<メッセージノート>

2013/09/08 ユアチャーチ20周年メッセージシリーズ II
ワーシップ - 私たちが一番大切にしてきたこと

A 1985年

1) 私たちの飢え渇きに応えた神

主よ、あなたを呼び求めます。わたしの岩よわたしに対して沈黙しないでください。あなたが黙しておられるならわたしは墓に下る者とされてしまいます。嘆き祈るわたしの声を聞いてください。至聖所に向かって手を上げあなたに救いを求めて叫びます。(詩編28:1,2
)


2) 求めるべきものがわかった

あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。(申命記6:5)



B 20年間変わらない礼拝についての価値観

1) 真の礼拝


しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」(ヨハネによる福音書 4:23,24)


こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。 (ローマ12:1)



2) 更に豊かな礼拝を求めて

a 自分の生活のなかで最優先の事柄とする

一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。 しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」(ルカによる福音書10:38-42)



b 主に期待して待ち望む

涸れた谷に鹿が水を求めるように/神よ、わたしの魂はあなたを求める。(詩編42:2)



c 正直なありのままの気持ちで


d 自由に表現する

主の御前でダビデは力のかぎり踊った。彼は麻のエフォドを着けていた。ダビデとイスラエルの家はこぞって喜びの叫びをあげ、角笛を吹き鳴らして、主の箱を運び上げた。主の箱がダビデの町に着いたとき、サウルの娘ミカルは窓からこれを見下ろしていたが、主の御前で跳ね踊るダビデ王を見て、心の内にさげすんだ。(2サムエル6:14-16)


メッセージのポイント
神様は私たちが生活のプライオリティーの第一のこととして「礼拝する」ことを求めておられます。礼拝の本質は神様の前に自身を献げものとして携えて進み出て、神様との親しい時を過ごすことです。大切なことは、神様に向かって素直に全身全霊で表現すること、神様からの語りかけ、呼びかけに耳を澄ませること、神様がなさっていることをよく見、よく感じることです。神様は礼拝の中で、語られ、幻を見せ、触れてくださいます。私たちはそこで、癒され、慰められ、力や知恵を与えられ、あるいは罪を示され、内側から新しくされるのです。

話し合いのために
1) なぜユアチャーチはこのような礼拝を捧げるのですか?
2) ユアチャーチの礼拝で歌われる歌にはどのような特徴がありますか?

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<メッセージ全文>

2013/09/08 ユアチャーチ20周年メッセージシリーズ II
ワーシップ - 私たちが一番大切にしてきたこと

先週、シェアされたユアチャーチの歩みを始めるきっかけとなった二つの大きな出会いのうちの最初の一つ、ヴィンヤード教会との出会いによって教えられた<何よりも大切にしなければならないこと=ワーシップ(礼拝)>についてお話しします。

A 1985年

1) 私たちの飢え渇きに応えた神

主よ、あなたを呼び求めます。わたしの岩よわたしに対して沈黙しないでください。あなたが黙しておられるならわたしは墓に下る者とされてしまいます。嘆き祈るわたしの声を聞いてください。至聖所に向かって手を上げあなたに救いを求めて叫びます。(詩編28:1,2)


