<メッセージノート>

2013/9/22 ユアチャーチ20周年メッセージシリーズ IV
新しい革袋のような教会
 
だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋もだめになる。 新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。 古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである。 (ルカによる福音書5:37-39)




A ユアチャーチのユーとは誰のこと?

1) 神様

 主の神殿の門に立ち、この言葉をもって呼びかけよ。そして、言え。「主を礼拝するために、神殿の門を入って行くユダの人々よ、皆、主の言葉を聞け。イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。お前たちの道と行いを正せ。そうすれば、わたしはお前たちをこの所に住まわせる。主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない。この所で、お前たちの道と行いを正し、お互いの間に正義を行い、寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、無実の人の血を流さず、異教の神々に従うことなく、自ら災いを招いてはならない。(エレミア7:2-6)



2) 自分以外の人々(特にまだイエスを知らない人々)

あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。(申命記6:5)


B 新しい革袋/ユアチャーチ と 古い革袋/マイチャーチ

1) 新しい革袋が古くなる時


 古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである。(ルカによる福音書5:39)



2) いつまでも新しいワインを入れられる革袋でいるために

 だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋もだめになる。 新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。 (ルカによる福音書5:37,38)



メッセージのポイント
イエスは御自身とその教えを新しいワインに例えられました。イエスご自身はいつまでもフレッシュなので私たちが硬くて古い革袋になれば、イエスはここにはいられなくなってしまいます。私達が新しい弾力性に富んだ革袋なら、イエスがいてくださるだけでなく、もう一つの"You"の意味である、イエスに興味を持って来てくれた人にとっても居心地の良いところになれるでしょう。

話し合いのために
1) ユアチャーチのユーとは誰のことですか?
2) 私たちが目指す教会の姿はどのようなものでしょうか?

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<メッセージ全文>

2013/9/22 ユアチャーチ20周年メッセージシリーズ IV
新しい革袋のような教会
 
だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋もだめになる。 新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。 古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである。 (ルカによる福音書5:37-39)

 
ユアチャーチの20年の歩みを感謝し、未来に向かってヴィジョンを共有する記念月間の礼拝も今日を含めてあと二回となりました。先々週、私たちが最初から変わらずに持ち続けてきた二つの基本的価値観の第一の事として先々週、ワーシップ/礼拝についてお話ししました。今朝はもう一つの大切にしてきた事、私たちのキリストの体の一つの部分としての基本的な在り方「新しい革袋のような教会」についてお話します。このことは、私たちの教会の名前に深く関わることでもあります。
 ユアチャーチという名前はただ短く珍しく一度聞いたら忘れない、Googleで検索しやすいという戦略で付けられただけの名前ではありません。短くてもそこには、教会の在り方の基本となる最も大切な意味が込められているのです。しかもこのことは、最も大切であるにもかかわらず、簡単に忘れ去られてしまいやすい事なのです。その意味とはyourchurch の your です。そこには二つの意味が込められています。


A ユアチャーチのユーとは誰のこと?

1) 神様
 yourchurch の your の第一は「神」です。聖書の神を信じるということと、他の神々を信じるということの最大の違いは、自己実現の手段として信じるのではなく、神を信頼して、その意志の実現のために自分を捧げることだという点にあります。神が私たちのものなのではなく、私たちが神のものなのです。それは真の神を礼拝することと偶像礼拝との違いです。聖書の教えに従うなら、私たちは神のものです。そして私たちの集合である教会も神のものです。信仰が自己実現の手段ではないように、教会は私たちの意思を実現するための道具ではないのです。教会は形から見れば、 会社、学校、病院のような様々な人間組織の一つのように見えます。教会以外の組織は皆、自分たちの理想を追求するために存在しています。しかし教会はそうでありません。教会は、神が御自身の意思を実現するところです。昔イスラエルの民は、このことを忘れてしまっていたので、神はエレミアを通してこのように警告しました。

 主の神殿の門に立ち、この言葉をもって呼びかけよ。そして、言え。「主を礼拝するために、神殿の門を入って行くユダの人々よ、皆、主の言葉を聞け。イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。お前たちの道と行いを正せ。そうすれば、わたしはお前たちをこの所に住まわせる。主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない。この所で、お前たちの道と行いを正し、お互いの間に正義を行い、寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、無実の人の血を流さず、異教の神々に従うことなく、自ら災いを招いてはならない。(エレミア7:2-6)

 教会のオーナーは神です。神父や牧師や長老ではありません。かつて教会は、「指導者だけが神の意志を知らされ、行える」と考える過ちを犯し結局、神の意志ではなく指導者たちの意思を行うものになってしまいました。宗教改革によって原理は回復されましたが、残念ながら現代でも同じ過ちが繰り返されていることをあちこちで見ることができます。良い動機で教会のリーダーになった者にも、指輪物語の主人公のような葛藤、誘惑があり、誘惑に負ければ、教会は神のものではなくなります。神のものでなくなれば、それはもう教会と呼ばれる資格はありません。革袋が老化して脆くなり破れてしまうということです。皆さんには、ユアチャーチが神のものでなくならないように二つの習慣を持っていただきたいのです。それは、ユアチャーチの歩みについて自分自身で祈りのうちに神に聞くことと、リーダーのために祈ることです。


