<メッセージノート>
2013/08/25 使徒言行録 15:1-35
エルサレム会議
1) 忍び込む律法主義
ある人々がユダヤから下って来て、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と兄弟たちに教えていた。それで、パウロやバルナバとその人たちとの間に、激しい意見の対立と論争が生じた。この件について使徒や長老たちと協議するために、パウロとバルナバ、そのほか数名の者がエルサレムへ上ることに決まった。さて、一行は教会の人々から送り出されて、フェニキアとサマリア地方を通り、道すがら、兄弟たちに異邦人が改宗した次第を詳しく伝え、皆を大いに喜ばせた。エルサレムに到着すると、彼らは教会の人々、使徒たち、長老たちに歓迎され、神が自分たちと共にいて行われたことを、ことごとく報告した。ところが、ファリサイ派から信者になった人が数名立って、「異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきだ」と言った。(1-5)
2) 教会会議の開催
そこで、使徒たちと長老たちは、この問題について協議するために集まった。議論を重ねた後、ペトロが立って彼らに言った。「兄弟たち、ご存じのとおり、ずっと以前に、神はあなたがたの間でわたしをお選びになりました。それは、異邦人が、わたしの口から福音の言葉を聞いて信じるようになるためです。人の心をお見通しになる神は、わたしたちに与えてくださったように異邦人にも聖霊を与えて、彼らをも受け入れられたことを証明なさったのです。また、彼らの心を信仰によって清め、わたしたちと彼らとの間に何の差別をもなさいませんでした。それなのに、なぜ今あなたがたは、先祖もわたしたちも負いきれなかった軛を、あの弟子たちの首に懸けて、神を試みようとするのですか。わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じことです。」すると全会衆は静かになり、バルナバとパウロが、自分たちを通して神が異邦人の間で行われた、あらゆるしるしと不思議な業について話すのを聞いていた。(6-12)
3) この会議の意義
二人が話を終えると、ヤコブが答えた。「兄弟たち、聞いてください。神が初めに心を配られ、異邦人の中から御自分の名を信じる民を選び出そうとなさった次第については、シメオンが話してくれました。預言者たちの言ったことも、これと一致しています。次のように書いてあるとおりです。『「その後、わたしは戻って来て、倒れたダビデの幕屋を建て直す。その破壊された所を建て直して、元どおりにする。それは、人々のうちの残った者や、わたしの名で呼ばれる異邦人が皆、主を求めるようになるためだ。」昔から知らされていたことを行う主は、こう言われる。』それで、わたしはこう判断します。神に立ち帰る異邦人を悩ませてはなりません。ただ、偶像に供えて汚れた肉と、みだらな行いと、絞め殺した動物の肉と、血とを避けるようにと、手紙を書くべきです。モーセの律法は、昔からどの町にも告げ知らせる人がいて、安息日ごとに会堂で読まれているからです。」そこで、使徒たちと長老たちは、教会全体と共に、自分たちの中から人を選んで、パウロやバルナバと一緒にアンティオキアに派遣することを決定した。選ばれたのは、バルサバと呼ばれるユダおよびシラスで、兄弟たちの中で指導的な立場にいた人たちである。使徒たちは、次の手紙を彼らに託した。「使徒と長老たちが兄弟として、アンティオキアとシリア州とキリキア州に住む、異邦人の兄弟たちに挨拶いたします。聞くところによると、わたしたちのうちのある者がそちらへ行き、わたしたちから何の指示もないのに、いろいろなことを言って、あなたがたを騒がせ動揺させたとのことです。それで、人を選び、わたしたちの愛するバルナバとパウロとに同行させて、そちらに派遣することを、わたしたちは満場一致で決定しました。このバルナバとパウロは、わたしたちの主イエス・キリストの名のために身を献げている人たちです。それで、ユダとシラスを選んで派遣しますが、彼らは同じことを口頭でも説明するでしょう。聖霊とわたしたちは、次の必要な事柄以外、一切あなたがたに重荷を負わせないことに決めました。すなわち、偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けることです。以上を慎めばよいのです。健康を祈ります。」さて、彼ら一同は見送りを受けて出発し、アンティオキアに到着すると、信者全体を集めて手紙を手渡した。彼らはそれを読み、励ましに満ちた決定を知って喜んだ。ユダとシラスは預言する者でもあったので、いろいろと話をして兄弟たちを励まし力づけ、しばらくここに滞在した後、兄弟たちから送別の挨拶を受けて見送られ、自分たちを派遣した人々のところへ帰って行った。しかし、パウロとバルナバはアンティオキアにとどまって教え、他の多くの人と一緒に主の言葉の福音を告げ知らせた。(13-35)
メッセージのポイント
シンプルにイエスに従う者になることは簡単ではないようです。神様が人を作られてから十字架の時まで、長い時間私たちの中で保たれた罪の傾向は無くなることはありません。しかしその傾向を持っていることを知っているなら、完全にとはいきませんが、自分のではなく神さまの思いを行うことができます。私たちもそのことをよくわきまえていないと、ユアチャーチは神様に喜ばれない存在になってしまいます。
話し合いのために
1) なぜ会議を開くことになったのですか?
