<メッセージノート>
2013/8/4 使徒言行録 14:1-7
イエスに対する二つの態度
A 主が二人を通して働かれた
1) ユダヤ人にもギリシャ人にも受け入れる人と反対する人がいた
イコニオンでも同じように、パウロとバルナバはユダヤ人の会堂に入って話をしたが、その結果、大勢のユダヤ人やギリシア人が信仰に入った。ところが、信じようとしないユダヤ人たちは、異邦人を扇動し、兄弟たちに対して悪意を抱かせた。(1,2
2) 主がご自身を伝える働き
それでも、二人はそこに長くとどまり、主を頼みとして勇敢に語った。主は彼らの手を通してしるしと不思議な業を行い、その恵みの言葉を証しされたのである。(3)
B あなたはどうするのか?
1) 主の働きは町を二分した
町の人々は分裂し、ある者はユダヤ人の側に、ある者は使徒の側についた。異邦人とユダヤ人が、指導者と一緒になって二人に乱暴を働き、石を投げつけようとしたとき、(4,5)
2) 難を避けて移動しそこでもイエスを伝える二人
二人はこれに気づいて、リカオニア州の町であるリストラとデルベ、またその近くの地方に難を避けた。そして、そこでも福音を告げ知らせていた。(6,7)
メッセージのポイント
パウロの伝えたイエスのメッセージは、イコニオンの町を信じて従う者と反対して迫害する者に二分しました。ユダヤ人もギリシア人も信仰に入った一方で、ユダヤ人も異邦人も指導者とともに乱暴を働いたとあるように、国籍、民族、身分に関わりなく信じる者もいれば反対する者もいたのです。究極的には、誰であれ神に仕えるのか、それとも悪魔に仕えるのかの二者択一を問われているのです。神に仕えるとはイエスに従うことです。そしてイエスに従えば、反対する人にも直面するのです。しかし主を頼みとして愛と忍耐を持って勇敢にイエスを紹介し続けるなら、そこに主ご自身が働いて下さいます。
話し合いのために
1) どのような人が信じ、どのような人が反対しましたか?
2) 人々の悪意にあって、二人はどうしましたか?
イエスに対する二つの態度
A 主が二人を通して働かれた
1) ユダヤ人にもギリシャ人にも受け入れる人と反対する人がいた
イコニオンでも同じように、パウロとバルナバはユダヤ人の会堂に入って話をしたが、その結果、大勢のユダヤ人やギリシア人が信仰に入った。ところが、信じようとしないユダヤ人たちは、異邦人を扇動し、兄弟たちに対して悪意を抱かせた。(1,2
2) 主がご自身を伝える働き
それでも、二人はそこに長くとどまり、主を頼みとして勇敢に語った。主は彼らの手を通してしるしと不思議な業を行い、その恵みの言葉を証しされたのである。(3)
B あなたはどうするのか?
1) 主の働きは町を二分した
町の人々は分裂し、ある者はユダヤ人の側に、ある者は使徒の側についた。異邦人とユダヤ人が、指導者と一緒になって二人に乱暴を働き、石を投げつけようとしたとき、(4,5)
2) 難を避けて移動しそこでもイエスを伝える二人
二人はこれに気づいて、リカオニア州の町であるリストラとデルベ、またその近くの地方に難を避けた。そして、そこでも福音を告げ知らせていた。(6,7)
メッセージのポイント
パウロの伝えたイエスのメッセージは、イコニオンの町を信じて従う者と反対して迫害する者に二分しました。ユダヤ人もギリシア人も信仰に入った一方で、ユダヤ人も異邦人も指導者とともに乱暴を働いたとあるように、国籍、民族、身分に関わりなく信じる者もいれば反対する者もいたのです。究極的には、誰であれ神に仕えるのか、それとも悪魔に仕えるのかの二者択一を問われているのです。神に仕えるとはイエスに従うことです。そしてイエスに従えば、反対する人にも直面するのです。しかし主を頼みとして愛と忍耐を持って勇敢にイエスを紹介し続けるなら、そこに主ご自身が働いて下さいます。
話し合いのために
1) どのような人が信じ、どのような人が反対しましたか?
2) 人々の悪意にあって、二人はどうしましたか?
