<メッセージノート>
2013/11/10 旧約聖書の人物シリーズ① ヨナ
ヨナ:敵に遣わされた預言者 池田真理
1.逃げ出したヨナ(1~3章)
1:1主の言葉がアミタイの子ヨナに臨んだ。2「さあ、大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ。彼らの悪はわたしの前に届いている。」3しかしヨナは主から逃れようとして出発し、タルシシュに向かった。ヤッファに下ると、折よくタルシシュ行きの船が見つかったので、船賃を払って乗り込み、人々に紛れ込んで主から逃れようと、タルシシュに向かった。
2.怒るヨナと憐れむ神様(4章)
彼は主に訴えた。「ああ、主よ、私がまだ国にいましたとき、言った通りではありませんか。だから、私は先にタルシシュに向かって逃げたのです。私には、こうなることが分かっていました。あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です。」(4:2)
4:10すると、主はこう言われた。「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。11それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」
3.敵を愛するということ(マタイ5:43-47)
43「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。44しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。45あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。46自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。47自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。48だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」
メッセージのポイント
神様がヨナを遣わしたニネベという町は、アッシリア帝国の都で、ユダヤ人にとっては自分たちを圧迫する敵国の町でした。ヨナは、神様が敵をも赦す憐れみ深い方であることを知っていたために、自分が敵に滅びの宣告をすることで敵が悔い改めて赦されることを予想し、神様からの呼びかけを無視して遠い国に逃げようとしました。神様の愛と憐れみは、神様の前に悔い改める者全てに注がれます。私たちには悪と思えても、私たちを苦しめる存在だとしても、その神様の愛の対象外になる人はいません。神様がヨナに呼びかけたように、私たちも神様に敵を愛することを求められています。ヨナが素直に応じられなかったように、私たちも簡単に応じられないかもしれません。でも、私たちもイエス様の敵であったのに赦されました。私たちに注がれている神様の愛によって、敵を愛する者に変えられていきましょう。
話し合いのために
1) ヨナはなぜ逃げ出したのでしょうか?
2) どうすれば「敵を愛する」ことができるでしょうか?
ヨナ:敵に遣わされた預言者 池田真理
1.逃げ出したヨナ(1~3章)
1:1主の言葉がアミタイの子ヨナに臨んだ。2「さあ、大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ。彼らの悪はわたしの前に届いている。」3しかしヨナは主から逃れようとして出発し、タルシシュに向かった。ヤッファに下ると、折よくタルシシュ行きの船が見つかったので、船賃を払って乗り込み、人々に紛れ込んで主から逃れようと、タルシシュに向かった。
2.怒るヨナと憐れむ神様(4章)
彼は主に訴えた。「ああ、主よ、私がまだ国にいましたとき、言った通りではありませんか。だから、私は先にタルシシュに向かって逃げたのです。私には、こうなることが分かっていました。あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です。」(4:2)
4:10すると、主はこう言われた。「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。11それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」
3.敵を愛するということ(マタイ5:43-47)
43「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。44しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。45あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。46自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。47自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。48だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」
メッセージのポイント
神様がヨナを遣わしたニネベという町は、アッシリア帝国の都で、ユダヤ人にとっては自分たちを圧迫する敵国の町でした。ヨナは、神様が敵をも赦す憐れみ深い方であることを知っていたために、自分が敵に滅びの宣告をすることで敵が悔い改めて赦されることを予想し、神様からの呼びかけを無視して遠い国に逃げようとしました。神様の愛と憐れみは、神様の前に悔い改める者全てに注がれます。私たちには悪と思えても、私たちを苦しめる存在だとしても、その神様の愛の対象外になる人はいません。神様がヨナに呼びかけたように、私たちも神様に敵を愛することを求められています。ヨナが素直に応じられなかったように、私たちも簡単に応じられないかもしれません。でも、私たちもイエス様の敵であったのに赦されました。私たちに注がれている神様の愛によって、敵を愛する者に変えられていきましょう。
話し合いのために
1) ヨナはなぜ逃げ出したのでしょうか?
2) どうすれば「敵を愛する」ことができるでしょうか?
