<メッセージノート>
2013/8/11 使徒言行録 14:8-18
生ける神に立ち帰れ
A 癒しがもたらす誤解
1) いやされるのにふさわしい信仰?
リストラに、足の不自由な男が座っていた。生まれつき足が悪く、まだ一度も歩いたことがなかった。この人が、パウロの話すのを聞いていた。パウロは彼を見つめ、いやされるのにふさわしい信仰があるのを認め、「自分の足でまっすぐに立ちなさい」と大声で言った。すると、その人は躍り上がって歩きだした。(8-10)
2) 偶像礼拝のメカニズム
群衆はパウロの行ったことを見て声を張り上げ、リカオニアの方言で、「神々が人間の姿をとって、わたしたちのところにお降りになった」と言った。そして、バルナバを「ゼウス」と呼び、またおもに話す者であることから、パウロを「ヘルメス」と呼んだ。町の外にあったゼウスの神殿の祭司が、家の門の所まで雄牛数頭と花輪を運んで来て、群衆と一緒になって二人にいけにえを献げようとした。(11-13)
B 造られた神々ではなく創った神に従おう
1) 造られた神々
使徒たち、すなわちバルナバとパウロはこのことを聞くと、服を裂いて群衆の中へ飛び込んで行き、叫んで言った。「皆さん、なぜ、こんなことをするのですか。わたしたちも、あなたがたと同じ人間にすぎません。(14-15a)
2) 創った神
あなたがたが、このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、わたしたちは福音を告げ知らせているのです。この神こそ、天と地と海と、そしてその中にあるすべてのものを造られた方です。 神は過ぎ去った時代には、すべての国の人が思い思いの道を行くままにしておかれました。 しかし、神は御自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みをくださり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっているのです。」 こう言って、二人は、群衆が自分たちにいけにえを献げようとするのを、やっとやめさせることができた。(15b-18)
メッセージのポイント
癒しという信仰の出来事が、「偶像礼拝」という間違った態度を引き起こします。偶像礼拝は自分の持っていないものを持つ者や自分にできないことができる者を味方につけて自分の利益としよう、災いを避けよう、という行為のことです。人々は、パウロとバルナバが自分たちに利益をもたらすと思ったので、「神にしようと」したのです。それは私たちを創られた神が最も嫌われる行為です。神を信じるといっても、自分の利益を得るためであるなら、神を偶像におとしめていることになってしまいます。神は祈りや献金に応えて、私たちの願いを叶えてくれる方ではなく。御自身の愛に基づいて、私たちを幸せにしてくださる方です。幸せは求めて得られるものではなく、イエスに従って歩む人に与えられているものです。
話し合いのために
1) なぜ人々はバルナバとパウロを神に祭り上げようとしたのですか?
2) 偶像礼拝とは何ですか?
生ける神に立ち帰れ
A 癒しがもたらす誤解
1) いやされるのにふさわしい信仰?
