<メッセージノート>

2013/6/9 Acts 使徒言行録10
あなたも神様の愛する子供

A 神様が演出する出会い

1) 神様を求める異邦人 (1-8)

さて、カイサリアにコルネリウスという人がいた。「イタリア隊」と呼ばれる部隊の百人隊長で、信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた。ある日の午後三時ごろ、コルネリウスは、神の天使が入って来て「コルネリウス」と呼びかけるのを、幻ではっきりと見た。彼は天使を見つめていたが、怖くなって、「主よ、何でしょうか」と言った。すると、天使は言った。「あなたの祈りと施しは、神の前に届き、覚えられた。今、ヤッファへ人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。その人は、革なめし職人シモンという人の客になっている。シモンの家は海岸にある。」天使がこう話して立ち去ると、コルネリウスは二人の召し使いと、側近の部下で信仰心のあつい一人の兵士とを呼び、すべてのことを話してヤッファに送った。(1-8)



2) 選民意識をすてるユダヤ人 (9-35)

翌日、この三人が旅をしてヤッファの町に近づいたころ、ペトロは祈るため屋上に上がった。昼の十二時ごろである。彼は空腹を覚え、何か食べたいと思った。人々が食事の準備をしているうちに、ペトロは我を忘れたようになり、天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、地上に下りて来るのを見た。その中には、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていた。そして、「ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい」と言う声がした。しかし、ペトロは言った。「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません。」すると、また声が聞こえてきた。「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」こういうことが三度あり、その入れ物は急に天に引き上げられた。ペトロが、今見た幻はいったい何だろうかと、ひとりで思案に暮れていると、コルネリウスから差し向けられた人々が、シモンの家を探し当てて門口に立ち、声をかけて、「ペトロと呼ばれるシモンという方が、ここに泊まっておられますか」と尋ねた。ペトロがなおも幻について考え込んでいると、“霊”がこう言った。「三人の者があなたを探しに来ている。立って下に行き、ためらわないで一緒に出発しなさい。わたしがあの者たちをよこしたのだ。ペトロは、その人々のところへ降りて行って、「あなたがたが探しているのは、このわたしです。どうして、ここへ来られたのですか」と言った。すると、彼らは言った。「百人隊長のコルネリウスは、正しい人で神を畏れ、すべてのユダヤ人に評判の良い人ですが、あなたを家に招いて話を聞くようにと、聖なる天使からお告げを受けたのです。」それで、ペトロはその人たちを迎え入れ、泊まらせた。翌日、ペトロはそこをたち、彼らと出かけた。ヤッファの兄弟も何人か一緒に行った。次の日、一行はカイサリアに到着した。コルネリウスは親類や親しい友人を呼び集めて待っていた。ペトロが来ると、コルネリウスは迎えに出て、足もとにひれ伏して拝んだ。ペトロは彼を起こして言った。「お立ちください。わたしもただの人間です。」そして、話しながら家に入ってみると、大勢の人が集まっていたので、彼らに言った。「あなたがたもご存じのとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています。けれども、神はわたしに、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、お示しになりました。それで、お招きを受けたとき、すぐ来たのです。お尋ねしますが、なぜ招いてくださったのですか。」すると、コルネリウスが言った。「四日前の今ごろのことです。わたしが家で午後三時の祈りをしていますと、輝く服を着た人がわたしの前に立って、言うのです。『コルネリウス、あなたの祈りは聞き入れられ、あなたの施しは神の前で覚えられた。ヤッファに人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。その人は、海岸にある革なめし職人シモンの家に泊まっている。』 それで、早速あなたのところに人を送ったのです。よくおいでくださいました。今わたしたちは皆、主があなたにお命じになったことを残らず聞こうとして、神の前にいるのです。」 そこで、ペトロは口を開きこう言った。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。 どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。(9-35)


B すべての人が主を知るために

1) 開かれている心にシンプルに語ろう (36-43)

