<メッセージノート>
2013/12/01 シリーズ “あなたのクリスマスをもっとずっと素敵に! ” (1)
預言されていた救い主の誕生
イザヤ 7:10-14,9:5,6, エレミア23:5,6
A. インマヌエル
主は更にアハズに向かって言われた。「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に。」しかし、アハズは言った。「わたしは求めない。主を試すようなことはしない。」イザヤは言った。「ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間にもどかしい思いをさせるだけでは足りずわたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。それゆえ、わたしの主が御自らあなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産みその名をインマヌエルと呼ぶ。 (イザヤ 7:10-14)
B.驚くべき指導者、力ある神永遠の父、平和の君
さらにイザヤは9章で、やがて現れる救い主、「インマヌエル」と呼ばれるどのような方なのかを示す預言をしています。
ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神永遠の父、平和の君」と唱えられる。ダビデの王座とその王国に権威は増し平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。(イザヤ 9:5,6)
C.主は我らの救い
見よ、このような日が来る、と主は言われる。わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。王は治め、栄えこの国に正義と恵みの業を行う。彼の代にユダは救われイスラエルは安らかに住む。彼の名は、「主は我らの救い」と呼ばれる。 (エレミア 23:5,6)
メッセージのポイント
救い主イエスの誕生はその数百年前から預言されていました。しかもそれらの預言は、やがて来る救い主がどのような方なのかということにも触れていたので、私たちは確かにイエスこそその方だと信じることが出来るのです。イエスは、いつも共にいてくださる方、平和をもたらす力あるリーダーであり神、そして私たちに救いをもたらす神の正義だと預言されていました。そのような方が、今から約2000年前に地上に生まれました。クリスマスとはそのような日なのです。イエスがあなたの心のなかにも、そのような方として輝きますように。
話し合いのために
1) インマヌエルとはどのような意味ですか?
2) 救いとは一体何でしょう?
預言されていた救い主の誕生
イザヤ 7:10-14,9:5,6, エレミア23:5,6
A. インマヌエル
主は更にアハズに向かって言われた。「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に。」しかし、アハズは言った。「わたしは求めない。主を試すようなことはしない。」イザヤは言った。「ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間にもどかしい思いをさせるだけでは足りずわたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。それゆえ、わたしの主が御自らあなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産みその名をインマヌエルと呼ぶ。 (イザヤ 7:10-14)
B.驚くべき指導者、力ある神永遠の父、平和の君
さらにイザヤは9章で、やがて現れる救い主、「インマヌエル」と呼ばれるどのような方なのかを示す預言をしています。
ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神永遠の父、平和の君」と唱えられる。ダビデの王座とその王国に権威は増し平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。(イザヤ 9:5,6)
C.主は我らの救い
見よ、このような日が来る、と主は言われる。わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。王は治め、栄えこの国に正義と恵みの業を行う。彼の代にユダは救われイスラエルは安らかに住む。彼の名は、「主は我らの救い」と呼ばれる。 (エレミア 23:5,6)
メッセージのポイント
救い主イエスの誕生はその数百年前から預言されていました。しかもそれらの預言は、やがて来る救い主がどのような方なのかということにも触れていたので、私たちは確かにイエスこそその方だと信じることが出来るのです。イエスは、いつも共にいてくださる方、平和をもたらす力あるリーダーであり神、そして私たちに救いをもたらす神の正義だと預言されていました。そのような方が、今から約2000年前に地上に生まれました。クリスマスとはそのような日なのです。イエスがあなたの心のなかにも、そのような方として輝きますように。
話し合いのために
1) インマヌエルとはどのような意味ですか?
2) 救いとは一体何でしょう?
