<メッセージノート>

2013/05/19 ペンテコステ 使徒言行録 9:1-20
迫害者が神に選ばれた器に

A 二人の人に語りかけたイエス

1) サウロへの呼びかけ (1-9)

さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていた。サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。(1-9)



2) アナニアへの呼びかけ (10-16)

ところで、ダマスコにアナニアという弟子がいた。幻の中で主が、「アナニア」と呼びかけると、アナニアは、「主よ、ここにおります」と言った。すると、主は言われた。「立って、『直線通り』と呼ばれる通りへ行き、ユダの家にいるサウロという名の、タルソス出身の者を訪ねよ。今、彼は祈っている。アナニアという人が入って来て自分の上に手を置き、元どおり目が見えるようにしてくれるのを、幻で見たのだ。」しかし、アナニアは答えた。「主よ、わたしは、その人がエルサレムで、あなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました。ここでも、御名を呼び求める人をすべて捕らえるため、祭司長たちから権限を受けています。」すると、主は言われた。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。」 (10-16)



B. サウロの第二の人生が始まる


1) アナニアとの出会い (17-19a)

そこで、アナニアは出かけて行ってユダの家に入り、サウロの上に手を置いて言った。「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。」すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。そこで、身を起こして洗礼を受け、食事をして元気を取り戻した。(17-19a)



2) すぐにイエスを伝え始めた (19b-20)

サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちと一緒にいて、すぐあちこちの会堂で、「この人こそ神の子である」と、イエスのことを宣べ伝えた。



メッセージのポイント
初代教会の時代に最も活躍した海外宣教者であり、新約聖書の多くの部分を書いた神学者でもあるパウロは、ユダヤ教の熱心な教師で迫害者でした。彼のような信じる者をひどく迫害していた者でさえ、イエスは作り変え、用いることができます。彼がこのように用いられるために、神は御自身で彼に声をかけることと、アナニアという人を用いることによって、彼の人生の転換を図りました。ペンテコステの日に信じいる者に豊かに注がれた神の霊は、求めれば今でも私たちに豊かに注がれます。あなたの周りにもパウロのような者になってほしいと思う人がいるはずです。イエスが語りかけてくださるように祈り求めましょう。そして、私たちは、アナニアのように、それらの人々の人生の転換に適切に手を貸すことが出来るように、私たち自身も熱心に聖霊に満たされることを求めましょう。


話し合いのために
1) なぜ神はパウロを選んだのでしょうか?
2) アナニアは主の声に最初どう感じたのでしょうか?

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<メッセージ全文>

2013/05/19 ペンテコステ 使徒言行録 9:1-20
迫害者が神に選ばれた器に

A 二人の人に語りかけたイエス

1) サウロへの呼びかけ (1-9)

さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていた。サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。(1-9)

サウロは、その名のギリシャ語読みのパウロとしてのほうが知られています。ローマやコリントの信徒に宛てた手紙で、イエスの教えの要点をわかりやすく伝えてくれた人物です。使徒言行録の中では、イエスに使徒と任命された最初の12人とユダに代わって選ばれたマティアのほかには、4章で登場しているバルナバとこのパウロだけが後に(14章以降)使徒と呼ばれていたようです。使徒の中で、教会組織の形成という面ではペトロがリーダーシップを取っていましたが、教えを明確にするという神学的な面と民族宗教にとどまらず世界中に広がる先駆けとなったという点ではパウロが一番の貢献をしています。あまりにもその影響が強いので、キリスト教とは実はパウロ教であって、イエスの教えではないと主張する人もいます。しかしキリスト教会では、パウロは旧約の教えと福音書をイエスに従う者として正しく受け取り伝えたと考えられています。
後の生涯をイエスを伝えることだけに費やしたサウロですが、この時はまだイエスに従う人を捕らえて殺すことが正義だと信じ活動していました。
迫害するためにダマスコに向かい、町に入る直前にサウロはこの体験をしました。 ダマスコは現在のシリアの首都ダマスカスのことです。「サウルよ、なぜ私を迫害するのか?」 突然まぶしい光を浴び、打ち倒されて、聞こえてきた声です。パウロは神からくる聞き従うべき声であることを直感して「主よ」と答えています。自分が迫害しているのは神の敵だと思い込んでいたのに、神の側からの声が「私を迫害している」と語りかけてくるとは、思っても見なかったことでした。彼は、自分がこれまでしてきたことは神の義ではなく神を迫害することだったと直感させられました。同時に目は見えなくさせられ、自分が神の前にどれほど無力なものであるか、人の助けを借りなければ、旅の途中で生き延びることも出来ない弱さを初めて体験したのです。ただイエスに命じられたとおりにダマスコに入りますが、イエスが墓の中にいたたように、ヨナが魚の腹の中にいたように、三日間暗黒の中にいて食べることも飲むこともしませんでした。サウロもまた、古い自分に死んで、新しい命をいただく経験をしたのです。神はこのことと同時進行に、もう一人の人に語りかけていました10-16節を読みましょう。


