<メッセージノート>

2014/2/16 旧約聖書の人物シリーズ③ ヨセフ(創世記37-50章)
ヨセフ:知らないうちに神様に用いられた苦労人

1.父に偏愛された少年時代 (37: 1-11)

ヤコブは、父がかつて滞在していたカナン地方に住んでいた。ヤコブの家族の由来は次のとおりである。ヨセフは十七歳のとき、兄たちと羊の群れを飼っていた。まだ若く、父の側女ビルハやジルパの子供たちと一緒にいた。ヨセフは兄たちのことを父に告げ口した。イスラエルは、ヨセフが年寄り子であったので、どの息子よりもかわいがり、彼には裾の長い晴れ着を作ってやった。兄たちは、父がどの兄弟よりもヨセフをかわいがるのを見て、ヨセフを憎み、穏やかに話すこともできなかった。ヨセフは夢を見て、それを兄たちに語ったので、彼らはますます憎むようになった。ヨセフは言った。「聞いてください。わたしはこんな夢を見ました。畑でわたしたちが束を結わえていると、いきなりわたしの束が起き上がり、まっすぐに立ったのです。すると、兄さんたちの束が周りに集まって来て、わたしの束にひれ伏しました。」兄たちはヨセフに言った。「なに、お前が我々の王になるというのか。お前が我々を支配するというのか。」兄たちは夢とその言葉のために、ヨセフをますます憎んだ。ヨセフはまた別の夢を見て、それを兄たちに話した。「わたしはまた夢を見ました。太陽と月と十一の星がわたしにひれ伏しているのです。」今度は兄たちだけでなく、父にも話した。父はヨセフを叱って言った。「一体どういうことだ、お前が見たその夢は。わたしもお母さんも兄さんたちも、お前の前に行って、地面にひれ伏すというのか。」兄たちはヨセフをねたんだが、父はこのことを心に留めた。

 
2.異国での奴隷・囚人時代(17~30歳)(39:1-4, 21-23)

ヨセフはエジプトに連れて来られた。ヨセフをエジプトへ連れて来たイシュマエル人の手から彼を買い取ったのは、ファラオの宮廷の役人で、侍従長のエジプト人ポティファルであった。主がヨセフと共におられたので、彼はうまく事を運んだ。彼はエジプト人の主人の家にいた。主が共におられ、主が彼のすることをすべてうまく計らわれるのを見た主人は、ヨセフに目をかけて身近に仕えさせ、家の管理をゆだね、財産をすべて彼の手に任せた。(39:1-4)

しかし、主がヨセフと共におられ、恵みを施し、監守長の目にかなうように導かれたので、監守長は監獄にいる囚人を皆、ヨセフの手にゆだね、獄中の人のすることはすべてヨセフが取りしきるようになった。監守長は、ヨセフの手にゆだねたことには、一切目を配らなくてもよかった。主がヨセフと共におられ、ヨセフがすることを主がうまく計らわれたからである。(39:21-23)


3.飢饉から人々を守る司政官時代 (45:1-8, 50:19-21)


ヨセフは、そばで仕えている者の前で、もはや平静を装っていることができなくなり、「みんな、ここから出て行ってくれ」と叫んだ。だれもそばにいなくなってから、ヨセフは兄弟たちに自分の身を明かした。ヨセフは、声をあげて泣いたので、エジプト人はそれを聞き、ファラオの宮廷にも伝わった。ヨセフは、兄弟たちに言った。「わたしはヨセフです。お父さんはまだ生きておられますか。」兄弟たちはヨセフの前で驚きのあまり、答えることができなかった。ヨセフは兄弟たちに言った。「どうか、もっと近寄ってください。」兄弟たちがそばへ近づくと、ヨセフはまた言った。「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。この二年の間、世界中に飢饉が襲っていますが、まだこれから五年間は、耕すこともなく、収穫もないでしょう。神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。神がわたしをファラオの顧問、宮廷全体の主、エジプト全国を治める者としてくださったのです。 (45:1-8)

ヨセフは兄たちに言った。「恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか。あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。どうか恐れないでください。このわたしが、あなたたちとあなたたちの子供を養いましょう。」ヨセフはこのように、兄たちを慰め、優しく語りかけた。 (50:19-21)


メッセージのポイント
私たちが神様に用いられるということは、多くの場合、後になって分かることです。少年時代にヨセフの見た夢が、気が付いたら現実になっていたように。ヨセフ本人は分からないまま、その時々の状況の中でただ神様を信頼し、できることを前向きに続けたことで、知らないうちに大きな神様の計画に用いられていました。私たちに神様のなさること全てを把握することは到底できませんが、神様は、人の未熟さや失敗も、人の悪も、善に変え、多くの人を救われる方です。

話し合いのために
1) 奴隷であっても牢獄にいても、ヨセフはなぜ前向きでいられたのでしょうか?
2)ヨセフは兄たちと再会した時、なぜすぐに自分の身を明かさなかったのでしょうか?