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<メッセージ全文>
2013/8/4 使徒言行録 14:1-7
イエスに対する二つの態度
A 主が二人を通して働かれた
1) ユダヤ人にもギリシャ人にも受け入れる人と反対する人がいた
イコニオンでも同じように、パウロとバルナバはユダヤ人の会堂に入って話をしたが、その結果、大勢のユダヤ人やギリシア人が信仰に入った。ところが、信じようとしないユダヤ人たちは、異邦人を扇動し、兄弟たちに対して悪意を抱かせた。(1,2)
激しい迫害によってアンティオキアにとどまることが危険になったパウロとバルナバはイコニオンと呼ばれる町に移動しました。アンティオキの南東140キロにある、現在のトルコの内陸の都市コンヤです。この町で起きることは、先週お話ししたアンティオキアで起こったこととほとんど同じです。しかし、ここで起こったことから、先週の出来事からは汲み取れなかった二つの事を見ることができます。第一に注目したいのは、ここで起こった対立の様子です。ユダヤ人と異邦人の対立でも、ユダヤ教の中のグループの対立でもありません。パウロたちはここでもユダヤ人の会堂で教えています。喜んで信じる者もいれば、反対する者もいました、反対者は日頃は軽蔑して近づかない異邦人を利用してまで、パウロたちを攻撃するのです。人はいろいろな事をめぐって対立します。政治や宗教から食べ物の好みに至るまで、自分は正しく反対する者は間違っている。自分は善で、反対者は悪と考えたいのです。利用できる者は誰でも利用し、都合の悪い者はどんなことをしてもつぶして自分を守ろうとする、自己中心的な考えを持っています。神が特別に選んで御自身を現された民であるユダヤ民族でさえ、神に信頼することができず、自己中心的に歩んできました。神を信頼できずに、周りの国々のように王がほしいと願い、かえって生活を苦しくしました。また神の意志に逆らって、その時々に有力な隣国と同盟して返って滅亡を招いたのです。ありとあらゆるものが対立の原因となる中で、イエスをめぐる対立は全く質の異るものです。なぜなら対立の原因である自己中心を否定しなさいと神・イエスは求めるからです。それは人間の本質からいえば誰でも拒絶したいと思う提案です。しかし中心に置きたい自己が、それほど頼りにはならないものであることに気付いた人は、心の中心に何を据えるべきかを求め始めます。そのような人々がユダヤ人、ギリシア人の別なく大勢、イエスを主と信じたのです。一方で、自分が中心という考えを諦めきれない人々は、思いつくあらゆる方法を用いて、イエスを知らせようとする者を黙らせようとするのです。この試みは世界の至る所で今まで試みられてきましたが、それが無駄な抵抗であったことはイエスを信頼する私たちがここで同じ事を行なっていることではっきりしています。あなたに必要なのは神と共にいて神を信頼することです。そうであるなら、悪意も、攻撃も、対立も恐れるものは何もありません
2) 主がご自身を伝える働き
それでも、二人はそこに長くとどまり、主を頼みとして勇敢に語った。主は彼らの手を通してしるしと不思議な業を行い、その恵みの言葉を証しされたのである。(3)
もう一つの注目したい点は「主が彼らを通して」働かれたということです。私たちは教会の働きをつい自分たちの働き、人間の働きと考えてしまいがちです。しかし教会の働きは、主の、神の働きです。これを知らない人々の教会は、働きが順調に見える時には高慢になり、困難な時には互いに責任をなすりつけあって、最後には神に、実を結ばない枝として取り除かれることになってしまいます。口で「これは神のものです」と言っていれば済む事ではありません。ユアチャーチと名乗れば安心していられるものでもないのです。私たちが心から、神ご自身の働きであることを確信して行動し続けるのでなければ神の教会はどんなに良い名を持ち、良い言葉を語っても、神の教会以外の何かに変質してしまいます。この節の最初にあるように、パウロとバルナバは 身の危険を感じながら、長くとどまり勇敢に語りました。それができたのは、自分たちの働きではなく主の働きであることを知っていたからです。目に見える困難も失敗も、あるいは成功や人からほめられることでさえ、主の働きに加えられている者としての心で見るならば、私たちはどのような時も、素晴らしいキリストの香りを失うことはないのです。
B あなたはどうするのか?
