<メッセージノート>

2013/5/5 使徒言行録8:1-25
全ては神様の栄光のために 

A. サウロ

サウロは、ステファノの殺害に賛成していた。その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散って行った。しかし、信仰深い人々がステファノを葬り、彼のことを思って大変悲しんだ。一方、サウロは家から家へと押し入って教会を荒らし、男女を問わず引き出して牢に送っていた。さて、散って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた。(1-4)



B. フィリポ

フィリポはサマリアの町に下って、人々にキリストを宣べ伝えた。群衆は、フィリポの行うしるしを見聞きしていたので、こぞってその話に聞き入った。実際、汚れた霊に取りつかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫びながら出て行き、多くの中風患者や足の不自由な人もいやしてもらった。町の人々は大変喜んだ。(5-8)



C. シモン

ところで、この町に以前からシモンという人がいて、魔術を使ってサマリアの人々を驚かせ、偉大な人物と自称していた。それで、小さな者から大きな者に至るまで皆、「この人こそ偉大なものといわれる神の力だ」と言って注目していた。人々が彼に注目したのは、長い間その魔術に心を奪われていたからである。しかし、フィリポが神の国とイエス・キリストの名について福音を告げ知らせるのを人々は信じ、男も女も洗礼を受けた。シモン自身も信じて洗礼を受け、いつもフィリポにつき従い、すばらしいしるしと奇跡が行われるのを見て驚いていた。エルサレムにいた使徒たちは、サマリアの人々が神の言葉を受け入れたと聞き、ペトロとヨハネをそこへ行かせた。二人はサマリアに下って行き、聖霊を受けるようにとその人々のために祈った。人々は主イエスの名によって洗礼を受けていただけで、聖霊はまだだれの上にも降っていなかったからである。ペトロとヨハネが人々の上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。シモンは、使徒たちが手を置くことで、“霊”が与えられるのを見、金を持って来て、言った。「わたしが手を置けば、だれでも聖霊が受けられるように、わたしにもその力を授けてください。」すると、ペトロは言った。「この金は、お前と一緒に滅びてしまうがよい。神の賜物を金で手に入れられると思っているからだ。お前はこのことに何のかかわりもなければ、権利もない。お前の心が神の前に正しくないからだ。この悪事を悔い改め、主に祈れ。そのような心の思いでも、赦していただけるかもしれないからだ。お前は腹黒い者であり、悪の縄目に縛られていることが、わたしには分かっている。」シモンは答えた。「おっしゃったことが何一つわたしの身に起こらないように、主に祈ってください。」このように、ペトロとヨハネは、主の言葉を力強く証しして語った後、サマリアの多くの村で福音を告げ知らせて、エルサレムに帰って行った。(9-25)



メッセージのポイント
魔術師シモンは、それまでの生き方の影響から、聖霊の働きについて大きな誤解をしていました。弟子たちのように聖霊を授けることが出来れば、自分がもっと尊敬されたり、収入を得られるだろうと考えて投資することにしたのです。しかしペトロが彼を叱ったように、神様の賜物は一方的な恵みであって、金で買えるものではありません。私たちも、無意識のうちにシモン的な発想をしてしまいがちであることを自覚していましょう。それは、「すべてが神様の栄光のために」であるべきなのに「全ては自分の利益のために」生きる道に後戻りしてしまうことを意味しています。


話し合いのために
1) シモンはなぜ聖霊を授ける力がほしいと思ったのでしょう?
2) この発想が私たちにはどのような誘惑となるのでしょうか?

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<メッセージ全文>

2013/5/5 使徒言行録8:1-25
全ては神様の栄光のために 

A. サウロ

サウロは、ステファノの殺害に賛成していた。その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散って行った。しかし、信仰深い人々がステファノを葬り、彼のことを思って大変悲しんだ。一方、サウロは家から家へと押し入って教会を荒らし、男女を問わず引き出して牢に送っていた。さて、散って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた。(1-4)