2) アナニアへの呼びかけ (10-16)

ところで、ダマスコにアナニアという弟子がいた。幻の中で主が、「アナニア」と呼びかけると、アナニアは、「主よ、ここにおります」と言った。すると、主は言われた。「立って、『直線通り』と呼ばれる通りへ行き、ユダの家にいるサウロという名の、タルソス出身の者を訪ねよ。今、彼は祈っている。アナニアという人が入って来て自分の上に手を置き、元どおり目が見えるようにしてくれるのを、幻で見たのだ。」しかし、アナニアは答えた。「主よ、わたしは、その人がエルサレムで、あなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました。ここでも、御名を呼び求める人をすべて捕らえるため、祭司長たちから権限を受けています。」すると、主は言われた。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。」 (10-16)

不思議なことに神は、具体的な通りの名前とサウロの名を告げ、しかも先方にもアナニアという名を教えてあるから会いに行け、というのです。アナニアは悪名高いサウロの名を知っていて、恐れていました。自分たちを捕まえ殺すためにこの町に来ていることを知らされショックを受けていました。それなのにイエスは、あなたの方からサウロに会いに行けというのです。アナニアにとっては、今一番会いたくない人です。しかしイエスはアナニアに言うのです。「異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。イエスはサウロが自分の働きのキーパーソンだと言っています。様々な背景の人に自分を伝えるのに無くてはならない人物なのだと言っているのです。しかし同時にサウロのこれからの人生は快適なものではなく労苦に満ちてさえいるというのです。確かにこの使徒言行録の後半や彼の書簡を読むと、苦労の連続であることが分かります。しかし、それにもかかわらずパウロの後半生は喜びの人生であったことを彼自身が様々なところで書き記しています。迫害者としての彼の前半生は充実していたかもしれません。尊敬もされていたでしょう。しかしそれは正しいと信じていたこととはいえ、殺し捕まえるための人生です、そこには内側から沸き上がってくる喜びなどはありません。一方パウロとしての後半生、苦労や危険ははるかに多かったにも関わらず彼は喜んでいました。それは人々を生かすための人生、解放するための人生へと変えられたからです。


B. サウロの第二の人生が始まる


1) アナニアとの出会い (17-19a)

そこで、アナニアは出かけて行ってユダの家に入り、サウロの上に手を置いて言った。「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。」すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。そこで、身を起こして洗礼を受け、食事をして元気を取り戻した。(17-19a)

ここに、「目からうろこが落ちる」という表現の元となった出来事が記されています。アナニアがイエスの声を信頼し、迫害者に会いにゆくというリスクを冒してサウロを尋ねたことが、この出来事のきっかけとなりました。アナニアが祈ったのは、ただ目が見えるようにということだけでなく、聖霊に満たされることでもあったことに注目してください。今日は、ペンテコステと呼ばれる特別な日曜日です。使徒言行録の最初の部分に記録されている出来事で数カ月前に取り上げたので、今日は特別にその箇所からのメッセージはしないことにしたのですが、やはり今日与えられている箇所にもペンテコステ的な信仰の大切さが教えられています。単に肉体的に視力が回復しただけでは、神の働きを担うことはできません。実は聖霊に満たされることで、彼の人生は新しくなったのです。私たちが「目からうろこ」というとき、それは今までなかった発想を得て、新しい見方ができるようになることを指すのですが、この言葉のオリジナルの出来事は、今まで、神に背いていたことによって見えなかった真理が、本当の神を受け入れることにより見えるようにされたということです。アダムとエバは、もっと見たい、もっと知りたい、神のようになりたいと考え、神に背きました。この時、人類は罪というコンタクトレンズを装着したのです。しかしよく見たいと思ってつけたのに、レンズは鱗のように不透明で歪んでいて、もっと物事を正しく見ることができなくなってしまったわけです。
アナニアの祈りを通して、聖霊に満たされ、サウロは実際の目の視力だけでなく、魂の目の視力も回復したのです。目が見えなかった上に三日間食べることも飲むこともしなかったパウロはこの時まで横になっていましたが、見えるようになると体を起こして、まず最初に洗礼を受け、その後食事をしてすっかり元気になったようです。さて元気になったサウロは何を始めたのでしょうか?残りの部分を読みましょう。


