<メッセージノート>

2013/9/29 ユアチャーチ20周年メッセージシリーズ 池田真理、永原穂V
ユアチャーチの次の20+ 年を思い描く 

1. 教会:中心集中型vs境界線集中型
永原 穂
a) 境界線集中型 Bounded Set
b) 中心集中型 Centered Set

2. 中心に集中する=境界線を越える 池田 真理
a) 史上最大の境界線越え:イエス様(フィリピ2:6-8)

キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。

b) 私たちの挑戦(マタイ14:28-29)
すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。


c) 私の夢:ホームレスの人も来られる教会(マタイ25:31-46)

そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』


メッセージのポイント
ユアチャーチの過去を感謝し、現在を楽しむと同時に、私たちは未来を見据える責任もあります。私たちの願いは、神様を愛し、互いを愛し、世界の人々を愛する教会であることです。そのために、中心集中型(Centered Set)のアプローチは、私たちの唯一つの真実の集中すべきものを思い出させてくれます。それはイエス様です。私たちは、イエス様の方を向き、もっと近付こうとしているでしょうか?イエス様を他の人たちに紹介できるような生き方をしているでしょうか?このことを忘れてしまえば、私たちは簡単に境界線集中型(Bounded Set)の教会になってしまい、他の人たちがイエス様につながるために、彼らも私たちのようになること、私たちのように考えることを求めるようになってしまいます。神様が造った人々の多様性を受け入れ、喜びましょう。そして、いつもイエス様に向かって近付いていけるように、また他の人たちが同じようにイエス様に向かって進めるように、生きていきましょう。

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<メッセージ全文>

2013/9/29 ユアチャーチ20周年メッセージシリーズ 池田真理、永原穂V
ユアチャーチの次の20+ 年を思い描く

 

1. 教会:中心集中型vs境界線集中型 永原 穂

 この一ヶ月を通して、色んなスピーカーが話し、昔のユアチャーチ、今のユアチャーチについて考える機会がありました。今日は、未来について、私たちの教会がどこに向かうべきなのかということを考えてみたいと思います。
 先週、古い皮袋と新しい皮袋の話がありました。そして、神様を喜ばせ、イエス様を知らない人々を助けるために私たちがどういう教会であるべきかということが話されました。今日ご紹介するコンセプトもそれと似ていますが、今日は私たちの教会の将来にそれがどのようにあてはまっていくのか、例を挙げてみたいと思います。
 私たちは、先月、Blue Ocean FaithというNPOが主催するカンファレンスに出席してきました。このNPO団体は、教会や個人から成っている団体で、「世俗社会に生きる友人に、霊的気付きを促す」という関心を持っています。なぜこのような関心を持っているかというと、「誰もが、どこにいても、どんな文化・民族・宗教を持っていようと持っていなかろうと、神様につながることができるはずで、そのことは信仰に関する嘘のない誠実な対話を通して、最も良く実現されるはずだ」という信念を持っているからです。Blue Oceanの目的は、従来の教会があまり成果を出すことが出来ていない典型的な仕方とは違う、人々が新しいクリエイティブな仕方で神様とつながることを助けるということで、これは私たちの教会にも関係があることだと思います。
 兄が数週間前に言っていましたが、クリスチャン文化・教会文化というものに慣れていない、または興味がない人たちが、その人たちのままで神様とつながれるように助けたいと考える教会は、私たちだけではなく、他にもあります。そういう教会が「教会をする」ときに考えているコンセプトが、これから紹介する境界線集中型アプローチと中心集中型アプローチという考え方です。


a) 境界線集中型 Bounded Set

 境界線集中型アプローチでは、教会の共同体、キリスト教というものは、はっきりした境界線で定義されています。あなたはクリスチャンかそうでないか、共同体の中にいるか外にいるかのどちらかです。そして、その境界線は、明確に定められた決まりと行動規範から成っています。(何を着るべきか、着ないべきか、飲酒、喫煙など。)覚えておくべきなのは、これらの決まりや行動規範というのは、そのほとんどが人間によって造られたもので、文化的な制限を受けており、聖書に根拠を持つものではありません。「こっち」にいるならあなたは救いを「獲得」していて、「そっち」にいるならダメ。この境界線集中型の教会では、クリスチャンは他の人々をクリスチャンにしなければいけないと考え、自分達の立っている境界線の内側に他の人を連れてこなければいけないと考えます。