2) この会議の最大の成果は何ですか?
エルサレム会議
1) 忍び込む律法主義
ある人々がユダヤから下って来て、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と兄弟たちに教えていた。それで、パウロやバルナバとその人たちとの間に、激しい意見の対立と論争が生じた。この件について使徒や長老たちと協議するために、パウロとバルナバ、そのほか数名の者がエルサレムへ上ることに決まった。さて、一行は教会の人々から送り出されて、フェニキアとサマリア地方を通り、道すがら、兄弟たちに異邦人が改宗した次第を詳しく伝え、皆を大いに喜ばせた。エルサレムに到着すると、彼らは教会の人々、使徒たち、長老たちに歓迎され、神が自分たちと共にいて行われたことを、ことごとく報告した。ところが、ファリサイ派から信者になった人が数名立って、「異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきだ」と言った。(1-5)
2) 教会会議の開催
そこで、使徒たちと長老たちは、この問題について協議するために集まった。議論を重ねた後、ペトロが立って彼らに言った。「兄弟たち、ご存じのとおり、ずっと以前に、神はあなたがたの間でわたしをお選びになりました。それは、異邦人が、わたしの口から福音の言葉を聞いて信じるようになるためです。人の心をお見通しになる神は、わたしたちに与えてくださったように異邦人にも聖霊を与えて、彼らをも受け入れられたことを証明なさったのです。また、彼らの心を信仰によって清め、わたしたちと彼らとの間に何の差別をもなさいませんでした。それなのに、なぜ今あなたがたは、先祖もわたしたちも負いきれなかった軛を、あの弟子たちの首に懸けて、神を試みようとするのですか。わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じことです。」すると全会衆は静かになり、バルナバとパウロが、自分たちを通して神が異邦人の間で行われた、あらゆるしるしと不思議な業について話すのを聞いていた。(6-12)
3) この会議の意義
二人が話を終えると、ヤコブが答えた。「兄弟たち、聞いてください。神が初めに心を配られ、異邦人の中から御自分の名を信じる民を選び出そうとなさった次第については、シメオンが話してくれました。預言者たちの言ったことも、これと一致しています。次のように書いてあるとおりです。『「その後、わたしは戻って来て、倒れたダビデの幕屋を建て直す。その破壊された所を建て直して、元どおりにする。それは、人々のうちの残った者や、わたしの名で呼ばれる異邦人が皆、主を求めるようになるためだ。」昔から知らされていたことを行う主は、こう言われる。』それで、わたしはこう判断します。神に立ち帰る異邦人を悩ませてはなりません。ただ、偶像に供えて汚れた肉と、みだらな行いと、絞め殺した動物の肉と、血とを避けるようにと、手紙を書くべきです。モーセの律法は、昔からどの町にも告げ知らせる人がいて、安息日ごとに会堂で読まれているからです。」そこで、使徒たちと長老たちは、教会全体と共に、自分たちの中から人を選んで、パウロやバルナバと一緒にアンティオキアに派遣することを決定した。選ばれたのは、バルサバと呼ばれるユダおよびシラスで、兄弟たちの中で指導的な立場にいた人たちである。使徒たちは、次の手紙を彼らに託した。「使徒と長老たちが兄弟として、アンティオキアとシリア州とキリキア州に住む、異邦人の兄弟たちに挨拶いたします。聞くところによると、わたしたちのうちのある者がそちらへ行き、わたしたちから何の指示もないのに、いろいろなことを言って、あなたがたを騒がせ動揺させたとのことです。それで、人を選び、わたしたちの愛するバルナバとパウロとに同行させて、そちらに派遣することを、わたしたちは満場一致で決定しました。このバルナバとパウロは、わたしたちの主イエス・キリストの名のために身を献げている人たちです。それで、ユダとシラスを選んで派遣しますが、彼らは同じことを口頭でも説明するでしょう。聖霊とわたしたちは、次の必要な事柄以外、一切あなたがたに重荷を負わせないことに決めました。すなわち、偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けることです。以上を慎めばよいのです。健康を祈ります。」さて、彼ら一同は見送りを受けて出発し、アンティオキアに到着すると、信者全体を集めて手紙を手渡した。彼らはそれを読み、励ましに満ちた決定を知って喜んだ。ユダとシラスは預言する者でもあったので、いろいろと話をして兄弟たちを励まし力づけ、しばらくここに滞在した後、兄弟たちから送別の挨拶を受けて見送られ、自分たちを派遣した人々のところへ帰って行った。しかし、パウロとバルナバはアンティオキアにとどまって教え、他の多くの人と一緒に主の言葉の福音を告げ知らせた。(13-35)
メッセージのポイント
シンプルにイエスに従う者になることは簡単ではないようです。神様が人を作られてから十字架の時まで、長い時間私たちの中で保たれた罪の傾向は無くなることはありません。しかしその傾向を持っていることを知っているなら、完全にとはいきませんが、自分のではなく神さまの思いを行うことができます。私たちもそのことをよくわきまえていないと、ユアチャーチは神様に喜ばれない存在になってしまいます。
話し合いのために
1) なぜ会議を開くことになったのですか?