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<メッセージ全文>
2013/12/01 シリーズ “あなたのクリスマスをもっとずっと素敵に! ” (1)
預言されていた救い主の誕生
イザヤ 7:10-14,9:5,6, エレミア23:5,6
聖書は旧約と新約の部分に分かれています。イエスの誕生前の神様の計画と天地創造以来の人間の歩みが書かれている旧約聖書と、イエスやその弟子たちの歩み、初代教会の活動が記されているのが新約聖書です。ですから旧約聖書にはイエスの名は出てきません。けれども注意深く読んでみると、旧約聖書にも未来の預言としてイエスについて記されていることが分かります。今日、旧約聖書の三つの部分から、クリスマスに来られたイエスが、あなたにとってどのような方なのかということをお話しします。始めに取り上げるのはイザヤ書7章10-14節です。 イエスの誕生から700年位前の預言です。預言者イザヤは、当時敵対していたイスラエルとシリアを恐れ、神様を信頼せず、パニックに陥っていたユダの王アハズに神の言葉を伝えるために会いに行きなさいと神に示されました。
A. インマヌエル
イザヤはアハズにまず、「落ち着いて静かにしていなさい。恐れることはない。敵の企ては成功しないから、私を信じなさい。そうすればあなたは揺り動かされない」という神様からのメッセージを伝えましたが、そのメッセージを王は素直に受け取れず、喜べず黙っていました。その王に対して神様はイザヤを通して、さらに呼びかけたのです。
主は更にアハズに向かって言われた。「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に。」しかし、アハズは言った。「わたしは求めない。主を試すようなことはしない。」イザヤは言った。「ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間にもどかしい思いをさせるだけでは足りずわたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。それゆえ、わたしの主が御自らあなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産みその名をインマヌエルと呼ぶ。 (イザヤ 7:10-14)
しかし、「それでも信頼出来ないならしるしを求めなさい」という神様からの提案にも前向きになれない王に、イザヤは言ったのです。 「ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間にもどかしい思いをさせるだけでは足りずわたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。それゆえ、わたしの主が御自らあなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産みその名をインマヌエルと呼ぶ。」 このしるしに相応しい救い主の誕生を、ユダヤの民はさらに700年待たなければなりませんでした。イエスはインマヌエルと呼ばれる方としてこられました。「神はあなたとともにいる」という意味です。アハズに告げられた言葉は今あなたに向けられています。「本当に信頼できる誰かが、いつでも一緒にいてくれる」 今まで誰もそのようにあなたに告げた人はいなかったかもしれません。しかし今日、イザヤはあなたに語りかけているのです。 あなたは、「神はあなたとともにいる」ことを知らずに、あるいは受け入れずに歩んできました。だから悩みがあり、不安があり、不満がありました。それを人にぶつけ、あるいは誰かの不満をぶつけられ、傷ついたり、傷つけられたりして来たのです。よい時があれば、不安を忘れて過ごした時もあったのです。考えないことにすることはできても、忘れているときはあっても、心の一番深いところにある虚しさを消すことはできませんでした。けれどもあなたが、イエスを神、救い主として誰よりも近くに迎えるとき、誰も取り去ることのできない平安があなたの心の訪れ、満たしてくれます。
B.驚くべき指導者、力ある神永遠の父、平和の君
さらにイザヤは9章で、やがて現れる救い主、「インマヌエル」と呼ばれるどのような方なのかを示す預言をしています。
ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神永遠の父、平和の君」と唱えられる。ダビデの王座とその王国に権威は増し平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。(イザヤ 9:5,6)