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<メッセージ全文>

2014/2/16 旧約聖書の人物シリーズ③ ヨセフ(創世記37-50章)
ヨセフ:知らないうちに神様に用いられた苦労人

今日は旧約聖書の人物シリーズ第三弾として、ヨセフを取り上げます。ヨセフの物語は主に創世記の37章から始まり創世記の終わりまで続いています。本当は全体を読めればいいのですが、今日はかいつまんで彼の人生を追いながら、必要な箇所だけピックアップして読んでいきたいと思います。

1.父に偏愛された少年時代 (37: 1-11)

ヤコブは、父がかつて滞在していたカナン地方に住んでいた。ヤコブの家族の由来は次のとおりである。ヨセフは十七歳のとき、兄たちと羊の群れを飼っていた。まだ若く、父の側女ビルハやジルパの子供たちと一緒にいた。ヨセフは兄たちのことを父に告げ口した。イスラエルは、ヨセフが年寄り子であったので、どの息子よりもかわいがり、彼には裾の長い晴れ着を作ってやった。兄たちは、父がどの兄弟よりもヨセフをかわいがるのを見て、ヨセフを憎み、穏やかに話すこともできなかった。ヨセフは夢を見て、それを兄たちに語ったので、彼らはますます憎むようになった。ヨセフは言った。「聞いてください。わたしはこんな夢を見ました。畑でわたしたちが束を結わえていると、いきなりわたしの束が起き上がり、まっすぐに立ったのです。すると、兄さんたちの束が周りに集まって来て、わたしの束にひれ伏しました。」兄たちはヨセフに言った。「なに、お前が我々の王になるというのか。お前が我々を支配するというのか。」兄たちは夢とその言葉のために、ヨセフをますます憎んだ。ヨセフはまた別の夢を見て、それを兄たちに話した。「わたしはまた夢を見ました。太陽と月と十一の星がわたしにひれ伏しているのです。」今度は兄たちだけでなく、父にも話した。父はヨセフを叱って言った。「一体どういうことだ、お前が見たその夢は。わたしもお母さんも兄さんたちも、お前の前に行って、地面にひれ伏すというのか。」兄たちはヨセフをねたんだが、父はこのことを心に留めた。

