<メッセージノート>
ハンナ:苦しみの中で主を信頼することを選んだ女性
池田真理
1.苦しみで主が見えない(1-8)
エフライムの山地ラマタイム・ツォフィムに一人の男がいた。名をエルカナといい、その家系をさかのぼると、エロハム、エリフ、トフ、エフライム人のツフに至る。エルカナには二人の妻があった。一人はハンナ、もう一人はペニナで、ペニナには子供があったが、ハンナには子供がなかった。エルカナは毎年自分の町からシロに上り、万軍の主を礼拝し、いけにえをささげていた。シロには、エリの二人の息子ホフニとピネハスがおり、祭司として主に仕えていた。いけにえをささげる日には、エルカナは妻ペニナとその息子たち、娘たちにそれぞれの分け前を与え、ハンナには一人分を与えた。彼はハンナを愛していたが、主はハンナの胎を閉ざしておられた。彼女を敵と見るペニナは、主が子供をお授けにならないことでハンナを思い悩ませ、苦しめた。毎年このようにして、ハンナが主の家に上るたびに、彼女はペニナのことで苦しんだ。今度もハンナは泣いて、何も食べようとしなかった。夫エルカナはハンナに言った。「ハンナよ、なぜ泣くのか。なぜ食べないのか。なぜふさぎ込んでいるのか。このわたしは、あなたにとって十人の息子にもまさるではないか。」 (1-8)
2.嘆き、泣き、心を注ぎ出して祈った(9-18)
さて、シロでのいけにえの食事が終わり、ハンナは立ち上がった。祭司エリは主の神殿の柱に近い席に着いていた。ハンナは悩み嘆いて主に祈り、激しく泣いた。そして、誓いを立てて言った。「万軍の主よ、はしための苦しみを御覧ください。はしために御心を留め、忘れることなく、男の子をお授けくださいますなら、その子の一生を主におささげし、その子の頭には決してかみそりを当てません。」 ハンナが主の御前であまりにも長く祈っているので、エリは彼女の口もとを注意して見た。 ハンナは心のうちで祈っていて、唇は動いていたが声は聞こえなかった。エリは彼女が酒に酔っているのだと思い、彼女に言った。「いつまで酔っているのか。酔いをさましてきなさい。」 ハンナは答えた。「いいえ、祭司様、違います。わたしは深い悩みを持った女です。ぶどう酒も強い酒も飲んではおりません。ただ、主の御前に心からの願いを注ぎ出しておりました。はしためを堕落した女だと誤解なさらないでください。今まで祈っていたのは、訴えたいこと、苦しいことが多くあるからです。」そこでエリは、「安心して帰りなさい。イスラエルの神が、あなたの乞い願うことをかなえてくださるように」と答えた。ハンナは、「はしためが御厚意を得ますように」と言ってそこを離れた。それから食事をしたが、彼女の表情はもはや前のようではなかった。 (9-18)
3.主の応答(19-20, 26-28)
1) 私たちの祈りと主の応答の関係
一家は朝早く起きて主の御前で礼拝し、ラマにある自分たちの家に帰って行った。エルカナは妻ハンナを知った。主は彼女を御心に留められ、ハンナは身ごもり、月が満ちて男の子を産んだ。主に願って得た子供なので、その名をサムエル(その名は神)と名付けた。(19,20)
2) 主への誓いを果たしたハンナ
ハンナは言った。「祭司様、あなたは生きておられます。わたしは、ここであなたのそばに立って主に祈っていたあの女です。わたしはこの子を授かるようにと祈り、主はわたしが願ったことをかなえてくださいました。わたしは、この子を主にゆだねます。この子は生涯、主にゆだねられた者です。」彼らはそこで主を礼拝した。(26-28)
メッセージのポイント
ハンナは子供ができないことでいじめられ、ものを食べられないほど苦しんでいました。でも、その苦しみを主の前で隠さず、泣きながら心を注いで祈る中で、主を信頼することを選びました。だから、自分の願いが叶えられるかどうかに関係なく、祈り終わった時のハンナは晴れやかな表情でした。私たちは、神様に自分の願いを正直に打ち明けることができますが、その自分の願いよりも、神様の計画が達成されることの方が、自分にとってもベストであるということを信じる必要があります。自分の願い通りに物事が進まなくても、神様は私たちに今何が必要で何が必要でないか、私たちよりもずっとよくご存知だということを信頼しましょう。
話し合いのために
1)祈る前と後で、ハンナの何が変わったのでしょうか?
