<メッセージノート>

2013/6/2 使徒言行録 9:32-43
癒しを見て信じる

A 二人の人に起こったこと

1) アイネア

ペトロは方々を巡り歩き、リダに住んでいる聖なる者たちのところへも下って行った。そしてそこで、中風で八年前から床についていたアイネアという人に会った。ペトロが、「アイネア、イエス・キリストがいやしてくださる。起きなさい。自分で床を整えなさい」と言うと、アイネアはすぐ起き上がった。リダとシャロンに住む人は皆アイネアを見て、主に立ち帰った。(32-35)



2) タビタ

ヤッファにタビタ——訳して言えばドルカス、すなわち「かもしか」——と呼ばれる婦人の弟子がいた。彼女はたくさんの善い行いや施しをしていた。ところが、そのころ病気になって死んだので、人々は遺体を清めて階上の部屋に安置した。リダはヤッファに近かったので、弟子たちはペトロがリダにいると聞いて、二人の人を送り、「急いでわたしたちのところへ来てください」と頼んだ。ペトロはそこをたって、その二人と一緒に出かけた。人々はペトロが到着すると、階上の部屋に案内した。やもめたちは皆そばに寄って来て、泣きながら、ドルカスが一緒にいたときに作ってくれた数々の下着や上着を見せた。ペトロが皆を外に出し、ひざまずいて祈り、遺体に向かって、「タビタ、起きなさい」と言うと、彼女は目を開き、ペトロを見て起き上がった。ペトロは彼女に手を貸して立たせた。そして、聖なる者たちとやもめたちを呼び、生き返ったタビタを見せた。(36-41)



B 私たちの中に起こること

このことはヤッファ中に知れ渡り、多くの人が主を信じた。ペトロはしばらくの間、ヤッファで革なめし職人のシモンという人の家に滞在した。(42,43)

1) 癒されること

2) 信じること


メッセージのポイント
イエスは、ペテロを通して病を癒し死者を生き返らせました。今でも、神様がなさるならそのようなことが起こるでしょう。 癒しや奇蹟を通して信じる人が起こされることは素晴らしいことです。しかし、そのようなこと(特に奇蹟)が例外的なことであることも忘れてはなりません。事の本質は、そこで説明しがたいことが起こったということではなく、そのようなことを通して神様の憐れみが現されたということです。典型的な奇蹟、癒しが起こらなくても、私たちは「新しい命を得た」という最大の奇蹟の生き証人です。神様の憐れみは、ほとんどの場合、癒しや奇蹟を通してではなく、私たちの日常生活の中で、私たちを通して人々に伝わるものです。大群衆がイエスの癒しや奇蹟を見たいと押しかけ、実際多くの人が癒されましたが、そこからイエスに従い始める人は殆どいませんでした。癒し・奇跡は神様の一方的な憐れみの現れであって、イエスを紹介するための道具ではありません。「見ないで信じる者は幸いです」(ヨハネ20:29)ということは、しるしや不思議についても当てはまることです。


話し合いのために
1) 今でもこのようなことが起こる事を期待すべきですか?
2) 癒しや奇蹟に関心を持ちすぎるとどんな問題が起こりますか?

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<メッセージ全文>

2013/6/2 使徒言行録 9:32-43
癒しを見て信じる

A 二人の人に起こったこと

1) アイネア

ペトロは方々を巡り歩き、リダに住んでいる聖なる者たちのところへも下って行った。そしてそこで、中風で八年前から床についていたアイネアという人に会った。ペトロが、「アイネア、イエス・キリストがいやしてくださる。起きなさい。自分で床を整えなさい」と言うと、アイネアはすぐ起き上がった。リダとシャロンに住む人は皆アイネアを見て、主に立ち帰った。(32-35)

ペトロは様々な地方で始まったイエスに従う者の集いを見て回り、必要に応じて教えたり励ましたりしていました。今日紹介する出来事の舞台はリダとヤッファと呼ばれる町です。エルサレムから北西に約40キロのところにリダ、さらに北西に約20キロ進むと地中海に面した、今ではイスラエル最大の都市テルアビブとなったヤッファがあります。
中風は脳卒中などの後遺症のことで、身体の麻痺や言語障害、しびれなどが主な症状です。現代では、適切な処置やリハビリテーションによってかなりの回復が期待出来ますが、当時の医療ではアイネアがそうであったように、床についているしかない場合が多かったのです。彼は8年間起きることができないでいました。生きてはいたけれど彼の人生は終わっていました。
しかしイエスに従って歩むペトロに出会い、彼の新しい人生が始まったのです。ペトロは私が癒してあげようとは言いませんでした。イエス・キリストがいやしてくださると言いました。そして、「起きなさい、自分で床を整えなさい」と命じるとアイネアはそのとおりにしたのです。これを見た地域の多くの人がイエス・キリストを信じました。


2) タビタ

ヤッファにタビタ——訳して言えばドルカス、すなわち「かもしか」——と呼ばれる婦人の弟子がいた。彼女はたくさんの善い行いや施しをしていた。ところが、そのころ病気になって死んだので、人々は遺体を清めて階上の部屋に安置した。リダはヤッファに近かったので、弟子たちはペトロがリダにいると聞いて、二人の人を送り、「急いでわたしたちのところへ来てください」と頼んだ。ペトロはそこをたって、その二人と一緒に出かけた。人々はペトロが到着すると、階上の部屋に案内した。やもめたちは皆そばに寄って来て、泣きながら、ドルカスが一緒にいたときに作ってくれた数々の下着や上着を見せた。ペトロが皆を外に出し、ひざまずいて祈り、遺体に向かって、「タビタ、起きなさい」と言うと、彼女は目を開き、ペトロを見て起き上がった。ペトロは彼女に手を貸して立たせた。そして、聖なる者たちとやもめたちを呼び、生き返ったタビタを見せた。(36-41)

