<メッセージノート>

2013/10/27 使徒言行録 16:16-24
新しくて古い衝突

A 真理によって損をする人々


1) 今回の迫害はユダヤ教からのものではなかった (16-18)

わたしたちは、祈りの場所に行く途中、占いの霊に取りつかれている女奴隷に出会った。この女は、占いをして主人たちに多くの利益を得させていた。彼女は、パウロやわたしたちの後ろについて来てこう叫ぶのであった。「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです。」彼女がこんなことを幾日も繰り返すので、パウロはたまりかねて振り向き、その霊に言った。「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け。」すると即座に、霊が彼女から出て行った。(16-18)


2) 金儲けの機会を奪われた怒り (19)

ところが、この女の主人たちは、金もうけの望みがなくなってしまったことを知り、パウロとシラスを捕らえ、役人に引き渡すために広場へ引き立てて行った。(19)



B 罪を正当化する道具としての文化、政治、経済、宗教

1) 愛は罪と相容れない (19)

ところが、この女の主人たちは、金もうけの望みがなくなってしまったことを知り、パウロとシラスを捕らえ、役人に引き渡すために広場へ引き立てて行った。(19)


2) 罪は文化、政治、経済、宗教を利用して真理を阻む (20-24)

そして、二人を高官たちに引き渡してこう言った。「この者たちはユダヤ人で、わたしたちの町を混乱させております。ローマ帝国の市民であるわたしたちが受け入れることも、実行することも許されない風習を宣伝しております。」群衆も一緒になって二人を責め立てたので、高官たちは二人の衣服をはぎ取り、「鞭で打て」と命じた。そして、何度も鞭で打ってから二人を牢に投げ込み、看守に厳重に見張るように命じた。この命令を受けた看守は、二人をいちばん奥の牢に入れて、足には木の足枷をはめておいた。(20-24)



メッセージのポイント
このフィリピでの出来事は今までのようにユダヤ教の立場からの迫害ではなく、新しい土地での文化的な衝突です。しかし、問題の根は全く同じ「罪」なのです。罪とは、「真理に従うのではなく欲望に従う」という私たちが皆持っている性質です。しかし、神がわたしたちの心に「真理に従いたい」という良心を与えていてくださいます。だから私たちの内には葛藤があり、大抵の人は「欲望に従って何が悪い」と開き直りはしません。その代わりに文化、政治、経済、宗教などあらゆるものを利用して自分を正当化しようと試みるのです。しかし聖書が教えている通り、真理に、すなわち神の側に立たない限り、心の平安も、社会の平和も決して得ることはできません。

話し合いのために
1) パウロはなぜこの女性から悪霊を追い出したのでしょうか?
2) なぜパウロとシラスは正当な理由もなく投獄されてしまったのでしょうか?

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<メッセージ全文>

2013/10/27 使徒言行録 16:16-24
新しくて古い衝突

A 真理によって損をする人々


1) 今回の迫害はユダヤ教からのものではなかった (16-18)

わたしたちは、祈りの場所に行く途中、占いの霊に取りつかれている女奴隷に出会った。この女は、占いをして主人たちに多くの利益を得させていた。彼女は、パウロやわたしたちの後ろについて来てこう叫ぶのであった。「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです。」彼女がこんなことを幾日も繰り返すので、パウロはたまりかねて振り向き、その霊に言った。「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け。」すると即座に、霊が彼女から出て行った。(16-18)