今日のタイトルは、「ヨセフ:知らないうちに神様に用いられた苦労人」ですが、彼の少年時代は苦労などなにもなく、父ヤコブに特別かわいがられて、不自由なく暮らしていました。彼は十二人兄弟の中で下から二番目の息子でした。ヤコブには妻が4人いましたが、その中でもヤコブはヨセフを生んだラケルを最も愛していました。そのラケルにはなかなか子供ができず、やっと生まれたのがヨセフです。後で出てくるヤコブの一番下の息子ベニヤミンも、ラケルから生まれた二番目の子で、ヨセフの実の弟にあたります。ただ、ベニヤミンを出産した時にラケルは難産のために死んでしまいました。自分が最も愛した妻の生んだ最初の子で、しかも母を失ってかわいそうというのも、ヤコブがヨセフを特別扱いした大きな理由なのかもしれません。
この時17歳だった少年ヨセフ自身も、自分が兄弟たちの中でも父にとって特別な存在であると分かっていました。そして、もっと父に気に入られるために、兄たちにとって都合の悪いことを父に告げ口しました。クラスメートの悪い行いをいちいち先生にチクって先生に気に入られようとする人がクラスに一人くらいいますが、ヨセフはそういう少年だったということです。悪いと思ったら、面と向かってその悪いことをしている人に直接言えばよいものを、力のある先生、ここではヤコブという父親ですが、に告げ口をするというのは卑怯なやり方です。当然告げ口をされた方はいい気分がしません。ヨセフの兄たちにしてみれば、ヨセフは父から特別扱いされていることをうまく利用して、さらに自分たちのことを父に悪く印象づけて、自分たちをおとしめようとしていると思えても仕方ありません。父ヤコブが、そんな息子たちの気持ちを察して、ヨセフの行動を注意していればまだ良かったのでしょうが、ヤコブは反対にますますヨセフのことをかわいがってしまいました。だから、ヨセフの思い上がりはエスカレートしていき、兄たちの怒りもどんどん増していきました。ヤコブ一家の問題は深まっていきました。そして、ヨセフの夢事件が起こります。ヨセフが話した夢の内容は、兄たちにとっては、ヨセフの思い上がりと自分たちへの見下した感情を反映しているとしか思えなかったでしょう。父ヤコブもさすがにヨセフを咎めています。生まれた時から父に特別扱いされてきたヨセフが、どの程度意識的に兄たちのことを見下していたかはわかりません。父が兄たちを扱うように自分も彼らを扱っていいのだとナイーブに思っていたのかもしれません。でも、兄たちにとっても父にとっても屈辱的でしかない夢の内容を、そのままあっけらかんと言えてしまうのは、それほど配慮に欠けた未成熟な少年だったと言えます。
この後、兄たちはヨセフを憎むあまり殺す計画を立てましたが、殺すのは思いとどまって、奴隷として売り飛ばしてしまおうとしました。しかし結局彼らが目を離した隙に、全く関係のない第三者がいつの間にかヨセフを売り飛ばしてしまい、兄たちはヨセフがどこに行ったかも分からないまま、とりあえずよしとして、父には彼は不慮の事故で死んでしまったと伝えました。ヨセフの未熟なゆえの傲慢さが兄たちの憎しみを買い、不幸な状況を招きました。ヨセフの苦しみはこれから始まるのですが、そこには、兄たちの嫉妬と冷酷さだけでなく、自分自身の未熟さ、父ヤコブの間違った育て方も全てが原因となったと言えます。でもその全てを、神様はよい計画のために用いたことが、物語を読んでいくにつれて明らかになっていきます。神様は、ヤコブ一家の中に悲しい歪みや衝突があることを知っていました。彼らの中に完璧な人は一人もいませんでした。私たちの家庭も、ヤコブ一家ほどではないかもしれませんが、少しの問題もない家庭はないと思います。家族の中で起こる問題は、お互いに一番身近な存在であるがゆえにお互いに期待も大きく、責任も重いために、辛いと思います。でも、どうぞヨセフの物語を読んで、自分の間違いも相手の間違いも、神様は良い方向に導くために用いることができる方だと知って下さい。そして、それは自分では全く想像しない方法によってかもしれず、自分では全く関係ないと思っていることによってかもしれないということも。私たちにできることはいつでもひとつだけです。それはヨセフがエジプトで奴隷にされてからも守り続けたことです。


2.異国での奴隷・囚人時代(17~30歳)(39:1-4, 21-23)

ヨセフはエジプトに連れて来られた。ヨセフをエジプトへ連れて来たイシュマエル人の手から彼を買い取ったのは、ファラオの宮廷の役人で、侍従長のエジプト人ポティファルであった。主がヨセフと共におられたので、彼はうまく事を運んだ。彼はエジプト人の主人の家にいた。主が共におられ、主が彼のすることをすべてうまく計らわれるのを見た主人は、ヨセフに目をかけて身近に仕えさせ、家の管理をゆだね、財産をすべて彼の手に任せた。(39:1-4)

ヨセフは、奴隷としてエジプト人の主人に仕える身になりました。父ヤコブのもとで受けていた特別扱いは一切なくなり、ただの若い外国人奴隷の一人として働くというのは、相当の試練だったはずです。それまで父に甘やかされて育ってきた少年が、言葉も文化も違う外国で、知り合いもなく、まして不自由な奴隷として働くというのは、想像もつかないほどの苦労だったと思います。また自分をそんな状況に陥らせたのが実の兄たちだというのも、彼の傷になったはずです。そして、家族全員が自分にひれふすというあの夢とはかけ離れた現実に、彼は何を思ったのでしょうか。自分の未熟さと傲慢さに初めて気が付いたかもしれません。父の保護を取り去られた時、ひとりの人間として初めて自分を見つめ直したと思います。自分と神様の関係も改めて考えたでしょう。このヨセフの体験は、親元を初めて離れた大学一年生とか新社会人とかと似ているかもしれません。ちょうど年も同じくらいです。ただヨセフの場合は、自分では全く望んだ移動ではなく、家族からは死んだものとされ、音信不通になり、本当にゼロから自分一人で生きていかなければいけない状況だったという意味で、厳しさが全然違います。そんな厳しい生活の中で、彼は神様を信じて、前向きに生きました。今読んだところで、「主がヨセフと共におられたので、彼はうまく事を運んだ」とありました。これだけ読むと、ヨセフが神様にどういう態度でいたのか分かりにくいかもしれません。聖書の神様は共にいて下さる神様で、私たちが離れない限り、私たちが共にいて下さいと願っている限り、共にいて下さる神様です。だから、主がヨセフと共におられたというのは、ヨセフが主から離れなかったということです。ヨセフは、父が礼拝し、自分も当然と思って礼拝してきた神様を、外国に売られた後も、自分の主として信頼し続けました。それが、ヨセフが守り続けたことで、私たちができるただ一つのことです。どんな時でも神様を信頼し、神様から離れず、その時自分にできることをするということです。ヨセフはその結果、今読んだ通り、仕事を祝福されて、エジプト人の主人の信頼を得ることができました。財産を全て任されるほどになるまでに、一体何年かかったのかは書かれていないので分かりません。ただ、外国でやっと自分の地位を確保できて、自分の苦労も報われたと思ったに違いありません。
でも、ヨセフの苦労はさらに続きました。それは、そのエジプト人の主人の妻がヨセフを誘惑し、それにヨセフが従わなかったために、ヨセフが自分を襲おうとしたと言いがかりをつけて牢屋に入れてしまったのです。ヨセフは無実の罪で牢屋に入れられてしまいました。せっかく主人に信頼されていたのに、また振り出しに戻ったかのような展開です。でも、牢屋の中でもヨセフは主を信頼しました。