リダでの出来事はヤッファにも伝わりました。そこにはぜひペトロに来て欲しい状況、タビタの死がありました。タビタの死を悲しむ人々はペトロに来てもらいました。ペトロは、すでに亡くなったタビタを見て、イエスが自分の目の前でなさったことを思い出したのだと思います。マルコによる福音書5:35-43に記されている出来事です。そしてイエスが行ったとおりに、人払いをして、イエスが「タリタ(少女よ)、クム」といわれたように「タビタ、クム」と呼びかけました。タビタは目を開き、起き上がりました。人々は生き返ったタビタに再会したのです。イエスへの信頼が高まらないわけがありません。


B 私たちの中に起こること

このことはヤッファ中に知れ渡り、多くの人が主を信じた。ペトロはしばらくの間、ヤッファで革なめし職人のシモンという人の家に滞在した。(42,43)

1) 癒されること

神様は、今でも信じる者を通して癒やすことをなさいます。だから私も願う人があればいつでも喜んで癒しのミニストリーをします。またイエスに従う者には、人を癒す事を勧めます。イエスも多くの人々の願いに応えて癒されました。しかし体を癒すことは究極の目的ではありません。癒されるために信じるのではありません。癒しは神様が確かにいて下さり、必要な力を与えて下さるしるしです。例えば、痛みが去るようにその人に手をおいて、それがすぐに起こるようなことを私たちは多く経験して来ました。イエスを知らなくても、小さな子供を持つ親なら、子供が痛いと訴えれば、そこに手をおいて「痛いの飛んでゆけ」と命じます。日々の体調の不良や病気の快方を命じたり、宣言したりする権威と力が与えられていることを覚えましょう。


2) 信じること


この二つの出来事に対する現代の教会の応答として両極端の考えがあります。一つは、イエスを信じてもらうために病気の癒しを目的としたイベントで人を集めることが必要だというものです。世界中からそのような賜物を持つといわれる人々を呼び集めて、集会を開くことがよく行われてきました。中には母国で多くの死人を蘇らせたという人も来ましたが、残念ながら日本ではそのようなことは起こりませんでした。アイネアが癒されたこと、タビタが生き返ってことを通して多くの人々が主に立ち返った、イエスを主と信じたと記録されていることを無視することはできません。けれども、それはイエスを伝える道具、信じさせる道具ではありません。イエス自身、信じたらいやしてあげるとも、いやしてあげるから信じなさいとも言ってはいません。イエスのいやしは、ただ憐れみによるものであって、見返りなしに与えられるものです。もう一方の極端は、医療が発達したこの時代に癒しを求める必要はないという考えです。このように考え始めると、あらゆることが人間的に解決できて、イエスに従うというよりも、この世でイエス的に振る舞うことが重要だと考えるようになります。イエスのように癒やすには医学の発展に尽くし、貧しい者を救うためには富の再分配を働きかけ、人権を守るためには社会改革を目指すことに忙しくなります。しかしそれは私たちの内側に働く罪の性質には無力です。こうして両極端な考えにひきさかれて、教会は効果的に人々をイエスに紹介できてはいません。その結果、この国では、教会もそこに集う人も減り続けています。
私たちは、それらとは全く別なアプローチをするべきです。ただイエスに近付くことを実践し、人にも勧めるのです。イエスに従っている人は、実は、もっと深い意味で癒された経験も、生き返った経験も持っているといえます。私は、罪という心の内側の性質によって、神を認めることができないという深刻な病を癒されました。それは自覚症状がないまま、周りの人々や自分を傷つけながら死に至る最悪の病です。それは私にとって死んでいた魂を生き返させていただいた経験ともいえるのです。将来死んで、生き返らされるという経験をしたとしても、私にとっては魂を再び生きるものにしていただいた事のほうがはるかに重要なことなのです。もう一度息を吹き返したところで、やがて天に帰ることになるのです。あまりびっくりすることはありません。むしろ癒しや、蘇りの奇蹟は、まだ知らなかった者にとっては、喜びの本質を知るためのよいきっかけであり、従って歩んでいるものには、共にいてくださる確信と喜びを与えてくれるものです。


メッセージのポイント
イエスは、ペテロを通して病を癒し死者を生き返らせました。今でも、神様がなさるならそのようなことが起こるでしょう。 癒しや奇蹟を通して信じる人が起こされることは素晴らしいことです。しかし、そのようなこと(特に奇蹟)が例外的なことであることも忘れてはなりません。事の本質は、そこで説明しがたいことが起こったということではなく、そのようなことを通して神様の憐れみが現されたということです。典型的な奇蹟、癒しが起こらなくても、私たちは「新しい命を得た」という最大の奇蹟の生き証人です。神様の憐れみは、ほとんどの場合、癒しや奇蹟を通してではなく、私たちの日常生活の中で、私たちを通して人々に伝わるものです。大群衆がイエスの癒しや奇蹟を見たいと押しかけ、実際多くの人が癒されましたが、そこからイエスに従い始める人は殆どいませんでした。癒し・奇跡は神様の一方的な憐れみの現れであって、イエスを紹介するための道具ではありません。「見ないで信じる者は幸いです」(ヨハネ20:29)ということは、しるしや不思議についても当てはまることです。


話し合いのために
1) 今でもこのようなことが起こる事を期待すべきですか?
2) 癒しや奇蹟に関心を持ちすぎるとどんな問題が起こりますか?