リストラに、足の不自由な男が座っていた。生まれつき足が悪く、まだ一度も歩いたことがなかった。この人が、パウロの話すのを聞いていた。パウロは彼を見つめ、いやされるのにふさわしい信仰があるのを認め、「自分の足でまっすぐに立ちなさい」と大声で言った。すると、その人は躍り上がって歩きだした。(8-10)
2) 偶像礼拝のメカニズム
群衆はパウロの行ったことを見て声を張り上げ、リカオニアの方言で、「神々が人間の姿をとって、わたしたちのところにお降りになった」と言った。そして、バルナバを「ゼウス」と呼び、またおもに話す者であることから、パウロを「ヘルメス」と呼んだ。町の外にあったゼウスの神殿の祭司が、家の門の所まで雄牛数頭と花輪を運んで来て、群衆と一緒になって二人にいけにえを献げようとした。(11-13)
B 造られた神々ではなく創った神に従おう
1) 造られた神々
使徒たち、すなわちバルナバとパウロはこのことを聞くと、服を裂いて群衆の中へ飛び込んで行き、叫んで言った。「皆さん、なぜ、こんなことをするのですか。わたしたちも、あなたがたと同じ人間にすぎません。(14-15a)
2) 創った神
あなたがたが、このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、わたしたちは福音を告げ知らせているのです。この神こそ、天と地と海と、そしてその中にあるすべてのものを造られた方です。 神は過ぎ去った時代には、すべての国の人が思い思いの道を行くままにしておかれました。 しかし、神は御自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みをくださり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっているのです。」 こう言って、二人は、群衆が自分たちにいけにえを献げようとするのを、やっとやめさせることができた。(15b-18)
メッセージのポイント
癒しという信仰の出来事が、「偶像礼拝」という間違った態度を引き起こします。偶像礼拝は自分の持っていないものを持つ者や自分にできないことができる者を味方につけて自分の利益としよう、災いを避けよう、という行為のことです。人々は、パウロとバルナバが自分たちに利益をもたらすと思ったので、「神にしようと」したのです。それは私たちを創られた神が最も嫌われる行為です。神を信じるといっても、自分の利益を得るためであるなら、神を偶像におとしめていることになってしまいます。神は祈りや献金に応えて、私たちの願いを叶えてくれる方ではなく。御自身の愛に基づいて、私たちを幸せにしてくださる方です。幸せは求めて得られるものではなく、イエスに従って歩む人に与えられているものです。
話し合いのために
1) なぜ人々はバルナバとパウロを神に祭り上げようとしたのですか?
2) 偶像礼拝とは何ですか?
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<メッセージ全文>
2013/8/11 使徒言行録 14:8-18
生ける神に立ち帰れ
A 癒しがもたらす誤解
1) いやされるのにふさわしい信仰?
リストラに、足の不自由な男が座っていた。生まれつき足が悪く、まだ一度も歩いたことがなかった。この人が、パウロの話すのを聞いていた。パウロは彼を見つめ、いやされるのにふさわしい信仰があるのを認め、「自分の足でまっすぐに立ちなさい」と大声で言った。すると、その人は躍り上がって歩きだした。(8-10)
福音書にはイエスが癒された事が多く記されていますが、使徒言行録には弟子たちによる癒しが多く記されています。今日は癒しそのものについてではなく、癒しの出来事が偶像礼拝につながる危険を中心にお話しますが、その前に一つだけ、今読んだ部分の「癒されるにふさわしい信仰」とはどういうものかということに触れておきたいと思います。それが信仰のレベルによって、癒される資格があるとか、ないとかいうものではないということに注意したいと思います。旅行中に出席した教会に有名な聖書神学者がいらっしゃいました。あとで話をする機会があり、癒しの話になった時に、「私は癒しの祈りは嫌いです」と言われるのでびっくりして理由を尋ねると、「もし癒されなかったら、祈った方か、祈られた方の信仰が足りないことになってしまうから」というのです。きっと前に、祈ったか祈られたかした時、すぐに癒されることなくがっかりした経験があったのだと思います。イエスは、その人の信仰のあるなしに関わらず、ただ憐れみによって癒されました。また祈る人の信仰の強さ弱さによるのなら、それは神の癒しではなく、祈る人の超能力ということになってしまいます。確かに「癒しの賜物」という言葉があるように、特別に癒しの働きに用いられるために能力を与えられた人もいますが、それは、神からの賜物であって、その人の信仰の優劣、強弱ではありません。