<メッセージノート>

2014/2/23(使徒言行録19:1-10)
主イエスの名による洗礼

A ヨハネの洗礼から主イエスの名による洗礼へ


1) ヨハネの洗礼の限界 (1-3)

アポロがコリントにいたときのことである。パウロは、内陸の地方を通ってエフェソに下って来て、何人かの弟子に出会い、彼らに、「信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか」と言うと、彼らは、「いいえ、聖霊があるかどうか、聞いたこともありません」と言った。パウロが、「それなら、どんな洗礼を受けたのですか」と言うと、「ヨハネの洗礼です」と言った。


2) イエスの名による洗礼の意味 (4, 5, 1コリント 12:12,13)

そこで、パウロは言った。「ヨハネは、自分の後から来る方、つまりイエスを信じるようにと、民に告げて、悔い改めの洗礼を授けたのです。」人々はこれを聞いて主イエスの名によって洗礼を受けた。(4, 5)

体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。 (1コリント 12:12,13)

 
2.洗礼と聖霊

1) 洗礼を受け聖霊が下った (6,7)

パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が降り、その人たちは異言を話したり、預言をしたりした。この人たちは、皆で十二人ほどであった。 (6, 7)


2) アジア州に主の言葉が行き渡った。 (8-10)

パウロは会堂に入って、三か月間、神の国のことについて大胆に論じ、人々を説得しようとした。しかしある者たちが、かたくなで信じようとはせず、会衆の前でこの道を非難したので、パウロは彼らから離れ、弟子たちをも退かせ、ティラノという人の講堂で毎日論じていた。このようなことが二年も続いたので、アジア州に住む者は、ユダヤ人であれギリシア人であれ、だれもが主の言葉を聞くことになった。 (8-10)


メッセージのポイント
ヨハネは決して「自分の名による」洗礼を授けたのではありません。悔い改めの印として洗礼を受けることを勧めたのです。それは神に対する意思表示というべきもので、赦しの完成は十字架を待たなければなりませんでした。それに比べイエスの洗礼は神からの赦しを伴う完全なものであっただけではなく、聖霊を与えらるということの印でもあったのです。私たちは神の国の完成を目指して働きますが、私たちの力ではなく、私達のうちに働く聖霊の力が神の国を完成に向かわせるのです。

話し合いのために
1) ヨハネの洗礼とイエスの名による洗礼の違いは?
2) パウロが手を置くとどのようなことが起こりましたか?

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<メッセージ全文>

2014/2/23(使徒言行録19:1-10)
主イエスの名による洗礼

A ヨハネの洗礼から主イエスの名による洗礼へ


1) ヨハネの洗礼の限界 (1-3)

アポロがコリントにいたときのことである。パウロは、内陸の地方を通ってエフェソに下って来て、何人かの弟子に出会い、彼らに、「信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか」と言うと、彼らは、「いいえ、聖霊があるかどうか、聞いたこともありません」と言った。パウロが、「それなら、どんな洗礼を受けたのですか」と言うと、「ヨハネの洗礼です」と言った。