2) この会議の最大の成果は何ですか?
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<メッセージ全文>
2013/08/25 使徒言行録 15:1-35
エルサレム会議
2000年の教会の歴史の中には、大きな節目がいくつかあります。最もよく知られているのは約500年前の宗教改革ですが、今日取り上げる出来事はペンテコステで始まった教会の最初の大きな節目となる出来事でした。異邦人でもユダヤ教の律法の行いなしにイエス・キリストに従うということが出来るという事が確認された画期的な話し合いが、ヤコブ、ペテロといったエルサレム教会のリーダーたちとパウロ、バルナバなどのアンティオキア教会のリーダーとの間で持たれたのです。歴史家はこれをエルサレム会議と呼んでいます。紀元49年頃、今まで学んできたパウロの小アジアへの旅行直後のことで、イエスの十字架と復活の出来事から約20年後の出来事です。
1) 忍び込む律法主義
ある人々がユダヤから下って来て、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と兄弟たちに教えていた。それで、パウロやバルナバとその人たちとの間に、激しい意見の対立と論争が生じた。この件について使徒や長老たちと協議するために、パウロとバルナバ、そのほか数名の者がエルサレムへ上ることに決まった。さて、一行は教会の人々から送り出されて、フェニキアとサマリア地方を通り、道すがら、兄弟たちに異邦人が改宗した次第を詳しく伝え、皆を大いに喜ばせた。エルサレムに到着すると、彼らは教会の人々、使徒たち、長老たちに歓迎され、神が自分たちと共にいて行われたことを、ことごとく報告した。ところが、ファリサイ派から信者になった人が数名立って、「異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきだ」と言った。(1-5)
事の発端はアンティオキアにユダヤからやってきた人々が教えたことです。「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と教える彼らに、パウロとバルナバは激しく反対します。救われるという言葉を私たちは何気なく遣いますが、それは大変広い意味を持つ言葉です。ある人々にとっては、死後天国に行けるということを意味していますが、それは狭すぎる考え方です。今であろうと死後であろうと、神と正しい関係に置かれるということです。イエスは、モーセの慣習を救いの条件として人々に求めた当時の宗教家たちを非難して、神の目にかなうのは、決まりを守ることではなく、愛することだと教えたのです。そして、身をもって示した自分に従う事を救いの道として求められました。パウロは、イエスに出会うまでは、イエスの教えを伝える人々を迫害するガチガチの律法主義者でした。だから、イエスが神としか思えない仕方で現れて「パウロ、なぜあなたは私を迫害するのか?」(9:4)と呼びかけられた時、とても驚いたのです。自分は神の意志と信じて異端的な「イエス教」を取り締まって神に喜ばれていたと思っていたのに、イエスが神であることを知らされたからです。パウロはこの時、律法を強いることが、イエスを信じる者に対する迫害であるばかりでなく、イエスへの迫害、神に対する反逆だと分かり、生き方を180度転換することができたのです。ですから律法主義に対する態度はイエスと同様に徹底していました。ユダヤからやってきた人々の教えは、イエスの教えとは相容れないものだったのです。このパウロに指導されていたアンティオキアの教会はこの点で徹底していたはずでした。ここでは民族的にも、宗教的にも言葉の面でも様々な背景を持った人々が、ただイエスに従うという一点で一つとなってまとまっていたのです。しかし弱点はユダヤ教の背景を持っていた人々でした。彼らは他のどの人々よりも神についての知識を持っていたはずです。しかし同時にユダヤ教の慣習も自然なこととして身についていました。そして、神に選ばれた民であるという優越感も心のどこかに潜んでいたのでしょう。「割礼を受けなければ救われない」という教えは、すでにユダヤ教徒として割礼を受けていた彼らの優越感をくすぐりました。アンティオキアの霊的な一致は失われようとしていました。ユダヤからやってくる教師というのはアンティオキアの人々にしてみれば、権威ある教えをすると考えられがちで、影響を受けやすかったのです。そこでパウロとバルナバはエルサレムに乗り込んでいって、モーセの慣習に従わなければ救われないというのはエルサレム教会の公式見解ではない、という確約を取り付けようと思ったのです。
2) 教会会議の開催
