<メッセージノート>
シリーズ “あなたのクリスマスをもっとずっと素敵に! ” (3)
2013/12/15アドベントメッセージIII ヨハネ1:1-18、創世記1:1-5
この世界を創った神様が人となられた!
a. この世界を創った神様(1-3)(創1:1-5)
1初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。2この言は、初めに神と共にあった。3万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
(創世記1:1-5)初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ」こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。
b. 人間の命、光(4-9)
4言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。5光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。6神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。7彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。8彼は光ではなく、光について証しをするために来た。9その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。
c. 神様の願い(10-13)
10言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。11言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。12しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。13この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。
d.人となられた神様、イエス・キリスト(14-18)
14言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。15ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」16わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。17律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。18いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。
e.私たちもヨハネのように遣わされる(6-8,15)
6神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。7彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。8彼は光ではなく、光について証しをするために来た。
15ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」
メッセージのポイント
神様は、世界を創造した最初から、人間を愛しておられましたが、2000年前のクリスマスに、そのことを決定的にはっきりと示されました。イエス・キリストは、2000年前のクリスマスに人としてこの世界に来てくださった神様のひとり子です。イエス様が来てくださったのは、神様が私たち人間に命を与え、暗い世界に光をもたらして下さる方だということを示すためです。暗闇にとどまらず、イエス様に命と光をいただきましょう。そして、ヨハネが明言したように、私たち自身は光ではありませんが、その光を私たちの周りの人にも運びましょう。
話し合いのために
1)イエス・キリストが「言」であり、私たちの命であり光であるとは、どういうことでしょうか?
2)世界を創造した神様とイエス・キリストの関係はどのようなものでしょうか?
2013/12/15アドベントメッセージIII ヨハネ1:1-18、創世記1:1-5
この世界を創った神様が人となられた!
a. この世界を創った神様(1-3)(創1:1-5)
1初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。2この言は、初めに神と共にあった。3万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
(創世記1:1-5)初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ」こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。
b. 人間の命、光(4-9)
4言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。5光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。6神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。7彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。8彼は光ではなく、光について証しをするために来た。9その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。
c. 神様の願い(10-13)
10言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。11言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。12しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。13この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。
d.人となられた神様、イエス・キリスト(14-18)
14言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。15ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」16わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。17律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。18いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。
e.私たちもヨハネのように遣わされる(6-8,15)
6神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。7彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。8彼は光ではなく、光について証しをするために来た。
15ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」
メッセージのポイント
神様は、世界を創造した最初から、人間を愛しておられましたが、2000年前のクリスマスに、そのことを決定的にはっきりと示されました。イエス・キリストは、2000年前のクリスマスに人としてこの世界に来てくださった神様のひとり子です。イエス様が来てくださったのは、神様が私たち人間に命を与え、暗い世界に光をもたらして下さる方だということを示すためです。暗闇にとどまらず、イエス様に命と光をいただきましょう。そして、ヨハネが明言したように、私たち自身は光ではありませんが、その光を私たちの周りの人にも運びましょう。
話し合いのために
1)イエス・キリストが「言」であり、私たちの命であり光であるとは、どういうことでしょうか?
2)世界を創造した神様とイエス・キリストの関係はどのようなものでしょうか?
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<メッセージ全文>
シリーズ “あなたのクリスマスをもっとずっと素敵に! ” (3)
2013/12/15アドベントメッセージIII ヨハネ1:1-18、創世記1:1-5
この世界を創った神様が人となられた!