パウロの最初の質問と、エフェソの弟子たちの答えに対する第二の質問には、ちぐはぐな印象を受けます。聖霊を受けたかどうかの質問が、洗礼についての質問に変わっています。どうやら、聖霊を受けるということの重要性が洗礼と深く関わっているようです。バプテスマのヨハネは、イエスが来られることを知っていて、人々にイエスを受け入れる備えをさせるために洗礼を授けていました。イエスを主と受け入れ従ってゆくために、私たちの側で必要なことはたった一つ「悔い改め」(今までの生き方を悔い、新しい生き方をしようという決心)です。ヨハネは、この悔い改めを洗礼を受けるという方法で、表明しなさいと勧めたのです。ですから、ヨハネの洗礼はイエスの時代となって全く無意味になったのではありません。洗礼は私たちの悔い改めの表明でもあるからです。しかし主の名による洗礼はそれ以上のものなのです。
 パウロは、彼が来るまでエフェソで教えていたアポロのことを、エフェソの人々のまとめ役であったプリスキラとアキラから聞いていたのでしょう。アポロもまたヨハネの洗礼しか知らない人だったのです。この人たちはアポロに教えを受けていたのかもしれません。ヨハネの洗礼しか知らないということは、正しい洗礼を知らないということにとどまらず、聖霊のことも知らないということを意味します。イエスの名による洗礼が聖霊を受けることと深く関わりがあったのでパウロはこのような聞き方をしたのです。   
 それでは、ヨハネによる洗礼との違いはどこにあるのでしょう? ヨハネの洗礼についてすべての福音書が記録していますが、そのどれもが、ヨハネがイエスについて「自分は水によってだが、イエスは聖霊によって洗礼を授ける」と言ったことを記録しています。イエスは私たちを聖霊に満たしてくださいますが、だからもう水の洗礼はやめなさいとはおっしゃいませんでした。私たちの方からの意思の表明としての客観的な目に見える儀式をイエスも無意味とはお考えにならなかったのです。しかし、聖霊を受けるということを伴わないなら洗礼は内実を伴わないしるしでしかないということです。


2) イエスの名による洗礼の意味 (4, 5, 1コリント 12:12,13)

そこで、パウロは言った。「ヨハネは、自分の後から来る方、つまりイエスを信じるようにと、民に告げて、悔い改めの洗礼を授けたのです。」人々はこれを聞いて主イエスの名によって洗礼を受けた。(4, 5)

 洗礼は、神様の側からすれば聖霊に満たすことのしるし、罪を赦したしるしと言えるでしょう。私たちの側からすれば、イエスを主と信じ従って歩むという決意を公に表すことです。そして、この決意は、キリストの体・教会に加わるという決意でもあります。イエスを主と信じ従って歩むということは、目に見える人々の集まりに加わり、働きを担うことです。残念ながら洗礼を受けた者が皆、イエスに従って生きているわけではありません。ですから、洗礼を受けたら自動的にキリストに従う者になるということではありません。そうではなく。キリストの体の一部となって生きる者がイエスに従って生きる者です。パウロはコリントの人々に当てた手紙の中でこのように書いています。


体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。 (1コリント 12:12,13)

 太い幹を持つぶどうの木を想像してみてください。それが世界で一つのキリストの体・教会です。上にゆくと大きく枝分かれしています。正教会、カトリック教会、カトリックの枝は更に枝分かれしていてプロテスタントとよばれる部分となります。それぞれの枝は先に行くに連れて枝分かれを繰り返し、それぞれの枝には更に細い枝が伸びそこには多くの葉が茂っていますます。ユアチャーチは一番細い枝の一つです。教会は神様の恵みを、幹が養分や水分を枝や葉に送るように、私たちを養います。しかし、実は私たちは養われているばかりではありません。実際の葉っぱも同じです。葉は太陽の光のエネルギーで水と空気中の二酸化炭素を炭水化物に変え木に実を実らせる養分を提供します。それだけではなく大気中に酸素を供給します。私たちも何人であろうとイエスによってここに招かれ、ひとつの体となり、ひとつの霊に満たされて世界に神の愛を供給するキリストの体の一部となるのです。洗礼を受けることは、一つの部分としての働きますという表明でもあるのです。

 
2.洗礼と聖霊

1) 洗礼を受け聖霊が下った (6,7)

パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が降り、その人たちは異言を話したり、預言をしたりした。この人たちは、皆で十二人ほどであった。 (6, 7)

 最初にお話したように、洗礼を受けることと、聖霊を受けることには深い関係があります。 ヨハネの洗礼は人間の悔い改めという決意表明ですが、イエスがヨハネの洗礼を受けた時には特別なことが起こりました。聖霊がイエスの上に降ったのです。ヨハネの福音書によれば、その様子でバプテスマのヨハネは、イエスを救い主と確信したのです。イエスは私たちに、人々をイエスの弟子となるように招き、その決心をした人には水による洗礼を授けるよう命じられました。イエスの弟子となれば、聖霊を受けことができます。イエスの弟子となる表明である洗礼と聖霊を受けることは、どちらもイエスの弟子にとって欠かせないことです。それはちょうど合法的にしかも安全に車を運転するには、運転免許証と運転技術の両方が欠かせないようなものです。ここに書かれているようにほぼ同時に起こった場合の他に、使徒言行録にはイエスの名により洗礼を受けたがまだ聖霊を受けていないケース(8:16)と、洗礼を受ける前に聖霊を受けたケース(10:47)があります。免許がないのに運転できる人もいれば、免許を持っているのにもう怖くて運転出来ない人もいますが、どちらも問題があるように、前後はどちらでも構いませんが、洗礼を受けること、聖霊に満たされること、どちらも欠かせない大切なことなのです。