そこで、使徒たちと長老たちは、この問題について協議するために集まった。議論を重ねた後、ペトロが立って彼らに言った。「兄弟たち、ご存じのとおり、ずっと以前に、神はあなたがたの間でわたしをお選びになりました。それは、異邦人が、わたしの口から福音の言葉を聞いて信じるようになるためです。人の心をお見通しになる神は、わたしたちに与えてくださったように異邦人にも聖霊を与えて、彼らをも受け入れられたことを証明なさったのです。また、彼らの心を信仰によって清め、わたしたちと彼らとの間に何の差別をもなさいませんでした。それなのに、なぜ今あなたがたは、先祖もわたしたちも負いきれなかった軛を、あの弟子たちの首に懸けて、神を試みようとするのですか。わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じことです。」すると全会衆は静かになり、バルナバとパウロが、自分たちを通して神が異邦人の間で行われた、あらゆるしるしと不思議な業について話すのを聞いていた。(6-12)
エルサレムの教会にも様々な意見がありました。「異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきだ」というのは極端な考えですが、大方は、律法の行いとイエスを信じる信仰とに矛盾を感じることのない人がほとんどだったようです。ペトロは自分の体験から、神が異邦人を分け隔てしないことは分かっていましたから、ユダヤ人の慣習を押し付けるべきではないという穏健な考えを披露します。当時の実質的なエルサレム教会のリーダーだったイエスの兄弟ヤコブも、これを支持した裁定を下しました。一つ注意しておかなければならない点は、この出来事についてパウロ自身が述べているガラテアの信徒への手紙とこの使徒言行録で重要な点で異なっているということです。パウロはガラテア2:6で、会議の結果として「わたしは、どんな義務も負わされなかった」「パウロは異邦人の使徒として認められた」と言っていますが、使徒言行録は、「一切あなたがたに重荷を負わせないことに決めました」といいながら「偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けること」という例外を設けています。実は、この部分はこの後、アンティオキアに戻ってからおこる「異邦人と一緒に食事をするのがいいのかどうか」論争のあとで出来たエルサレムの見解で、アンティオキアを離れたパウロの知らないところで定められたことだと考えられています。ルカは、それをここに付け加えているのです。そうでなけれな、パウロが納得して握手をして(ガラテア2)会議が終わったとは思えません。つまり、パウロが言うように、エルサレムは、アンティオキアに全く重荷を負わせないと決議したものの内心では、完全に納得できていたわけではなかったということです。それが、再びアンティオキアで起こるパウロがペトロに対して厳しく非難した事件となり、パウロとバルナバの対立の本当の原因だったのです。
3) この会議の意義
二人が話を終えると、ヤコブが答えた。「兄弟たち、聞いてください。神が初めに心を配られ、異邦人の中から御自分の名を信じる民を選び出そうとなさった次第については、シメオンが話してくれました。預言者たちの言ったことも、これと一致しています。次のように書いてあるとおりです。『「その後、わたしは戻って来て、倒れたダビデの幕屋を建て直す。その破壊された所を建て直して、元どおりにする。それは、人々のうちの残った者や、わたしの名で呼ばれる異邦人が皆、主を求めるようになるためだ。」昔から知らされていたことを行う主は、こう言われる。』それで、わたしはこう判断します。神に立ち帰る異邦人を悩ませてはなりません。ただ、偶像に供えて汚れた肉と、みだらな行いと、絞め殺した動物の肉と、血とを避けるようにと、手紙を書くべきです。モーセの律法は、昔からどの町にも告げ知らせる人がいて、安息日ごとに会堂で読まれているからです。」そこで、使徒たちと長老たちは、教会全体と共に、自分たちの中から人を選んで、パウロやバルナバと一緒にアンティオキアに派遣することを決定した。選ばれたのは、バルサバと呼ばれるユダおよびシラスで、兄弟たちの中で指導的な立場にいた人たちである。使徒たちは、次の手紙を彼らに託した。「使徒と長老たちが兄弟として、アンティオキアとシリア州とキリキア州に住む、異邦人の兄弟たちに挨拶いたします。聞くところによると、わたしたちのうちのある者がそちらへ行き、わたしたちから何の指示もないのに、いろいろなことを言って、あなたがたを騒がせ動揺させたとのことです。それで、人を選び、わたしたちの愛するバルナバとパウロとに同行させて、そちらに派遣することを、わたしたちは満場一致で決定しました。このバルナバとパウロは、わたしたちの主イエス・キリストの名のために身を献げている人たちです。それで、ユダとシラスを選んで派遣しますが、彼らは同じことを口頭でも説明するでしょう。