ここでパウロが癒されるにふさわしい信仰と言っているのは、心からの期待、願い、信頼ということです。この男は恐らく初めてイエスのことを聞いたのです。私たちが普通使う意味での信仰はまだ持ってはいなかったのです。それは、聖書をよく読んだことがなくても、イエスがなさったことや十字架と復活の出来事を聞いて、期待することは出来るということです。あなたはイエスに期待していますか? 私たちユアチャーチは神がいやして下さるということを信じて祈ります。癒しが即座に起こることもあれば、時間がかかることもあります。あるいは変わらないということもあるのです。どのような形で神が応えてくださるかはわかりませんが、神がもっとも良いことをして下さると信頼しているのです。「癒されるにふさわしい信仰」とは「信頼し、期待する心」です。
2) 偶像礼拝のメカニズム
群衆はパウロの行ったことを見て声を張り上げ、リカオニアの方言で、「神々が人間の姿をとって、わたしたちのところにお降りになった」と言った。そして、バルナバを「ゼウス」と呼び、またおもに話す者であることから、パウロを「ヘルメス」と呼んだ。町の外にあったゼウスの神殿の祭司が、家の門の所まで雄牛数頭と花輪を運んで来て、群衆と一緒になって二人にいけにえを献げようとした。(11-13)
ここはギリシャ文化圏の町です。ギリシャ神話の神々の名は様々な現代の言葉の語源になっていて、きっとそれと気づかないで使っている言葉もあるはずです。ここでパウロとバルナバを見て、人の姿をとって現れた神とされたのはゼウスとヘルメスと言って数え切れないほどのギリシャ神話の神々の中でも、中心的なオリュンポスの12神のナンバーワン「ゼウス」とその息子「ヘルメス」です。ゼウスはナンバーワンと言っても、全ての神の始祖というわけではなく、やはり神である父母の間に産まれた神で、人間の女性との間にも子供を設けたりする訳のわからない神で、その息子ヘルメスに至っては産まれたばかりの時に牛泥棒をしたので、泥棒の守護人にもなっている、口数の多い神とされていました。人々がパウロたちを神々だとしたのは、この町に近いフリギア地方に人としてゼウスとヘルメスが現れて、それとは知らずもてなした人が報いを受けたという神話(Ovidius 変身物語 Metamorphoses に紹介されている)が知られていたからです。つまりいけにえを捧げようとしたのは、自分たちも、二人をもてなせば何か益を得られると思ったからです。それは最初に癒された人の信頼と期待とは全く違う、自己中心的な欲望からの行動でした。これが偶像礼拝の正体です。人々は癒しという信仰の出来事を、「偶像礼拝」という間違った態度で受け取ったのです。偶像礼拝は自分の持っていないものを持つ者や自分にできないことができる者を味方につけて自分の利益としよう、災いを避けよう、という行為のことです。それは私たちを創られた神が最も嫌われる行為です。神を信じるといっても、自分の利益を得るためであるなら、神を偶像におとしめていることになってしまいます。私たちはイエスの弟子をさえ偶像にしてしまう、教会の建物やそこにいるリーダーや儀式をも偶像にしてしまう危険を持った者です。この誘惑から守っていただけるように祈り続ける必要があります。神は祈りや献金に応えて、私たちの願いを叶えてくれる方ではなく、御自身の愛に基づいて、私たちを幸せにしてくださる方です。幸せは求めて得られるものではなく、イエスに従って歩む人に与えられているものなのです。
B 造られた神々ではなく創った神に従おう
1) 造られた神々
使徒たち、すなわちバルナバとパウロはこのことを聞くと、服を裂いて群衆の中へ飛び込んで行き、叫んで言った。「皆さん、なぜ、こんなことをするのですか。わたしたちも、あなたがたと同じ人間にすぎません。(14-15a)
あなたが偶像礼拝に陥った時に、バルナバたちのように偶像の方から「私を拝んではいけません、私はあなたが拝むべき神ではありません」といってくれたら偶像礼拝の心配はなくなるのですが、彼らのように神に仕えているというはっきりとした自覚のない人にとっては、アイドルとされることは嬉しいことなので、むしろもっと捧げることを求めるのです。また人の手で作られた何かを拝むことは、作った者に捧げるということになります。よく、この投資は絶対儲かるという話に乗って詐欺に合うという事件が起こりますが、人が絶対儲かる話を持ってくるというところで疑わなけれならないのです。本当に儲かるなら、その人は自分でお金を借りても自分で投資します。他人に美味しい話を持ちかけるわけがありません。持ちかけるのは自分にとって都合がいいからに過ぎません。じつは魂についても同じことが起こっています。