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<メッセージ全文>
2013/11/10 旧約聖書の人物シリーズ① ヨナ
ヨナ:敵に遣わされた預言者 池田真理
これから月に一回、旧約聖書の人物シリーズを始めることになりました。最初の今日は、旧約聖書の中でもとても短いヨナ書の主人公、預言者ヨナから始めます。ヨナ書の全体からお話しますが、全部を読むことはできないので、どうぞ今週読み返してみてください。
1.逃げ出したヨナ(1~3章)
1:1主の言葉がアミタイの子ヨナに臨んだ。2「さあ、大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ。彼らの悪はわたしの前に届いている。」3しかしヨナは主から逃れようとして出発し、タルシシュに向かった。ヤッファに下ると、折よくタルシシュ行きの船が見つかったので、船賃を払って乗り込み、人々に紛れ込んで主から逃れようと、タルシシュに向かった。
今日の主人公、預言者ヨナは、イエス様の時代から約800年くらい前のイスラエルに生きた預言者と言われています。有名なダビデやソロモンによって築かれたイスラエル王国は、既にヨナの時代から100年以上前に南北に分裂して、イスラエルはエジプトやアッシリアのような強国からの脅威にさらされていました。実際、ヨナの時代から100年経たない内に、北王国はアッシリア帝国によって滅ぼされてしまいます。そして、ここに出てくるニネベという町は、そのアッシリアの都です。ヨナの時代に既にアッシリアは着実に勢力を拡大して、イスラエルの人々を脅かしていました。(アッシリア地図)つまり、神様はヨナを、イスラエルの人々の脅威となっている外国の町に遣わそうとしたということです。後の3章で明らかになりますが、神様がヨナをニネベに遣わそうとしたのは、ニネベの町に蔓延している悪のために、ニネベを40日の内に滅ぼすという宣告を伝えさせるためです。でもヨナは、その神様の命令から逃げ出しました。ヨナが逃げようとしたタルシシュというところは、ニネベとは正反対の方向にあり、今のスペインにある港町だと言われています。(タルシシュ・ニネベ地図)ヨナが生活していたパレスチナ地方から、地中海を通って一番遠くに位置しています。ヨナは、神様の命令から逃れるだめに、出来る限り遠くに行こうと思ったのでしょう。ヨナがそこまでして神様の命令から逃げようとした理由については、後でまた触れたいと思います。ここでまず注目したいのは、ヨナは神様の命令から逃げ出したけれど、神様を畏れる心は持ち続けていたということです。
1章の続きを読むと、神様の命令から逃げ出して、ニネベとは逆方向の遠くタルシシュに舟で逃げようとしたヨナに、神様は嵐を送って行く手を阻みました。荒れ狂う海の上で、ヨナはその嵐が自分が神様に従わなかったせいだと悟りました。そして、その時自分にできることは死を持って償うことだけだと確信して、自分を海に放り込むように言います。その通りヨナが海に投げ込まれると、嵐は静まりました。しかし2章では、神様がヨナを巨大な魚に飲み込ませて救います。ヨナは、魚のお腹の中で自分を救った神様を賛美します。そしてヨナは無事に陸地に着くことができ、今度は神様の命令に従って、すぐにニネベに向かいました。(3章)
神様が私たちに望むことは、時に私たち自身の思いとは異なります。ヨナのように逃げ出したくなることもあります。そんな時私たちは、ヨナが逃げ出したように、自分の思いを神様にぶつけていいのです。ヨナは、タルシシュに逃げようとしたとき、本当に神様から逃げられると思っていたのでしょうか?本当は逃げられないことは分かっていながらも、ただ神様に抵抗したかったのだと思います。逃げることで「それには従いたくありません」と神様に意思表示したのです。それも、地中海の果てのタルシシュまで逃げようとしたことを考えると、自分の出来うる限りの抵抗をしようとしたと言えます。でもヨナは、そこまで抵抗しながらも、神様を畏れ礼拝する心は失っていませんでした。だから、嵐が起こって行く手を阻まれた時、あっさり自分の非を認めて、自分が逃げ出した神様でもその神様が偉大な方であることを人々に宣言できました。だから、神様は嵐の海でヨナを救い、もう一度チャンスを与えました。私たちも、神様を信頼し礼拝する中で、自分の正直な思いを神様に打ち明けることが許されています。イエス様を信じ従うなら、自己中心的な生き方をやめて、神様の意志に従うべきだというのは真実ですが、それと、自分の弱さや小ささを押し殺して、いつでも強がっていなければいけないというのは違います。