神がイエス・キリストによって——この方こそ、すべての人の主です——平和を告げ知らせて、イスラエルの子らに送ってくださった御言葉を、あなたがたはご存じでしょう。ヨハネが洗礼を宣べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事です。つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです。わたしたちは、イエスがユダヤ人の住む地方、特にエルサレムでなさったことすべての証人です。人々はイエスを木にかけて殺してしまいましたが、神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に現してくださいました。 しかし、それは民全体に対してではなく、前もって神に選ばれた証人、つまり、イエスが死者の中から復活した後、御一緒に食事をしたわたしたちに対してです。 そしてイエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました。 また預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています。」(36-43)



2) 聖霊を受けること、バプテスマを受けることを勧めよう (44-48)

ペトロがこれらのことをなおも話し続けていると、御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降った。 割礼を受けている信者で、ペトロと一緒に来た人は皆、聖霊の賜物が異邦人の上にも注がれるのを見て、大いに驚いた。 異邦人が異言を話し、また神を賛美しているのを、聞いたからである。そこでペトロは、「わたしたちと同様に聖霊を受けたこの人たちが、水で洗礼を受けるのを、いったいだれが妨げることができますか」と言った。 そして、イエス・キリストの名によって洗礼を受けるようにと、その人たちに命じた。それから、コルネリウスたちは、ペトロになお数日滞在するようにと願った。(44-48)

メッセージのポイント
なかなか既成概念から抜け出せない私たちに、神様は私たちの思いも及ばない方法で、新しい出会いを与え新しい一歩を踏み出させてくださいます。世界中の人々が互いの必要に応じて何でも喜んで分かち合う事ができるなら、今私たちが心を痛めるほとんどのことは解決出来ます。すべての人が主を知る時、このことは実現します。ゴールは遥か彼方に霞んで見えませんが、コルネリウスが、ペトロが踏み出した「すべての人に主を知らせる」という道の続きを、私たちも踏み出しましょう。

話し合いのために
1) ペトロが夢に見た汚れた食べ物は何を意味していたのですか?
2) コルネリウスたちはどのようにイエス様を主と信じましたか?

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<メッセージ全文>

2013/6/9 Acts 使徒言行録10
あなたも神様の愛する子供

A 神様が演出する出会い

1) 神様を求める異邦人 (1-8)

さて、カイサリアにコルネリウスという人がいた。「イタリア隊」と呼ばれる部隊の百人隊長で、信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた。ある日の午後三時ごろ、コルネリウスは、神の天使が入って来て「コルネリウス」と呼びかけるのを、幻ではっきりと見た。彼は天使を見つめていたが、怖くなって、「主よ、何でしょうか」と言った。すると、天使は言った。「あなたの祈りと施しは、神の前に届き、覚えられた。今、ヤッファへ人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。その人は、革なめし職人シモンという人の客になっている。シモンの家は海岸にある。」天使がこう話して立ち去ると、コルネリウスは二人の召し使いと、側近の部下で信仰心のあつい一人の兵士とを呼び、すべてのことを話してヤッファに送った。(1-8)