b) 中心集中型 Centered Set

 それと反対に、新しい皮袋の教会、私たちがそうありたいと願っている教会は、中心集中型の境界と呼ぶことが出来ます。中心集中型のアプローチでは、教会に参加しているかどうかは、実際の教会という意味でも、もっと大きなキリストの体という意味でも、その中心によって定義されます。その中心とはイエス様です。私たちがキリストの体の一部であるかどうかは、私たちがイエス様の方を向いて、イエス様に向かって進んでいるかどうかによって判断されます。この中心集中型のアプローチでは、私たちは信仰の核心的要点と福音に焦点をしぼります。私たちが中心に向かって動いているならば、私たちはイエス様のような者に変えられていきますし、生活の中で聖霊の実を結びます。(愛、喜び、平安、忍耐、寛容、親切、自制)
 私たちがそれぞれ民族的・社会的・政治的に異なっているということに集中するのではなく、私たちの信仰の核心(たとえば使徒信条やニカイア信条に表明されているような)に堅く立つことによって、そしてイエス様に集中することによって、私たちは様々な背景の異なる人たちが、彼らのそのままで神様につながるということを助ける共同体を造り出すことが出来ます。
中心集中型の教会では、私たちは次のようなステップを踏んで、イエス様に近付こうとします。

1) イエス様に従う決心を公にすること(洗礼)
2) 教会の共同体と共に礼拝すること
3) 神様とつながり聖書を通して神様に聞くこと
4) イエス様に従う他の人たちとの関係を育て、霊的に成長すること
5) 何かのミニストリーに加わり、神様の働きに参加すること
6) 教会を経済的に支えること
7) 信仰に導かれて人生の大事な選択をしていくこと

 中心集中型のアプローチは、ただ「私とイエス様」だけの関係を強調しているのではありません。イエス様にもっと近付くためには、お互いが必要です。個人として教会として、どうすれば私たちの周りにいる人たちがイエス様の方を向いて進み、イエス様の愛を経験していくことを助けられるかということが大切です。この一ヶ月の間に聞いてきた証の中でも、このことが既に実践されていることが分かります。エミちゃんが初めて来たミナさんと祈ったり、アキコさんが周りの人に自分のできることで神様の愛を示そうとしていることなどです。教会として、私たちは既に中心集中型のアプローチをしていると言えると思います。



2. 中心に集中する=境界線を越える 池田 真理
a) 史上最大の境界線越え:イエス様(フィリピ2:6-8)

キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。

 神様は、私たち人間を愛するあまり、神様の身分にこだわらず、人間になって下さいました。これほど大胆な究極の境界線越えは他にありません。イエス様は、私たちが弱く間違いやすいのを知っていて、それでもそのまま私たちを受け入れるために、人間になって来て下さり、そして人間の手によって殺されるという運命を引き受けてくださいました。神様は神様のままでいてよかったのです。わざわざ人間になって苦しむ必要は、全くありませんでした。でも、あえて「あっち」に留まらず、「こっち」に来て下さったのです。先週のAndyさんのたとえで言えば、高台のビーチクラブから、おぼれている人に向かって「ここまでおいで~!来たら助けてあげよう」と言うのではなく、おぼれている人がおぼれていると気が付かないうちから、海の中に来て下さったのです。そして、おぼれている人を助けるために、自分の命まで捨てて下さいました。これが私たちの知った神様、イエス様です。こんな人を知っていながら、こんな神様を知りながら、なぜ私たちが、他の人に勝手な条件や要求を押し付けることができるでしょうか。むしろ、私たちも、イエス様を大好きで、イエス様に従おうとするなら、自分のいるところに相手が来ることを待つのではなく、自分から自分の安全地帯を出て相手のところに行くことが大切だと思います。
 では、私たちはどうやって自分の安全地帯を出られるのでしょうか。


b) 私たちの挑戦(マタイ14:28-29)
すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。

 
 私たちが自分の安全地帯から出て行くためには、神様にそうさせてもらう必要があります。自分の力だけではできません。ペテロにとって、舟は安全地帯、水の上はその外だったと言えます。ペテロが舟の外に出たのは、そこにイエス様がいたからです。水の上を歩きたかったから、出たのではありません。ペテロは、大好きなイエス様の側に行きたかったので、イエス様がいたのが水の上でも、自分もそちらに行きたいと願いました。私たちが自分の舟から出るのも、外にイエス様がいて、そこに私たちも行きたいと願うからです。私たちは、自分とイエス様が共にいるように、他の人にもイエス様が共にいると思えれば、その人に自分の価値観や好みを押し付けることはしないと思います。そして、その人が自分がこれまで関わってきた人の中にはいなかったようなタイプの人だったとしても、その人のそのままを受け入れるために、自分の価値観を乗り越えられるはずです。だから、私たちは、自分の安全地帯から出て行くといっても、自分に無理なことをする必要はありません。神様は私たちをありのままで受け入れて下さって、私たちに限界があることも知っています。私たちはまずそこに安心して、自分が神様に愛されていることをまず喜んでいれば大丈夫です。ただ、自分には無理だと思っていたとしても、時に神様が勇気を下さって、神様の愛を人に示す機会を与えてくださる時を見逃してはいけないと思います。イエス様がいるところならたとえ水の上でもそちらに行かせて下さいと、ペテロのように言えるように、私たちもいつも準備しておく必要があります。



c) 私の夢:ホームレスの人も来られる教会(マタイ25:31-46)