神様は、私たちが弱さや間違いやすさを持ったままで、それでも神様を見上げ、ただ神様を信頼することを喜んでくださいます。だから、自分の思いと神様の思いが違うと気が付いて、それを受け入れるのに時間がかかっても、それを自分の神様への信頼が足りないからだと嘆く必要はありません。神様に不満を打ち明けても、神様を畏れ礼拝することさえ捨てなければ、神様は私たちのどんな文句でも怒りでも受け入れてくださいます。そして、色々なことを通して、私達を変えていって下さいます。そうしてありのままの自分を神様にぶつけ、本音を明かしていくことによって、神様と私達の信頼関係は深められていきます。そして、少しずつ、自分の願いと神様の思いが一致していくように変えられていきます。
2.怒るヨナと憐れむ神様(4章)
さて、ヨナの物語の1章から3章では、ヨナがなぜ神様の命令に従いたくなかったのか、なぜ逃げ出したのか、その理由はまだ言われていませんでした。それは4章になって言われています。4:2でヨナはこう言っています。
彼は主に訴えた。「ああ、主よ、私がまだ国にいましたとき、言った通りではありませんか。だから、私は先にタルシシュに向かって逃げたのです。私には、こうなることが分かっていました。あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です。」(4:2)
ヨナは、自分が神様の命令に従ってニネベの町に滅びを宣告しに行けば、彼らに悔い改めるチャンスを与えることになると知っていました。そして、彼らが悔い改めれば、神様は思い直して彼らを赦すだろうと予想していました。だから、ニネベに行くのは嫌だったのです。最初に少しお話したとおり、ニネベは、ユダヤ人を圧迫するアッシリア帝国の都の一つです。ヨナは、神様が自分の敵を愛するということを受け入れられませんでした。ヨナの神様への訴えは、神様を非難していながらも、神様を讃えているようです。「あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です」 だから、行きたくなかったのです、と言っています。神様の恵みと憐れみ、忍耐深さ、慈しみが、自分に向けられている間はありがたくても、それが自分に対してと同じように自分の敵にも向けられるのはがまんできない。それはヨナも私たちも同じです。
ニネベの町が赦されたことに怒るヨナは、外から都の様子を見ていました。日差しの強いところだったので、神様はヨナのために木を生えさせて日よけをつくりました。ヨナはそれを喜びますが、神様はすぐにその木を枯れさせてしまい、更に熱風を吹かせたので、ヨナはまた神様に怒って、死んだ方がましですと訴えます。ヨナ書の最後は、神様のヨナに対する語りかけで終わっています。
4:10すると、主はこう言われた。「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。11それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」
神様から見ても、ヨナから見ても、ニネベの人々の悪い行いは明白でした。神様は悪を見過ごしにされる方ではありません。だから、ニネベの町を滅ぼそうとされました。そして、ヨナにしてみれば、もしニネベの人々が自分たちの悪い行いによって神様の怒りを買い、滅ぼされるなら、自業自得だし、敵が滅ぶのは喜ぶべきことですらあったでしょう。でも、どんなに神様の目にも私たち人間の目にも悪とされることを行ってきたとしても、その人がそれを本気で悔いて誤りを正すなら、私たちが許せないと思っても、神様はその人を赦します。ヨナには、この神様の憐れみの大きさ、愛の大きさが、大きすぎるように思えました。ヨナにとってはニネベは悪に満ちた敵の町でしかありませんでしたが、神様にとっては、イスラエルと同じように愛すべき対象でした。ニネベの人々も、ヨナやイスラエルの人々も、神様から見れば、ひとしく「右も左もわきまえぬ人間」だということです。これは、私たちが、自分と対立する人や、自分を苦しめる人を前にして、思い出さなければいけないことです。私たちには悪と思えても、私たちを苦しめる存在だとしても、神様の愛の対象外になる人はいません。ヨナができなかったように、私たちもその人をすぐに愛することは出来ないかもしれません。でも、自分が愛せなくても、神様はその人のことを愛しているということを覚えていれば、その人との関係を神様に委ねることができます。
敵を愛するということについて、イエス様は次のように言っています。