聖霊とわたしたちは、次の必要な事柄以外、一切あなたがたに重荷を負わせないことに決めました。すなわち、偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けることです。以上を慎めばよいのです。健康を祈ります。」さて、彼ら一同は見送りを受けて出発し、アンティオキアに到着すると、信者全体を集めて手紙を手渡した。彼らはそれを読み、励ましに満ちた決定を知って喜んだ。ユダとシラスは預言する者でもあったので、いろいろと話をして兄弟たちを励まし力づけ、しばらくここに滞在した後、兄弟たちから送別の挨拶を受けて見送られ、自分たちを派遣した人々のところへ帰って行った。しかし、パウロとバルナバはアンティオキアにとどまって教え、他の多くの人と一緒に主の言葉の福音を告げ知らせた。(13-35)
会議の結果は、少なくとも表面的にはパウロの満足のできるものとなりました。異端者とされることなく、正統と認められた者として、律法の行いを要求するものを逆に異端として排斥することが出来るようになったのです。正統と異端とか、排斥という言葉を聞くと、なにか狭く、排他的で、否定的な響きを感じる方もいるかもしれませんが、このパウロの徹底が、イエスの福音を一種のユダヤ教という檻から救い出し、例外なしに、だれでも「主の名を呼び求めるものは救われる」ことを保証したのです。
それにしてもイエスが天に帰られて20年しか経っていないのに、イエスの良い知らせを、窮屈な律法に引き戻して変質させてしまうような考えが起きてきてしまうのでしょうか?それは、律法とか行いによって正しい者とされる、という考え方がいかに根強いかということを示しています。律法や行いによって救われるなら、律法や行いは偶像です。律法とか行いによって正しい者とされる、というには偶像礼拝の一種です。それは、目に見える像を拝むことよりもはるかに悪質で巧妙で陥りやすいものなのです。もしここで逆の結果が出ていたら、私たちはイエスを今でも知らなかったか、割礼を受けさせられていたか、うなぎやエビや親子丼は食べてはいけないと教会で教えていたかもしれません。いえ、事はもっと本質的で重大です。神の前に正しいとされるのは、行いか?信仰か?、信じるべきなのはイエスか?教会の伝統か?私たちの信仰の根幹に関わることなのです。この1500年後の宗教改革のテーマも同じです。私たちは常に、この問題で揺すぶられて、信仰の本質を見失う危険にさらされているということです。クリスチャンならこうでなければならない。こうしなければクリスチャンとはいえない。こう考えるならクリスチャンとはいえない。というような自分勝手な思い入れを、そのような言い方で振りまく、ユダヤからアンティオケアにやってきた偽教師は現代にも生まれ続けています。しかし一番の問題は、私たち一人一人の心のなかの「偽教師」の存在です。私たちの心のなかには「私は牧師として頑張っているから救われている(神の前に正しく歩んでいる)」というような優越感や「もっといいことをしたら神が喜んで下さるのだろうか?」「こんな事ができない私だから神様は満足していないに違いない」「とてもあんな立派なクリスチャンにはなれない」といった劣等感や「あの人は私のようにちゃんとやっていない」という人を裁く思いを起こさせ、私たちの心から神とともにいる喜びを奪おうとします。偽教師の背後にはもちろんサタンがいるのです。アンティオキアの教会は、バラエティーに富んだ様々な人々が、一見バラバラに見えても、実はイエスによって一致し、喜びにあふれた教会でした。それでいて、自分たちが富むことよりも与えること、助けること、伝えることを喜ぶ教会でした。偽教師たちの企みはエルサレム会議によって、食い止められたかに見えましたが、根深いこの問題は、ペトロが後にアンティオケアを訪ねた時に異邦人との会食を避けたことに対してパウロが非難する(ガラテア2:11) という出来事で再燃し、今度はバルナバまでもペトロに同調したので、アンティオキアの教会の雰囲気はすっかり変わってしまったことがうかがえます。私たちが喜びにあふれた教会で在り続けるために、心の偽教師に抵抗しなければなりません。神様は行ない、学歴、才能、国籍、民族、性別で私達を偏り見られません。
メッセージのポイント
シンプルにイエスに従う者になることは簡単ではないようです。神様が人を作られてから十字架の時まで、長い時間私たちの中で保たれた罪の傾向は無くなることはありません。しかしその傾向を持っていることを知っているなら、完全にとはいきませんが、自分のではなく神さまの思いを行うことができます。私たちもそのことをよくわきまえていないと、ユアチャーチは神様に喜ばれない存在になってしまいます。
話し合いのために
1) なぜ会議を開くことになったのですか?
