<メッセージノート>

2013/06/16 使徒言行録11:1-18
人は閉ざし、神は開く

A ユダヤ人には想定外の出来事

1) 消えない選民意識(1-3)

さて、使徒たちとユダヤにいる兄弟たちは、異邦人も神の言葉を受け入れたことを耳にした。 ペトロがエルサレムに上って来たとき、割礼を受けている者たちは彼を非難して、 「あなたは割礼を受けていない者たちのところへ行き、一緒に食事をした」と言った。(1-3)



2) すべての人を救う神の恵み(4-10)

そこで、ペトロは事の次第を順序正しく説明し始めた。 「わたしがヤッファの町にいて祈っていると、我を忘れたようになって幻を見ました。大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、天からわたしのところまで下りて来たのです。 その中をよく見ると、地上の獣、野獣、這うもの、空の鳥などが入っていました。 そして、『ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい』と言う声を聞きましたが、 わたしは言いました。『主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は口にしたことがありません。』 すると、『神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない』と、再び天から声が返って来ました。 こういうことが三度あって、また全部の物が天に引き上げられてしまいました。(4-10)



B イエスのような広い心をもちたい

1) 開かれたペトロの心 (11-14)

そのとき、カイサリアからわたしのところに差し向けられた三人の人が、わたしたちのいた家に到着しました。 すると、“霊”がわたしに、『ためらわないで一緒に行きなさい』と言われました。ここにいる六人の兄弟も一緒に来て、わたしたちはその人の家に入ったのです。 彼は、自分の家に天使が立っているのを見たこと、また、その天使が、こう告げたことを話してくれました。『ヤッファに人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。 あなたと家族の者すべてを救う言葉をあなたに話してくれる。』 (11-14)




2) 聖霊の満たしがペトロに理解を与えた (15-18)

わたしが話しだすと、聖霊が最初わたしたちの上に降ったように、彼らの上にも降ったのです。 そのとき、わたしは、『ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは聖霊によって洗礼を受ける』と言っておられた主の言葉を思い出しました。 こうして、主イエス・キリストを信じるようになったわたしたちに与えてくださったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったのなら、わたしのような者が、神がそうなさるのをどうして妨げることができたでしょうか。」 この言葉を聞いて人々は静まり、「それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ」と言って、神を賛美した。(15-18)



メッセージのポイント
弟子たちはイエスに従って新たな歩みを始めたはずなのに、古い慣習に縛られてすべての民を弟子にしなさいという命令に従うことができませんでした。律法主義はユダヤ人だけのものではありません。それは現代の弟子たちの中にもしぶとく生き残っています。クリスチャンならしてはいけない、賛成してはいけないと考えられているもののうち、本当にイエスが望まないことはそれほど多くはありません。エルサレムの弟子たちがペトロを非難したように「それはクリスチャンにはふさわしくない」と言いたくなる時、それが本当にイエスの基準なのか、自分の基準なのかを確かめてみる必要があります。そうしないとイエスの働きを邪魔することになり、イエスが招こうとしている人を無視することにつながります。

話し合いのために
1) なぜペトロは非難されたのですか?
2) 私たちが敬遠しがちな異邦人とはどのような人々でしょう?

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<メッセージ全文>

2013/06/16 使徒言行録11:1-18
人は閉ざし、神は開く

A ユダヤ人には想定外の出来事

1) 消えない選民意識(1-3)

さて、使徒たちとユダヤにいる兄弟たちは、異邦人も神の言葉を受け入れたことを耳にした。 ペトロがエルサレムに上って来たとき、割礼を受けている者たちは彼を非難して、 「あなたは割礼を受けていない者たちのところへ行き、一緒に食事をした」と言った。(1-3)