2) すぐにイエスを伝え始めた (19b-20)

サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちと一緒にいて、すぐあちこちの会堂で、「この人こそ神の子である」と、イエスのことを宣べ伝えた。

サウロは、数日の準備期間を過ごすと、すぐにイエスのことを宣べ伝えた、とあります。心の目が見えるようになったら、パウロがすぐにしたいと思ったこと、それはイエスを紹介することでした。ヨハネによる福音書1章には、バプテスマのヨハネの弟子だったアンデレが初めにイエスと出会い、弟子の代表格となる兄弟ペトロに、すぐに「私たちはメシア(救い主)にあった」と紹介したことが記されています。イエスを紹介すること、それが私たちの生き方の原点なのです。なぜなら、イエスに出会うことなしに、魂の目から鱗は落ちないからです。
 私たちは学ぶことによって知識を得ます。働くことによって糧を得ます。共に喜び悲しみ助け合うことによって友を得ます。しかし私たちがそうするとき、得られるのは私たちだけではありません。 学びや働きは、人々の飢えや乾きや不便を解消します。 自分が友を得るということは、その人もあなたという友を得ることです。そのように、 わたしたちの生きるという営みは本来、周りの人々の幸せのためにもなるはずなのです。それなのに多くの人が幸せとはいえない状態にあるのは、罪というコンタクトレンズが魂の目を覆っているからです。
 あなたがまだイエスを知らないなら、それは心の目にコンタクトレンズが付いている状態であるということです。そうであれば「自己実現」こそが人生の目標であるはずです。そうであれば人生を勝利で飾るためには、以前のサウロのように無慈悲になるしかありません。これによってサウロは優秀な迫害者として尊敬され、恐れられて有名人だったのですが、心の底には喜びはありませんでした。イエスを知らなければ、自分を生かすには人を殺すこと、自分を自由にするには人を不自由にすること、という発想から抜け出すことはできません。そこでどんなに良い成果を上げたとしても、同類の人々から尊敬されたとしても、そこにはパウロが手に入れた大きな喜びはありません。あなたにとってのアナニアは誰でしょうか?イエスはあなたがイエスを知るためにその人を送ってくれたのです。そのアナニアの祈りによって、私たちは見えるようになり、喜ぶ者となりました。だから私たちは、 パウロがすぐに始めたように、誰かのためのアナニアとなるのです。罪という鱗が落ちれば、魂は永遠に喜びのうちにあります。目に見える環境の中でどのようなことが起ころうと、この喜びは決して消え去ることはありません。どうぞイエスをあなたの主と受け入れてください。


メッセージのポイント
初代教会の時代に最も活躍した海外宣教者であり、新約聖書の多くの部分を書いた神学者でもあるパウロは、ユダヤ教の熱心な教師で迫害者でした。彼のような信じる者をひどく迫害していた者でさえ、イエスは作り変え、用いることができます。彼がこのように用いられるために、神は御自身で彼に声をかけることと、アナニアという人を用いることによって、彼の人生の転換を図りました。ペンテコステの日に信じいる者に豊かに注がれた神の霊は、求めれば今でも私たちに豊かに注がれます。あなたの周りにもパウロのような者になってほしいと思う人がいるはずです。イエスが語りかけてくださるように祈り求めましょう。そして、私たちは、アナニアのように、それらの人々の人生の転換に適切に手を貸すことが出来るように、私たち自身も熱心に聖霊に満たされることを求めましょう。


話し合いのために
1) なぜ神はパウロを選んだのでしょうか?
2) アナニアは主の声に最初どう感じたのでしょうか?