神様の恵みの計画は、イエスとしてこられ、十字架にかかり、復活されて、新しい段階に入りました。それは良い知らせが世界中のすべての人に伝わり始めるという段階です。それまでユダヤ人の神として御自身を現されてきた神は、その対象がすべての人に向けられていることを明らかにされました。
カイサリアは、この時ペトロが滞在していたヤッファから地中海の海岸線を60キロ弱北上した位置にあります。皇帝の町という意味のカイサリアという地名はローマ帝国が力を持っていたこの時代、あちこちにありましたが、聖書に登場する主要な町としてはダマスコに近い、ペトロが「あなたは、生ける神の子、キリストです。」と告白した町ピリポカイザリアとこのテキストの舞台です。ここは他のカイサリアと区別して海辺のカイサリアとも呼ばれています。ローマ人がはじめてイエスを主・神と信じたこの出来事から、あなたも神の愛する子供の一人であることを知っていただきたいと思います。
コルネリウスは神を深く敬う人でした。以前に登場したエチオピアの高官と同様に、異邦人でありながら旧約聖書の神を信じる者でした。彼の一家は、貧しい者への施しや神様への祈りをいつでもしていたようです。神はこのような人々を用いて、世界中の人を神の国に招く計画を進められます。神様がこの一家を用いようとされたのは、彼らの施しと祈りが“神の前に届き、覚えられた”からです。ユダヤ文化圏に駐留するローマ人として外交的な配慮として、施したり、祈ったりして見せていたのではなく、心から神様を敬う人々だったからです。私たちはなぜ施し、なぜ祈るのでしょうか?それは利益を獲得するためではありません。聖書の神様を信じる信仰は商売繁盛、家内安全、無病息災を願う宗教とは異質のものです。彼らはそのことを知っていて、まことの神に信頼を置いていたのです。しかしその神様を信じている者の代表であるユダヤの民が律法主義に堕落し、力を失い、神様を信じないローマの支配下に置かれているのを見る時、コルネリウスは複雑な心境だったでしょう。
わたしたちが祈り、施すのは、神様を愛しているからです。そこには、神様に喜んでもらいたいという気持ちと、神様をもっと知りたいという気持ちが強くあります。だから愛は犠牲を惜しみません。愛の神様が愛し合う者として造られた人間の間でも働く自然な思いです。
神様はコルネリウスの願いに応え、彼らの施しや祈りを喜んでいることを知らせ、もっとよく御自身を知らせるために、イエス・キリストとして御自身を現されていることを知らせるために天使を送ったのです。神様がよく分からなくても、あなたが神様を喜ばせたい、知りたいと願うなら、弱いものに手を差し伸べ、神様に向かって祈り続けたら良いのです。あなたにもきっと天使的な役割を果たす人をを送ってくださいます。


2) 選民意識をすてるユダヤ人 (9-35)

翌日、この三人が旅をしてヤッファの町に近づいたころ、ペトロは祈るため屋上に上がった。昼の十二時ごろである。彼は空腹を覚え、何か食べたいと思った。人々が食事の準備をしているうちに、ペトロは我を忘れたようになり、天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、地上に下りて来るのを見た。その中には、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていた。そして、「ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい」と言う声がした。しかし、ペトロは言った。「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません。」すると、また声が聞こえてきた。「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」こういうことが三度あり、その入れ物は急に天に引き上げられた。ペトロが、今見た幻はいったい何だろうかと、ひとりで思案に暮れていると、コルネリウスから差し向けられた人々が、シモンの家を探し当てて門口に立ち、声をかけて、「ペトロと呼ばれるシモンという方が、ここに泊まっておられますか」と尋ねた。ペトロがなおも幻について考え込んでいると、“霊”がこう言った。「三人の者があなたを探しに来ている。立って下に行き、ためらわないで一緒に出発しなさい。わたしがあの者たちをよこしたのだ。ペトロは、その人々のところへ降りて行って、「あなたがたが探しているのは、このわたしです。どうして、ここへ来られたのですか」と言った。すると、彼らは言った。「百人隊長のコルネリウスは、正しい人で神を畏れ、すべてのユダヤ人に評判の良い人ですが、あなたを家に招いて話を聞くようにと、聖なる天使からお告げを受けたのです。」それで、ペトロはその人たちを迎え入れ、泊まらせた。翌日、ペトロはそこをたち、彼らと出かけた。ヤッファの兄弟も何人か一緒に行った。次の日、一行はカイサリアに到着した。コルネリウスは親類や親しい友人を呼び集めて待っていた。ペトロが来ると、コルネリウスは迎えに出て、足もとにひれ伏して拝んだ。ペトロは彼を起こして言った。「お立ちください。わたしもただの人間です。」そして、話しながら家に入ってみると、大勢の人が集まっていたので、彼らに言った。「あなたがたもご存じのとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています。けれども、神はわたしに、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、お示しになりました。それで、お招きを受けたとき、すぐ来たのです。お尋ねしますが、なぜ招いてくださったのですか。」すると、コルネリウスが言った。「四日前の今ごろのことです。わたしが家で午後三時の祈りをしていますと、輝く服を着た人がわたしの前に立って、言うのです。『コルネリウス、あなたの祈りは聞き入れられ、あなたの施しは神の前で覚えられた。ヤッファに人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。その人は、海岸にある革なめし職人シモンの家に泊まっている。』 それで、早速あなたのところに人を送ったのです。よくおいでくださいました。今わたしたちは皆、主があなたにお命じになったことを残らず聞こうとして、神の前にいるのです。」 そこで、ペトロは口を開きこう言った。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。 どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。(9-35)