先週までのクリスマスのメッセージでは、イエス様が旧約聖書で預言されていた救い主だということを確認しました。今日取り上げるヨハネによる福音書の冒頭も、旧約聖書とイエス様の関係について言っていますが、先週までとは少し違います。ここでは、イザヤ書やエレミヤ書のように「やがて来られる救い主」についての預言ではなく、世界の創造の時からその方はおられる、という言い方をしています。
a. この世界を創った神様(1-3)(創1:1-5)
1初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。2この言は、初めに神と共にあった。3万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
「初めに言があった」と、突然「言」という言葉が使われるので、何のことを言っているのか最初から戸惑ってしまうと思います。でも、この後を読んでいくと、この「言」というのがイエス・キリストを指していると分かります。後でまた読んでみますが、14節ではこう言われています。「言は肉となって、私たちの間に宿られた。」この「肉」は、別の聖書では「人」とも訳されており、「肉体」を意味する言葉です。つまり、この「言」は肉体を持たれ、人間となったということです。それから、今日の箇所の一番最後の一節、18節では「父のふところにいるひとり子である神、この方が神を示されたのである。」と言われています。この「ひとり子である神」は、直前の17節からイエス・キリストのことだと分かります。イエス・キリストは、神を示す方だから、神から送られた「言(ことば)・メッセージ」だということです。イエス・キリストがどうやって神様を示すのかというと、彼が肉となった、つまり人間となったことによってです。クリスマスは、このことを祝う日です。イエス・キリストの誕生は、神様のひとり子が人間になってくださり、この世界に来てくださったということです。このことがクリスマスの出来事の一番大切な意味です。
でも、この福音書を書いたヨハネは、このことを言う前に、イエス・キリストが何者であるかということをまず確かめておこうとしています。それは、クリスマスの出来事を理解するためにもとても重要なことです。最初の三節をもう一度読んでみます。「1初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。2この言は、初めに神と共にあった。3万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」イエス・キリストは世界の初めから神と共におられた方で、彼自身が神ご自身でもあり、万物は彼によって創られたと言われています。ヨハネは、クリスマスに生まれたイエス様は、世界の創造の時からおられた神様でもあるのだと、福音書の一番初めに確かめようとしているということです。でも、イエス・キリストが、2000年前、パレスチナ地方に生まれた人物であることは、歴史的に具体的な事実です。そして、創世記にも、イエス・キリストの名はどこにも出てきません。創世記の創造の物語の最初の部分だけを読んでみます。
(創世記1:1-5)初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ」こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。
やはり、イエス・キリストは出てきませんし、神様と共にひとり子がいるということも言われていません。それなのにヨハネはなぜ、イエス様が世界を創造した神様と最初から共におられ、神様でもあると言えるのでしょうか?この謎を解くヒントはヨハネが言っている「初めに言があった」の「言」だと思います。世界を創るにあたって神様は言葉を発しました。今読んだ創世記の最初の5節の中では「光あれ」という言葉です。その言葉によって、真っ暗な世界の中に光がもたらされました。そして世界が光と闇に分けられました。これが世界の始まりでした。そして、創世記の続きを読んでいくと、全てのものが、神様の言葉によって創られたことが分かります。空も、海も、地も、宇宙も、生き物も、人間も、神様がそこに生まれるように、そこにできるように、と命じられた言葉によって生まれました。世界は神様の言葉によって始められ、神様の言葉によって闇に光がもたらされ、神様の言葉によって命が生まれました。創造の物語の中で発せられている神様の言葉一つ一つが、神様のこの世界に対する関心、愛を示していると言えます。そして、神様のことを示す方、神様のこの世界に対する愛、私たちに対する愛を示す方という意味で、イエス・キリストは神様の「言」だと言えます。真っ暗な世界に光をもたらす、生きて働く神様の言葉、それがイエス様です。神様は、イエス様をこの地上に送る前と後で、何も変わっていません。神様は世界の最初から、暗闇に光をもたらして下さった方です。それは、イエス様が2000年前に人としてこの世界に来て下さったことによって、よりはっきりと分かるようになりましたが、イエス様が来てくださったことによって神様の愛が深くなったわけではありません。神様は、私たちの罪の深刻さに対処するために、思いつきでイエス様を生み出したのでは決してありません。自らの罪によって苦しむ私たちを救うために、自ら働きかけて下さる神様の深い愛は、世界を創られた最初から、そうでした。だから、イエス様は世界の最初からおられると言えます。そして、世界を創られた父なる神様と区別されながらも、一方では絶対に区別されない、ご自身も神様だと言えるのです。イエス・キリストが生まれたクリスマスは、この世界の最初からおられる神様が人となられたという、歴史の転換点です。イエス・キリストは、単に私たちの人生を導いてくれるよい教えを残した人物だというだけではなく、彼が私たちに命を与える神様でもあるのです。
b. 人間の命、光(4-9)