3.敵を愛するということ(マタイ5:43-47)
43「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。44しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。45あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。46自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。47自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。48だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」
悪い者にも良い者にも、神様は太陽を昇らせ、雨を降らせるということは、全ての時代の人間がぶつかってきたこの世界の不条理だと思います。苦労しても報われない人がいる一方、楽に富を得る人がいます。だから、神を信じても意味がない、神なんていない、と言う人もいます。でも、聖書の教える神様は完全です。私たち人間の想像の及ぶ範囲を超えて、この世界の一人一人の人間、一つ一つの出来事を全て知っている方です。そして、善い者・正しい者に報い、悪い者・正しくない者を裁く方です。ただし同時に、忍耐強く、憐れみ深い方です。私たちは、自分を苦しめる人、自分を傷つけた人に対して、神様がすぐに裁いてくれるように願ってしまいますが、そう感じている私たち自身も、自分の気が付かない内にその人や他の人を苦しめているかもしれません。もちろん、神様から見ても明らかに一方が悪くて他方が正しい時もあると思います。でも、何が正しくて、何が間違っているか、人間関係のこじれを究極的に判断できるのは神様だけです。私たちは皆、神様から見れば、不完全で「右も左も分からない人間」に変わりありません。だから、性急に一方的に相手を非難するのではなくて、神様にその人のことを委ねて、自分にできることを教えていただく必要があります。苦しくても神様に希望を持ち続ければ、ヨナのように逃げ出したとしても、神様が必ず導いてくださいます。
イエス様は「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」というご自分の言葉を、自ら実行した方です。イエス様は、自分を捕え、十字架に付けて苦しめた人間のために祈り、イエス様を信じていなかった私たちを、先に愛してくださいました。私たちのために十字架で命を捧げるほど、文字通り命を懸けて私達を愛してくださいました。このイエス様の愛によって、私たちも敵を愛する人に変えられていくことができます。
聖書に、預言者であるにもかかわらず神様から逃げ出したヨナのことが記録されているのは、私たちにとって大きな励ましです。ヨナだけではなく、この先にご紹介していく他の旧約聖書の人物たちも、神様からの呼びかけに最初から迷いなく応じた人はそう多くいません。神様が愛するようには、私たちが人を愛することができないということは、神様はよく知っています。それでも、そんな小さな私達を通して、神様はこの世界に愛を示そうとしています。ヨナが呼びかけられたように、私たちも自分では到底無理と思えるようなことをやるように、到底愛せないと思うような人を愛するように、呼びかけられることがあります。そういう時、自分の戸惑いと不満を神様に隠す必要はありません。たとえ、ヨナのように逃げ出したとしても、神様への信頼と希望を捨てなければ、神様が私たちの心から迷いや不安を取り除き、導いてくださいます。
メッセージのポイント
神様がヨナを遣わしたニネベという町は、アッシリア帝国の都で、ユダヤ人にとっては自分たちを圧迫する敵国の町でした。ヨナは、神様が敵をも赦す憐れみ深い方であることを知っていたために、自分が敵に滅びの宣告をすることで敵が悔い改めて赦されることを予想し、神様からの呼びかけを無視して遠い国に逃げようとしました。神様の愛と憐れみは、神様の前に悔い改める者全てに注がれます。私たちには悪と思えても、私たちを苦しめる存在だとしても、その神様の愛の対象外になる人はいません。神様がヨナに呼びかけたように、私たちも神様に敵を愛することを求められています。ヨナが素直に応じられなかったように、私たちも簡単に応じられないかもしれません。でも、私たちもイエス様の敵であったのに赦されました。私たちに注がれている神様の愛によって、敵を愛する者に変えられていきましょう。
話し合いのために
1) ヨナはなぜ逃げ出したのでしょうか?