この神を信じて献金すれば、お金持ちになれますよ、入学試験に合格出来ますよ、結婚出来ますよ、長生き出来ますよ、ぽっくり死ねますよ、元気な赤ちゃんが生まれますよ。献金すればするほど恵まれますよ。このような宣伝であなたを誘うのは本当の神の声ではなく、創られた神々の口に取り付けられたスピーカーを通して、ワイヤレスマイクで見えないところから呼びかける誰かの声です。もちろんその誰かの背後では、あなたを真の神に近づけまいと、サタンが必死な応援をしているに違いありません。残念なことに、キリスト教の中にも、偶像礼拝的な仕組みを持ち込んでしまった人々がいます。彼らは「私の教会に、団体に捧げれば捧げるほどあなたは繁栄する」と教えます。本当の神はそんな約束をしてはいません、私たちと取引はなさいません。ただ、従って来なさいといわれるのです。
2) 創った神
あなたがたが、このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、わたしたちは福音を告げ知らせているのです。この神こそ、天と地と海と、そしてその中にあるすべてのものを造られた方です。 神は過ぎ去った時代には、すべての国の人が思い思いの道を行くままにしておかれました。 しかし、神は御自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みをくださり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっているのです。」 こう言って、二人は、群衆が自分たちにいけにえを献げようとするのを、やっとやめさせることができた。(15b-18)
ここで立ち帰れと勧められているのはユダヤ人ではなく異邦人です。今まで聖書の神を知らなかった人にとっても、聖書の神を信じることは、新しいことをするのではなく、人間の元々の姿に戻ることだというのです。それは罪を犯す前のアダムとエヴァの状態です。この国では、神に立ち帰りましょうと勧めたら、大抵の人は、聖書の神のところにいたことも、そこから離れたこともない、私は元々無神論者、あるいは〇〇教の信者です、というでしょう。しかし全ての人にとって、イエスを信じることは、自分の元の姿、神が私たちを創られたオリジナルの姿に戻ることなのです。パウロは、なぜイエスを信じることが、本来の自分に戻ることなのかということこの部分で説明して、やっと自分たちに犠牲を捧げることをやめさせることができました。
パウロは、「この世界を創られたただ一人の神がおられるのです。神は、今までは御自身を積極的に表されようとはせずに、自然を通して恵みや喜びを与えてきたので、皆さんは偶像のおかげと思っているかもしれないけれど、本当は誰かが考えて作った偶像がそうしてくれたわけではないんだよ。」といっているわけです。人生には二種類の生き方しかありません。偶像礼拝的な生き方か、まことの神を礼拝する生き方です。偶像も神も拝まないということはありえません。それは、自分を礼拝するという偶像礼拝の一種に過ぎないからです。まことの神に従わない限り、虚しい偶像礼拝から離れることはできません。それはあなたにとって快適だと思われるかもしれませんが、実態はすべてを吸い取られて、最後に棄てられる恐ろしいシステムです。イエス・キリストはそこから私たちを解放するために、この世界に来られ、生き、教え、癒し、自分が死の苦しみを引き受けて私たちの罪を赦しました。よみがえられて、今も導きを与えてくださいます。私たちが本当の自分に帰るために、自分では得る方法のなかったヴィザを用意して、さあ私のもとに帰っておいでと招いて下さっているのです。さあ、私たちを創られた真の神に立ち帰りましょう。「偶像を離れて、生ける神に立ち帰りなさい」、それは一度もイエスに従ったことのない人にも、信じたつもりだったのについて行くことをやめてしまった人にも勧められている招きの言葉です。そして、従っているつもりなのに、いつの間にか何かを偶像にしてしまう私たちにも語りかけられている言葉です。
メッセージのポイント
癒しという信仰の出来事が、「偶像礼拝」という間違った態度を引き起こします。偶像礼拝は自分の持っていないものを持つ者や自分にできないことができる者を味方につけて自分の利益としよう、災いを避けよう、という行為のことです。人々は、パウロとバルナバが自分たちに利益をもたらすと思ったので、「神にしようと」したのです。それは私たちを創られた神が最も嫌われる行為です。神を信じるといっても、自分の利益を得るためであるなら、神を偶像におとしめていることになってしまいます。神は祈りや献金に応えて、私たちの願いを叶えてくれる方ではなく。御自身の愛に基づいて、私たちを幸せにしてくださる方です。幸せは求めて得られるものではなく、イエスに従って歩む人に与えられているものです。
話し合いのために
1) なぜ人々はバルナバとパウロを神に祭り上げようとしたのですか?