2) この会議の最大の成果は何ですか?
エルサレム会議
2000年の教会の歴史の中には、大きな節目がいくつかあります。最もよく知られているのは約500年前の宗教改革ですが、今日取り上げる出来事はペンテコステで始まった教会の最初の大きな節目となる出来事でした。異邦人でもユダヤ教の律法の行いなしにイエス・キリストに従うということが出来るという事が確認された画期的な話し合いが、ヤコブ、ペテロといったエルサレム教会のリーダーたちとパウロ、バルナバなどのアンティオキア教会のリーダーとの間で持たれたのです。歴史家はこれをエルサレム会議と呼んでいます。紀元49年頃、今まで学んできたパウロの小アジアへの旅行直後のことで、イエスの十字架と復活の出来事から約20年後の出来事です。
1) 忍び込む律法主義
ある人々がユダヤから下って来て、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と兄弟たちに教えていた。それで、パウロやバルナバとその人たちとの間に、激しい意見の対立と論争が生じた。この件について使徒や長老たちと協議するために、パウロとバルナバ、そのほか数名の者がエルサレムへ上ることに決まった。さて、一行は教会の人々から送り出されて、フェニキアとサマリア地方を通り、道すがら、兄弟たちに異邦人が改宗した次第を詳しく伝え、皆を大いに喜ばせた。エルサレムに到着すると、彼らは教会の人々、使徒たち、長老たちに歓迎され、神が自分たちと共にいて行われたことを、ことごとく報告した。ところが、ファリサイ派から信者になった人が数名立って、「異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきだ」と言った。(1-5)
事の発端はアンティオキアにユダヤからやってきた人々が教えたことです。「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と教える彼らに、パウロとバルナバは激しく反対します。救われるという言葉を私たちは何気なく遣いますが、それは大変広い意味を持つ言葉です。ある人々にとっては、死後天国に行けるということを意味していますが、それは狭すぎる考え方です。今であろうと死後であろうと、神と正しい関係に置かれるということです。イエスは、モーセの慣習を救いの条件として人々に求めた当時の宗教家たちを非難して、神の目にかなうのは、決まりを守ることではなく、愛することだと教えたのです。そして、身をもって示した自分に従う事を救いの道として求められました。パウロは、イエスに出会うまでは、イエスの教えを伝える人々を迫害するガチガチの律法主義者でした。だから、イエスが神としか思えない仕方で現れて「パウロ、なぜあなたは私を迫害するのか?」(9:4)と呼びかけられた時、とても驚いたのです。自分は神の意志と信じて異端的な「イエス教」を取り締まって神に喜ばれていたと思っていたのに、イエスが神であることを知らされたからです。パウロはこの時、律法を強いることが、イエスを信じる者に対する迫害であるばかりでなく、イエスへの迫害、神に対する反逆だと分かり、生き方を180度転換することができたのです。ですから律法主義に対する態度はイエスと同様に徹底していました。ユダヤからやってきた人々の教えは、イエスの教えとは相容れないものだったのです。このパウロに指導されていたアンティオキアの教会はこの点で徹底していたはずでした。ここでは民族的にも、宗教的にも言葉の面でも様々な背景を持った人々が、ただイエスに従うという一点で一つとなってまとまっていたのです。しかし弱点はユダヤ教の背景を持っていた人々でした。彼らは他のどの人々よりも神についての知識を持っていたはずです。しかし同時にユダヤ教の慣習も自然なこととして身についていました。そして、神に選ばれた民であるという優越感も心のどこかに潜んでいたのでしょう。「割礼を受けなければ救われない」という教えは、すでにユダヤ教徒として割礼を受けていた彼らの優越感をくすぐりました。アンティオキアの霊的な一致は失われようとしていました。ユダヤからやってくる教師というのはアンティオキアの人々にしてみれば、権威ある教えをすると考えられがちで、影響を受けやすかったのです。そこでパウロとバルナバはエルサレムに乗り込んでいって、モーセの慣習に従わなければ救われないというのはエルサレム教会の公式見解ではない、という確約を取り付けようと思ったのです。
2) 教会会議の開催