1) 主の働きは町を二分した
町の人々は分裂し、ある者はユダヤ人の側に、ある者は使徒の側についた。異邦人とユダヤ人が、指導者と一緒になって二人に乱暴を働き、石を投げつけようとしたとき、(4,5)
喜んで従う人が増えれば増えるほど、反対する人々の攻撃はエスカレートし、町は分裂しパウロたちは、ついにここにい続けることが賢明ではないと判断しなければならない状況となってしまいます。 イエスの教えは、政治、思想、民族を超えて共感を呼び、また同時に反感を買います。共感も、反感もゆきすぎればコントロールが効かなくなります。そしてここでは、パウロとバルナバそして彼らの教えを喜んでいる人々に対する反感が、パウロとバルナバを石で撃ち殺そうとするところまで来てしまいました。世の権力は都合の悪いものを排除し、利用できるものは利用しようとします。本当に神に従おうとしない者は、神をも自分の都合によって利用したり排除したりできると思っているのです。私たちは人間の考えを超えた方に信頼を置いていることを忘れずに歩みましょう。だから私たちは、特定の、思想、主義、価値観に共感しすぎることを警戒しなければなりません。これらのものはすべて地上でしか存在できないものであり、完全に信頼出来るものではないのです。信頼出来るのは、イエス・キリストとして御自身を現された神、お一人だけです。
2) 難を避けて移動しそこでもイエスを伝える二人
二人はこれに気づいて、リカオニア州の町であるリストラとデルベ、またその近くの地方に難を避けた。そして、そこでも福音を告げ知らせていた。(6,7)
リストラはイコニオンから南西に40キロ、デルべはリストラからさらに南東に60キロ程進んだところにある町です。彼らの「宣教旅行」は、今の教会の若者が夏休みを利用して行く「宣教旅行」とは相当違っていました。計画的に、積極的に出てゆくというより、必要に迫られて、もっといえば逃げ出すような形で次の場所に向かい、またそこを追われるということの連続です。あまり格好のいいものではありません。もう随分前に亡くなったのですが、おとなりの相模原市に住んで人々にイエスを紹介して生涯を終えた宣教師の友人がいました。彼女はスウェーデン人で、最初はモンゴルの人々にイエスを紹介したいと考えていたのです。けれども、当時のモンゴルの政府が宣教師の活動を禁じてしまったので、彼女は仕方なく日本に来てくれたのです。その結果、彼女を通して多くの人々がイエスに従う者となりました。晩年に故郷に帰ってからモンゴルを旅することもありましたが、そのような旅行の帰りに日本に立ち寄った時に、この国で息を引き取られました。彼女の働きについて神様に感謝する人は少なくありません。
私達の歩みは、いつも楽なわけではありません。思い通りにはゆきません。苦難の連続という時もあるのです。私に対する神の計画は進んでいるのだろうか?それ以前に、神の計画など本当にあるのだろうか?と思いたくなるようなことが起こるのです。しかしパウロとバルナバの、そのような歩みを通して、各地にイエスに従う者が起こされ、教会が始まったのです。
神に従おうと思えば抵抗、反対する人はいます。しかし、私たちの人生は、自分の働きではなく、神の働きなので、誰も私たちを諦めさせることはできません。思い通りに事が運ばなくても、がっかりする必要はありません。それより神様の部分的な計画変更に柔軟に従ってゆくことが出来るように祈り求めましょう。
メッセージのポイント
パウロの伝えたイエスのメッセージは、イコニオンの町を信じて従う者と反対して迫害する者に二分しました。ユダヤ人もギリシア人も信仰に入った一方で、ユダヤ人も異邦人も指導者とともに乱暴を働いたとあるように、国籍、民族、身分に関わりなく信じる者もいれば反対する者もいたのです。究極的には、誰であれ神に仕えるのか、それとも悪魔に仕えるのかの二者択一を問われているのです。神に仕えるとはイエスに従うことです。そしてイエスに従えば、反対する人にも直面するのです。しかし主を頼みとして愛と忍耐を持って勇敢にイエスを紹介し続けるなら、そこに主ご自身が働いて下さいます。
話し合いのために
1) どのような人が信じ、どのような人が反対しましたか?
2) 人々の悪意にあって、二人はどうしましたか?