2)主の前で「誓う」とはどういうことでしょうか?
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<メッセージ全文>
ハンナ:苦しみの中で主を信頼することを選んだ女性
池田真理
今日は、去年の11月から始めた旧約聖書の人物シリーズの第二回目です。ハンナという女性を取り上げたいと思います。ハンナは、サウルやダビデをイスラエルの王として選んだ預言者サムエルの母となる人です。彼女のことはサムエル記上の最初の2章にしか出てきませんが、旧約聖書に登場する女性の中でも印象深い人の一人だと思います。サムエルは紀元前1050年頃から預言者として活動を始めたと言われているので、今日取り上げるハンナの物語はそれより2,30年前だと考えられます。
1.苦しみで主が見えない(1-8)
エフライムの山地ラマタイム・ツォフィムに一人の男がいた。名をエルカナといい、その家系をさかのぼると、エロハム、エリフ、トフ、エフライム人のツフに至る。エルカナには二人の妻があった。一人はハンナ、もう一人はペニナで、ペニナには子供があったが、ハンナには子供がなかった。エルカナは毎年自分の町からシロに上り、万軍の主を礼拝し、いけにえをささげていた。シロには、エリの二人の息子ホフニとピネハスがおり、祭司として主に仕えていた。いけにえをささげる日には、エルカナは妻ペニナとその息子たち、娘たちにそれぞれの分け前を与え、ハンナには一人分を与えた。彼はハンナを愛していたが、主はハンナの胎を閉ざしておられた。彼女を敵と見るペニナは、主が子供をお授けにならないことでハンナを思い悩ませ、苦しめた。毎年このようにして、ハンナが主の家に上るたびに、彼女はペニナのことで苦しんだ。今度もハンナは泣いて、何も食べようとしなかった。夫エルカナはハンナに言った。「ハンナよ、なぜ泣くのか。なぜ食べないのか。なぜふさぎ込んでいるのか。このわたしは、あなたにとって十人の息子にもまさるではないか。」 (1-8)
ハンナの夫エルカナは、ハンナのことを大切にしていました。おそらく、ハンナと最初に結婚したけれども、ハンナに子供ができなかったためにペニナを二番目の妻として迎えたと考えられます。ペニナとの間には子供がたくさん生まれました。それでも、エルカナはハンナを変わらずに大切にし、軽んじることはありませんでした。4—5節には、神様にいけにえをささげて礼拝した後、エルカナが家族一人ひとりに食事を分配したということが書かれていますが、ハンナも分け前を与えられています。ただ、日本語ではハンナには「一人分」が与えられたと言われていますが、英語では「二倍の分け前」を与えられたと言われています。他に「特別の受け分」と訳している聖書もあります。これは、もともとのヘブライ語の原文に不明瞭な意味の言葉が含まれており、様々な解釈が可能なためです。でも、この「分け前」という言葉をどう解釈するにせよ、エルカナはハンナに子供がいる・いないに関係なく、ハンナのことを愛していたということは、今読んだところの全体からはっきり分かります。
でも、エルカナが二番目にむかえた妻、ペニナにしてみれば、ハンナは邪魔な存在でしかなかったのも想像に難くありません。ハンナに子供ができないことをいいことに、ペニナはハンナに対するいじめを繰り返しました。子供ができないということは、当時の一般的な考え方でいけば、子孫を残し、家系を存続させるという妻の役割を果たしていないことになります。ハンナは、そのことをペニナに責められても言い返せなかったでしょう。言い返すこともできず、でも自分で状況を打開することもできず、ハンナの悩みは深まっていきました。おそらくもう10年近くかそれ以上の間、ペニナには複数の息子と娘が与えられた一方、ハンナにはずっと子供ができていませんでした。