2) 偶像礼拝とは何ですか?
生ける神に立ち帰れ
A 癒しがもたらす誤解
1) いやされるのにふさわしい信仰?
リストラに、足の不自由な男が座っていた。生まれつき足が悪く、まだ一度も歩いたことがなかった。この人が、パウロの話すのを聞いていた。パウロは彼を見つめ、いやされるのにふさわしい信仰があるのを認め、「自分の足でまっすぐに立ちなさい」と大声で言った。すると、その人は躍り上がって歩きだした。(8-10)
福音書にはイエスが癒された事が多く記されていますが、使徒言行録には弟子たちによる癒しが多く記されています。今日は癒しそのものについてではなく、癒しの出来事が偶像礼拝につながる危険を中心にお話しますが、その前に一つだけ、今読んだ部分の「癒されるにふさわしい信仰」とはどういうものかということに触れておきたいと思います。それが信仰のレベルによって、癒される資格があるとか、ないとかいうものではないということに注意したいと思います。旅行中に出席した教会に有名な聖書神学者がいらっしゃいました。あとで話をする機会があり、癒しの話になった時に、「私は癒しの祈りは嫌いです」と言われるのでびっくりして理由を尋ねると、「もし癒されなかったら、祈った方か、祈られた方の信仰が足りないことになってしまうから」というのです。きっと前に、祈ったか祈られたかした時、すぐに癒されることなくがっかりした経験があったのだと思います。イエスは、その人の信仰のあるなしに関わらず、ただ憐れみによって癒されました。また祈る人の信仰の強さ弱さによるのなら、それは神の癒しではなく、祈る人の超能力ということになってしまいます。確かに「癒しの賜物」という言葉があるように、特別に癒しの働きに用いられるために能力を与えられた人もいますが、それは、神からの賜物であって、その人の信仰の優劣、強弱ではありません。ここでパウロが癒されるにふさわしい信仰と言っているのは、心からの期待、願い、信頼ということです。この男は恐らく初めてイエスのことを聞いたのです。私たちが普通使う意味での信仰はまだ持ってはいなかったのです。それは、聖書をよく読んだことがなくても、イエスがなさったことや十字架と復活の出来事を聞いて、期待することは出来るということです。あなたはイエスに期待していますか? 私たちユアチャーチは神がいやして下さるということを信じて祈ります。癒しが即座に起こることもあれば、時間がかかることもあります。あるいは変わらないということもあるのです。どのような形で神が応えてくださるかはわかりませんが、神がもっとも良いことをして下さると信頼しているのです。「癒されるにふさわしい信仰」とは「信頼し、期待する心」です。
2) 偶像礼拝のメカニズム
群衆はパウロの行ったことを見て声を張り上げ、リカオニアの方言で、「神々が人間の姿をとって、わたしたちのところにお降りになった」と言った。そして、バルナバを「ゼウス」と呼び、またおもに話す者であることから、パウロを「ヘルメス」と呼んだ。町の外にあったゼウスの神殿の祭司が、家の門の所まで雄牛数頭と花輪を運んで来て、群衆と一緒になって二人にいけにえを献げようとした。(11-13)
ここはギリシャ文化圏の町です。ギリシャ神話の神々の名は様々な現代の言葉の語源になっていて、きっとそれと気づかないで使っている言葉もあるはずです。ここでパウロとバルナバを見て、人の姿をとって現れた神とされたのはゼウスとヘルメスと言って数え切れないほどのギリシャ神話の神々の中でも、中心的なオリュンポスの12神のナンバーワン「ゼウス」とその息子「ヘルメス」です。ゼウスはナンバーワンと言っても、全ての神の始祖というわけではなく、やはり神である父母の間に産まれた神で、人間の女性との間にも子供を設けたりする訳のわからない神で、その息子ヘルメスに至っては産まれたばかりの時に牛泥棒をしたので、泥棒の守護人にもなっている、口数の多い神とされていました。