イエスに対する二つの態度
A 主が二人を通して働かれた
1) ユダヤ人にもギリシャ人にも受け入れる人と反対する人がいた
イコニオンでも同じように、パウロとバルナバはユダヤ人の会堂に入って話をしたが、その結果、大勢のユダヤ人やギリシア人が信仰に入った。ところが、信じようとしないユダヤ人たちは、異邦人を扇動し、兄弟たちに対して悪意を抱かせた。(1,2)
激しい迫害によってアンティオキアにとどまることが危険になったパウロとバルナバはイコニオンと呼ばれる町に移動しました。アンティオキの南東140キロにある、現在のトルコの内陸の都市コンヤです。この町で起きることは、先週お話ししたアンティオキアで起こったこととほとんど同じです。しかし、ここで起こったことから、先週の出来事からは汲み取れなかった二つの事を見ることができます。第一に注目したいのは、ここで起こった対立の様子です。ユダヤ人と異邦人の対立でも、ユダヤ教の中のグループの対立でもありません。パウロたちはここでもユダヤ人の会堂で教えています。喜んで信じる者もいれば、反対する者もいました、反対者は日頃は軽蔑して近づかない異邦人を利用してまで、パウロたちを攻撃するのです。人はいろいろな事をめぐって対立します。政治や宗教から食べ物の好みに至るまで、自分は正しく反対する者は間違っている。自分は善で、反対者は悪と考えたいのです。利用できる者は誰でも利用し、都合の悪い者はどんなことをしてもつぶして自分を守ろうとする、自己中心的な考えを持っています。神が特別に選んで御自身を現された民であるユダヤ民族でさえ、神に信頼することができず、自己中心的に歩んできました。神を信頼できずに、周りの国々のように王がほしいと願い、かえって生活を苦しくしました。また神の意志に逆らって、その時々に有力な隣国と同盟して返って滅亡を招いたのです。ありとあらゆるものが対立の原因となる中で、イエスをめぐる対立は全く質の異るものです。なぜなら対立の原因である自己中心を否定しなさいと神・イエスは求めるからです。それは人間の本質からいえば誰でも拒絶したいと思う提案です。しかし中心に置きたい自己が、それほど頼りにはならないものであることに気付いた人は、心の中心に何を据えるべきかを求め始めます。そのような人々がユダヤ人、ギリシア人の別なく大勢、イエスを主と信じたのです。一方で、自分が中心という考えを諦めきれない人々は、思いつくあらゆる方法を用いて、イエスを知らせようとする者を黙らせようとするのです。この試みは世界の至る所で今まで試みられてきましたが、それが無駄な抵抗であったことはイエスを信頼する私たちがここで同じ事を行なっていることではっきりしています。あなたに必要なのは神と共にいて神を信頼することです。そうであるなら、悪意も、攻撃も、対立も恐れるものは何もありません
2) 主がご自身を伝える働き
それでも、二人はそこに長くとどまり、主を頼みとして勇敢に語った。主は彼らの手を通してしるしと不思議な業を行い、その恵みの言葉を証しされたのである。(3)
もう一つの注目したい点は「主が彼らを通して」働かれたということです。私たちは教会の働きをつい自分たちの働き、人間の働きと考えてしまいがちです。しかし教会の働きは、主の、神の働きです。これを知らない人々の教会は、働きが順調に見える時には高慢になり、困難な時には互いに責任をなすりつけあって、最後には神に、実を結ばない枝として取り除かれることになってしまいます。口で「これは神のものです」と言っていれば済む事ではありません。ユアチャーチと名乗れば安心していられるものでもないのです。私たちが心から、神ご自身の働きであることを確信して行動し続けるのでなければ神の教会はどんなに良い名を持ち、良い言葉を語っても、神の教会以外の何かに変質してしまいます。この節の最初にあるように、パウロとバルナバは 身の危険を感じながら、長くとどまり勇敢に語りました。それができたのは、自分たちの働きではなく主の働きであることを知っていたからです。目に見える困難も失敗も、あるいは成功や人からほめられることでさえ、主の働きに加えられている者としての心で見るならば、私たちはどのような時も、素晴らしいキリストの香りを失うことはないのです。
B あなたはどうするのか?