それだけでも苦しかったと思いますが、そこに加えてペニナから攻撃を受けて、ハンナは深く傷ついていました。しかも、彼女の苦しみが最大になってしまうのは、いつも、年に一回家族がそろって旅をして、神殿で神様を礼拝し、喜びと感謝を神様に捧げるべき時でした。ハンナにとっては、年に一回、ペニナと自分の状況の違いを思い知らされて、自分の惨めさを再確認する時でしかなかったのかもしれません。なぜ神様はペニナにはたくさん子供を授けて、自分には授けて下さらないのか。自分が長い間苦しんでいるのに顧みて下さらないのか。ハンナは、喜びと感謝の食事をするどころか、泣いて何ものどを通らないほど悲しみにくれていました。神様を礼拝するためにここに来たのに、自分の抱える悩みに押しつぶされて、神様を見上げることができませんでした。
私たちも、このハンナの状況のようになる時があります。自分の力では改善しようのない状況に追い込まれて苦しみます。自分の悩みが大きすぎて、神様を見上げることを忘れてしまいます。また、ハンナが神様を礼拝する場所で泣き続けていたように、私たちも神様を礼拝しているつもりで、本当は自分の苦しみを神様の前に出していない時があります。神様は私たちに、「いつも喜んでいなさい。どんなことにも感謝しなさい Rejoice always, give thanks in all circumstances(1テサ5:16-17, フィリピ4:4-7)」と言われているのは事実です。でもそれは、自分の抱える苦しみや悲しみを、まるでないかのように否定して、いつも大丈夫なふりをしなければいけないということではありません。もしそうしているとしたら、それこそ私たちの心は神様から離れて、ますます喜べない人になってしまいます。神様が私たちに望まれるのは、私たちが苦しみを抱えたまま、主の前に出て行くことです。
2.嘆き、泣き、心を注ぎ出して祈った(9-18)
さて、シロでのいけにえの食事が終わり、ハンナは立ち上がった。祭司エリは主の神殿の柱に近い席に着いていた。ハンナは悩み嘆いて主に祈り、激しく泣いた。そして、誓いを立てて言った。「万軍の主よ、はしための苦しみを御覧ください。はしために御心を留め、忘れることなく、男の子をお授けくださいますなら、その子の一生を主におささげし、その子の頭には決してかみそりを当てません。」 ハンナが主の御前であまりにも長く祈っているので、エリは彼女の口もとを注意して見た。 ハンナは心のうちで祈っていて、唇は動いていたが声は聞こえなかった。エリは彼女が酒に酔っているのだと思い、彼女に言った。「いつまで酔っているのか。酔いをさましてきなさい。」 ハンナは答えた。「いいえ、祭司様、違います。わたしは深い悩みを持った女です。ぶどう酒も強い酒も飲んではおりません。ただ、主の御前に心からの願いを注ぎ出しておりました。はしためを堕落した女だと誤解なさらないでください。今まで祈っていたのは、訴えたいこと、苦しいことが多くあるからです。」そこでエリは、「安心して帰りなさい。イスラエルの神が、あなたの乞い願うことをかなえてくださるように」と答えた。ハンナは、「はしためが御厚意を得ますように」と言ってそこを離れた。それから食事をしたが、彼女の表情はもはや前のようではなかった。 (9-18)
ハンナは、家族のもとから離れて、主の前にひとり出て行きました。そして、激しく泣いて祈ったと書いてあります。でも、大声で祈っていたわけではなく、その声は側にいた祭司エリには聞き取れないほど小さかったとあります。そしてあまりにぶつぶつと小さな声で長く祈っていたので、エリはハンナがお酒の飲み過ぎでうわ言を言っているのだと間違えるほどでした。でもエリに注意されたハンナは、きっぱりと言いました。「私は酔ってなんかいません。深い悩みがあって、主に心からの願いを注ぎ出して祈っていたのです。」それを聞いたエリは、ハンナが本当に神様の前に出て、自分の抱える苦しみを隠さず、真剣に助けを求めていると分かりました。