4言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。5光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。6神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。7彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。8彼は光ではなく、光について証しをするために来た。9その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。
神様の愛を示すイエス様のうちに、私たちの命があります。私たちは、神様がどんな方であるかを知るときに、本当の命を得ることができます。神様は、闇の中に光をもたらし、命を与え、世界を創られた方です。イエス様はそのことを証明してくださる方です。だから、イエス様を知らずに、神様の愛を知ることはできず、本当の命はありません。そして、このイエス様の中にある本当の命は、私たちを照らし出して、闇から光に移してくれるものです。神様が世界の始まりにまず創られたのは、さっき創世記で読んだ通り、闇の中に輝く光でした。そして、光と闇を昼と夜として分けられました。ただ、闇は最初からあったもの、光は神様がもたらしたものです。今読んだ5節では、「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」と言われています。私たちは、神様が与えてくださる光に照らされていなければ、簡単に闇の中に戻ってしまいます。でも、神様は、真っ暗な世界に最初に「光あれ」とおっしゃったように、私たちすべてを光で照らしたいと願っておられます。イエス様によって明らかにされた神様、「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らす」(9節)のです。(ヨハネについてはまた後で触れたいと思います。)
c. 神様の願い(10-13)
10言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。11言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。12しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。13この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。
ここには、神様がイエス様を送られた目的が言われています。それは、イエスの名を信じる人なら誰でも、自分の子とするという目的です。イエス・キリストが自分の罪のために死なれた神様であると受け入れるなら、どんな民族でも、どんな生まれでも、その人は神様の子、神様の家族の一員としよう、という神様の計画です。ひとつ前のところで、イエス様は全ての人に光をもたらすために来られたと言われているのと同じです。神様は私たちを良いものとして創ってくださいましたが、私たちは自分を創ってくださった神様を認めず、神様に背を向けるという罪に陥りました。自ら、光の当たらない暗い世界に行ってしまいました。
でも、この日本では、イエス様を知らない人がほとんどです。私たちの大切な家族や友人の中にも、イエス様を知らない人が多いと思います。その中には、自分がまさに光のあたらない暗い世界に生きていて苦しいと感じている方もたくさんいると思います。私たちは、そういう人たちに、ぜひイエス様が希望の光であることを伝えたいと願うと思います。でも同時に、イエス様を知らなくても毎日を不自由なく生きているように見える人も少なくないと思います。そういう人たちは、自分が暗い世界に生きているとは思っていないでしょう。でも、本当の命、変わらない光、尽きることのない希望は、イエス様にしかありません。この世界の全てはいつか過ぎ去っていきます。私たちがこの確信に立って、イエス様を信頼して喜んで人生を歩み続けていれば、今はイエス様を必要と思っていない人たちも、いつか自分の中に本当の光はないと気が付くと思います。私たちには人の心を変えることはできません。でも、神様は全ての人に光をもたらすことを願われたから、イエス様を送ってくださいました。この神様の願い、イエス様に、私たちの大切な人達のことも委ねていきましょう。
d.人となられた神様、イエス・キリスト(14-18)
14言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。15ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」16わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。17律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。18いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。
最初の方で、「言は肉となった」ということは、イエス様が神様でありながら人となられたということだとお話しました。そして、そのことをお祝いするのがクリスマスだとお話しました。神様は、本当の光を見失って、そのことにも気が付いていないような私たちのために、イエス様として、自ら私たちと同じ者になりました。そこまで私たちを愛しているということを、自ら人となることで示してくださいました。でも、イエス様の神様のひとり子しての栄光というのは、単に人となられたということだけではありません。イエス様の満ち溢れる豊かさ、恵みと真理というのは、イエス様が人として苦しみ、死なれたことによって、私たちに教えられました。イエス様がクリスマスに人として生まれたのは、私たちのために十字架にかけられて死ぬためでした。イエス様の命は、生まれた時から、神様の私たちを救う計画のためのものでした。死なれるために生まれたと言えます。神様が、自ら私たちを救うために、私たちの罪を背負って死なれた、それがイエス様を通して現れた恵みと真理です。だから、イエス様という神であり人である方が、神様を示す言(ことば)であり、神様の愛のメッセージです。