1) 主の働きは町を二分した
町の人々は分裂し、ある者はユダヤ人の側に、ある者は使徒の側についた。異邦人とユダヤ人が、指導者と一緒になって二人に乱暴を働き、石を投げつけようとしたとき、(4,5)
喜んで従う人が増えれば増えるほど、反対する人々の攻撃はエスカレートし、町は分裂しパウロたちは、ついにここにい続けることが賢明ではないと判断しなければならない状況となってしまいます。 イエスの教えは、政治、思想、民族を超えて共感を呼び、また同時に反感を買います。共感も、反感もゆきすぎればコントロールが効かなくなります。そしてここでは、パウロとバルナバそして彼らの教えを喜んでいる人々に対する反感が、パウロとバルナバを石で撃ち殺そうとするところまで来てしまいました。世の権力は都合の悪いものを排除し、利用できるものは利用しようとします。本当に神に従おうとしない者は、神をも自分の都合によって利用したり排除したりできると思っているのです。私たちは人間の考えを超えた方に信頼を置いていることを忘れずに歩みましょう。だから私たちは、特定の、思想、主義、価値観に共感しすぎることを警戒しなければなりません。これらのものはすべて地上でしか存在できないものであり、完全に信頼出来るものではないのです。信頼出来るのは、イエス・キリストとして御自身を現された神、お一人だけです。
2) 難を避けて移動しそこでもイエスを伝える二人
二人はこれに気づいて、リカオニア州の町であるリストラとデルベ、またその近くの地方に難を避けた。そして、そこでも福音を告げ知らせていた。(6,7)
リストラはイコニオンから南西に40キロ、デルべはリストラからさらに南東に60キロ程進んだところにある町です。彼らの「宣教旅行」は、今の教会の若者が夏休みを利用して行く「宣教旅行」とは相当違っていました。計画的に、積極的に出てゆくというより、必要に迫られて、もっといえば逃げ出すような形で次の場所に向かい、またそこを追われるということの連続です。あまり格好のいいものではありません。もう随分前に亡くなったのですが、おとなりの相模原市に住んで人々にイエスを紹介して生涯を終えた宣教師の友人がいました。彼女はスウェーデン人で、最初はモンゴルの人々にイエスを紹介したいと考えていたのです。けれども、当時のモンゴルの政府が宣教師の活動を禁じてしまったので、彼女は仕方なく日本に来てくれたのです。その結果、彼女を通して多くの人々がイエスに従う者となりました。晩年に故郷に帰ってからモンゴルを旅することもありましたが、そのような旅行の帰りに日本に立ち寄った時に、この国で息を引き取られました。彼女の働きについて神様に感謝する人は少なくありません。
私達の歩みは、いつも楽なわけではありません。思い通りにはゆきません。苦難の連続という時もあるのです。私に対する神の計画は進んでいるのだろうか?それ以前に、神の計画など本当にあるのだろうか?と思いたくなるようなことが起こるのです。しかしパウロとバルナバの、そのような歩みを通して、各地にイエスに従う者が起こされ、教会が始まったのです。
神に従おうと思えば抵抗、反対する人はいます。しかし、私たちの人生は、自分の働きではなく、神の働きなので、誰も私たちを諦めさせることはできません。思い通りに事が運ばなくても、がっかりする必要はありません。それより神様の部分的な計画変更に柔軟に従ってゆくことが出来るように祈り求めましょう。
メッセージのポイント
パウロの伝えたイエスのメッセージは、イコニオンの町を信じて従う者と反対して迫害する者に二分しました。ユダヤ人もギリシア人も信仰に入った一方で、ユダヤ人も異邦人も指導者とともに乱暴を働いたとあるように、国籍、民族、身分に関わりなく信じる者もいれば反対する者もいたのです。究極的には、誰であれ神に仕えるのか、それとも悪魔に仕えるのかの二者択一を問われているのです。神に仕えるとはイエスに従うことです。そしてイエスに従えば、反対する人にも直面するのです。しかし主を頼みとして愛と忍耐を持って勇敢にイエスを紹介し続けるなら、そこに主ご自身が働いて下さいます。
話し合いのために
1) どのような人が信じ、どのような人が反対しましたか?
2) 人々の悪意にあって、二人はどうしましたか?