2) どうすれば「敵を愛する」ことができるでしょうか?
ヨナ:敵に遣わされた預言者 池田真理
これから月に一回、旧約聖書の人物シリーズを始めることになりました。最初の今日は、旧約聖書の中でもとても短いヨナ書の主人公、預言者ヨナから始めます。ヨナ書の全体からお話しますが、全部を読むことはできないので、どうぞ今週読み返してみてください。
1.逃げ出したヨナ(1~3章)
1:1主の言葉がアミタイの子ヨナに臨んだ。2「さあ、大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ。彼らの悪はわたしの前に届いている。」3しかしヨナは主から逃れようとして出発し、タルシシュに向かった。ヤッファに下ると、折よくタルシシュ行きの船が見つかったので、船賃を払って乗り込み、人々に紛れ込んで主から逃れようと、タルシシュに向かった。
今日の主人公、預言者ヨナは、イエス様の時代から約800年くらい前のイスラエルに生きた預言者と言われています。有名なダビデやソロモンによって築かれたイスラエル王国は、既にヨナの時代から100年以上前に南北に分裂して、イスラエルはエジプトやアッシリアのような強国からの脅威にさらされていました。実際、ヨナの時代から100年経たない内に、北王国はアッシリア帝国によって滅ぼされてしまいます。そして、ここに出てくるニネベという町は、そのアッシリアの都です。ヨナの時代に既にアッシリアは着実に勢力を拡大して、イスラエルの人々を脅かしていました。(アッシリア地図)つまり、神様はヨナを、イスラエルの人々の脅威となっている外国の町に遣わそうとしたということです。後の3章で明らかになりますが、神様がヨナをニネベに遣わそうとしたのは、ニネベの町に蔓延している悪のために、ニネベを40日の内に滅ぼすという宣告を伝えさせるためです。でもヨナは、その神様の命令から逃げ出しました。ヨナが逃げようとしたタルシシュというところは、ニネベとは正反対の方向にあり、今のスペインにある港町だと言われています。(タルシシュ・ニネベ地図)ヨナが生活していたパレスチナ地方から、地中海を通って一番遠くに位置しています。ヨナは、神様の命令から逃れるだめに、出来る限り遠くに行こうと思ったのでしょう。ヨナがそこまでして神様の命令から逃げようとした理由については、後でまた触れたいと思います。ここでまず注目したいのは、ヨナは神様の命令から逃げ出したけれど、神様を畏れる心は持ち続けていたということです。
1章の続きを読むと、神様の命令から逃げ出して、ニネベとは逆方向の遠くタルシシュに舟で逃げようとしたヨナに、神様は嵐を送って行く手を阻みました。荒れ狂う海の上で、ヨナはその嵐が自分が神様に従わなかったせいだと悟りました。そして、その時自分にできることは死を持って償うことだけだと確信して、自分を海に放り込むように言います。その通りヨナが海に投げ込まれると、嵐は静まりました。しかし2章では、神様がヨナを巨大な魚に飲み込ませて救います。ヨナは、魚のお腹の中で自分を救った神様を賛美します。そしてヨナは無事に陸地に着くことができ、今度は神様の命令に従って、すぐにニネベに向かいました。(3章)
神様が私たちに望むことは、時に私たち自身の思いとは異なります。ヨナのように逃げ出したくなることもあります。そんな時私たちは、ヨナが逃げ出したように、自分の思いを神様にぶつけていいのです。ヨナは、タルシシュに逃げようとしたとき、本当に神様から逃げられると思っていたのでしょうか?本当は逃げられないことは分かっていながらも、ただ神様に抵抗したかったのだと思います。逃げることで「それには従いたくありません」と神様に意思表示したのです。それも、地中海の果てのタルシシュまで逃げようとしたことを考えると、自分の出来うる限りの抵抗をしようとしたと言えます。でもヨナは、そこまで抵抗しながらも、神様を畏れ礼拝する心は失っていませんでした。だから、嵐が起こって行く手を阻まれた時、あっさり自分の非を認めて、自分が逃げ出した神様でもその神様が偉大な方であることを人々に宣言できました。だから、神様は嵐の海でヨナを救い、もう一度チャンスを与えました。私たちも、神様を信頼し礼拝する中で、自分の正直な思いを神様に打ち明けることが許されています。イエス様を信じ従うなら、自己中心的な生き方をやめて、神様の意志に従うべきだというのは真実ですが、それと、自分の弱さや小ささを押し殺して、いつでも強がっていなければいけないというのは違います。神様は、私たちが弱さや間違いやすさを持ったままで、それでも神様を見上げ、ただ神様を信頼することを喜んでくださいます。だから、自分の思いと神様の思いが違うと気が付いて、それを受け入れるのに時間がかかっても、それを自分の神様への信頼が足りないからだと嘆く必要はありません。神様に不満を打ち明けても、神様を畏れ礼拝することさえ捨てなければ、神様は私たちのどんな文句でも怒りでも受け入れてくださいます。そして、色々なことを通して、私達を変えていって下さいます。そうしてありのままの自分を神様にぶつけ、本音を明かしていくことによって、神様と私達の信頼関係は深められていきます。そして、少しずつ、自分の願いと神様の思いが一致していくように変えられていきます。