そこで、使徒たちと長老たちは、この問題について協議するために集まった。議論を重ねた後、ペトロが立って彼らに言った。「兄弟たち、ご存じのとおり、ずっと以前に、神はあなたがたの間でわたしをお選びになりました。それは、異邦人が、わたしの口から福音の言葉を聞いて信じるようになるためです。人の心をお見通しになる神は、わたしたちに与えてくださったように異邦人にも聖霊を与えて、彼らをも受け入れられたことを証明なさったのです。また、彼らの心を信仰によって清め、わたしたちと彼らとの間に何の差別をもなさいませんでした。それなのに、なぜ今あなたがたは、先祖もわたしたちも負いきれなかった軛を、あの弟子たちの首に懸けて、神を試みようとするのですか。わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じことです。」すると全会衆は静かになり、バルナバとパウロが、自分たちを通して神が異邦人の間で行われた、あらゆるしるしと不思議な業について話すのを聞いていた。(6-12)
エルサレムの教会にも様々な意見がありました。「異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきだ」というのは極端な考えですが、大方は、律法の行いとイエスを信じる信仰とに矛盾を感じることのない人がほとんどだったようです。ペトロは自分の体験から、神が異邦人を分け隔てしないことは分かっていましたから、ユダヤ人の慣習を押し付けるべきではないという穏健な考えを披露します。当時の実質的なエルサレム教会のリーダーだったイエスの兄弟ヤコブも、これを支持した裁定を下しました。一つ注意しておかなければならない点は、この出来事についてパウロ自身が述べているガラテアの信徒への手紙とこの使徒言行録で重要な点で異なっているということです。パウロはガラテア2:6で、会議の結果として「わたしは、どんな義務も負わされなかった」「パウロは異邦人の使徒として認められた」と言っていますが、使徒言行録は、「一切あなたがたに重荷を負わせないことに決めました」といいながら「偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けること」という例外を設けています。実は、この部分はこの後、アンティオキアに戻ってからおこる「異邦人と一緒に食事をするのがいいのかどうか」論争のあとで出来たエルサレムの見解で、アンティオキアを離れたパウロの知らないところで定められたことだと考えられています。ルカは、それをここに付け加えているのです。そうでなけれな、パウロが納得して握手をして(ガラテア2)会議が終わったとは思えません。つまり、パウロが言うように、エルサレムは、アンティオキアに全く重荷を負わせないと決議したものの内心では、完全に納得できていたわけではなかったということです。それが、再びアンティオキアで起こるパウロがペトロに対して厳しく非難した事件となり、パウロとバルナバの対立の本当の原因だったのです。
3) この会議の意義
二人が話を終えると、ヤコブが答えた。「兄弟たち、聞いてください。神が初めに心を配られ、異邦人の中から御自分の名を信じる民を選び出そうとなさった次第については、シメオンが話してくれました。預言者たちの言ったことも、これと一致しています。次のように書いてあるとおりです。『「その後、わたしは戻って来て、倒れたダビデの幕屋を建て直す。その破壊された所を建て直して、元どおりにする。それは、人々のうちの残った者や、わたしの名で呼ばれる異邦人が皆、主を求めるようになるためだ。」昔から知らされていたことを行う主は、こう言われる。』それで、わたしはこう判断します。神に立ち帰る異邦人を悩ませてはなりません。ただ、偶像に供えて汚れた肉と、みだらな行いと、絞め殺した動物の肉と、血とを避けるようにと、手紙を書くべきです。モーセの律法は、昔からどの町にも告げ知らせる人がいて、安息日ごとに会堂で読まれているからです。」そこで、使徒たちと長老たちは、教会全体と共に、自分たちの中から人を選んで、パウロやバルナバと一緒にアンティオキアに派遣することを決定した。選ばれたのは、バルサバと呼ばれるユダおよびシラスで、兄弟たちの中で指導的な立場にいた人たちである。使徒たちは、次の手紙を彼らに託した。「使徒と長老たちが兄弟として、アンティオキアとシリア州とキリキア州に住む、異邦人の兄弟たちに挨拶いたします。聞くところによると、わたしたちのうちのある者がそちらへ行き、わたしたちから何の指示もないのに、いろいろなことを言って、あなたがたを騒がせ動揺させたとのことです。それで、人を選び、わたしたちの愛するバルナバとパウロとに同行させて、そちらに派遣することを、わたしたちは満場一致で決定しました。このバルナバとパウロは、わたしたちの主イエス・キリストの名のために身を献げている人たちです。それで、ユダとシラスを選んで派遣しますが、彼らは同じことを口頭でも説明するでしょう。聖霊とわたしたちは、次の必要な事柄以外、一切あなたがたに重荷を負わせないことに決めました。