翌日、コルネリウスが送った3人が、ヤッファに近づくと、神様はペトロにも幻を見せました。 ペトロの見た幻はコルネリウスの見せられた幻のような具体的な指示ではなく象徴的なものでした。そろそろお昼時、お腹が空いてきて、誰かが食事の準備を始めた頃のことでした。ペトロは、ユダヤ人としては決して口にすることのない動物を見せられ 、食べなさいと語りかけられました。ペトロが断ると「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」と呼びかけられます。このようなことが三度繰り返され幻は終わりました。ペトロが幻の意味を考えていると、三人がやってきたことを聖霊に知らされます。屋上にいた彼が下に降りてみると、そこには会ったことのない三人がいました。そして翌日、カイサリアに向かったのです。
ペトロの選民意識は、神様から直接教えられなければ変えられないほど凝り固まったものであることが分かります。この幻で教えられなければ、異邦人に会いに行くことはなかったでしょう。それまでのペトロはユダヤ人に伝えることとしか考えてはいませんでした。しかし、カイサリアでの体験は彼の視野をナショナルからインターナショナルに広げました。 食べなさいと幻で示されたのは、文字通りの食物規定のことではなく異民族についてのことだと悟ったのです。そこでペトロは、「神はわたしに、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、お示しになりました。」 と言っています。ペトロの問いに答えて、コルネリウスがペトロを呼んだ理由を話したので、ペトロの気づきは確信に変わりました。そこでペトロはこう言っています。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。」 イエスに従う人に主の体の他にこだわるべきグループはありません。聖いグループも汚れたグループもありません。真剣に主に従おうとするならナショナリストではいられないということです。国だけではありません。 イエスが来られるまで、本来神様の意思を正しく受け止めるべき宗教が神様の望まない差別の根拠になっていました。イエスに真剣に従う者たちが、そこから時間をかけて忍耐強く、時には命の犠牲を払って、階級差別、 性差別、 民族差別、年齢差別、性指向性差別を克服する努力をしている一方で、聖書を使って、異邦人を見下すように、特定の人々を汚れていると裁く人々がいるのは悲しいことです。私たちも人を責められるような者ではありません。皆、あらゆる違いを理由に壁を作る性質を持っているのです。教会がこのことを意識しないなら、ますます入ってきにくい場所になって行きます。私たちも聖霊に選民意識を砕いていただきましょう。


B すべての人が主を知るために

1) 開かれている心にシンプルに語ろう (36-43)

神がイエス・キリストによって——この方こそ、すべての人の主です——平和を告げ知らせて、イスラエルの子らに送ってくださった御言葉を、あなたがたはご存じでしょう。ヨハネが洗礼を宣べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事です。つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです。わたしたちは、イエスがユダヤ人の住む地方、特にエルサレムでなさったことすべての証人です。人々はイエスを木にかけて殺してしまいましたが、神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に現してくださいました。 しかし、それは民全体に対してではなく、前もって神に選ばれた証人、つまり、イエスが死者の中から復活した後、御一緒に食事をしたわたしたちに対してです。 そしてイエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました。 また預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています。」(36-43)


