<メッセージノート>

2013/11/3 使徒言行録 16:25-34
主イエスを信じなさい。そうすれば・・・・・

A 神の権威と力が現れる


1) 賛美の中で現された神の権威と力 (25,26)

真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた。突然、大地震が起こり、牢の土台が揺れ動いた。たちまち牢の戸がみな開き、すべての囚人の鎖も外れてしまった。(25,26)



2) 逃げ出す者を出さなかった神の権威と力 (27,28)

目を覚ました看守は、牢の戸が開いているのを見て、囚人たちが逃げてしまったと思い込み、剣を抜いて自殺しようとした。パウロは大声で叫んだ。「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる。」(27,28)




B 権威と力が人を従順にさせる

1) 主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。 (29-32)

看守は、明かりを持って来させて牢の中に飛び込み、パウロとシラスの前に震えながらひれ伏し、二人を外へ連れ出して言った。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」そして、看守とその家の人たち全部に主の言葉を語った。(29-32)




2) 救われる=神の家族となる (33,34)

まだ真夜中であったが、看守は二人を連れて行って打ち傷を洗ってやり、自分も家族の者も皆すぐに洗礼を受けた。この後、二人を自分の家に案内して食事を出し、神を信じる者になったことを家族ともども喜んだ。



「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。(マタイ 7:21-23)

そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。(3:19)
彼らは、生きている者と死んだ者とを裁こうとしておられる方に、申し開きをしなければなりません。死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです。(4:5,6)




メッセージのポイント
正式な手続きなしに捕らえられ、鞭打たれ、収監されたパウロとシラスが真夜中の牢の中でしていたことは、賛美の歌を歌い祈ることでした。極限状態の中でも私たちは賛美し祈ることができます。そしてそこに神は御自身の権威と力を現されます。そこで現される権威と力は、人を恐れることのない者をも畏怖させひれ伏させるのです。神を畏れる時、人は本当に正しい判断をすることができます。こうして初めて神を畏れることを知った看守とその家族は皆、神の家族となって喜びに満たされました。あなたの愛する人々を神の家族迎え入れるプロセスは、神に歌い祈ることから始まります。「主よ、どうぞ私の生活の中に、あなたの権威と力を現してください」と祈り続けましょう。

話し合いのために
1) なぜ、誰一人逃げ出そうとしなかったのでしょう?
2) 看守はなぜパウロが救われるためにすべきことを尋ねたのでしょう?

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<メッセージ全文>

2013/11/3 使徒言行録 16:25-34
主イエスを信じなさい。そうすれば・・・・・

A 神の権威と力が現れる


1) 賛美の中で現された神の権威と力 (25,26)

真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた。突然、大地震が起こり、牢の土台が揺れ動いた。たちまち牢の戸がみな開き、すべての囚人の鎖も外れてしまった。(25,26)

パウロとシラスは、鞭で打たれた痛みで苦しんでいたか、恐怖で震えていたか、疲れきって寝込んでいても不思議ではない状況の中で、賛美の歌を歌っていました。しかも、真夜中です。普通なら、ほかの囚人たちに、「うるさい、黙れ」と言われるところですが、皆が聞き入っていたというのです。よい歌には力があります。人の心を動かし、行動を起こさせます。しかし、神に向かって歌う歌にはもっと素晴らしいことが伴います。そこに神の働きが現れるということです。周りの囚人たちも、それが単に自分を励ましたり、状況を嘆いたりする歌ではなく、神との親しい対話のような歌と祈りであることがわかり、実際に神がいてくださることを感じ始めていた所に大地震が起きたのです。
彼らは、歌えば、この後に起こったようなことが起こることを期待して歌ったわけではありません。ただ、置かれている状況がどうであっても、神が共におられること、神が道を開いてくださることを確信して歌っていたのです。もちろん、こんなにひどい目にあっています。なんとかして下さいと歌っても良いのです。神はそのような声にも耳を傾けて下さいます。ただパウロとシラスはそれまでの経験の中で、揺るぎない神への信頼を持っていたので、現状を訴える必要も感じることなく、神を誉め讃える歌を歌っていたのです。
私たちは礼拝の中で、神に向かって歌うことをとても大切にしています。メッセージを通して神の言葉を聞きますが、私たちも歌うことで神に心を表現します。神と私たちのコミュニケーションは一方通行ではありません。私たちが神に向かって歌う時、一人一人が神との親しい時を過ごすのです。そしてパウロたちが体験したように、一人一人の人生に神の力と権威が表わされるのです。今朝も期待してメッセージの後のワーシップタイムを過ごして下さい。


