も死んで、シケムに移され、かつてアブラハムがシケムでハモルの子らから、幾らかの金で買っておいた墓に葬られました。
A. 神はヨセフを離れず(インマヌエル)
1) 一人の人が負うには重すぎる悲しみと苦しみ
2) 単なる一人の成功物語ではなく、民を救うための神様の計画だった
B. ヨセフの生涯も救い主の在り方を預言していた
1) ひどい目に合わされ、捨てられた者が民の危機を救う
2) イエス様を殺してしまった上に、復活を認めないのは神様に対する反逆
メッセージのポイント
歴史や預言から学ぶことが出来るように、私たちには聖書が与えられています。ステファノは何人かでもイエス・キリストの福音を信じることを期待して、神様の救いの計画を旧約聖書から説いています。ヨセフはイエス様の苦難と栄光の予型としての生涯を過ごしました。ヨセフが悲しみと苦難を、諦めや怒りという反応をするのではなく耐え続けることができたのは神様が共におられたからです。イエス様はユダヤ人だけではなく、あなたのインマヌエルとして来られました。イエス様を神、主と認めないなら、人の目から見れば疎まれ、嫌われたヨセフをとおして神様が救いの計画を実行されることを教えられていたのに、復活された後にもイエス様を救い主と認めず、その弟子であるステファノを殺してしまった人々と同じ事になってしまいます
話し合いのために
1) なぜヨセフは過酷な前半生を耐えることができたのでしょう?
2) ヨセフの生涯のどこがイエス様の生涯に似ていますか?
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<メッセージ全文>
ステファノに学ぶ「ヨセフの生涯」
この族長たちはヨセフをねたんで、エジプトへ売ってしまいました。しかし、神はヨセフを離れず、あらゆる苦難から助け出して、エジプト王ファラオのもとで恵みと知恵をお授けになりました。そしてファラオは、彼をエジプトと王の家全体とをつかさどる大臣に任命したのです。ところが、エジプトとカナンの全土に飢饉が起こり、大きな苦難が襲い、わたしたちの先祖は食糧を手に入れることができなくなりました。ヤコブはエジプトに穀物があると聞いて、まずわたしたちの先祖をそこへ行かせました。二度目のとき、ヨセフは兄弟たちに自分の身の上を明かし、ファラオもヨセフの一族のことを知りました。そこで、ヨセフは人を遣わして、父ヤコブと七十五人の親族一同を呼び寄せました。ヤコブはエジプトに下って行き、やがて彼もわたしたちの先祖も死んで、シケムに移され、かつてアブラハムがシケムでハモルの子らから、幾らかの金で買っておいた墓に葬られました。
A. 神はヨセフを離れず(インマヌエル)
1) 一人の人が負うには重すぎる悲しみと苦しみ
イスラエルの父祖アブラハムの孫ヤコブには12人の息子がいて、それぞれがイスラエルの12部族の始まりとなりました。といっても、それはすんなりとは始まらなかったのです。下から二番目に若かったヨセフは兄たちに憎まれていました。ヤコブが自分たちよりもヨセフをかわいがったこと、兄たちの行いを父に告げ口すること、兄たちを支配することを暗示する夢を見てそれをストレートに伝えたことなどが積み重なって、兄たちは彼を殺してしまいたいとまで思っていました。さすがに殺すことだけは思いとどまって、彼を売り飛ばすことにしたのです。彼は、エジプトの宮廷の役人に転売され、その家で仕えることになりました。誠実に働いた結果、主人の信頼を得ますが、再び裏切ったと誤解されて投獄されてしまいました。その中で、誰も解くことのできなかった王の夢を解き明かし、エジプトを大飢饉から救ったことによって、王に次ぐ位にまで上り詰めました。そこへ彼を売った兄たちが飢饉に苦しんで、彼を弟とは知らずに助けを求めてきたのです。ヨセフは父ヤコブをはじめ一族をエジプトへ移住させて危機を救ったのです。17歳で兄弟を売られ、父母から引き離され、奴隷となったエジプトでも、真面目に働いた結果が、汚名を着せられ投獄されてしまうという、悲しく苦しい前半生だったのです。彼がこれに耐えることができたのは 「神はヨセフを離れず」とあるように神様が共におられたからです。そして彼の場合、その確信を支えたのは「夢」で、実際に窮地から救ったのは、「夢の解き明かし」でした。神様は彼を、計画の中で用いるために、それらの方法でヨセフを支えました。苦難の中でも私たちは夢に支えられます。夢という言葉が、寝ている時に見せられるヴィジョンと、将来の希望の両方の言葉に用いられているのは、昔の人がまだ実現していない希望は神様が与えてくれるものであることを知っていたからです。神様を認められない現代人は、夢を自分の気持ちを反映するものでしかないと信じていますが、神様も夢というチャンネルを使うことができると信じるほうが、夢があるのではありませんか?聖書には「賢い」者ではなく「信じる」者が救われるとあります。