やがて現れる救い主、「インマヌエル」と呼ばれる方は「驚くべき指導者、力ある神永遠の父、平和の君」と唱えられるというのです。従うべき信頼できる指導者は、人ではなく神だというのです。しかし、どこかわからない天の上の方から私たちをただ眺めているような神ではなく、具体的に世界に介入してこられ究極的な平和をもたらすというのです。世界はまだ争っています。戦争だけではありません。親子が、夫婦が、学校や、職場の中でも。まだすべての人が心にこの方を受け入れていないから、争いは止まないのです。なぜキリスト教徒が半数以上を占めるのにまだ止まないのでしょうか?イエスに従って生きることと、キリスト教徒であることとは違うのです。イエスは、ただ私を神と信じ、私の十字架があなたの罪を赦したと信じ、バプテスマを受け、教会のメンバーになれば、それで完成で、あとはキリストの再臨か、天に移される時を待っていなさいとはおっしゃいませんでした。「私に従ってきなさい」と言われるのです。悪魔でもイエスを神と信じているのです。必要なのはイエスを主と信じることです。主と信じるということには実質が伴わなければなりません。その人に従って歩み続けるのでなければ、その人を主と信じていることにはなりません。イエスがあなたに本当に求めているのは、キリスト教徒になることでも、教会メンバーになることでもなく、従ってくること=弟子となることです。様々な分野の指導者がその知恵や技術を伝えるために弟子を持ちます。私たちはどのような技能をマスターするためにイエスの弟子になるのでしょうか?イエスは狭い一つの分野だけのマスターではありません。すべての人に必要な生きるということのマスターなのです。人にとって生きるとは、ただ生存しているということではありません。人が生きることの本質は「愛する」ということです。私たちは「愛する」ということを身につけるためにイエスの弟子になるともいえるのです。愛することを知っている人だけが、自分の生きている意味を、自分の本当の価値を知ることができます。クリスマスは、永遠に変わらない力ある神が、イエスという、生きること愛することのマスターとして来られたことを祝う日です。そして、ついてくる一人一人の中に愛を満たしてゆくという仕方で、あらゆる関係の中に平和をもたらそうとしておられるのです。殺伐とした世の中や、うまくいかない人間関係は嘆いていても変わりません。けれどもこの方を受け入れ、弟子として従って行くなら、世界は、人間関係はあなたの中から変わってゆきます。
C.主は我らの救い
見よ、このような日が来る、と主は言われる。わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。王は治め、栄えこの国に正義と恵みの業を行う。彼の代にユダは救われイスラエルは安らかに住む。彼の名は、「主は我らの救い」と呼ばれる。 (エレミア 23:5,6)
エレミアは、イザヤのおよそ百年後に活動した預言者です。今私達の使っている新共同訳聖書は「主はわれわれの正義」と訳した以前の訳を「主は我らの救い」と変えています。この英語のテキストはNIVですが、改訂版のTNIVでも Righteous Saviourと変えています。 新共同訳やTNIVは元の言葉をより正確に表現しようと訳を変えたのです。ヒブル語の原語は、単なる社会正義というより神との関係における正しさを意味することばだからです。神様から救い出していただかなければならない状態から救われて、初めて実現する正義ということです。私たちはどのような状態から救い出されなければならないのでしょうか?苦しみからでしょうか、悲しみからでしょうか、病からでしょうか、漠然とした不安からでしょうか?聖書は、人間の、そこから抜け出したい状況はすべて、罪から来ると教えてきます。罪とは、神に背を向けて生きる人間の心のありようを指しています。それは自己中心な生き方と言い換えることも出来るでしょう。一人一人が神に向き合って初めて、その心のなかにも、社会にも正義が実現するのです。自分の今までの生き方が正しくなかったということを、素直に認められる人はいません。今日最初にお話したアハズ王の心を皆持っています。自分は救ってもらわなければならない状態にあるとは思いたくないのです。だから神に背を向け続けてきたのです。しかしイエスはあなたをそこから救うために来られたのです。あなたの罪を赦すために、十字架の死と苦しみに向って進む人生が始まった日。それがクリスマスです。イエスが生まれた時、羊飼いたちは天使に「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」(ルカ2:11)と告げられました。これは神様からあなたへの呼びかけです。イエスをあなたの救い主と信じましょう。イエスの弟子となってついて行きましょう。
メッセージのポイント
救い主イエスの誕生はその数百年前から預言されていました。しかもそれらの預言は、やがて来る救い主がどのような方なのかということにも触れていたので、私たちは確かにイエスこそその方だと信じることが出来るのです。イエスは、いつも共にいてくださる方、平和をもたらす力あるリーダーであり神、そして私たちに救いをもたらす神の正義だと預言されていました。そのような方が、今から約2000年前に地上に生まれました。クリスマスとはそのような日なのです。イエスがあなたの心のなかにも、そのような方として輝きますように。
話し合いのために
1) インマヌエルとはどのような意味ですか?
2) 救いとは一体何でしょう?