2.怒るヨナと憐れむ神様(4章)
さて、ヨナの物語の1章から3章では、ヨナがなぜ神様の命令に従いたくなかったのか、なぜ逃げ出したのか、その理由はまだ言われていませんでした。それは4章になって言われています。4:2でヨナはこう言っています。
彼は主に訴えた。「ああ、主よ、私がまだ国にいましたとき、言った通りではありませんか。だから、私は先にタルシシュに向かって逃げたのです。私には、こうなることが分かっていました。あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です。」(4:2)
ヨナは、自分が神様の命令に従ってニネベの町に滅びを宣告しに行けば、彼らに悔い改めるチャンスを与えることになると知っていました。そして、彼らが悔い改めれば、神様は思い直して彼らを赦すだろうと予想していました。だから、ニネベに行くのは嫌だったのです。最初に少しお話したとおり、ニネベは、ユダヤ人を圧迫するアッシリア帝国の都の一つです。ヨナは、神様が自分の敵を愛するということを受け入れられませんでした。ヨナの神様への訴えは、神様を非難していながらも、神様を讃えているようです。「あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です」 だから、行きたくなかったのです、と言っています。神様の恵みと憐れみ、忍耐深さ、慈しみが、自分に向けられている間はありがたくても、それが自分に対してと同じように自分の敵にも向けられるのはがまんできない。それはヨナも私たちも同じです。
ニネベの町が赦されたことに怒るヨナは、外から都の様子を見ていました。日差しの強いところだったので、神様はヨナのために木を生えさせて日よけをつくりました。ヨナはそれを喜びますが、神様はすぐにその木を枯れさせてしまい、更に熱風を吹かせたので、ヨナはまた神様に怒って、死んだ方がましですと訴えます。ヨナ書の最後は、神様のヨナに対する語りかけで終わっています。
4:10すると、主はこう言われた。「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。11それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」
神様から見ても、ヨナから見ても、ニネベの人々の悪い行いは明白でした。神様は悪を見過ごしにされる方ではありません。だから、ニネベの町を滅ぼそうとされました。そして、ヨナにしてみれば、もしニネベの人々が自分たちの悪い行いによって神様の怒りを買い、滅ぼされるなら、自業自得だし、敵が滅ぶのは喜ぶべきことですらあったでしょう。でも、どんなに神様の目にも私たち人間の目にも悪とされることを行ってきたとしても、その人がそれを本気で悔いて誤りを正すなら、私たちが許せないと思っても、神様はその人を赦します。ヨナには、この神様の憐れみの大きさ、愛の大きさが、大きすぎるように思えました。ヨナにとってはニネベは悪に満ちた敵の町でしかありませんでしたが、神様にとっては、イスラエルと同じように愛すべき対象でした。ニネベの人々も、ヨナやイスラエルの人々も、神様から見れば、ひとしく「右も左もわきまえぬ人間」だということです。これは、私たちが、自分と対立する人や、自分を苦しめる人を前にして、思い出さなければいけないことです。私たちには悪と思えても、私たちを苦しめる存在だとしても、神様の愛の対象外になる人はいません。ヨナができなかったように、私たちもその人をすぐに愛することは出来ないかもしれません。でも、自分が愛せなくても、神様はその人のことを愛しているということを覚えていれば、その人との関係を神様に委ねることができます。
敵を愛するということについて、イエス様は次のように言っています。
3.敵を愛するということ(マタイ5:43-47)