フィリピに生まれようとしている新しい教会のメンバーが、ギリシャ人にもユダヤ人にも起こされ始めると、今までになかった新しい衝突が起こりました。小アジアではユダヤ人からの迫害に苦しめられましたが、フィリピで起こったこの出来事は別のタイプの人々を怒らせる事になりました。この女性が二重の意味で自由ではありませんでした。奴隷という身分であっただけでなく、悪霊に取り憑かれ、占いという本来彼女が持っていない悪霊の能力で主人たちに利益をもたらしていましたが、彼女自身は利益を得るどころか、自分の人生を生きることも許されていなかったのです。しかしその不幸をこの人が自覚していたかどうかは疑問です。当時の奴隷制度は近代のものほど過酷なものではなく、どちらかといえば資本家と労働者の関係に近いものだったようです。彼女の主人たちはギリシャ人です。彼女の占いはギリシャ文化を背景とするものでした。この出来事で今朝注目したいことは、パウロが数日間付きまとわれても我慢していたということです。結局、しつこい悪霊の嫌がらせに我慢できなくなってこの女性に取り付いていた霊に命じて彼女から去らせますが、そこから厄介なことになるのです。パウロが最初から悪霊を追い出すつもりなら、幾日も待ちはしなかったでしょう。パウロはここでの本来の働きのためには、彼女とは関わらない方がいいことを知っていました。パウロは状況をよく見て行動する人です。だから、悪霊の働きを目の前にしても、すぐに追い出しにかかることはしなかったのです。あまりにも、働きを妨げるのでやむを得ず追い出しましたが、積極的な行動ではなかったのです。そしてその結果、パウロ本来の働きは中断され、思わぬ方向に事態は進んでゆきます。最初、彼女を見てみないふりをし与えられていると信じる使命を果たそうとしていたことも、我慢できずに追い出しを行ったことも非難されるべきことではありません。彼女がつきまとっていた数日間の間にパウロにイエスを紹介された人もいれば、この悪霊の追い出しから始まった騒動によって(来週お話することになりますが)イエスに出会うことのできた家族もいたのです。神は、私たちの知恵も忍耐も用いますが、無知や忍耐のなさでさえ用いて、人々をご自身との関係の中に招いて下さるのです。


2) 金儲けの機会を奪われた怒り (19)

ところが、この女の主人たちは、金もうけの望みがなくなってしまったことを知り、パウロとシラスを捕らえ、役人に引き渡すために広場へ引き立てて行った。(19)

この主人たちにとって問題は、真理か偽りかでもなければ、正義か不義かでもありません。自分たちの収入だけに関心がありました。イエスに従う者は、どの時代にあっても、このような人々からの妨害に遭うことを知っておかなければなりません。日本では1900年代前半まで、公娼制度(女性の人身売買、売買春を公認する)制度がありました。イエスに従う者たちは神の正義、憐れみに立ってこの制度の廃止を求める戦いを始めました。敵は女性を管理する組織だけではなく、制度を認める国でもありました。女性が逃げ出しても、警察は保護するどころか組織に連れ戻すような社会だったのです。多くの人々がパウロと同じよう暴力を受けながら、戦い続けました。制度が完全になくなったのは1956年(売春防止法)のことです。しかし無くなったのは制度であって、今でも女性や子供の売買は世界中で行われています。イエスはこの世界をどう見ておられるのでしょうか? なぜ人は人の幸せを奪ってまで欲望を満たしたいと思うのでしょうか?



B 罪を正当化する道具としての文化、政治、経済、宗教

1) 愛は罪と相容れない (19)

ところが、この女の主人たちは、金もうけの望みがなくなってしまったことを知り、パウロとシラスを捕らえ、役人に引き渡すために広場へ引き立てて行った。(19)

彼らにとって、女性は一人の人間ではなく、金儲けの道具に過ぎませんでした。彼女が占いの霊から解放されたことは喜ばしい事ではなく、金儲けの道具が壊された残念なことだったのです。公娼制度がなくなれば儲ける道がなくなる者も、麻薬を売る者も、貧しい人の生活保護費をターゲットにする貧困ビジネスに携わる者もこの女性の主人たちと同類です。他の人を自身と同じ神に創られたものとして尊敬するどころか、物のように扱い自分が儲けようとすることは悪です。この悪は、自分を創り愛される神に背を向けるという「罪」によって存在します。「理想を追求する」「自己実現を目指す」という耳障りの良い言葉に警戒しなければなりません。それは、自己中心的な視点です。この視点を放棄しない限り、罪は解決せず、悪は生まれ続けます。そこには「愛」が存在する余地はありません。イエスを信じ、彼に従うということは罪を離れ愛に生きるということです。それは罪の奴隷からの解放といえることです。もう誰かを犠牲にしてまでも自分の欲望を充足させなければとは思わなくなれるのです。手に入れる喜びより与える喜びのほうがはるかに大きいことを発見できます。求めているものを与えられないことや、手の内にあるものが失われる心配からの解放です。神の愛を受け入れ、その愛で人を愛して生きようとするなら、この女奴隷の主人たちとは違う生き方を始めることができます。ルカによる福音書19章に登場する「ザアカイ」という名の人を覚えていますか? 強引な税の取り立てで富を築いた人ですが、人には罪深いと軽蔑され、自分でもその人生に満足はしていませんでした。イエスが声を掛けてくださったことをきっかけに、彼の人生は貪欲にならなくても満たされる本当の富=愛を手に入れることが出来た人です。
あなたがまだイエスに従う決心をしていない人なら、ここにいるということは、ザアカイに声を掛けられたイエスがあなたのことも招いておられるということです。ザアカイは背が低く群衆に遮られてイエスをよく見られないので、少し先回りして木に登りやってくるイエスを見ていました。イエスはザアカイの近くまで来ると「ザアカイ、急いで降りてきなさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と声をかけられました。あなたも、あなたの心にイエスをお迎えしませんか?



