<メッセージノート>

2013/08/18 使徒言行録 14:19-28
あなたのアンティオキアに戻る

A 主に任せる


1) 苦しみを伴う恵み
ところが、ユダヤ人たちがアンティオキアとイコニオンからやって来て、群衆を抱き込み、パウロに石を投げつけ、死んでしまったものと思って、町の外へ引きずり出した。しかし、弟子たちが周りを取り囲むと、パウロは起き上がって町に入って行った。そして翌日、バルナバと一緒にデルベへ向かった。(19,20)

2) 長老を任命する
二人はこの町で福音を告げ知らせ、多くの人を弟子にしてから、リストラ、イコニオン、アンティオキアへと引き返しながら、弟子たちを力づけ、「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」と言って、信仰に踏みとどまるように励ました。また、弟子たちのため教会ごとに長老たちを任命し、断食して祈り、彼らをその信ずる主に任せた。(21-23)


B 送り出されたところに戻る

1) 母港としてのユアチャーチ
それから、二人はピシディア州を通り、パンフィリア州に至り、ペルゲで御言葉を語った後、アタリアに下り、そこからアンティオキアへ向かって船出した。そこは、二人が今成し遂げた働きのために神の恵みにゆだねられて送り出された所である。(24-26)

2) ここで得られること
到着するとすぐ教会の人々を集めて、神が自分たちと共にいて行われたすべてのことと、異邦人に信仰の門を開いてくださったことを報告した。そして、しばらくの間、弟子たちと共に過ごした。(27,28)

メッセージのポイント
このバルナバとパウロの旅は私たちの一週間の歩みに似ています。私たちもまた、ここから送り出されて与えられている務めを果たし、収穫と課題、充実と疲れをもってここに戻ってきます。そして新しい神の言葉、慰め、励まし、いやしを頂いて、その週の歩みを始めるのです。
また日々の働きについて知っておくべきことは、恵みには困難が伴うこと、神を信頼して自分は手を離し人に委ねることの大切さです。


話し合いのために
1) なぜ神の国に入るまでの苦しみについて伝えなければならなかったのですか?
2) アンティオキアに帰って何をする必要があったのでしょうか?

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<メッセージ全文>

2013/08/18 使徒言行録 14:19-28
あなたのアンティオキアに戻る

A 主に任せる


1) 苦しみを伴う恵み
ところが、ユダヤ人たちがアンティオキアとイコニオンからやって来て、群衆を抱き込み、パウロに石を投げつけ、死んでしまったものと思って、町の外へ引きずり出した。しかし、弟子たちが周りを取り囲むと、パウロは起き上がって町に入って行った。そして翌日、バルナバと一緒にデルベへ向かった。(19,20)

ついに恐ろしい事件が起こりました。先に訪問し、多くの人がイエスを喜んだためにパウロたちを迫害して追い出したアンティオキアとイコニオンのユダヤ人たちが160キロも離れたこの町までやってきて、町の人々を巻き込んでパウロを殺そうとしたのです。殺されて当然のダメージを受け、町の外に引きずり出されたパウロは、しかし生きていました。そして自分で立ち上がり再び町に入り、翌日になってからリストラを去るのです。死んだと思ったパウロが自分の足で歩いて再び町に入ってきたのを見た人々は、とても驚いたことでしょう。彼らはパウロが、神に守られて生きているということ、神が彼と共にいるということを恐ろしくさえ感じたのでしょう。だからパウロが翌朝、自分で立ち去ろうとする時まで傷付けたり追い出そうとする者は出なかったのです。この町だけではありませんが、当時イエスを紹介することは、ただ困難だというだけではなく身の危険を伴うほどのものだったのです。それは天皇が神だとされていた頃のこの国にもあったことです。しかし、この国の占領下にあった朝鮮半島のイエスに従う人々が、日本国内よりもさらに過酷な迫害に遭ったことも忘れてはいけません。この季節は、終戦や原爆投下を記念する時ですが、ここ数十年間で、その捉え方が悪い方向にシフトしてきています。日本は正しかった、周りの国々の受けた被害はたいしたことはなかった、アジアを解放するための正義の戦いだった、欧米に虐げられて戦うしかなかったと口にする人が首相なのです。みなさんの中にはここで政治の話をしてほしくないと思っている人もいるかもしれません。しかし私は政治ではなく、正義の話をしているのです。罪の世の中で神の正義を伝えようとすると反対を受けるのです。残念なことに、ドイツでも日本でも、迫害を受けた人々がいた一方で、はるかに多くの教会が迫害する側に回りました。身体を脅かされる状況で正義を貫くのは困難なことなのです。だから今のうちに、思想、信仰の自由を少しでも制限する企みに反対しなければならないのです。日本だけではありません。どんな理想を掲げる(共産主義、資本主義、イスラム国家)国でも、指導者は、国民は喜んで命を捨てるべきだと考える誘惑にさらされます。これを許すことは偶像礼拝です、犠牲を捧げろ、命を捧げろと要求する権利は神以外の誰にもないからです。民族主義、国家主義は偶像礼拝です。どんなに素晴らしいと思える国に住んでいると思っていても、神に属するものは皆、地上では旅人です。神の国より地上の国を愛するならそれは偶像礼拝です。偶像は犠牲を求めます。国を愛せ、民族を愛せという偶像の要求が、みんなが神の愛する子供であるはずの私たちを互いに殺しあう戦争に駆り立てるのです。この偶像礼拝を憎む人々は、反対者による苦しみを受けますが、国、地域、民族、性別、性的志向性の違いを超えて愛し合うことのできる本当に祝福された神の子供達なのです。神は偶像礼拝を憎む人と共におられます。