2) 逃げ出す者を出さなかった神の権威と力 (27,28)

目を覚ました看守は、牢の戸が開いているのを見て、囚人たちが逃げてしまったと思い込み、剣を抜いて自殺しようとした。パウロは大声で叫んだ。「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる。」(27,28)

いつでも脱獄のチャンスを狙っているような囚人たちが、逃げ出せるのに誰一人、そこから動くことはありませんでした。神の働きが現実に起こったのを見て、この神の働きの中にいて、それを見守る事の方を、ここから逃げ出すよりもっと価値があると無意識の内に選択したのでしょう。暗い、絶望的な牢獄という場所で、神が働いているという、希望に満ちた、まぶしい光が輝きだしたような光景の中で、誰もそこから離れようとは思いませんでした。しかし看守は、まだ神の働きは実感されていませんでした。眠っていたからです。普段は、看守が安心して眠っていられるほど厳重な牢の戸で、誰もその扉が壊されることなど考えていなかったのですしょう。目が覚めたら、とが壊され開いていた。当然囚人は皆逃げてしまったに違いない。処刑されるより自殺することを選び死のうとしたのです。逃げて空っぽになったはずの牢の中から、パウロの「自殺してはいけない、皆ここにいる」という声を聞いて、看守も、「神の現実」を知ることとなりました。看守にもそれなりの宗教観、神観があったはずです。しかし、聖書の神の現実は、人間が頭のなかで思い描く神観を、どこかに吹き飛ばしてしまうほど強烈に、看守の心と体に飛び込んできたのです。そこで看守は29節以下に書かれている行動を取るのです。



B 権威と力が人を従順にさせる

1) 主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。 (29-32)

看守は、明かりを持って来させて牢の中に飛び込み、パウロとシラスの前に震えながらひれ伏し、二人を外へ連れ出して言った。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」そして、看守とその家の人たち全部に主の言葉を語った。(29-32)

なにか恐ろしいことが起こり始めた、自分が自殺しなければならないような事態よりもっと恐ろしいことに直面していることを看守は知りました。神の視線が確かに自分に向けられている。しかし自分にはどう答えたらいいか全くわからない。それがこの行動になったのです。ここで彼が言った、救われるとは、正しい神の視線に耐えることができる、罰せられないということです。「このままでは自分の人生はいけない」と感じた人が尋ねる質問です。「救われるためにはどうすべきでしょうか?」ここにいる人は、皆かつてこの問いを発し答えを見つけたか、今そのように問うている人だと思います。もし自分の人生に神など必要ないと思っているなら、それを知るために教会に来る必要ないからです。そこで皆さんにパウロの答えを注目していただきたいのです。これは、イエスをまだ自分の主と考えることのできないすべての人に対する答えです。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」イエスを主と信じて、彼の歩みに従って生きる。それが、私たちが人として正しく歩むことの出来る唯一の道です。目の前にした生ける神の現実が看守の心を素直にしました。パウロの答えに従おうと、彼はすぐ行動に移します。彼とその家族はパウロの話す主イエス・キリストを知ることとなるのです。



2) 救われる=神の家族となる (33,34)