このあとペトロがした話は単純です。何度か礼拝に出たことがある人なら皆、知っている話です。イエスに従う決心をした人なら、聞かれれば話してあげられる内容ではないでしょうか?「ナザレのイエスという人が数年前に現れたんです。ところが彼は神の霊を受け特別な知恵と力を持っているばかりか、弱い者を心から憐れんで、生きる力を与え、癒し、勇気づけたのです。でも、宗教家や権力者によって十字架に付けられ殺されてしまったのです。けれどももっとびっくりすることが起こりました。イエスは三日目によみがえり私の前にも現れたんです。そしてイエスこそ信じて従うべき神様だと伝えなさいと命じられました。彼を信じる者は、誰でも罪の許しを受けると、旧約聖書の預言者たちも預言しています。イエスは神様なのに私を友と呼んでくれました。だからイエスは私の一番大切な友です。きっとあなたにも大切な友となるはずです。あなたに紹介させてください。」
結局私たちが誰かに伝えたいことはこういうことです。その人が心を開いているときに単純に伝えればいいのです。開いていないなら、愛し続けるだけです。 あの手この手を使って、信じさせることを求められているのではありません。


2) 聖霊を受けること、バプテスマを受けることを勧めよう (44-48)

ペトロがこれらのことをなおも話し続けていると、御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降った。 割礼を受けている信者で、ペトロと一緒に来た人は皆、聖霊の賜物が異邦人の上にも注がれるのを見て、大いに驚いた。 異邦人が異言を話し、また神を賛美しているのを、聞いたからである。そこでペトロは、「わたしたちと同様に聖霊を受けたこの人たちが、水で洗礼を受けるのを、いったいだれが妨げることができますか」と言った。 そして、イエス・キリストの名によって洗礼を受けるようにと、その人たちに命じた。それから、コルネリウスたちは、ペトロになお数日滞在するようにと願った。(44-48)


コルネリウスたちの心は期待に満ちていました。そこで聖霊はペンテコステの日に起こされたことをこの場でも再現されました。聖霊が御自身を表し彼らに与えたものは聖霊の賜物と呼ばれる特別な能力の一つ、異言を話すことでした。ペトロと一緒にきた人たちは、異邦人の上に聖霊が降るなどとは全く考えていませんでした。だから驚いたのです。ペトロは彼らに洗礼を受けることを命じました。彼らの信仰は聖霊によって保証されたからです。そこで今私は、ここにいてイエスが主と信じている人に洗礼を受けることを勧めたいと思います。イエスは私の主と信じていて、まだバプテスマを受けていない人は、次のチャンスに受けてください。もしその意志がある人がいればいつでも言ってください。またコルネリオのように、神様をもっと喜ばせたい、もっと知りたい、そのために聖霊に満たされる経験をしたいという人がいれば喜んでそのために祈りますから教えて下さい。またあなたに心を開いて、イエス様のことを聞いてくれた人が、イエスは主と信じたなら洗礼を受けること、聖霊に満たされることを勧めてください。


メッセージのポイント
なかなか既成概念から抜け出せない私たちに、神様は私たちの思いも及ばない方法で、新しい出会いを与え新しい一歩を踏み出させてくださいます。世界中の人々が互いの必要に応じて何でも喜んで分かち合う事ができるなら、今私たちが心を痛めるほとんどのことは解決出来ます。すべての人が主を知る時、このことは実現します。ゴールは遥か彼方に霞んで見えませんが、コルネリウスが、ペトロが踏み出した「すべての人に主を知らせる」という道の続きを、私たちも踏み出しましょう。

話し合いのために
1) ペトロが夢に見た汚れた食べ物は何を意味していたのですか?
2) コルネリウスたちはどのようにイエス様を主と信じましたか?