先週お話ししたところで、この人がちょっと顔を出していた事を憶えていますか? 先週はステファノに石を投げつける人々の上着を預かるという目立たない役どころでしたが、ここでは迫害の主役として登場しています。かなりタフな迫害者として恐れられていたようです。サウロの人生は後にイエス様に出会うことによって180度変えられるのですが、この時期の恐ろしい印象から、弟子たちからはなかなか心を許してもらえなかったようです。初代の教会はステファノの迫害に始まり災難続きのように見えます。ペンテコステの日に3000人が加わって以来、増え続けていた弟子たちのほとんどがエルサレムにはいられなくなり地方に移り住まなければならなかったのでした。サウロによる迫害はパレスチナ全域に及び、エルサレムを離れても安心はできませんでした。そこで中には遠くフェニキア、キプロス、アンティオキアにまで逃げた人々もいたのです。しかし、この災難によって福音がヨーロッパに伝わる道が開かれたのです。それどころか、もし大半がエルサレムに残っていたなら、イエス様に従う人々はユダヤ教の異端のままで終わっていたかもしれません。エルサレムの教会はユダヤ教の律法主義の影響から抜け出すのに苦しみましたが、後のサウロらエルサレムの外側から客観的に見ることのできた人々の働きによって福音を変質させることなく保つことが出来たのです。使徒たち以外の人々が大変な苦労と恐怖の下で、しかし聖霊に満たされた弟子たちは福音を告げ知らせながら巡り歩いたのです。ここから私たちは、私たちの目から見た時が良くても悪くても、聖霊に満たされて福音を告げ知らせるという、生活の姿勢を学ぶことができます。神様の計画がいつもしっかりと見えていれば心強いのですが、そういうわけにはいきません。それでは信仰の成長ということも起こらないでしょう。私達が求めることは計画を知ることではなく信じることです。神様がこれから何をして下さるのか期待して歩みましょう。


B. フィリポ

フィリポはサマリアの町に下って、人々にキリストを宣べ伝えた。群衆は、フィリポの行うしるしを見聞きしていたので、こぞってその話に聞き入った。実際、汚れた霊に取りつかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫びながら出て行き、多くの中風患者や足の不自由な人もいやしてもらった。町の人々は大変喜んだ。(5-8


フィリポはステファノと共に選ばれた7人の奉仕者の一人です。そして地方に散っていった一人でした。彼はサマリア地方の町々で救い主イエス様のことを伝えて回りました。彼の宣教には、人々を悪霊から解放し、病を癒すことが含まれていました。理屈だけではなく、人々の人生を変える力を伴ったものでした。町は喜びであふれたとあります。私達にもそのようなことが起こればいいなあと思わないわけではありません。しかし残念ながら、神様は現代ではそのような方法はめったに用いないようです。医学が進歩し、サマリアの人々が切実に求めた癒しは、その多くの部分が解明され治療法が確立したこともひとつの理由です。医学にかぎらず、科学技術も、人文科学も人の知恵によって進みますが、知恵を与えて下さるのは神様です。身体が癒されることは救いの本質ではありません。もちろん神様がおられるしるしとして、私は、悪霊の追い出しや癒しを今でも求めるべきことだと信じています。しかし、私たちに求められている働きは、そこだけにあるのではありません。悪霊にとりつかれている人も、中風の患者も、足の不自由な人も、多くの場合はお医者さんがなんとかしてくれます。しかしお医者さんには癒せない病があるのです。19世紀の哲学者、キルケゴールはそれを「死に至る病」と紹介しています。彼はその病を一言で言うなら「絶望」だと説明するのですが、彼の言う絶望とは、私たちが普通考える「心のなかにおこる希望を立たれた状態」ではなく、心が絶望していようがいまいが、神様から切り離されているという客観的な状態です。それは、お医者さんだけではなく、政治家にも、革命家にも、教育者にも手に負えません。本当は人はここから解放されなければ自由にはなれません。永遠の命(神さまとの健康な正しい関係)を取り戻さない限り、肉体の死よりもはるかに深刻な、魂の死に至る病を克服することはできないのです。あなたがイエス・キリストに従って歩んでいるなら、あなたはすでにこの病から解放されているばかりか、フィリポと同じように、イエス・キリストを紹介することによって、お医者さんにも、哲学者にも、政治家にもすることのできない「死に至る病」を癒やすことの出来る人なのです。