自分の価値観にとらわれないで、神様の示してくださる方に従って、水の上でも踏み出していくということが具体的に何を意味するかは、一人一人違います。ここで最後に、私にとって水の上に踏み出す夢を皆さんに紹介したいと思います。それは、ホームレスの人でも居場所を見つけられる教会を作ることです。このことはあと何年経ったらこの活動を始めますとか、具体的に何も決まっていることではありません。本当にこれが私がやるべきことなのかもまだ分かりませんし、やるとしてもどうやって何をやればいいのか、まだ全く分かりません。ただ、これからのユアチャーチを考える上で、境界線集中型ではなく中心集中型の教会の一つの可能性としてシェアすることにしました。
まず、私の夢のきっかけになっている聖書の箇所を読みます。この箇所だけではありませんが、この箇所はマザーテレサもよく引用しており、私の心に強く響く箇所です。


そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』

さっき、ペテロが舟を出たのは、そこに、舟の外に、イエス様がいたからだと言いました。それは、実はイエス様は、私たちの周りのあらゆる人でもあるということです。そのことをこの聖書の箇所は言っています。そして、私にとっては、その中にホームレスの人たちがいます。
 私がこの夢を持ったのは、カナダのトロントにある「サンクチュアリ」という名前の教会に学生のミッショントリップで行ったことがきっかけです。サンクチュアリは地域の人が来る教会であると同時に、路上生活をしている人たちに社会奉仕活動をするNPOを立ち上げて、食事や医療サービス、シャワーや服を提供する活動もしていました。でも、私が何より感動したのは、サンクチュアリの人たちがホームレスの人たちと友人になることを最も重要と考えていたことです。単純に助ける側と助けられる側という図式ではありませんでした。互いに弱さを持ち、間違いをする人間として、神様の前にはみんな同じだと信じているからです。食事や様々なサービスを受ける代わりに、礼拝に出るようにとか、就職活動をするようにとか、何かを要求するということは全くしていませんでした。逆に、食事サービスをする時には、スタッフも一緒の食事の席について、話したい人がいれば一緒に話し、放っておいてほしそうだったらそのままにして、あくまでお互いを尊重して付き合うことを大切にしていました。スタッフの中には、元々路上生活をしていて、サンクチュアリでイエス様に出会い人生を変えられたという人たちも何人かいました。相手がどんな身なりをしていようと、どんな背景があろうと、できるだけその人をそのまま受け入れるという態勢は、日曜日の礼拝でも同じでした。サンクチュアリのサービスを受ける中で、そこでスタッフや他のホームレスの人たちと関係を持つようになって、礼拝に出たいと思う人も中にはいて、そういう人たちは自由に礼拝に出ていました。知的障害を持つ人も、見るからにしばらく体を洗っていない人もいました。私は心の中でこれこそ天国の姿なのかもしれないと思いました。
極端な例かもしれませんが、サンクチュアリは、本当に誰もがその人のままで受け入れられる中心集中型の教会の一つの力強い例だと思っています。こういう活動をするには、相当の覚悟と勇気が必要だと思いますが、もしイエス様がそこに呼ばれるなら、喜んで従えたらいいなと思っています。


メッセージのポイント
ユアチャーチの過去を感謝し、現在を楽しむと同時に、私たちは未来を見据える責任もあります。私たちの願いは、神様を愛し、互いを愛し、世界の人々を愛する教会であることです。そのために、中心集中型(Centered Set)のアプローチは、私たちの唯一つの真実の集中すべきものを思い出させてくれます。それはイエス様です。私たちは、イエス様の方を向き、もっと近付こうとしているでしょうか?イエス様を他の人たちに紹介できるような生き方をしているでしょうか?このことを忘れてしまえば、私たちは簡単に境界線集中型(Bounded Set)の教会になってしまい、他の人たちがイエス様につながるために、彼らも私たちのようになること、私たちのように考えることを求めるようになってしまいます。神様が造った人々の多様性を受け入れ、喜びましょう。そして、いつもイエス様に向かって近付いていけるように、また他の人たちが同じようにイエス様に向かって進めるように、生きていきましょう。