e.私たちもヨハネのように遣わされる(6-8,15)
6神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。7彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。8彼は光ではなく、光について証しをするために来た。
15ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」
最後に、バプテスマのヨハネのことをお話したいと思います。このヨハネによる福音書の筆者のヨハネは、名前は同じですが、バプテスマのヨハネとは違う人物です。バプテスマのヨハネは、イエス様が活動を始める少し前から、旧約聖書で預言されている救い主が近く来ることを人々に伝え、悔い改めを促しました。神様は、イエス様を証する者として、イエス様ご自身より少し前に、このヨハネを遣わしました。ヨハネは救い主ではありませんし、人々を照らす光ではありませんでした。でも、彼は光を示し、その光が人々を照らすことを証しする役目を神様に与えられました。この役目は私たちにも与えられています。イエス様を知り、イエス様によって真っ暗な世界で光をいただいた私たちは、まだこの光を知らない人々に、イエス様の光を示す役割が与えられています。私たち自身は光ではなく、ただその光を指し示すことができるだけです。イエス様の光を知っても、私たちは相変わらず弱く間違いを犯し続ける人間であり、イエス様を知らない人達と何も違いません。でも、私たちがそれでもイエス様を信頼し、イエス様に従う人生に喜びを持っていれば、私たちは自然とイエス様の光を人々に運んでいることになります。
世界を創られた神様は、私たちに光をもたらすために人となってくださいました。真っ暗な世界に「光あれ」とおっしゃって世界を始められた方は、クリスマスに私たちと同じ姿でこの世界に来られ、本当の光を教えてくださいました。この人となられた神様、イエス様によって示された神様の愛が、私たちを励まし、慰め、諭して下さるように、このクリスマスを過ごしましょう。
メッセージのポイント
神様は、世界を創造した最初から、人間を愛しておられましたが、2000年前のクリスマスに、そのことを決定的にはっきりと示されました。イエス・キリストは、2000年前のクリスマスに人としてこの世界に来てくださった神様のひとり子です。イエス様が来てくださったのは、神様が私たち人間に命を与え、暗い世界に光をもたらして下さる方だということを示すためです。暗闇にとどまらず、イエス様に命と光をいただきましょう。そして、ヨハネが明言したように、私たち自身は光ではありませんが、その光を私たちの周りの人にも運びましょう。
話し合いのために
1)イエス・キリストが「言」であり、私たちの命であり光であるとは、どういうことでしょうか?
2)世界を創造した神様とイエス・キリストの関係はどのようなものでしょうか?
2013/12/15アドベントメッセージIII ヨハネ1:1-18、創世記1:1-5
この世界を創った神様が人となられた!
先週までのクリスマスのメッセージでは、イエス様が旧約聖書で預言されていた救い主だということを確認しました。今日取り上げるヨハネによる福音書の冒頭も、旧約聖書とイエス様の関係について言っていますが、先週までとは少し違います。ここでは、イザヤ書やエレミヤ書のように「やがて来られる救い主」についての預言ではなく、世界の創造の時からその方はおられる、という言い方をしています。
a. この世界を創った神様(1-3)(創1:1-5)
1初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。2この言は、初めに神と共にあった。3万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
「初めに言があった」と、突然「言」という言葉が使われるので、何のことを言っているのか最初から戸惑ってしまうと思います。でも、この後を読んでいくと、この「言」というのがイエス・キリストを指していると分かります。後でまた読んでみますが、14節ではこう言われています。「言は肉となって、私たちの間に宿られた。」この「肉」は、別の聖書では「人」とも訳されており、「肉体」を意味する言葉です。つまり、この「言」は肉体を持たれ、人間となったということです。それから、今日の箇所の一番最後の一節、18節では「父のふところにいるひとり子である神、この方が神を示されたのである。」と言われています。この「ひとり子である神」は、直前の17節からイエス・キリストのことだと分かります。イエス・キリストは、神を示す方だから、神から送られた「言(ことば)・メッセージ」だということです。イエス・キリストがどうやって神様を示すのかというと、彼が肉となった、つまり人間となったことによってです。クリスマスは、このことを祝う日です。イエス・キリストの誕生は、神様のひとり子が人間になってくださり、この世界に来てくださったということです。このことがクリスマスの出来事の一番大切な意味です。
でも、この福音書を書いたヨハネは、このことを言う前に、イエス・キリストが何者であるかということをまず確かめておこうとしています。それは、クリスマスの出来事を理解するためにもとても重要なことです。最初の三節をもう一度読んでみます。「1初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。2この言は、初めに神と共にあった。3万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」イエス・キリストは世界の初めから神と共におられた方で、彼自身が神ご自身でもあり、万物は彼によって創られたと言われています。ヨハネは、クリスマスに生まれたイエス様は、世界の創造の時からおられた神様でもあるのだと、福音書の一番初めに確かめようとしているということです。でも、イエス・キリストが、2000年前、パレスチナ地方に生まれた人物であることは、歴史的に具体的な事実です。そして、創世記にも、イエス・キリストの名はどこにも出てきません。創世記の創造の物語の最初の部分だけを読んでみます。