しかし、主がヨセフと共におられ、恵みを施し、監守長の目にかなうように導かれたので、監守長は監獄にいる囚人を皆、ヨセフの手にゆだね、獄中の人のすることはすべてヨセフが取りしきるようになった。監守長は、ヨセフの手にゆだねたことには、一切目を配らなくてもよかった。主がヨセフと共におられ、ヨセフがすることを主がうまく計らわれたからである。(39:21-23)

牢獄でも信頼されたヨセフでしたが、この後結局彼は30歳になるまで牢の中から出ることはできませんでした。17歳で兄たちに捨てられてエジプトに連れてこられてから13年間、ヨセフは奴隷であり囚人でした。その間のことは詳しく聖書に書かれてありませんが、40章や41章のヨセフの言葉から、彼が希望を失わずに、いつか自分の無実が証明されると信じて機会を伺っていたことが想像できます。ヨセフは、努力が報われた時も、努力が水の泡になってしまっても、神様から離れず、その時できることを続けました。
ヨセフの希望が現実になったのは、30歳の時、エジプトの王、ファラオの見た夢を説き明かすという出来事によってでした。ファラオの夢は、これから7年間の豊作が続くが、その後は7年間の飢饉が起こるということを告げる内容でした。見事夢を説き明かしたヨセフは、ファラオに重用されて、エジプト全土を支配する権力を持つ高官に大抜擢されました。ヨセフの説き明かした通り、その後7年間は豊作が続き、その間にヨセフの管理の下でエジプトでは飢饉のために十分な量を備蓄することができました。そして飢饉が起こると、エジプト国内からも国外からも、人々がヨセフの備蓄した食糧を求めて、ヨセフのもとに押し寄せました。そして、その中には、ヨセフの兄弟たちもいました。ヨセフは、20年ぶりに、自分を殺そうとした兄たちと再会を果たします。でも、ヨセフはすぐに自分の兄弟たちだと分かりましたが、兄たちは気が付きません。まさか、20年も前にどこかに売られていった自分たちの弟がエジプトの最高役人になっているとは思っていませんし、彼らの記憶では17歳の弟の姿しかなかったからでしょう。兄たちが自分に気が付いていないと分かったヨセフは、すぐには自分の正体を明らかにせず、兄たちを試すことにしました。その様子は、42章から44章に細かく書かれています。その間、ヨセフは何度も、誰にも気が付かれないように泣いています。今日は読みませんが、どうぞ今週読んでみて、なぜヨセフがすぐに兄たちに正体を明かさず、兄たちを試すようなことをしたのか、考えてみてください。では、いよいよヨセフが自分の正体を兄たちに明かして、本当の再会を果たすところから読んでみましょう。


3.飢饉から人々を守る司政官時代 (45:1-8, 50:19-21)

ヨセフは、そばで仕えている者の前で、もはや平静を装っていることができなくなり、「みんな、ここから出て行ってくれ」と叫んだ。だれもそばにいなくなってから、ヨセフは兄弟たちに自分の身を明かした。ヨセフは、声をあげて泣いたので、エジプト人はそれを聞き、ファラオの宮廷にも伝わった。ヨセフは、兄弟たちに言った。「わたしはヨセフです。お父さんはまだ生きておられますか。」兄弟たちはヨセフの前で驚きのあまり、答えることができなかった。ヨセフは兄弟たちに言った。「どうか、もっと近寄ってください。」兄弟たちがそばへ近づくと、ヨセフはまた言った。「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。この二年の間、世界中に飢饉が襲っていますが、まだこれから五年間は、耕すこともなく、収穫もないでしょう。神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。神がわたしをファラオの顧問、宮廷全体の主、エジプト全国を治める者としてくださったのです。 (45:1-8)