まだ真夜中であったが、看守は二人を連れて行って打ち傷を洗ってやり、自分も家族の者も皆すぐに洗礼を受けた。この後、二人を自分の家に案内して食事を出し、神を信じる者になったことを家族ともども喜んだ。


最後に、パウロの話す主イエス・キリストを知った看守のこの行動をとおして、「救われる」とはどういうことなのかを考えてみましょう。多くの人が天国行きの切符を手に入れることだと考えています。ある人は、たいへん慕っていた祖母が亡くなった時に、祖母にもう一度会いたいので洗礼を受けてクリスチャンになりたいと考えました。ある人は地獄に落ちるのは嫌なので洗礼を受けたいと考えます。それが最初のきっかけならそれでも良いのです。しかし、それだけが救いの全てではありません。今日の箇所から考えるなら、「救われる」とは、今の自分の在り方が間違っていて、正しく方向転換をしたいという。これからの人生の生き方についての問題なのです。「洗礼を受けました、天国の切符を手に入れました、後は適当に、地上での人生を楽しく過ごします。」このように考えるとしたらそこにはリスクが有ります。そのように考えるお気楽な「クリスチャン」におすすめの聖書の一節があります。

「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。(マタイ 7:21-23)

 それから、今日は読む時間がありませんが、同じマタイによる福音書25章には、主が再び来られる時、人は山羊組と羊組の二つに分けられ、周りの人々に仕え、愛した人々が羊組として神の国に迎えられ、自己中心的な生き方をしてきた人々は、山羊組として、神の国に入ることはできないと宣言されると記されています。また、身近にいる小さな者、弱い者を愛することが、イエスを愛することなのだから、とその理由も書かれています。その人が本当に救われているかどうかは、洗礼証明書ではなく、その人の生き方でわかるものです。
 まだイエスを主と口で告白していない家族、友達がいても心配することはありません。そのような心配から、自分でも見たことのない天国の素晴らしさや、地獄の恐ろしさをちらつかせて、口だけでイエスを信じると言わせるのは不誠実です。あなたは、ただ愛し続ければよいのです。それが、イエスに従う生き方のお手本だからです。もしかしたら生きている間に告白するチャンスはないかもしれません。それでも心配する必要はありません。なぜならペトロの第一手紙に書いてあるように、その人にもイエスが直接、出会ってくださるからです。

そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。(3:19)
彼らは、生きている者と死んだ者とを裁こうとしておられる方に、申し開きをしなければなりません。死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです。(4:5,6)


その時その方はきっと、あなたから受けた愛が、今、目の前にいるイエスのものであったということを知ってイエスに従う者となるのです。さあそれでは、私たちもこれから歌いはじめましょう。今日読んだ最初の部分を思い起こして下さい。あなたの愛する人々を神の家族迎え入れるプロセスは、あなたが神に歌い祈ることから始まります。「主よ、どうぞ私の生活の中に、あなたの権威と力を現してください」と願い、祈り、歌いましょう。


メッセージのポイント
正式な手続きなしに捕らえられ、鞭打たれ、収監されたパウロとシラスが真夜中の牢の中でしていたことは、賛美の歌を歌い祈ることでした。極限状態の中でも私たちは賛美し祈ることができます。そしてそこに神は御自身の権威と力を現されます。そこで現される権威と力は、人を恐れることのない者をも畏怖させひれ伏させるのです。神を畏れる時、人は本当に正しい判断をすることができます。こうして初めて神を畏れることを知った看守とその家族は皆、神の家族となって喜びに満たされました。あなたの愛する人々を神の家族迎え入れるプロセスは、神に歌い祈ることから始まります。「主よ、どうぞ私の生活の中に、あなたの権威と力を現してください」と祈り続けましょう。

話し合いのために
1) なぜ、誰一人逃げ出そうとしなかったのでしょう?
2) 看守はなぜパウロが救われるためにすべきことを尋ねたのでしょう?