(創世記1:1-5)初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ」こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。
やはり、イエス・キリストは出てきませんし、神様と共にひとり子がいるということも言われていません。それなのにヨハネはなぜ、イエス様が世界を創造した神様と最初から共におられ、神様でもあると言えるのでしょうか?この謎を解くヒントはヨハネが言っている「初めに言があった」の「言」だと思います。世界を創るにあたって神様は言葉を発しました。今読んだ創世記の最初の5節の中では「光あれ」という言葉です。その言葉によって、真っ暗な世界の中に光がもたらされました。そして世界が光と闇に分けられました。これが世界の始まりでした。そして、創世記の続きを読んでいくと、全てのものが、神様の言葉によって創られたことが分かります。空も、海も、地も、宇宙も、生き物も、人間も、神様がそこに生まれるように、そこにできるように、と命じられた言葉によって生まれました。世界は神様の言葉によって始められ、神様の言葉によって闇に光がもたらされ、神様の言葉によって命が生まれました。創造の物語の中で発せられている神様の言葉一つ一つが、神様のこの世界に対する関心、愛を示していると言えます。そして、神様のことを示す方、神様のこの世界に対する愛、私たちに対する愛を示す方という意味で、イエス・キリストは神様の「言」だと言えます。真っ暗な世界に光をもたらす、生きて働く神様の言葉、それがイエス様です。神様は、イエス様をこの地上に送る前と後で、何も変わっていません。神様は世界の最初から、暗闇に光をもたらして下さった方です。それは、イエス様が2000年前に人としてこの世界に来て下さったことによって、よりはっきりと分かるようになりましたが、イエス様が来てくださったことによって神様の愛が深くなったわけではありません。神様は、私たちの罪の深刻さに対処するために、思いつきでイエス様を生み出したのでは決してありません。自らの罪によって苦しむ私たちを救うために、自ら働きかけて下さる神様の深い愛は、世界を創られた最初から、そうでした。だから、イエス様は世界の最初からおられると言えます。そして、世界を創られた父なる神様と区別されながらも、一方では絶対に区別されない、ご自身も神様だと言えるのです。イエス・キリストが生まれたクリスマスは、この世界の最初からおられる神様が人となられたという、歴史の転換点です。イエス・キリストは、単に私たちの人生を導いてくれるよい教えを残した人物だというだけではなく、彼が私たちに命を与える神様でもあるのです。
b. 人間の命、光(4-9)
4言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。5光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。6神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。7彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。8彼は光ではなく、光について証しをするために来た。9その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。
神様の愛を示すイエス様のうちに、私たちの命があります。私たちは、神様がどんな方であるかを知るときに、本当の命を得ることができます。神様は、闇の中に光をもたらし、命を与え、世界を創られた方です。イエス様はそのことを証明してくださる方です。だから、イエス様を知らずに、神様の愛を知ることはできず、本当の命はありません。そして、このイエス様の中にある本当の命は、私たちを照らし出して、闇から光に移してくれるものです。神様が世界の始まりにまず創られたのは、さっき創世記で読んだ通り、闇の中に輝く光でした。そして、光と闇を昼と夜として分けられました。ただ、闇は最初からあったもの、光は神様がもたらしたものです。今読んだ5節では、「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」と言われています。私たちは、神様が与えてくださる光に照らされていなければ、簡単に闇の中に戻ってしまいます。でも、神様は、真っ暗な世界に最初に「光あれ」とおっしゃったように、私たちすべてを光で照らしたいと願っておられます。イエス様によって明らかにされた神様、「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らす」(9節)のです。(ヨハネについてはまた後で触れたいと思います。)
c. 神様の願い(10-13)
10言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。11言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。12しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。13この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。
ここには、神様がイエス様を送られた目的が言われています。それは、イエスの名を信じる人なら誰でも、自分の子とするという目的です。イエス・キリストが自分の罪のために死なれた神様であると受け入れるなら、どんな民族でも、どんな生まれでも、その人は神様の子、神様の家族の一員としよう、という神様の計画です。ひとつ前のところで、イエス様は全ての人に光をもたらすために来られたと言われているのと同じです。神様は私たちを良いものとして創ってくださいましたが、私たちは自分を創ってくださった神様を認めず、神様に背を向けるという罪に陥りました。自ら、光の当たらない暗い世界に行ってしまいました。