人々がパウロたちを神々だとしたのは、この町に近いフリギア地方に人としてゼウスとヘルメスが現れて、それとは知らずもてなした人が報いを受けたという神話(Ovidius 変身物語 Metamorphoses に紹介されている)が知られていたからです。つまりいけにえを捧げようとしたのは、自分たちも、二人をもてなせば何か益を得られると思ったからです。それは最初に癒された人の信頼と期待とは全く違う、自己中心的な欲望からの行動でした。これが偶像礼拝の正体です。人々は癒しという信仰の出来事を、「偶像礼拝」という間違った態度で受け取ったのです。偶像礼拝は自分の持っていないものを持つ者や自分にできないことができる者を味方につけて自分の利益としよう、災いを避けよう、という行為のことです。それは私たちを創られた神が最も嫌われる行為です。神を信じるといっても、自分の利益を得るためであるなら、神を偶像におとしめていることになってしまいます。私たちはイエスの弟子をさえ偶像にしてしまう、教会の建物やそこにいるリーダーや儀式をも偶像にしてしまう危険を持った者です。この誘惑から守っていただけるように祈り続ける必要があります。神は祈りや献金に応えて、私たちの願いを叶えてくれる方ではなく、御自身の愛に基づいて、私たちを幸せにしてくださる方です。幸せは求めて得られるものではなく、イエスに従って歩む人に与えられているものなのです。
B 造られた神々ではなく創った神に従おう
1) 造られた神々
使徒たち、すなわちバルナバとパウロはこのことを聞くと、服を裂いて群衆の中へ飛び込んで行き、叫んで言った。「皆さん、なぜ、こんなことをするのですか。わたしたちも、あなたがたと同じ人間にすぎません。(14-15a)
あなたが偶像礼拝に陥った時に、バルナバたちのように偶像の方から「私を拝んではいけません、私はあなたが拝むべき神ではありません」といってくれたら偶像礼拝の心配はなくなるのですが、彼らのように神に仕えているというはっきりとした自覚のない人にとっては、アイドルとされることは嬉しいことなので、むしろもっと捧げることを求めるのです。また人の手で作られた何かを拝むことは、作った者に捧げるということになります。よく、この投資は絶対儲かるという話に乗って詐欺に合うという事件が起こりますが、人が絶対儲かる話を持ってくるというところで疑わなけれならないのです。本当に儲かるなら、その人は自分でお金を借りても自分で投資します。他人に美味しい話を持ちかけるわけがありません。持ちかけるのは自分にとって都合がいいからに過ぎません。じつは魂についても同じことが起こっています。この神を信じて献金すれば、お金持ちになれますよ、入学試験に合格出来ますよ、結婚出来ますよ、長生き出来ますよ、ぽっくり死ねますよ、元気な赤ちゃんが生まれますよ。献金すればするほど恵まれますよ。このような宣伝であなたを誘うのは本当の神の声ではなく、創られた神々の口に取り付けられたスピーカーを通して、ワイヤレスマイクで見えないところから呼びかける誰かの声です。もちろんその誰かの背後では、あなたを真の神に近づけまいと、サタンが必死な応援をしているに違いありません。残念なことに、キリスト教の中にも、偶像礼拝的な仕組みを持ち込んでしまった人々がいます。彼らは「私の教会に、団体に捧げれば捧げるほどあなたは繁栄する」と教えます。本当の神はそんな約束をしてはいません、私たちと取引はなさいません。ただ、従って来なさいといわれるのです。
2) 創った神