2) 罪は文化、政治、経済、宗教を利用して真理を阻む (20-24)

そして、二人を高官たちに引き渡してこう言った。「この者たちはユダヤ人で、わたしたちの町を混乱させております。ローマ帝国の市民であるわたしたちが受け入れることも、実行することも許されない風習を宣伝しております。」群衆も一緒になって二人を責め立てたので、高官たちは二人の衣服をはぎ取り、「鞭で打て」と命じた。そして、何度も鞭で打ってから二人を牢に投げ込み、看守に厳重に見張るように命じた。この命令を受けた看守は、二人をいちばん奥の牢に入れて、足には木の足枷をはめておいた。(20-24)


いくら奴隷の所有を認める社会でも、占いの霊を自分の奴隷から追い出した、などという理由から人を訴えることは不可能でした。そこで、彼らは町の人が同意してくれそうな理由を上げて、パウロたちを投獄させたのです。それは、フィリピでは許されていないユダヤ人の風習を広めようとしたという根拠のない訴えでした。しかしこの町で権力を持った人々にとって、神の愛、義をもたらす福音は、自分たちの金儲けの邪魔であることははっきりしていましたから、理由などどうでも良かったのです。
イエス・キリストを紹介する働きは、現状を憂い、神との関係を正常化したいと願う人にとっては「良い知らせ=福音」ですが、あくまでも自己中心、自己実現に価値を置く人にとっては、迷惑な存在なのです。そのような人でも、さすがに愛や正義は必要ないとはいえません。だからいろいろな理由をつけて、神の愛、神の義よりも自分の利益を優先する理由とするのです。利用されているのは社会の様々な営みです。フィリピの人々は、異文化を持ち込むという文化的理由でパウロたちを訴えました。来月末頃テサロニケという町で起こったことをお話しますが、そこではローマ皇帝に対する反逆を企てているという政治的な理由によってパウロたちは攻撃されたのです。宗教もよく利用されます。キリスト教も例外ではありません。十字軍の試みから現代に至るまで多くの戦争にイエスの名はさんざん利用され、異教徒に恐れられたり、憎まれたりしてきました。キリスト教徒を自称する者が、経済的な効率のために貧しい者、弱い者が苦しむのも仕方ないといいながら自分のために富を蓄えるということも起きています。そのようなことをするなら、どのような教会に属していようとイエスに従う者とはいえません。
 文化、政治、経済、宗教はそれ自体は良いものです。生活を豊かにしてくれます。しかしそれだけに、私たちはそれらを根拠に自分の心に隠れた罪のを正当化しようとする傾向を持っているのです。その背後には、私たちを神の義と愛から引き離そうとするサタンの働きが存在します。私たちは間違わないように、自分のしようとしていることについて「それはイエスの求める愛なのか?」「イエスの求める正義なのか?」と自分に問いながらイエスに従って進んでゆきましょう。


メッセージのポイント
このフィリピでの出来事は今までのようにユダヤ教の立場からの迫害ではなく、新しい土地での文化的な衝突です。しかし、問題の根は全く同じ「罪」なのです。罪とは、「真理に従うのではなく欲望に従う」という私たちが皆持っている性質です。しかし、神がわたしたちの心に「真理に従いたい」という良心を与えていてくださいます。だから私たちの内には葛藤があり、大抵の人は「欲望に従って何が悪い」と開き直りはしません。その代わりに文化、政治、経済、宗教などあらゆるものを利用して自分を正当化しようと試みるのです。しかし聖書が教えている通り、真理に、すなわち神の側に立たない限り、心の平安も、社会の平和も決して得ることはできません。

話し合いのために
1) パウロはなぜこの女性から悪霊を追い出したのでしょうか?
2) なぜパウロとシラスは正当な理由もなく投獄されてしまったのでしょうか?