私が牧師としての働きを始めたのはユアチャーチのスタートの九年前、1984年のことでした。イエスを主と信じて歩み始めてから七年が経っていました。それ以外のことは全て順調でしたが、たった一つだけ、私の心のなかでは、その数年前に芽生えた教会はこのままでいいのだろうかという危機感が頂点に達しようとしていたのです。イエスを信じる人は生まれず、それどころか教会に初めて来る人も殆どいませんでした。地域の人にきてもらうために教会案内を周囲1キロの家々をくまなく訪問してみたり、案内をポストしてみたりもしました。祈りが足りないのではと思い教会のプログラムに毎朝祈る集会を持ったこともありました。教会は成長してゆくどころか縮んでゆくようでしたし、平均年齢は毎年1歳づつ上がり続けていました。まさにこの詩篇そのままの気持ちだったのです。1985年の夏、ある人がカリフォルニアで成長している教会に学ぶという趣旨のツアーに誘ってくれたので、何か掴んで来られるかと思い参加しました。いくつかの巨大化した教会を訪問しましたが、あまりにも私たちの現実とかけ離れていて持ち帰れるものは何もないとがっかりしていました。ツアーの最後に訪問したのがヴィンヤードでした。その一つの教会は、200人くらいの(アメリカでは)そう大きいとはいえないもので、しかも自分の建物を持っていませんでした。毎週、高校の体育館を借りて礼拝を行っていると聞いていたので、前に訪ねた教会に比べると更に学ぶことが何もないところなのではないか?と思いながら向ったことをよく覚えています。確かにそれは本当にそっけないところでした。礼拝堂らしい装飾は何もなく、十字架さえも見当たらない、単にバスケットボールのコートの上に並べられた数百の折りたたみ椅子と低めのステージの上の譜面台だけが置かれていました。室内は、ラフな格好の若者と70年代からずーっとヒッピーだったような中年でほぼ満席になっていました。きっと誰も言われなければ教会の礼拝であるとは気付かない場所に足を踏み入れようとしていました。
しかし、神様は私の叫びに応えて、そこに私を連れていったのです。


2) 求めるべきものがわかった

あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。(申命記6:5)

私は”霊的”な人間ではありません。「私は霊感が強い」とか「そこになにか見える」とか言う人を基本的に信用していません。疑り深い人間です。ですから自分でも霊的な経験だと思えるようなことはほとんどしてきてはいないのです。しかし、その数少ない例外のひとつが南カリフォルニアの Orange county の Yorba Linda High School の体育館で起こりました。目の前に見える全く宗教的でない光景にも関わらず、今まで感じたことのない感覚に包まれ、全身に鳥肌が立ちました。まだ何ひとつ始まっておらず、人々はがやがやと周りの人と挨拶を交わしているような時だったのです。ですから、自分の心がなぜそのように感じるのかわからないまま空いている席に向かいました。やがて一人の女性がギター一本で短いシンプルな歌を何の挨拶も祈りもなしに歌い始めると人々も歌い始めました。立ち上がっている人もいれば、ひれ伏している人もいる、座ったままの人もいます。怒らせたらヤバそうなバイカーが、となりの彼女と手をつないで空いている方の手を上げて涙を流しながら歌っている。それぞれの様子はばらばらでも、皆が神様に向って心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして礼拝している事がわかりました。
神は民の声を聞き御自身を豊かに現され、神の霊が体育館の中に満ちて、人々の魂に触れ、そのニーズを満たしているようでした。私がそこに足を踏み入れた時に覚えた不思議な感覚は、神は確かにここにいるという、まるでエルサレム神殿の至聖所に入ってしまった(もちろん想像ですが)ような神の臨在に触れたことによるものだったのです。神様はここで生涯追求してゆくべきことを教えて下さいました。それは真心からの礼拝を捧げるということであり、それこそが「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」という命令に応えることだと知ったのです。


B 20年間変わらない礼拝についての価値観

1) 真の礼拝


しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」(ヨハネによる福音書 4:23,24)

それまでも8年間、毎週日曜日には真心から礼拝を捧げてきたつもりでした。私の育った教会の礼拝は、説教を頂点とする厳粛な一連の儀式からなっていました。その中には皆で歌う賛美歌もありましたが、古い言葉で何を歌っているのか解りにくいものが多かったのです。もちろんそこで、深い神との交流を持てる人もいるのでしょう。しかし私には無理でした。だから飢え渇いていたのです。賛美歌の歌詞や礼拝で使われる言葉は、古くて難しくて特殊で、私よりさらに若い人がここに来て定着するとは到底思えませんでした。しかし、それ以外のものを知らなかったので続けている以外にはありませんでした。だから、1985年は大きな転換点だったのです。
 この出来事以来、私は礼拝という日本語と賛美(これは英語も)という言葉を意識的に避けて教えてきました。礼拝と言わずにワーシップというカタカナ語を使う私を、年長の牧師たちが苦々しく思うだろうことは知っていましたが、礼拝という日本語ががあまりにも厳粛で儀式的な印象を与えるのであえて避けていたのです。「ワーシップ」と訳された言葉の元々の意味は 身を屈める、敬意と誉れを捧げる、身を折り曲げる、身を低くする、敬う、向きなおってくちづけする、ひざまずいて崇める、というもっと豊かな意味を持った言葉なのです。
 「賛美」というはもっと厄介に言葉です。日本では教会関係で歌うことはほとんど「賛美する」と表現されていました。このことは、神様に向って自分を捧げて歌うというワーシップの最も大切な意味を隠してきました。今でも賛美大会とか礼拝「前」の準備賛美などという言葉が使われるのでがっかりしてしまいます。神様を賛美することは良いことですが、それは礼拝することの中の一部です。神様に向ってするコミュニケーションが「賛美」だけということはありえません。神様は某国の独裁者ではないのですから、もっと親しい存在として、嘆きも悲しみも、訴えも、愛の告白も喜んで聞いて下さいます。最近ではワーシップソングという言葉も日本の教会でも定着してきましたが、結局 歌うことを賛美すると表現するより、ちょっと洗練された新しい表現として使われているに過ぎないことが多くて残念に思います。

こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。 (ローマ12:1)

旧約時代の礼拝の中心は犠牲を捧げる事にありました。私はこの事に今も変更はないと考えています。もちろん動物の生贄を捧げるということを言いたいのではありません。献金のことでもありません。神が求めているのは、ローマの信徒への手紙12章にあるように、もっと高価ないけにえ、すなわち自分自身を捧げるということです。それが礼拝の本質です。それが日曜の礼拝であれ、もっと小さなグループの礼拝であれ、そこに自分を持ってきて捧げるのです「私はあなたのものです。あなたの愛の働きのために用いてください。そのために必要な力、知恵をお与え下さい」と真剣に求め、それに対する答えも真剣に期待するのです。お気づきだと思いますが、ユアチャーチで歌う歌はほとんど神様に向けられた二人称の歌です。みんなに聴かせる神様についての歌ではなく、神様に向って歌う捧げ物だからです。私はこのワーシップについての本質を一度も疑ったことがありません。ですから、このことについては一切妥協することをしなかったのです。新しい歌や気楽な教会、自由な礼拝という点だけで共感した人々は、あなたたちはこだわりが強すぎると言って去ってゆきました。しかしそれは決して個人的なこだわりではありません。礼拝に対するこの態度こそ教会の生命線だと信じているのです。このことに妥協できたなら、私は前の働きのどれかを続けていたことでしょう。ユアチャーチは始まっていなかったはずです。


2) 更に豊かな礼拝を求めて

a 自分の生活のなかで最優先の事柄とする

一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。 しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」(ルカによる福音書10:38-42)

マルタは、もてなそうとしていましたが、心から喜んではいませんでした。自分もマリアと同じようにイエス様のそばにいたかったのです。しかし、それだからといって、ごちそうを作ることを止めて主の前に出ることはできませんでした。反対に「マリアも手伝えばいいのに」と思ってしまったのです。想像ですが、マルタは一度イエス様にその料理をほめられたことがあるのかもしれません。料理の上手なマルタさん、働き者のマルタさん、そんな評価が返って彼女の心を不自由にしてしまったのかもしれません。「イエス様は料理の上手な私を認めてくださる」 マルタの場合はそれが、彼女の優先順位を狂わせてしまったのかもしれません。あなたが主の前に進み出てワーシップすることを第一とさせないものは何でしょう。それを脇に置いて礼拝を心の最優先のこととして礼拝しましょう。


b 主に期待して待ち望む

涸れた谷に鹿が水を求めるように/神よ、わたしの魂はあなたを求める。(詩編42:2)

第二のことは期待してワーシップしているか?ということです。大好きな人と初めてデートする前の晩のことを思い出せますか?あるいは子供の頃、次の日に楽しいことがある晩どんな気持ちだったか? 楽しみで、楽しみで、眠れない位だったのではないでしょうか?
 神様と最も近くで過ごす時間に、どんな素晴らしいことが起こるか期待していますか?人間は良くも悪くも、物事に慣れてきます。学校や会社で遅刻しがちな人も、最初のデートで遅刻する人はいません。会っている間は、自分の最善を尽くします。相手の一言も聞き漏らさないように、注意深く耳を傾けます。最初は頼まれなくても心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くしてデートするのです。でも期待はだんだん薄れてきてしまいます。神様との関係でも同じ危険があります。そうならないために、いつも新しい恵みを期待して礼拝し、そこで答えをいただく、という経験を沢山していただきたいのです。