2) 単なる一人の成功物語ではなく、民を救うための神様の計画だった
苦難の中でも希望を持ち続け、やがて当時の大国のナンバー2に上り詰めたヨセフの物語は、一人の人の苦労と成功の物語としても興味深いのですが、実は神様の民族の危機を救う計画でした。夢によってヨセフに将来の大きな務めを伝えたのも、兄たちの大きな憎しみとほんの小さな憐れみを利用したのも、彼を重用したポテファルという役人も、ヨセフを誘惑して逆ギレしたその妻のことも、神様が信じて従う者と共に進める壮大な計画の一部となりました。人の心に罪がある限り、悲惨な出来事や労苦はなくなりません。しかしそれにもかかわらず、私たちは夢を持ち続けることができます。どんな状況に置かれても、夢を持ち続けることができます。ただしそれには条件が1つだけあります。それは、神様を離れないということです。今あなたがここで神様の言葉である聖書に耳を傾けているという、という事自体、今、神様があなたと共にいて下さるということなのです。イエス様は、信じる者と永遠に共にいて下さると約束してくださいました。つまりヨセフと同じように 「神はあなたを離れず」という状態です。離れるとすれば、神様が離れるのではなく、あなたが離れるのです。どうか、ここに置かれている恵みを思い、神様を信じて下さい。神様と共に歩みだして下さい。生涯の終わるまで共に歩み続けて下さい。それはまた、ヨセフと同様に、あなたの幸せの物語にはとどまらず。あなたの愛する人々のための神様の偉大な計画の物語の一部なのです。
B. ヨセフの生涯も救い主の在り方を預言していた
1) ひどい目に合わされ、捨てられた者が民の危機を救う
さて、ヨセフの生涯を見渡した時に、イエス様の歩みを思い起こした方もいるのではないでしょうか?旧約聖書は様々な形でイエス様が来られることを、前もって暗示しています。先週触れたアブラハムが自分の子イサクでさえ惜しまずに神様に捧げようとしたことが、実は神様ご自身が、私たちを救うために、イエス様としての御自身を惜しまなかったこともそうですが、このヨセフも、神様の計画の中で兄弟たちの憎しみによってひどい目に合わされ、捨てられたけれども、そのヨセフによって民全体が滅亡の危機を免れるという、イエス様の在り方を指し示した人生でした。詩篇118編は、家を作るものに捨てられた石が、実はその建物の構造を支える最も重要な石になると表現してイエス様の歩みを預言していますが、ヨセフは詩篇が書かれる以前に、自身の生涯を用いて、もちろん自覚的にではありませんが、未来の救い主を指し示していました。
2) イエス様を殺してしまった上に、復活を認めないのは神様に対する反逆
イエス様は、その詩篇を御自身についての預言と認めて引用して話されたので(マタイ21:42-46)、宗教家たちはそれが自分たちのことを指していると気付いて怒りました。自分たちに与えられている聖書(旧約)に数多く、救い主についての預言がなされているにもかかわらず認めなかった。そのようにイエス様が宗教家たちを責めた場面を、ステファノは再現しているのです。イエス様を殺してしまった人々の中で、何人かでも、真理に気付き、神様に逆らうことをやめてもらいたいというのがステファノの願いだったのです。このステファノのメッセージを読む時、私はよく反省をすることがあります。皆さんを励ましたい気持ちからですが、神様を信じると幸せになれますよ。人生が意義深いものになれますよ。という言い方に、いつの間にか重きが置いて話しすぎているのではないかという反省です。それも正しいことです。しかし一方で、「あなたはイエス様を殺す側にいたものであったにもかかわらず、手を差し伸べられているのだから、それを拒むということはあなたを愛する神様に対する反逆となります」ということもまた真理であることを心しておきましょう。
メッセージのポイント
歴史や預言から学ぶことが出来るように、私たちには聖書が与えられています。ステファノは何人かでもイエス・キリストの福音を信じることを期待して、神様の救いの計画を旧約聖書から説いています。ヨセフはイエス様の苦難と栄光の予型としての生涯を過ごしました。ヨセフが悲しみと苦難を、諦めや怒りという反応をするのではなく耐え続けることができたのは神様が共におられたからです。イエス様はユダヤ人だけではなく、あなたのインマヌエルとして来られました。イエス様を神、主と認めないなら、人の目から見れば疎まれ、嫌われたヨセフをとおして神様が救いの計画を実行されることを教えられていたのに、復活された後にもイエス様を救い主と認めず、その弟子であるステファノを殺してしまった人々と同じ事になってしまいます
話し合いのために
1) なぜヨセフは過酷な前半生を耐えることができたのでしょう?
2) ヨセフの生涯のどこがイエス様の生涯に似ていますか?