先週お話したように、ペトロ自身も神様に直接教えられなければ、自分が特別な選ばれた民だという考えを捨てることができませんでした。エルサレムにいた他の弟子たちが、考えを変えてしまったペトロを非難するのも無理はありません。当時のユダヤ人の、イエスに出会った人々でさえ変えられない強烈な選民意識はどこからきたのでしょうか?
私は妻の作るキャロットケーキが大好きなのですが、実はニンジンは苦手です。妻のキャロットケーキは私の苦手な人参の味がしないのでおいしいのです。神様の愛がニンジンなら、彼らの選民意識の根拠である律法主義は彼らにとっておいしいキャロットケーキのようなものです。神様の教えは単純です。一言で言えます。「愛しなさい」です。それをもう少し具体的に示されたのがモーセの十戒です。さらに神様は親切にもユダヤ人が具体的に守るために律法を与えて下さいましたが、しかし彼らはそのままでは満足できず、生活の場でのガイドラインを作り続け、律法自体よりもはるかに膨大な量になっていました。それらの全体を神様の意思と考えて守らなければならないというのが律法主義です。
愛とは誰かのために喜んで犠牲を払うこと、与えることです。だから私が人参が苦手なように、人間は愛することが苦手です。そこで人間は、愛をうまく調理して、結局は神さまが求める意味で愛することをしないで済む方法を考え出します。神様は愛を行うことを求められたのに、人はそれを規則通りに生きることにすり替えてしまったのです。
彼らは、ユダヤ人以外は汚れており、汚れている異邦人と食事を一緒にすると汚れると教えられていました。それをしないことで、聖くいられる、神様の側にいることができると思っていたのです。それは神様の聖さについての大きな誤解でした。そして、それは同時に人の罪についての誤解でもありました。
神様が聖いのは罪とは無縁だからです。罪の本質は愛さないことです。罪は人類が神様を愛することをやめた時に始まりました。神様を愛していないので、日常生活の中で人々を愛することができないのです。


2) すべての人を救う神の恵み(4-10)

そこで、ペトロは事の次第を順序正しく説明し始めた。 「わたしがヤッファの町にいて祈っていると、我を忘れたようになって幻を見ました。大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、天からわたしのところまで下りて来たのです。 その中をよく見ると、地上の獣、野獣、這うもの、空の鳥などが入っていました。 そして、『ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい』と言う声を聞きましたが、 わたしは言いました。『主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は口にしたことがありません。』 すると、『神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない』と、再び天から声が返って来ました。 こういうことが三度あって、また全部の物が天に引き上げられてしまいました。(4-10)

ペトロは、神の恵みが自分たちと同様に異邦人にも向けられているというということが、かつての自分同様に、エルサレムの弟子たちには想定外の事実であることを知らせるために、自分の見た幻について語りはじめました。しかしなぜ著者は直前の章でペトロの言葉を紹介しているのに、ここでもまた同じ言葉を繰り返しているのでしょう。ただ「そこでペトロは自分に見せられた幻とそれからの経緯を説明した」と書けば済んだことです。先週の10章と今日の箇所はかなり重複しています。この事からわかることは、読者もまたエルサレムの弟子たちと同様に選民意識に陥りやすいということを著者が警告しているということです。
私たちは2000年後の読者で、ユダヤ人ではありませんが、選民意識は別の形でわたしたちの心に入り込んで来るのです。それぞれの教会には強調する教えや、その教会のある地域の文化的背景によって他とは違う伝統が生きています。伝統自体は悪いものではありません。問題は自分たちの伝統や文化も含めて神様の命じていることだと思い込んでしまうことです。そうすると、他の人々も私たちのようにしなければいけないと考え始めることになります。そこに選民意識は生まれます。例えば、酒もタバコも罪だと考えて、避けるように教える人々がいます。自分たちの伝統と考えるなら結構ですが、他の人々に向かって「みな私たちのようにしなければならない」と言うなら、それは選民意識の上に立てられた律法主義だと言わなければなりません。飲酒喫煙は罪の問題ではなく健康の問題でしかありません。選民意識はいつの間にか私たちの心に忍び込み、知らず知らずのうちに、人を偏見の目で見てしまいます。自分が守っていて、人が守れないことに厳しく、人が守れて自分には守れないことについては甘いのが、私たちの性質です。そこから解放されるためには、ペトロと同様に、私たちにも神様の助けが必要なのです。

B イエスのような広い心をもちたい

1) 開かれたペトロの心 (11-14)

そのとき、カイサリアからわたしのところに差し向けられた三人の人が、わたしたちのいた家に到着しました。 すると、“霊”がわたしに、『ためらわないで一緒に行きなさい』と言われました。ここにいる六人の兄弟も一緒に来て、わたしたちはその人の家に入ったのです。 彼は、自分の家に天使が立っているのを見たこと、また、その天使が、こう告げたことを話してくれました。『ヤッファに人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。 あなたと家族の者すべてを救う言葉をあなたに話してくれる。』 (11-14)