預言されていた救い主の誕生
イザヤ 7:10-14,9:5,6, エレミア23:5,6
聖書は旧約と新約の部分に分かれています。イエスの誕生前の神様の計画と天地創造以来の人間の歩みが書かれている旧約聖書と、イエスやその弟子たちの歩み、初代教会の活動が記されているのが新約聖書です。ですから旧約聖書にはイエスの名は出てきません。けれども注意深く読んでみると、旧約聖書にも未来の預言としてイエスについて記されていることが分かります。今日、旧約聖書の三つの部分から、クリスマスに来られたイエスが、あなたにとってどのような方なのかということをお話しします。始めに取り上げるのはイザヤ書7章10-14節です。 イエスの誕生から700年位前の預言です。預言者イザヤは、当時敵対していたイスラエルとシリアを恐れ、神様を信頼せず、パニックに陥っていたユダの王アハズに神の言葉を伝えるために会いに行きなさいと神に示されました。
A. インマヌエル
イザヤはアハズにまず、「落ち着いて静かにしていなさい。恐れることはない。敵の企ては成功しないから、私を信じなさい。そうすればあなたは揺り動かされない」という神様からのメッセージを伝えましたが、そのメッセージを王は素直に受け取れず、喜べず黙っていました。その王に対して神様はイザヤを通して、さらに呼びかけたのです。
主は更にアハズに向かって言われた。「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に。」しかし、アハズは言った。「わたしは求めない。主を試すようなことはしない。」イザヤは言った。「ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間にもどかしい思いをさせるだけでは足りずわたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。それゆえ、わたしの主が御自らあなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産みその名をインマヌエルと呼ぶ。 (イザヤ 7:10-14)
しかし、「それでも信頼出来ないならしるしを求めなさい」という神様からの提案にも前向きになれない王に、イザヤは言ったのです。 「ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間にもどかしい思いをさせるだけでは足りずわたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。それゆえ、わたしの主が御自らあなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産みその名をインマヌエルと呼ぶ。」 このしるしに相応しい救い主の誕生を、ユダヤの民はさらに700年待たなければなりませんでした。イエスはインマヌエルと呼ばれる方としてこられました。「神はあなたとともにいる」という意味です。アハズに告げられた言葉は今あなたに向けられています。「本当に信頼できる誰かが、いつでも一緒にいてくれる」 今まで誰もそのようにあなたに告げた人はいなかったかもしれません。しかし今日、イザヤはあなたに語りかけているのです。 あなたは、「神はあなたとともにいる」ことを知らずに、あるいは受け入れずに歩んできました。だから悩みがあり、不安があり、不満がありました。それを人にぶつけ、あるいは誰かの不満をぶつけられ、傷ついたり、傷つけられたりして来たのです。よい時があれば、不安を忘れて過ごした時もあったのです。考えないことにすることはできても、忘れているときはあっても、心の一番深いところにある虚しさを消すことはできませんでした。けれどもあなたが、イエスを神、救い主として誰よりも近くに迎えるとき、誰も取り去ることのできない平安があなたの心の訪れ、満たしてくれます。
B.驚くべき指導者、力ある神永遠の父、平和の君
さらにイザヤは9章で、やがて現れる救い主、「インマヌエル」と呼ばれるどのような方なのかを示す預言をしています。
ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神永遠の父、平和の君」と唱えられる。ダビデの王座とその王国に権威は増し平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。(イザヤ 9:5,6)