ヨセフは、自分が無理やり家族から引き離されて、外国で一人苦労しなければいけなかった意味を知りました。自分がエジプトに連れて来られたのは、表面的には兄たちのせいではありましたが、そうして自分がエジプトで生きてきたために、結果的に飢饉から家族を救うことになりました。この後、ヨセフは父ヤコブも兄たちの家族も皆エジプトに呼び寄せて、不自由なく暮らせるように取り計らいました。彼らの住むカナン地方も飢饉がひどかったためです。だからヨセフは、神様が自分を家族に先立ってエジプトに送り込み、この家族の危機を救うために用いたのだと分かり、兄たちを責める理由はないと思えました。でも、兄たちは自分たちのしたことを後悔し、罪悪感を持っていたので、ヨセフがいつか自分たちに復讐するのではないかと恐れていました。そんな兄たちにヨセフはこうも言いました。


ヨセフは兄たちに言った。「恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか。あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。どうか恐れないでください。このわたしが、あなたたちとあなたたちの子供を養いましょう。」ヨセフはこのように、兄たちを慰め、優しく語りかけた。 (50:19-21)

兄たちの悪を神様は善に変えたのだとヨセフは言っています。ただ、ヨセフの視点からだけではなく、ヨセフの生い立ちも含めて客観的に思い起こすと、私たちはもっとさらに神様のなさったことが大きいことに気が付くと思います。ヨセフの物語で悪かったのは、兄たちだけではありませんでした。父のヤコブがヨセフをひいきにしたのが兄たちの妬みの理由であり、さらにヨセフの未熟さが兄たちの憎しみを招いたのでした。では父ヤコブが悪の元凶かというと、ヤコブ自身も母にひいきにされた過去があります。そして妻を四人も持つことになったのは、義理の父親にだまされたことが原因でした。ヨセフ自身が認識しているよりも、ヤコブ一家の問題はもっと複雑で、誰かが悪いと言うなら、悪くない人はいなかったのです。兄たちも、ヨセフも、ヤコブも、不完全で、神様を悲しませる人間でした。でも、神様はその一家が飢え死にしてしまわないように、彼らの不完全さを用いて、彼ら全員を救われました。
私たちもヤコブ一家と同じです。意識的にも無意識的にも、間違いを犯し、相手を怒らせたり、相手に傷つけられたりします。それぞれの家庭でもそうですし、神様の家族という意味で教会でもそうです。皆が不完全なので、自分を責めたり相手を責めたりしても、何にもなりません。それよりも、ヨセフがしたように、神様を信頼して、今できることを前向きに続けることです。それは問題に目を閉じて、自分は何もしなくても神様がいつか解決してくれると楽観的に構えているのとは全く違います。神様を信頼するということは、ただそう思っていればいいわけではありません。自分自身を神様がどう見ておられるのか、相手のことを神様はどう見ておられるのか、この問題を神様はどう見ておられるのか、自分の感情に流されずに神様の視点を探し求めるということです。そして、その中で教えていただくことがあれば、自分の間違いも弱さも恐れずに、行動に移していくことです。そんな時、今日のヨセフの物語が私たちの大きな励ましになればと思います。神様は、欠けだらけのヤコブ一家を救うために、ヤコブの過ちもヨセフの未熟さも兄たちの弱さも、全て用いられました。ヨセフは先が見えなくても、できることを続けました。


メッセージのポイント
私たちが神様に用いられるということは、多くの場合、後になって分かることです。少年時代にヨセフの見た夢が、気が付いたら現実になっていたように。ヨセフ本人は分からないまま、その時々の状況の中でただ神様を信頼し、できることを前向きに続けたことで、知らないうちに大きな神様の計画に用いられていました。私たちに神様のなさること全てを把握することは到底できませんが、神様は、人の未熟さや失敗も、人の悪も、善に変え、多くの人を救われる方です。

話し合いのために
1) 奴隷であっても牢獄にいても、ヨセフはなぜ前向きでいられたのでしょうか?
2)ヨセフは兄たちと再会した時、なぜすぐに自分の身を明かさなかったのでしょうか?