2) アジア州に主の言葉が行き渡った。 (8-10)

パウロは会堂に入って、三か月間、神の国のことについて大胆に論じ、人々を説得しようとした。しかしある者たちが、かたくなで信じようとはせず、会衆の前でこの道を非難したので、パウロは彼らから離れ、弟子たちをも退かせ、ティラノという人の講堂で毎日論じていた。このようなことが二年も続いたので、アジア州に住む者は、ユダヤ人であれギリシア人であれ、だれもが主の言葉を聞くことになった。 (8-10)

 パウロはここで、大きな方向転換をしました。今まではユダヤ教の会堂でイエスを伝えていましたが、イエスの教えを受け入れないユダヤ人たちは、自分たちの拠点である会堂でイエスの教えを説くパウロのような者たちの発言を嫌うようになりました。そこでパウロは、ユダヤ教の会堂ではないホールを借りてイエスを紹介することにしました。
 この出来事は、イエスの教えが、ユダヤ教の枠には収まらないということが人々の間ではっきりとしてきたということを意味しています。このことはまた、反対するユダヤ人を説得するというアプローチから、イエスを知りたいと思う人に伝えるというアプローチへという大きな転換だったのです。誠実に旧約聖書から解き明かせばユダヤ人なら理解してもらえるだろうというパウロの希望は叶いませんでした。彼は残念に思ったことでしょう。ユダヤ教の会堂を離れて活動するということに不安も感じたことでしょう。しかしこの方向転換は正解でした。なぜならパウロはこの後、妨害を受けずにエフェソで二年間教え続けることが出来、ユダヤ人に限らず多くの人に主の言葉を届けることができたからです。私たちに問われていることは、自分の親しい人々や地域の人々にどれだけ効果的に主の言葉を届けられるかということです。どうしたら「私の周りの人々は、何人であれ、誰もが主の言葉を聞くようになった」という結果を得ることができるでしょうか?それは私たちが出来るだけオープンになるということです。一人一人が置かれているところで、この人に生き方の秘訣を聞いてみたいなと思われることです。ユアチャーチがイエスを知らない人にとっても心地よい所となることです。これは聖霊による魅力です。自分のことを考えるならそれは無理と思う人が多いことはよくわかります。しかし無理ではありません。イエスは、そのように自信のない私たちのために聖霊を送られたのです。聖霊に満たされることを求めましょう。異言を語ったり、預言をすることがその目的ではありません。赦されていること、愛されていることに自信を持つことができるようになるために求めるのです。自分が何かできる、素晴らしいという自信ではありません。この自信が私たちに霊的な魅力を備えさせてくれます。またこの自信を持つことによって、パウロが思い切った方向転換が出来たように、私たちも柔軟に主に従ってゆくことが出来るのです。


メッセージのポイント
ヨハネは決して「自分の名による」洗礼を授けたのではありません。悔い改めの印として洗礼を受けることを勧めたのです。それは神に対する意思表示というべきもので、赦しの完成は十字架を待たなければなりませんでした。それに比べイエスの洗礼は神からの赦しを伴う完全なものであっただけではなく、聖霊を与えらるということの印でもあったのです。私たちは神の国の完成を目指して働きますが、私たちの力ではなく、私達のうちに働く聖霊の力が神の国を完成に向かわせるのです。

話し合いのために
1) ヨハネの洗礼とイエスの名による洗礼の違いは?
2) パウロが手を置くとどのようなことが起こりましたか?