2) 自分以外の人々(特にまだイエスを知らない人々)
 yourchurch の your のもうひとつの意味は、自分以外のすべての人、特にまだイエスを知らない人々です。それは、近くは自分の家族、友人であり、遠くはこの地域に住んでいる人、将来住もうとしている人など、私達がイエスを紹介したいすべての人々のことなのです。
 オーナーは神です。そして、神は私たちの周りの人々と親しくなろうと、神の家に招きます。教会という建物ではありません。私達自身が教会なのですから、それは人々が私たちに出会うということによって起こることなのです。「私たちは召使」という言い方もできるでしょうが、私たちはむしろ先にイエスの友となり、家族となった者として、イエスと共に大切なお客様である人々を迎える者なのです。私たちもかつてはそのように招かれましたが、今ではもうゲストではなく、迎える側の者です。神は私たちのすべてをゲストとして、いつまでも定期的に招きたいのではなく、やがては家族として迎えたいという願いで人々を招くのです。現代の教会で起きている問題は、主と共に人々を迎える者である私たちが、自分のためのパーティーだと勘違いしていることです。それは私たちの持って生まれた性質なので、油断をしていると、新しい革袋であるはずの神の教会は、オーナーを締め出し、ゲストも入れないようにした上で、自分たちの満足を求める会員制クラブのような古い革袋となりやがて裂けて何も入れられなくなり、捨てられてしまいます。パウロはこのことをよく知っていて、次のように自分を戒めていました。

あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。(申命記6:5)

 このパウロの態度を心に留めながら、どのようにして新しい革袋は劣化してゆくか、どうしたらそれを防ぐことが出来るかという点について考えてゆきましょう。


B 新しい革袋/ユアチャーチ と 古い革袋/マイチャーチ

1) 新しい革袋が古くなる時


 古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである。(ルカによる福音書5:39)

 こんな話を聞いたことがあります。ある海岸の町でボランティアのライフセーバーが集まってビーチクラブが出来ました。クラブハウスはもちろん海岸にあって、助けが必要な人が出ればすぐに海に出て行き多くの人を救いました。クラブは歴史を重ねメンバーは増えましたが、やがて現役を引退した人の方が多くなり、活動の中心は自分たちの楽しい時を過ごすことに移ってゆきました。その傾向は変わることなく、さらに時が流れて、ビーチクラブとは名前だけとなり、ついにクラブハウスはみんながもっと集まり易い高台に引っ越してしまいました。そこで町の若い人たちは新しいライフセービングチームをつくって活動を始めました。
 まさにこのことがキリスト教会に起こっていることです。海で溺れている人は、高台にあるビーチクラブに 助けを求めることはできません。高台にあるビーチクラブのような教会は、そこにいる人には楽しく居心地が良くても、たまたまドアを開けた人にとっては歓迎されていないことがすぐに分かります。また、人を助けたいと思う人は、どんなに立派な建物や礼拝があっても、そのメンバーになろうとは思わず、むしろビーチで頑張っているまだテントしか持っていないような教会のメンバーになりたいと思うのです。
 高台のビーチクラブ教会では、イエスの十字架と復活により与えられる、ゆるしと愛に基づく新しい人生ではなく、キリスト教律法主義、形式的信仰を教えます。自分たちの文化を、自分でも気付かないうちに、守らなければならない本質的なこととして教えます。初めてやってくる人ではなく、すでにそこにいる自分たちの心地よさを追求しています。そして排他的な集団になってしまいながら、それを自覚することもなく、なぜ若者が増えないのだろう、子供たちは去ってゆくのだろうと頭を抱えているのです。20年前、私たちは高台のビーチクラブに耐えられなくなって、ビーチフロントに建てたテントのような教会をはじめました。それがユアチャーチの始まりです。もし私たちが意識してメンテナンスしなければ、やがてユアチャーチにも同じことが起こります。youを忘れてマイチャーチになってしまうのです。それは柔らかな新しい革袋が劣化して硬く脆い古い皮袋に変わるということです。


2) いつまでも新しいワインを入れられる革袋でいるために

 だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋もだめになる。 新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。 (ルカによる福音書5:37,38)

 いつまでも新しいワインを入れられる革袋でいるために、わたしたちは自分たちに心地よい教会であるより、これからイエスに出会う人々がここは快適だと思える教会であることをめざしたいのです。それが私たちに求められている若さです。実年齢には関係ありません。新しいワインと言っても年齢的に若い人のことだけを指しているのではありませんが、それでも次の世代、自分より若い世代にフォーカスすることは大切です。信仰の本質に係わること以外は大胆に時代のニーズに応えて行きたいと思います。そのために注意してきたことを幾つかお話したいと思います。
 