2) 長老を任命する
二人はこの町で福音を告げ知らせ、多くの人を弟子にしてから、リストラ、イコニオン、アンティオキアへと引き返しながら、弟子たちを力づけ、「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」と言って、信仰に踏みとどまるように励ました。また、弟子たちのため教会ごとに長老たちを任命し、断食して祈り、彼らをその信ずる主に任せた。(21-23)

二人の働きは、それぞれの町に主に従う者のグループを生み出しました。二人は、偽りの宗教が繁栄を約束して人を引き寄せるのとは正反対に、真理に従うなら困難が伴うことを率直に伝え、それでも神の国を目指して歩み続けるように勧めています。私たちもそのように励まされているのです。愛し続けましょう。それはとても困難なことだけれど、イエスがあなたと共におられるから、愛し続けましょう。困難だけれども慰めはあるのです。主に従う者のグループが今、教会と呼ばれています。教会は、愛するということの大切さを共有するグループです。聖書は大胆に「神は愛です」と宣言しています。教会は愛のために生き、死に、よみがえられた神、イエスキリストの体です。慰めはここにあります。
二人は人々を励ましただけではなく、それぞれにリーダーを任命しました。彼らには、そこをコントロールしたいという欲望はありませんでした。だからそのグループの中でふさわしい人を見出し、断食を伴うほど慎重に祈って、主に任せました。手を離したのです。トールキンの指輪物語が教えてくれているように、全てを自分のコントロールの下に置きたいという願望は誰にでもあります。しかしそれが神の計画を邪魔することになってしまうのです。真の信仰の勝利者は手にした指輪を捨てることの出来る者です。かつて素晴らしい恵みを経験した教会指導者たちが、手にした指輪を握りしめながら堕落していく姿を見ることができます。しかし、それは教会のリーダーだけに当てはまるものではありません。仲間をコントロールしたい、子どもをコントロールしたい、配偶者をコントロールしたい。私たちには誰にでも大なり小なり握りしめていたいものがあります。一旦、手にした指輪を手放すことは困難です。しかし手を離さないことは神を信頼していないということです。厄介なことに、やっとのことで指輪を手放すことができた人でも、いつの間にか、また新たな指輪を握りしめているということが起こります。イエスを紹介するという私たちの働きは、決して自分がコントロールできる人々を増やすということではありません。イエスに人生を委ねる人々を増やす働きです。イエスの生きた時代の宗教指導者たちは、人に指輪を手放すことを勧めておきながら、その人が手放した指輪を自分の手の内に持ち続けていたので、イエスに厳しく非難されました。今でも多くの教会が同じ過ちを繰り返します。どうかユアチャーチのために祈って下さい。私たちが指輪を騙し取り、握りしめて離さないようなものにならないように。神から来る本当の慰めを提供し続けることができるように祈って下さい。


B 送り出されたところに戻る

1) 母港としてのユアチャーチ
それから、二人はピシディア州を通り、パンフィリア州に至り、ペルゲで御言葉を語った後、アタリアに下り、そこからアンティオキアへ向かって船出した。そこは、二人が今成し遂げた働きのために神の恵みにゆだねられて送り出された所である。(24-26)