C. シモン

ところで、この町に以前からシモンという人がいて、魔術を使ってサマリアの人々を驚かせ、偉大な人物と自称していた。それで、小さな者から大きな者に至るまで皆、「この人こそ偉大なものといわれる神の力だ」と言って注目していた。人々が彼に注目したのは、長い間その魔術に心を奪われていたからである。しかし、フィリポが神の国とイエス・キリストの名について福音を告げ知らせるのを人々は信じ、男も女も洗礼を受けた。シモン自身も信じて洗礼を受け、いつもフィリポにつき従い、すばらしいしるしと奇跡が行われるのを見て驚いていた。エルサレムにいた使徒たちは、サマリアの人々が神の言葉を受け入れたと聞き、ペトロとヨハネをそこへ行かせた。二人はサマリアに下って行き、聖霊を受けるようにとその人々のために祈った。人々は主イエスの名によって洗礼を受けていただけで、聖霊はまだだれの上にも降っていなかったからである。ペトロとヨハネが人々の上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。シモンは、使徒たちが手を置くことで、“霊”が与えられるのを見、金を持って来て、言った。「わたしが手を置けば、だれでも聖霊が受けられるように、わたしにもその力を授けてください。」すると、ペトロは言った。「この金は、お前と一緒に滅びてしまうがよい。神の賜物を金で手に入れられると思っているからだ。お前はこのことに何のかかわりもなければ、権利もない。お前の心が神の前に正しくないからだ。この悪事を悔い改め、主に祈れ。そのような心の思いでも、赦していただけるかもしれないからだ。お前は腹黒い者であり、悪の縄目に縛られていることが、わたしには分かっている。」シモンは答えた。「おっしゃったことが何一つわたしの身に起こらないように、主に祈ってください。」このように、ペトロとヨハネは、主の言葉を力強く証しして語った後、サマリアの多くの村で福音を告げ知らせて、エルサレムに帰って行った。(9-25)


この人の名から造られたシモニア(Simony)という言葉があります。キリスト教会は最初の時代から400年ほどで大きな富と権力を持つこととなりました。金銭や財産などと引き換えに教会の中の地位を与えたり、洗礼や祝福を受けるのに金銭のやり取りが行われるといったことが起こり始めたのです。教会は、このように、霊的なものごとを、金銭物品、便宜を与えることによって得ることをシモニアとして禁じ反対して来ました。シモニアの誘惑は、このシモン本人の時から今でも存在しています。現代のシモニアは社会の価値観をキリストの体の中に持ち込んでしまうという形で起こります。もちろん社会の中には正しく普遍的な価値観が多くあります。それらを否定しようというのではありません。キリストの体の中に持ち込んではいけない価値観とは、「偶像礼拝」に起因する価値観です。偶像は目に見える石や木でできた文字通りの像を拝むことではありません。神様以外のものを神様以上の地位に置くことです。そして実はそれはすべてを自分の思い通りにしたいという欲望の隠れ蓑となっています。神様とさえ取引できるという思い上がりです。シモンは人々を聖霊で満たすことができる力が金で買えると思いました。お金で買えないものはない、人の心さえ買うことが出来ると豪語する人もいます。状況によっては大金を見せられると、従うべきではないことに従ってしまう弱さを私たちは持っているのです。しかし神様と本当に神様とともに歩んでいる人はそのような取引には応じません。神様の恵みや聖霊の賜物、聖霊の満たしを与える能力を対価をもって得ようとすること自体が神様に対する冒涜です。ここに世の中と教会との価値観の決定的な違いがあります。会社では一番投資している人が一番大きな力を持ちます。当然のことです。しかし教会は違います。ここでは、たくさん献金した人に権力があるのではありません。誰にも特別な権力を与えられてはいないのです。学校では成績で人の価値を測ります。教会は違います。学歴や偏差値は何の物差しにもなりません。僕となって仕える忠実さ、誠実さが求められます。愛することとは仕えることです。互いに愛しあうということは仕えあうことです。シモンはそれと正反対に、人からの称賛を得ること、優れた人と思われること、人が自分の能力にひれ伏すこと夢見て、その道具として聖霊を満たしを与える力を買おうとしました。この世の富や能力で教会を導こうとするリーダーがいるとすれば、それはシモンと同じ悪い思いを持っているということです。ユアチャーチが、そして私やリーダーたちが身を低くして神様から聞く姿勢を持つ者、皆さんに仕える者であり続けることが出来るように、時々祈りに加えて下さい。


メッセージのポイント
魔術師シモンは、それまでの生き方の影響から、聖霊の働きについて大きな誤解をしていました。弟子たちのように聖霊を授けることが出来れば、自分がもっと尊敬されたり、収入を得られるだろうと考えて投資することにしたのです。しかしペトロが彼を叱ったように、神様の賜物は一方的な恵みであって、金で買えるものではありません。私たちも、無意識のうちにシモン的な発想をしてしまいがちであることを自覚していましょう。それは、「すべてが神様の栄光のために」であるべきなのに「全ては自分の利益のために」生きる道に後戻りしてしまうことを意味しています。


話し合いのために
1) シモンはなぜ聖霊を授ける力がほしいと思ったのでしょう?
2) この発想が私たちにはどのような誘惑となるのでしょうか?