あなたがたが、このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、わたしたちは福音を告げ知らせているのです。この神こそ、天と地と海と、そしてその中にあるすべてのものを造られた方です。 神は過ぎ去った時代には、すべての国の人が思い思いの道を行くままにしておかれました。 しかし、神は御自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みをくださり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっているのです。」 こう言って、二人は、群衆が自分たちにいけにえを献げようとするのを、やっとやめさせることができた。(15b-18)
ここで立ち帰れと勧められているのはユダヤ人ではなく異邦人です。今まで聖書の神を知らなかった人にとっても、聖書の神を信じることは、新しいことをするのではなく、人間の元々の姿に戻ることだというのです。それは罪を犯す前のアダムとエヴァの状態です。この国では、神に立ち帰りましょうと勧めたら、大抵の人は、聖書の神のところにいたことも、そこから離れたこともない、私は元々無神論者、あるいは〇〇教の信者です、というでしょう。しかし全ての人にとって、イエスを信じることは、自分の元の姿、神が私たちを創られたオリジナルの姿に戻ることなのです。パウロは、なぜイエスを信じることが、本来の自分に戻ることなのかということこの部分で説明して、やっと自分たちに犠牲を捧げることをやめさせることができました。
パウロは、「この世界を創られたただ一人の神がおられるのです。神は、今までは御自身を積極的に表されようとはせずに、自然を通して恵みや喜びを与えてきたので、皆さんは偶像のおかげと思っているかもしれないけれど、本当は誰かが考えて作った偶像がそうしてくれたわけではないんだよ。」といっているわけです。人生には二種類の生き方しかありません。偶像礼拝的な生き方か、まことの神を礼拝する生き方です。偶像も神も拝まないということはありえません。それは、自分を礼拝するという偶像礼拝の一種に過ぎないからです。まことの神に従わない限り、虚しい偶像礼拝から離れることはできません。それはあなたにとって快適だと思われるかもしれませんが、実態はすべてを吸い取られて、最後に棄てられる恐ろしいシステムです。イエス・キリストはそこから私たちを解放するために、この世界に来られ、生き、教え、癒し、自分が死の苦しみを引き受けて私たちの罪を赦しました。よみがえられて、今も導きを与えてくださいます。私たちが本当の自分に帰るために、自分では得る方法のなかったヴィザを用意して、さあ私のもとに帰っておいでと招いて下さっているのです。さあ、私たちを創られた真の神に立ち帰りましょう。「偶像を離れて、生ける神に立ち帰りなさい」、それは一度もイエスに従ったことのない人にも、信じたつもりだったのについて行くことをやめてしまった人にも勧められている招きの言葉です。そして、従っているつもりなのに、いつの間にか何かを偶像にしてしまう私たちにも語りかけられている言葉です。
メッセージのポイント
癒しという信仰の出来事が、「偶像礼拝」という間違った態度を引き起こします。偶像礼拝は自分の持っていないものを持つ者や自分にできないことができる者を味方につけて自分の利益としよう、災いを避けよう、という行為のことです。人々は、パウロとバルナバが自分たちに利益をもたらすと思ったので、「神にしようと」したのです。それは私たちを創られた神が最も嫌われる行為です。神を信じるといっても、自分の利益を得るためであるなら、神を偶像におとしめていることになってしまいます。神は祈りや献金に応えて、私たちの願いを叶えてくれる方ではなく。御自身の愛に基づいて、私たちを幸せにしてくださる方です。幸せは求めて得られるものではなく、イエスに従って歩む人に与えられているものです。
話し合いのために
1) なぜ人々はバルナバとパウロを神に祭り上げようとしたのですか?
2) 偶像礼拝とは何ですか?