<信仰と文化を混同しない>
 私がイエスに従おうと決心した時、当時の教会文化では飲酒、喫煙は罪という雰囲気がありました。ギターは教会にはふさわしくない世俗的な楽器で、ロックは悪魔の音楽だと教える教会さえありました。喫煙は高校生の時にやめてしまいましたが、後のことは全部好きなことだったので困りました。イエスのことは大好きでしたから、イエスはどう思っているのか、彼の言葉から知ろうと聖書を読みました。イエスの時代にはタバコはありませんでした。エレクトリックギターもロックミュージックもありませんでした。当然イエスはそれを罪だとはいえなかったのです。ワインは当時からありました。飲み過ぎてはいけないともありましたが、健康のために水ばかりではなくワインを飲みなさいとも書かれていました。何よりイエス自身が、人々と楽しくワインを飲むことが好きで、反対者からは食いしん坊で大酒飲みといわれていたことを発見したわけです。イエスを信じる者はみんなイエスが大好きなので、無意識の内に、イエスも自分と同じ考えを持っていると思ってしまうのです。そして自分の判断をイエスにも押し付けてしまいます。自分の気に食わないことはイエスも嫌いだと思いたいのです。飲酒喫煙は健康の問題であって、信仰の問題ではありません。服装や言葉遣いで人を判断したり、年齢や身分や性の違いによって異る態度を要求するのも、LGBTを罪だと決め付けるのも、人であって神ではありません。そしてユアチャーチは神の家であって人の家ではありません。

<普通の人を得るためには普通の人になる>
 私たちはキリスト教会でしか通用しないような特殊な表現や、差別的な表現、時代遅れな表現(兄弟姉妹、青年会、ヤング、祈祷、賛美、ノンクリ、求道者、みこころ、御言葉、みむね、先生)をできるだけ避けてきました。普通の言葉で表現できることを、業界用語でいわれると嫌な感じがするのと同じことが教会でも起こります。教会の中の人が何気なく使う言葉が、イエスを知りたくてやってきた人々を返ってイエスから遠ざけることになってしまうのです。私達が歌う歌もそうです。伝統的な賛美歌には素晴らしい歌がたくさんあります。しかし、言葉がわからない程に古いのです。だからリズム・メロディーの面で新しいワーシップソングを生み出してゆくことを励ましてきました。歌の内容は不変です。リズムやメロディーは次の世代に任せましょう。

<「高台にあるビーチクラブ」的心地よさを諦める>
 教会に自分とは違う種類の人が来てほしくないと思うなら「高台にあるビーチクラブ」の心地よさを追求し続ければよいのです。まだ教会が小さくて、全体が一つのミニチャーチのようであった頃は、礼拝からそのまま、その週に誕生日を迎えた人のバースデーパーティーになることがありました。マイ座布団を大体いつも決まった椅子においておくことも出来ました。アトホームな雰囲気でした。けれどもそのような時代はもう終わりました。私たちはもう子どもではありません。自分の心地よさを求めてここに集っているのではありません。イエスとイエスを知りたくてやってきた人々のためにここにいるのです。人々がイエスのことを聞き、歌って心を開き始めた時に、突然自分を迎えてくれていたはずの人々の一人のために、電気が消され、歌声の中をバースデーケーキが持ち込まれてきたら、初めて来た人々は主賓は自分ではなかったんだと気付くでしょう。誰かのマイ座布団にうっかり座ってしまった人に、それは私のマイ座布団で私がいつも座っている席なのでどこかか別の空いているところに座ってくださいと言えるでしょうか?

 40歳以上のみなさん。私がユアチャーチは新しいワインを入れる新しい革袋の教会だと言っても、私はもう若く無いと言ってすねないで下さい。ユアチャーチが新しい革袋で在り続けるために、皆さんが必要なのです。皆さんが、イエス様の愛によって犠牲を払い、自分的には必ずしも心地良いわけではない音楽や、教会の在り方を受け入れて喜び楽しんでいるという“本当の若さ”のお手本を見なければ、今いる若い人たちはすぐに老けこんでしまうからです。
 若い皆さん、ユアチャーチが自分にピッタリだと思えるのは、40歳以上の若者が喜んで犠牲を払っているからだということを知ってくださいい。別に彼らにお礼をする必要はありません。ただ、皆さんも自分より10歳、20歳若い人たちのために、特にまだイエスを知らないその世代の人々のために犠牲を払って下さい。そしてそのことを次の世代に教えてください。そうしてゆく限りユアチャーチは決して高台に引っ越したりすることなく、その名にふさわしい働きを海岸で続けられます。新しい革袋のままでいられるのです。


メッセージのポイント
イエスは御自身とその教えを新しいワインに例えられました。イエスご自身はいつまでもフレッシュなので私たちが硬くて古い革袋になれば、イエスはここにはいられなくなってしまいます。私達が新しい弾力性に富んだ革袋なら、イエスがいてくださるだけでなく、もう一つの"You"の意味である、イエスに興味を持って来てくれた人にとっても居心地の良いところになれるでしょう。

話し合いのために
1) ユアチャーチのユーとは誰のことですか?
2) 私たちが目指す教会の姿はどのようなものでしょうか?