半年をかけた長い旅は、彼らを送り出したアンティオキアに戻って終わります。いろいろな説がありますが47年頃のことです。私たちはこの旅を、自分たちの一週間の歩みに例えることができます。ユアチャーチが私たちのアンティオキアです。ここで私たちは共に礼拝を献げ、互いに祈り合い、聖書の言葉を食べ、軽いランチを食べて、一週間の航海へ送り出されます。出てゆくところは皆違うけれども、目的は同じです。愛するためにイエスとともに出てゆきます。私たちはここで、旅に必要な食料や水、航海の知恵を得て出てゆきます。十分な準備なしに旅に出れば目的を果たせないばかりか、命の危険さえ招きかねません。一週間の魂の旅に必要な物は何でしょう? 神の愛、イエスの言葉、聖霊に満たされることです。お互いの旅の経験をシェアして知恵や勇気を得ることです。昔の旅人に比べれば私たちはずっと恵まれています。旅の途中でも、LINEやSkipeやFaceTimeで祈りあったり情報交換することが出来るのですから。それにしても、週のはじめに十分な準備をしておくに越したことはありません。それが週のはじめに共に集う理由です。日曜日の礼拝は義務ではなく、水や空気のように、私たちの魂が元気でいるための必要なものなのです。今週は元気だから、礼拝はやめておこうと考えることがある人に一つ警告をしておきたいと思います。皆さんは、車のガソリンが半分以下になるとすぐにスタンドに行きたくなるタイプですか?それとも、黄色い警告灯がついてもあと50キロは走るよと考えてなかなかスタンドに近づかないタイプでしょうか?iPhoneの電池の残量についても同じなのですが、私は後者のタイプです。東北の大地震の時、それが災いしました。関東地方でもガソリンの供給が止まってしまった時に、ちょうど黄色いランプが点灯してからだいぶ経っていたのです。お陰で、ほとんどタンクが空の車をガスステーションに停めて、朝から晩までタンクローリーが来るのを待たなければなりませんでした。ですから魂の燃料も、黄色いランプが付く前に、大丈夫だと思っても定期的にガスステーションつまりユアチャーチで満タンにしておくことをお勧めしておきたいと思います。


2) ここで得られること
到着するとすぐ教会の人々を集めて、神が自分たちと共にいて行われたすべてのことと、異邦人に信仰の門を開いてくださったことを報告した。そして、しばらくの間、弟子たちと共に過ごした。(27,28)

イエスに従う者の特権の一つは魂のガスステーションを持っているということです。何度も繰り返しますが、それはこの建物を意味するのではありません。この人間関係を意味しています。ですから魂のガスステーションが日曜日にしか開いていないと考えるのは誤解です。イエスは、信じる者が二人でも三人でもいるところに私もいると約束してくださった方です。日曜日のようなフルサーヴィスは受けられないにしても必要な物は手に入ります。このガスステーションで供給される燃料は何があっても尽きることがありません。パウロとバルナバは、このあと自分たちの経験を分かち合い、一年以上にわたってアンティオキアに留まったようです。ここから、この人間関係の中で時を共に過ごすことの大切さを教えられます。お話ししてきたようにここで私たちは必要不可欠な多くのものを得ることが出来るのです。しかし私たちの人生の本質は旅です。神は、わたしたちがこの中でだけ愛しあうことを願ってはおられません。出て行って愛することが神の願いです。それでも私たちが、このキリストの体の中の人間関係を大切にするのは、それなしには出て行って愛することが不可能だからです。神を愛していなければ、互いに愛し合うことはできません。私達が互いに愛し合うことがないなら、出て行って愛することはできないということです。狭いこの国ではあまりないことですが、大きな国の田舎道をドライブしていると、「この先100キロはガスステーションがありませんここで入れておきましょう」といった看板を見ることがあります。本当にガソリンが無くなって路肩に止まってしまった車を見ることもあります。そうすれば、通りかかった誰かに分けてもらうしかないわけです。あなたは、そのような人に魂のガソリンを分けてあげることが出来るのです。それはあなたが、ただユアチャーチというガスステーションの利用者なのではなく、ここでタップリと神の愛を積み込んだタンクローリーのように出て行って人々の必要を満たす「移動ガスステーション」であるということです。それをもっと聖書的に言うなら、あなたは、現代の良いサマリア人だということです。

メッセージのポイント
このバルナバとパウロの旅は私たちの一週間の歩みに似ています。私たちもまた、ここから送り出されて与えられている務めを果たし、収穫と課題、充実と疲れをもってここに戻ってきます。そして新しい神の言葉、慰め、励まし、いやしを頂いて、その週の歩みを始めるのです。
また日々の働きについて知っておくべきことは、恵みには困難が伴うこと、神を信頼して自分は手を離し人に委ねることの大切さです。


話し合いのために
1) なぜ神の国に入るまでの苦しみについて伝えなければならなかったのですか?
2) アンティオキアに帰って何をする必要があったのでしょうか?