ペトロは聖霊の呼びかけに心開かれた体験を、エルサレムの弟子たちに率直に話します。神様の声を聞くときに、私たちの狭い心は開かれます。愛せるわけがないと思っている者を愛せるようになるのです。どんな書物を読んでも、それが聖書であっても、聖霊の働きかけなしに心を解き放つことが私達にはできないのです。だから私たちは礼拝し続けます。人は、なぜユアチャーチではメッセージの後延々と歌い続けるのですかと尋ねます。プロテスタント教会の伝統では「神の言葉の説教」(メッセージなんて軽い言葉を使うべきではないという人もいるくらいです。)が日曜日の礼拝の中心と考えられてきました。私には、歌うことは、説教の前に心を整え、説教の後にもう一度それを噛み締める、いわば本格的な運動の前後のストレッチのように扱われてきたように思えるのです。しかし私は礼拝の中心は、このメッセージの後の歌う時間にあると思っています。この後の時を私たちはワーシップタイムと呼びますがそれは、私たちが神様に向かって歌うことこそワーシップ(礼拝)そのものだと考えているからです。個人的にはもっともっと神様に向かって歌っていたいと思うこともありますが、日曜日には、そのようなワーシップのコンセプトに慣れていない方も多いので、4曲くらいと決めてあるのです。私には、それだけでは十分ではないので金曜日のPAWSを楽しみにしています。金曜日はメッセージする必要がないので、ワーシップすることだけを、つまり神さまとの時間を心ゆくまで楽しめるからです。どうか皆さんも、ワーシップタイムの中で心開かれる体験をしてください。それは自分の選民意識、優越感、劣等感が砕かれて、もはや国籍も身分も関係なく、ただ圧倒的な神様の恵みの下にいる者の一人と見ることが出来るようになる体験です。


2) 聖霊の満たしがペトロに理解を与えた (15-18)

わたしが話しだすと、聖霊が最初わたしたちの上に降ったように、彼らの上にも降ったのです。 そのとき、わたしは、『ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは聖霊によって洗礼を受ける』と言っておられた主の言葉を思い出しました。 こうして、主イエス・キリストを信じるようになったわたしたちに与えてくださったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったのなら、わたしのような者が、神がそうなさるのをどうして妨げることができたでしょうか。」 この言葉を聞いて人々は静まり、「それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ」と言って、神を賛美した。(15-18)


神の霊が異邦人に下った、ペトロは聖霊の呼びかけに心開かれ、新しい理解が与えられた体験を、エルサレムの弟子たちに率直に話します。この時、聖霊が働かれました。弟子たちはペトロの言葉を聞いて静まりました。彼らの心も開かれたのです。そして恵みはすべての人に開かれていることを理解したのです。「すべての人」に含まれない人はいません。宗教は、人々の選民意識を植え付け、肌の色、民族の違いによって、「すべての人」に含まれない人を作って来ました。しかしイエスは宗教の違いさえ、乗り越えてあらゆる人々に近づいた方です。教会はひとつの宗教になってはいけないのです。イエスはすべての人に心を開かれましたが、宗教は様々な理由をつけて特定の人々に対して心を閉ざそうとしています。イエスは常にマイノリティーの側に身を置かれました。あなたはどのような人々を、自分と同じ神様の作品として、受け入れられないのでしょうか?しかし「すべての人」は「すべての人」です。律法主義者のように言い訳をするのではなく、心開かれ、理解が与えられるように、神様に求めましょう。

メッセージのポイント
弟子たちはイエスに従って新たな歩みを始めたはずなのに、古い慣習に縛られてすべての民を弟子にしなさいという命令に従うことができませんでした。律法主義はユダヤ人だけのものではありません。それは現代の弟子たちの中にもしぶとく生き残っています。クリスチャンならしてはいけない、賛成してはいけないと考えられているもののうち、本当にイエスが望まないことはそれほど多くはありません。エルサレムの弟子たちがペトロを非難したように「それはクリスチャンにはふさわしくない」と言いたくなる時、それが本当にイエスの基準なのか、自分の基準なのかを確かめてみる必要があります。そうしないとイエスの働きを邪魔することになり、イエスが招こうとしている人を無視することにつながります。

話し合いのために
1) なぜペトロは非難されたのですか?
2) 私たちが敬遠しがちな異邦人とはどのような人々でしょう?