やがて現れる救い主、「インマヌエル」と呼ばれる方は「驚くべき指導者、力ある神永遠の父、平和の君」と唱えられるというのです。従うべき信頼できる指導者は、人ではなく神だというのです。しかし、どこかわからない天の上の方から私たちをただ眺めているような神ではなく、具体的に世界に介入してこられ究極的な平和をもたらすというのです。世界はまだ争っています。戦争だけではありません。親子が、夫婦が、学校や、職場の中でも。まだすべての人が心にこの方を受け入れていないから、争いは止まないのです。なぜキリスト教徒が半数以上を占めるのにまだ止まないのでしょうか?イエスに従って生きることと、キリスト教徒であることとは違うのです。イエスは、ただ私を神と信じ、私の十字架があなたの罪を赦したと信じ、バプテスマを受け、教会のメンバーになれば、それで完成で、あとはキリストの再臨か、天に移される時を待っていなさいとはおっしゃいませんでした。「私に従ってきなさい」と言われるのです。悪魔でもイエスを神と信じているのです。必要なのはイエスを主と信じることです。主と信じるということには実質が伴わなければなりません。その人に従って歩み続けるのでなければ、その人を主と信じていることにはなりません。イエスがあなたに本当に求めているのは、キリスト教徒になることでも、教会メンバーになることでもなく、従ってくること=弟子となることです。様々な分野の指導者がその知恵や技術を伝えるために弟子を持ちます。私たちはどのような技能をマスターするためにイエスの弟子になるのでしょうか?イエスは狭い一つの分野だけのマスターではありません。すべての人に必要な生きるということのマスターなのです。人にとって生きるとは、ただ生存しているということではありません。人が生きることの本質は「愛する」ということです。私たちは「愛する」ということを身につけるためにイエスの弟子になるともいえるのです。愛することを知っている人だけが、自分の生きている意味を、自分の本当の価値を知ることができます。クリスマスは、永遠に変わらない力ある神が、イエスという、生きること愛することのマスターとして来られたことを祝う日です。そして、ついてくる一人一人の中に愛を満たしてゆくという仕方で、あらゆる関係の中に平和をもたらそうとしておられるのです。殺伐とした世の中や、うまくいかない人間関係は嘆いていても変わりません。けれどもこの方を受け入れ、弟子として従って行くなら、世界は、人間関係はあなたの中から変わってゆきます。
C.主は我らの救い
見よ、このような日が来る、と主は言われる。わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。王は治め、栄えこの国に正義と恵みの業を行う。彼の代にユダは救われイスラエルは安らかに住む。彼の名は、「主は我らの救い」と呼ばれる。 (エレミア 23:5,6)
エレミアは、イザヤのおよそ百年後に活動した預言者です。今私達の使っている新共同訳聖書は「主はわれわれの正義」と訳した以前の訳を「主は我らの救い」と変えています。この英語のテキストはNIVですが、改訂版のTNIVでも Righteous Saviourと変えています。 新共同訳やTNIVは元の言葉をより正確に表現しようと訳を変えたのです。ヒブル語の原語は、単なる社会正義というより神との関係における正しさを意味することばだからです。神様から救い出していただかなければならない状態から救われて、初めて実現する正義ということです。私たちはどのような状態から救い出されなければならないのでしょうか?苦しみからでしょうか、悲しみからでしょうか、病からでしょうか、漠然とした不安からでしょうか?聖書は、人間の、そこから抜け出したい状況はすべて、罪から来ると教えてきます。罪とは、神に背を向けて生きる人間の心のありようを指しています。それは自己中心な生き方と言い換えることも出来るでしょう。一人一人が神に向き合って初めて、その心のなかにも、社会にも正義が実現するのです。自分の今までの生き方が正しくなかったということを、素直に認められる人はいません。今日最初にお話したアハズ王の心を皆持っています。自分は救ってもらわなければならない状態にあるとは思いたくないのです。だから神に背を向け続けてきたのです。しかしイエスはあなたをそこから救うために来られたのです。あなたの罪を赦すために、十字架の死と苦しみに向って進む人生が始まった日。それがクリスマスです。イエスが生まれた時、羊飼いたちは天使に「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」(ルカ2:11)と告げられました。これは神様からあなたへの呼びかけです。イエスをあなたの救い主と信じましょう。イエスの弟子となってついて行きましょう。
メッセージのポイント
救い主イエスの誕生はその数百年前から預言されていました。しかもそれらの預言は、やがて来る救い主がどのような方なのかということにも触れていたので、私たちは確かにイエスこそその方だと信じることが出来るのです。イエスは、いつも共にいてくださる方、平和をもたらす力あるリーダーであり神、そして私たちに救いをもたらす神の正義だと預言されていました。そのような方が、今から約2000年前に地上に生まれました。クリスマスとはそのような日なのです。イエスがあなたの心のなかにも、そのような方として輝きますように。
話し合いのために
1) インマヌエルとはどのような意味ですか?
2) 救いとは一体何でしょう?