c 正直なありのままの気持ちで

 第三のことは、正直なありのままの気持ちでいいからとにかく主の前に出てゆくということです。先に読んだところに出てきた、イエス様に諭されてしまったマルタにも、私たちが見ならうべきところがあります。それはマリアばかりかイエス様に対してさえ憤りの気持ちをもったまま、それでもイエス様のそばに来たことです。それでマルタはイエス様のお考えを聞くことができました。私たちはこのテキストを読んで、自分はマルタのようだ、と反省しますが、実はマルタよりも悪い態度をとってしまっている場合が多いのです。それは、憤ったままで神様のそばに近づこうともしない、という態度です。それはあなたを生き生きとしたキリストの体の一部分から、「ただ過去にキリスト教の洗礼を受けたことのある人」になってしまうプロセスの始まりです。もしあなたがマルタの立場にいたらどうしたと思いますか?


d 自由に表現する

主の御前でダビデは力のかぎり踊った。彼は麻のエフォドを着けていた。ダビデとイスラエルの家はこぞって喜びの叫びをあげ、角笛を吹き鳴らして、主の箱を運び上げた。主の箱がダビデの町に着いたとき、サウルの娘ミカルは窓からこれを見下ろしていたが、主の御前で跳ね踊るダビデ王を見て、心の内にさげすんだ。(2サムエル6:14-16)

ダビデ王は神様の前にとても素直な人でした。神様の前に素直であることは大切なことです。この時、ダビデを始めとして民は喜び歌い踊らずにいられなかったのです。けれども、その中で一人だけさめた目で見ていた人がいました。王妃のミカルです。彼女は前の王サウルの娘です。由緒正しい王の娘としてのプライドが、夫ダビデの王様らしくない礼拝の表現を理解できなかったのです。私たちの心にもミカルが住んでいて、礼拝のすばらしさを十分に受けとれないということが起こります。ロックコンサートに行けばみんな立ち上がり、手をたたき、耳だけではなく全身で楽しみ、また楽しんでいることを表現するのが自然なことです。しかしちょっと気をつけて下さい。そんな雰囲気を人工的につくり上げるのでは意味が無いのです。それでは自由でも自然でもありません。古い賛美歌の殻を破ろうとした教会は多くの場合、明るく元気にほめたたえる事を重視しすぎて、霊的雰囲気を作り出すことになってしまいました。それは雰囲気を盛り上げることの出来るソングリーダーなら簡単なことです。しかし、それは礼拝をさらに貧しくする結果になりました。誰にでも、その時の心の状態が、元気で楽しい賛美の歌にはついていけない時があるでしょう。そこで無理やり元気なふりをして笑顔で歌っても心は落ち込むばかりです。正直でいればいいのです。立ち上がりたければ立ち上がる、ひざまづく、手を上げる、手を叩く、そうしたいと思ったらすればいいことです。だから、ほかの教会を経験している人はユアチャーチのワーシップリーダーは控えめで、そっけないと感じるでしょうが、それでいいのです。歌っているのはあなたで、聞いていて応えてくれるのは神様だからです。
さあ、今日もこれから期待を込めて主に向って歌いましょう。


メッセージのポイント
神様は私たちが生活のプライオリティーの第一のこととして「礼拝する」ことを求めておられます。礼拝の本質は神様の前に自身を献げものとして携えて進み出て、神様との親しい時を過ごすことです。大切なことは、神様に向かって素直に全身全霊で表現すること、神様からの語りかけ、呼びかけに耳を澄ませること、神様がなさっていることをよく見、よく感じることです。神様は礼拝の中で、語られ、幻を見せ、触れてくださいます。私たちはそこで、癒され、慰められ、力や知恵を与えられ、あるいは罪を示され、内側から新しくされるのです。

話し合いのために
1) なぜユアチャーチはこのような礼拝を捧げるのですか?
2) ユアチャーチの礼拝で歌われる歌にはどのような特徴がありますか?