すなわち、偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けることです。以上を慎めばよいのです。健康を祈ります。」さて、彼ら一同は見送りを受けて出発し、アンティオキアに到着すると、信者全体を集めて手紙を手渡した。彼らはそれを読み、励ましに満ちた決定を知って喜んだ。ユダとシラスは預言する者でもあったので、いろいろと話をして兄弟たちを励まし力づけ、しばらくここに滞在した後、兄弟たちから送別の挨拶を受けて見送られ、自分たちを派遣した人々のところへ帰って行った。しかし、パウロとバルナバはアンティオキアにとどまって教え、他の多くの人と一緒に主の言葉の福音を告げ知らせた。(13-35)
会議の結果は、少なくとも表面的にはパウロの満足のできるものとなりました。異端者とされることなく、正統と認められた者として、律法の行いを要求するものを逆に異端として排斥することが出来るようになったのです。正統と異端とか、排斥という言葉を聞くと、なにか狭く、排他的で、否定的な響きを感じる方もいるかもしれませんが、このパウロの徹底が、イエスの福音を一種のユダヤ教という檻から救い出し、例外なしに、だれでも「主の名を呼び求めるものは救われる」ことを保証したのです。
それにしてもイエスが天に帰られて20年しか経っていないのに、イエスの良い知らせを、窮屈な律法に引き戻して変質させてしまうような考えが起きてきてしまうのでしょうか?それは、律法とか行いによって正しい者とされる、という考え方がいかに根強いかということを示しています。律法や行いによって救われるなら、律法や行いは偶像です。律法とか行いによって正しい者とされる、というには偶像礼拝の一種です。それは、目に見える像を拝むことよりもはるかに悪質で巧妙で陥りやすいものなのです。もしここで逆の結果が出ていたら、私たちはイエスを今でも知らなかったか、割礼を受けさせられていたか、うなぎやエビや親子丼は食べてはいけないと教会で教えていたかもしれません。いえ、事はもっと本質的で重大です。神の前に正しいとされるのは、行いか?信仰か?、信じるべきなのはイエスか?教会の伝統か?私たちの信仰の根幹に関わることなのです。この1500年後の宗教改革のテーマも同じです。私たちは常に、この問題で揺すぶられて、信仰の本質を見失う危険にさらされているということです。クリスチャンならこうでなければならない。こうしなければクリスチャンとはいえない。こう考えるならクリスチャンとはいえない。というような自分勝手な思い入れを、そのような言い方で振りまく、ユダヤからアンティオケアにやってきた偽教師は現代にも生まれ続けています。しかし一番の問題は、私たち一人一人の心のなかの「偽教師」の存在です。私たちの心のなかには「私は牧師として頑張っているから救われている(神の前に正しく歩んでいる)」というような優越感や「もっといいことをしたら神が喜んで下さるのだろうか?」「こんな事ができない私だから神様は満足していないに違いない」「とてもあんな立派なクリスチャンにはなれない」といった劣等感や「あの人は私のようにちゃんとやっていない」という人を裁く思いを起こさせ、私たちの心から神とともにいる喜びを奪おうとします。偽教師の背後にはもちろんサタンがいるのです。アンティオキアの教会は、バラエティーに富んだ様々な人々が、一見バラバラに見えても、実はイエスによって一致し、喜びにあふれた教会でした。それでいて、自分たちが富むことよりも与えること、助けること、伝えることを喜ぶ教会でした。偽教師たちの企みはエルサレム会議によって、食い止められたかに見えましたが、根深いこの問題は、ペトロが後にアンティオケアを訪ねた時に異邦人との会食を避けたことに対してパウロが非難する(ガラテア2:11) という出来事で再燃し、今度はバルナバまでもペトロに同調したので、アンティオキアの教会の雰囲気はすっかり変わってしまったことがうかがえます。私たちが喜びにあふれた教会で在り続けるために、心の偽教師に抵抗しなければなりません。神様は行ない、学歴、才能、国籍、民族、性別で私達を偏り見られません。
メッセージのポイント
シンプルにイエスに従う者になることは簡単ではないようです。神様が人を作られてから十字架の時まで、長い時間私たちの中で保たれた罪の傾向は無くなることはありません。しかしその傾向を持っていることを知っているなら、完全にとはいきませんが、自分のではなく神さまの思いを行うことができます。私たちもそのことをよくわきまえていないと、ユアチャーチは神様に喜ばれない存在になってしまいます。
話し合いのために
1) なぜ会議を開くことになったのですか?
2) この会議の最大の成果は何ですか?