<メッセージノート>
2014/3/2(使徒言行録19:11-20)
名前と言葉
A あなたの名は悪霊に知られているか?(11-16)
1) 主イエスの名の力 (11-12)
神は、パウロの手を通して目覚ましい奇跡を行われた。彼が身に着けていた手ぬぐいや前掛けを持って行って病人に当てると、病気はいやされ、悪霊どもも出て行くほどであった。
2) 心から信じる者を通して働く力 (13-16)
ところが、各地を巡り歩くユダヤ人の祈祷師たちの中にも、悪霊どもに取りつかれている人々に向かい、試みに、主イエスの名を唱えて、「パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる」と言う者があった。ユダヤ人の祭司長スケワという者の七人の息子たちがこんなことをしていた。悪霊は彼らに言い返した。「イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、いったいお前たちは何者だ。」そして、悪霊に取りつかれている男が、この祈祷師たちに飛びかかって押さえつけ、ひどい目に遭わせたので、彼らは裸にされ、傷つけられて、その家から逃げ出した。
B 力の表れが起こすこと (17-20)
1) 人生の方向転換 (17-19)
このことがエフェソに住むユダヤ人やギリシア人すべてに知れ渡ったので、人々は皆恐れを抱き、主イエスの名は大いにあがめられるようになった。信仰に入った大勢の人が来て、自分たちの悪行をはっきり告白した。また、魔術を行っていた多くの者も、その書物を持って来て、皆の前で焼き捨てた。その値段を見積もってみると、銀貨五万枚にもなった。
2) 主の言葉が力強く前進する (20)
このようにして、主の言葉はますます勢いよく広まり、力を増していった。
メッセージのポイント
主イエスの名には力があります。しかしそれは、だれでも唱えれば発揮できるような魔術的な力ではありません。心から信じて従う者の働きの中に表されるものです。私たちはそのことを信じて、癒やすこと、悪霊を追い出すことさえ必要なら行うことができるのです。神の力は様々な形で、信じる者を通して現されてきました。その多くは瞬間的な奇跡のようなものではなく、あとから、このことは神の奇跡としてしか起こりようのなかったと思い返すものです。神が全能であるなら奇跡が起こることは不思議ではありません。大切なのは、心から信じて従うことです。そうすれば、イエスのようにパウロのように、悪霊からその名を知られている者として、襲われる心配はありません。あなたの周りにも、主の言葉が広まり、力が増していきます。
話し合いのために
1) なぜ祭司長の息子たちはひどい目に遭ったのですか?
2) イエスの名による奇跡と魔術の違いは?
名前と言葉
A あなたの名は悪霊に知られているか?(11-16)
1) 主イエスの名の力 (11-12)
神は、パウロの手を通して目覚ましい奇跡を行われた。彼が身に着けていた手ぬぐいや前掛けを持って行って病人に当てると、病気はいやされ、悪霊どもも出て行くほどであった。
2) 心から信じる者を通して働く力 (13-16)
ところが、各地を巡り歩くユダヤ人の祈祷師たちの中にも、悪霊どもに取りつかれている人々に向かい、試みに、主イエスの名を唱えて、「パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる」と言う者があった。ユダヤ人の祭司長スケワという者の七人の息子たちがこんなことをしていた。悪霊は彼らに言い返した。「イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、いったいお前たちは何者だ。」そして、悪霊に取りつかれている男が、この祈祷師たちに飛びかかって押さえつけ、ひどい目に遭わせたので、彼らは裸にされ、傷つけられて、その家から逃げ出した。
B 力の表れが起こすこと (17-20)
1) 人生の方向転換 (17-19)
このことがエフェソに住むユダヤ人やギリシア人すべてに知れ渡ったので、人々は皆恐れを抱き、主イエスの名は大いにあがめられるようになった。信仰に入った大勢の人が来て、自分たちの悪行をはっきり告白した。また、魔術を行っていた多くの者も、その書物を持って来て、皆の前で焼き捨てた。その値段を見積もってみると、銀貨五万枚にもなった。
2) 主の言葉が力強く前進する (20)
このようにして、主の言葉はますます勢いよく広まり、力を増していった。
メッセージのポイント
主イエスの名には力があります。しかしそれは、だれでも唱えれば発揮できるような魔術的な力ではありません。心から信じて従う者の働きの中に表されるものです。私たちはそのことを信じて、癒やすこと、悪霊を追い出すことさえ必要なら行うことができるのです。神の力は様々な形で、信じる者を通して現されてきました。その多くは瞬間的な奇跡のようなものではなく、あとから、このことは神の奇跡としてしか起こりようのなかったと思い返すものです。神が全能であるなら奇跡が起こることは不思議ではありません。大切なのは、心から信じて従うことです。そうすれば、イエスのようにパウロのように、悪霊からその名を知られている者として、襲われる心配はありません。あなたの周りにも、主の言葉が広まり、力が増していきます。
話し合いのために
1) なぜ祭司長の息子たちはひどい目に遭ったのですか?