ハンナの苦しみの原因は、自分に子供ができないことでした。だから、彼女の心からの願いは、自分に子供を与えてください、ということでした。でも、ハンナの祈りの内容は、「もし子供を授けて下さるなら、その子の一生をあなたに捧げます」という誓いを伴っています。その子の頭には決してかみそりをあてない、つまりその子の髪の毛を決して切らない、というのは、イスラエルの人々が神様に特別な誓願を立てる時に行った習慣に基づいています。のばされたままの髪の毛は、神様に自分を捧げますという誓いの象徴で、その人が神様のものであることのしるしでした。(民数記6章)ハンナは、自分に子供を与えて下さるなら、その子を一生神様のものとして、神様に捧げます、と誓ったということです。ここには、ハンナが神様の前に苦しみを抱えたまま出て行って、心を注ぎ出して祈ったことによって起こった変化を見ることができます。それは、自分に子供ができるかどうかは、神様がそう望まれるかどうかであり、どちらにしても子供は自分のものではなく、神様のものだと気が付いたということです。ハンナは、子供は、親のために生まれてくるのではなく、神様のために親に一時預けられるだけだということを思い出しました。だから、子供がほしいという自分の願いが叶えられるとしたら、それは自分のためではなく、ただ神様のためです、と告白できました。ハンナが長く祈り続けていたのは、ただ、子供を下さいという願いを繰り返していたのではないと思います。最初はそうだったかもしれません。でも、祈るうちに、ただ自分の願いが叶えられるよりも、自分の願いと神様の意志が異なっているとしても、神様に従えるように助けてくださいと祈っていたのだと思います。ハンナが自分を「はしため」、召使と言っているのも、彼女が神様に従おうとしている態度を示していると思います。そうでなければ、祈り終わって、自分の願いが叶うという確証は何もないのに、元気を取り戻すことはできなかったはずです。「彼女の表情はもはや前のようではなかった」のは、主の前で嘆き、泣き、心を注ぎ出して祈る中で、ハンナは自分の願いがただ叶えられることよりも、主を信頼することを選んだからです。
3.主の応答(19-20, 26-28)
1) 私たちの祈りと主の応答の関係
一家は朝早く起きて主の御前で礼拝し、ラマにある自分たちの家に帰って行った。エルカナは妻ハンナを知った。主は彼女を御心に留められ、ハンナは身ごもり、月が満ちて男の子を産んだ。主に願って得た子供なので、その名をサムエル(その名は神)と名付けた。(19,20)
ハンナは祈った通り、男の子を与えられました。それはもちろん喜ばしいことで、ハンナもエルカナも喜んだでしょう。でも、ハンナの願いが叶えられたのは、ハンナの祈りが神様を動かすほど熱心だったからでも、ハンナがそれに見合う交換条件のように誓いを立てたからでもありません。ただ神様の計画とハンナの願いが一致したからです。
神様は、私たちの祈りの熱心さに応じて、私たちの願いを叶えるかどうかを決められる方ではありません。もしそうなら、神様はまるで私たちの祈りにポイントを与えて、ポイントの量に応じて景品を定めているような方だということになります。どこかのパン屋とかドーナツ屋とかのようです。もしそうだとしたら、願いが叶えられない人は祈りが足りなくて、自分の願いが叶えられる人は祈りが十分だからだということになります。そんな神様はもう神様ではありません。今はちょうど受験シーズンです。熱心に祈っていれば希望の学校に入れるとしたら、どんなに簡単でしょう。現実は、一生懸命勉強してもうまくいかない人がおり、一方で、たまたま実力以上の学校に受かる人もいます。熱心に祈っても、自分の希望通りになるとは限らない、神様が願いを叶えてくれるとは限らない、ということは、今正に受験生が肌で感じている現実でしょう。