でも、この日本では、イエス様を知らない人がほとんどです。私たちの大切な家族や友人の中にも、イエス様を知らない人が多いと思います。その中には、自分がまさに光のあたらない暗い世界に生きていて苦しいと感じている方もたくさんいると思います。私たちは、そういう人たちに、ぜひイエス様が希望の光であることを伝えたいと願うと思います。でも同時に、イエス様を知らなくても毎日を不自由なく生きているように見える人も少なくないと思います。そういう人たちは、自分が暗い世界に生きているとは思っていないでしょう。でも、本当の命、変わらない光、尽きることのない希望は、イエス様にしかありません。この世界の全てはいつか過ぎ去っていきます。私たちがこの確信に立って、イエス様を信頼して喜んで人生を歩み続けていれば、今はイエス様を必要と思っていない人たちも、いつか自分の中に本当の光はないと気が付くと思います。私たちには人の心を変えることはできません。でも、神様は全ての人に光をもたらすことを願われたから、イエス様を送ってくださいました。この神様の願い、イエス様に、私たちの大切な人達のことも委ねていきましょう。
d.人となられた神様、イエス・キリスト(14-18)
14言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。15ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」16わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。17律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。18いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。
最初の方で、「言は肉となった」ということは、イエス様が神様でありながら人となられたということだとお話しました。そして、そのことをお祝いするのがクリスマスだとお話しました。神様は、本当の光を見失って、そのことにも気が付いていないような私たちのために、イエス様として、自ら私たちと同じ者になりました。そこまで私たちを愛しているということを、自ら人となることで示してくださいました。でも、イエス様の神様のひとり子しての栄光というのは、単に人となられたということだけではありません。イエス様の満ち溢れる豊かさ、恵みと真理というのは、イエス様が人として苦しみ、死なれたことによって、私たちに教えられました。イエス様がクリスマスに人として生まれたのは、私たちのために十字架にかけられて死ぬためでした。イエス様の命は、生まれた時から、神様の私たちを救う計画のためのものでした。死なれるために生まれたと言えます。神様が、自ら私たちを救うために、私たちの罪を背負って死なれた、それがイエス様を通して現れた恵みと真理です。だから、イエス様という神であり人である方が、神様を示す言(ことば)であり、神様の愛のメッセージです。
e.私たちもヨハネのように遣わされる(6-8,15)
6神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。7彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。8彼は光ではなく、光について証しをするために来た。
15ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」
最後に、バプテスマのヨハネのことをお話したいと思います。このヨハネによる福音書の筆者のヨハネは、名前は同じですが、バプテスマのヨハネとは違う人物です。バプテスマのヨハネは、イエス様が活動を始める少し前から、旧約聖書で預言されている救い主が近く来ることを人々に伝え、悔い改めを促しました。神様は、イエス様を証する者として、イエス様ご自身より少し前に、このヨハネを遣わしました。ヨハネは救い主ではありませんし、人々を照らす光ではありませんでした。でも、彼は光を示し、その光が人々を照らすことを証しする役目を神様に与えられました。この役目は私たちにも与えられています。イエス様を知り、イエス様によって真っ暗な世界で光をいただいた私たちは、まだこの光を知らない人々に、イエス様の光を示す役割が与えられています。私たち自身は光ではなく、ただその光を指し示すことができるだけです。イエス様の光を知っても、私たちは相変わらず弱く間違いを犯し続ける人間であり、イエス様を知らない人達と何も違いません。でも、私たちがそれでもイエス様を信頼し、イエス様に従う人生に喜びを持っていれば、私たちは自然とイエス様の光を人々に運んでいることになります。
世界を創られた神様は、私たちに光をもたらすために人となってくださいました。真っ暗な世界に「光あれ」とおっしゃって世界を始められた方は、クリスマスに私たちと同じ姿でこの世界に来られ、本当の光を教えてくださいました。この人となられた神様、イエス様によって示された神様の愛が、私たちを励まし、慰め、諭して下さるように、このクリスマスを過ごしましょう。
メッセージのポイント
神様は、世界を創造した最初から、人間を愛しておられましたが、2000年前のクリスマスに、そのことを決定的にはっきりと示されました。イエス・キリストは、2000年前のクリスマスに人としてこの世界に来てくださった神様のひとり子です。イエス様が来てくださったのは、神様が私たち人間に命を与え、暗い世界に光をもたらして下さる方だということを示すためです。暗闇にとどまらず、イエス様に命と光をいただきましょう。そして、ヨハネが明言したように、私たち自身は光ではありませんが、その光を私たちの周りの人にも運びましょう。
話し合いのために
1)イエス・キリストが「言」であり、私たちの命であり光であるとは、どういうことでしょうか?
2)世界を創造した神様とイエス・キリストの関係はどのようなものでしょうか?