43「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。44しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。45あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。46自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。47自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。48だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」
悪い者にも良い者にも、神様は太陽を昇らせ、雨を降らせるということは、全ての時代の人間がぶつかってきたこの世界の不条理だと思います。苦労しても報われない人がいる一方、楽に富を得る人がいます。だから、神を信じても意味がない、神なんていない、と言う人もいます。でも、聖書の教える神様は完全です。私たち人間の想像の及ぶ範囲を超えて、この世界の一人一人の人間、一つ一つの出来事を全て知っている方です。そして、善い者・正しい者に報い、悪い者・正しくない者を裁く方です。ただし同時に、忍耐強く、憐れみ深い方です。私たちは、自分を苦しめる人、自分を傷つけた人に対して、神様がすぐに裁いてくれるように願ってしまいますが、そう感じている私たち自身も、自分の気が付かない内にその人や他の人を苦しめているかもしれません。もちろん、神様から見ても明らかに一方が悪くて他方が正しい時もあると思います。でも、何が正しくて、何が間違っているか、人間関係のこじれを究極的に判断できるのは神様だけです。私たちは皆、神様から見れば、不完全で「右も左も分からない人間」に変わりありません。だから、性急に一方的に相手を非難するのではなくて、神様にその人のことを委ねて、自分にできることを教えていただく必要があります。苦しくても神様に希望を持ち続ければ、ヨナのように逃げ出したとしても、神様が必ず導いてくださいます。
イエス様は「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」というご自分の言葉を、自ら実行した方です。イエス様は、自分を捕え、十字架に付けて苦しめた人間のために祈り、イエス様を信じていなかった私たちを、先に愛してくださいました。私たちのために十字架で命を捧げるほど、文字通り命を懸けて私達を愛してくださいました。このイエス様の愛によって、私たちも敵を愛する人に変えられていくことができます。
聖書に、預言者であるにもかかわらず神様から逃げ出したヨナのことが記録されているのは、私たちにとって大きな励ましです。ヨナだけではなく、この先にご紹介していく他の旧約聖書の人物たちも、神様からの呼びかけに最初から迷いなく応じた人はそう多くいません。神様が愛するようには、私たちが人を愛することができないということは、神様はよく知っています。それでも、そんな小さな私達を通して、神様はこの世界に愛を示そうとしています。ヨナが呼びかけられたように、私たちも自分では到底無理と思えるようなことをやるように、到底愛せないと思うような人を愛するように、呼びかけられることがあります。そういう時、自分の戸惑いと不満を神様に隠す必要はありません。たとえ、ヨナのように逃げ出したとしても、神様への信頼と希望を捨てなければ、神様が私たちの心から迷いや不安を取り除き、導いてくださいます。
メッセージのポイント
神様がヨナを遣わしたニネベという町は、アッシリア帝国の都で、ユダヤ人にとっては自分たちを圧迫する敵国の町でした。ヨナは、神様が敵をも赦す憐れみ深い方であることを知っていたために、自分が敵に滅びの宣告をすることで敵が悔い改めて赦されることを予想し、神様からの呼びかけを無視して遠い国に逃げようとしました。神様の愛と憐れみは、神様の前に悔い改める者全てに注がれます。私たちには悪と思えても、私たちを苦しめる存在だとしても、その神様の愛の対象外になる人はいません。神様がヨナに呼びかけたように、私たちも神様に敵を愛することを求められています。ヨナが素直に応じられなかったように、私たちも簡単に応じられないかもしれません。でも、私たちもイエス様の敵であったのに赦されました。私たちに注がれている神様の愛によって、敵を愛する者に変えられていきましょう。
話し合いのために
1) ヨナはなぜ逃げ出したのでしょうか?
2) どうすれば「敵を愛する」ことができるでしょうか?