それでも、私たちは神様に自分の苦しみを打ち明け、願いを打ち明けます。そんなことをしても、結局神様の計画通りに事が進むなら、祈っても祈らなくても同じなんじゃないかと思われる方もいるかもしれません。でも、神様は私たちと関係を持つことを望まれる方です。ハンナが神様の前に自分の苦しみを打ち明け、願いを注ぎ出して、神様を信頼することを選んだのを、神様は喜ばれたはずです。それは、願いを叶える・叶えないに関係なく、ハンナと神様の関係が深まったということです。神様は、私たちが見ている以上のものを見ておられて、私たちに一番良いタイミングで、一番良いものを与えてくださる方です。そのことを信頼して、神様に祈り続けるなら、私たちは自分がいかに小さく頼りないのに対し、神様がいかに大きく、憐れみ深く、配慮に富んでいる方かということを、繰り返し知ることができると思います。
最後に、主に誓いを立てるということに少し触れて終わりたいと思います。
2) 主への誓いを果たしたハンナ
ハンナは言った。「祭司様、あなたは生きておられます。わたしは、ここであなたのそばに立って主に祈っていたあの女です。わたしはこの子を授かるようにと祈り、主はわたしが願ったことをかなえてくださいました。わたしは、この子を主にゆだねます。この子は生涯、主にゆだねられた者です。」彼らはそこで主を礼拝した。(26-28)
神様はハンナが子供を捧げると誓ったから子供を与えたのではありません。神様は人間との取引に応じるような方ではありません。ハンナは、「生まれる子供はあなたのものです」という告白をし、神様への信頼のしるしとして子供を捧げることを誓いました。そこまでハンナが神様を信頼したことは、神様を喜ばせたと思いますが、ハンナが願いを叶えるに値する誓いを立てたから、神様が願いを叶えたわけではありません。このハンナの物語は、願いが叶えられるに値する誓いを立てれば願いが叶うというようなことを意味しているわけではありません。誓いを立てるのは、全く私たちの側の、主への信頼、主に対する畏れの問題です。ハンナは、神様に感謝し、神様を自分の主として礼拝しているしるしとして、自分の立てた誓いを果たしました。
ハンナに与えられたこの男の子、サムエルは、やがてサウルやダビデを選び出してイスラエル王国を建国させる預言者となりました。ハンナが苦しい中で神様を信頼することを選び、決心をしたことが、後に大きな実を結ぶことになりました。私たちも、苦しい時にこそ主を信頼することができるように、自分の願いよりも神様の意志を喜べるように、神様を見上げて歩んで行きましょう。
メッセージのポイント
ハンナは子供ができないことでいじめられ、ものを食べられないほど苦しんでいました。でも、その苦しみを主の前で隠さず、泣きながら心を注いで祈る中で、主を信頼することを選びました。だから、自分の願いが叶えられるかどうかに関係なく、祈り終わった時のハンナは晴れやかな表情でした。私たちは、神様に自分の願いを正直に打ち明けることができますが、その自分の願いよりも、神様の計画が達成されることの方が、自分にとってもベストであるということを信じる必要があります。自分の願い通りに物事が進まなくても、神様は私たちに今何が必要で何が必要でないか、私たちよりもずっとよくご存知だということを信頼しましょう。
話し合いのために
1)祈る前と後で、ハンナの何が変わったのでしょうか?
2)主の前で「誓う」とはどういうことでしょうか?