2) イエスの名による奇跡と魔術の違いは?
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<メッセージ全文>
2014/3/2(使徒言行録19:11-20)
名前と言葉
A あなたの名は悪霊に知られているか?(11-16)
1) 主イエスの名の力 (11-12)
神は、パウロの手を通して目覚ましい奇跡を行われた。彼が身に着けていた手ぬぐいや前掛けを持って行って病人に当てると、病気はいやされ、悪霊どもも出て行くほどであった。
パウロが超能力で奇跡を見せたのではなく、神がパウロの手を通して奇跡を行われたということが大切です。それを忘れれば、私たちの信仰は神の奇跡がパウロの奇跡になり、果ては手ぬぐいや前掛けに神秘的な力がある、というところにまでずれてゆきます。パウロにも私たちにも、もちろん手ぬぐいや前掛けにも奇跡を起こす力はありません。しかし神は、信じて従う者を通して、奇跡としか思えないようなことを起こします。神は私たちの切なる願いに応えてくださいます。それは必ずしも即座に結果が現れたり、自分の思い通りの応えではないかもしれませんが、神が必ず応えてくださるということは間違いありません。だから私たちも、主イエスの名によって癒やしが起こることを期待して手を置くのです。
2) 心から信じる者を通して働く力 (13-16)
ところが、各地を巡り歩くユダヤ人の祈祷師たちの中にも、悪霊どもに取りつかれている人々に向かい、試みに、主イエスの名を唱えて、「パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる」と言う者があった。ユダヤ人の祭司長スケワという者の七人の息子たちがこんなことをしていた。悪霊は彼らに言い返した。「イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、いったいお前たちは何者だ。」そして、悪霊に取りつかれている男が、この祈祷師たちに飛びかかって押さえつけ、ひどい目に遭わせたので、彼らは裸にされ、傷つけられて、その家から逃げ出した。
イエスの名を唱えることが奇跡を起こすのではないと言いましたが、イエスに従っていない人にとっては、それがマジックワードと思えたのです。ここの出てくる祈祷師とはExorcistの原語エクソルキステースと呼ばれる人々でした。彼らは、アブラハムやソロモン、ヤーウエの名を用いて悪魔祓いをしていたようです。そしてここでイエスの弟子であるパウロが、イエスの名によって、奇跡を起こしていると見た彼らは、その名の威力を試してみようと思ったわけです。イエスの名は、他のどの名よりも悪霊を刺激するのです。本当にイエスの権威を委ねられた弟子が、イエスの何よって立ち向かえば悪霊は逃げ出すしかありません。しかし悪霊はスケワの息子たちのように、イエスの権威を帯びていない者までが、イエスの名を用いることに我慢できませんでした。そして聖霊の守りの内にいない彼らは、悪霊の攻撃に対して全く無防備だったということです。
皆さんは、悪霊を追い出さなければならない状況に置かれたら、自信を持って「主イエスの名によってお前に命じる。この人から出てゆけ!」と言えるでしょうか?「イエスは知っている、パウロも知っている、だが、いったいお前たちは何者だ。」と言い返されない自信がありますか?なければ、そんなことはしなければよいのですが、自信を持っていただきたいのです。というか、悪霊は私の名前も(パウロのようにイエスに属するものとして知られているということに自信が持てるほどにイエスを信じ従う人になっていただきたいのです。私は幸いなことに、かなり長い間、悪霊の追い出しということをしないで済んできましたが、いつでもそれを行うつもりではいるのです。
B 力の表れが起こすこと (17-20)
1) 人生の方向転換 (17-19)
このことがエフェソに住むユダヤ人やギリシア人すべてに知れ渡ったので、人々は皆恐れを抱き、主イエスの名は大いにあがめられるようになった。信仰に入った大勢の人が来て、自分たちの悪行をはっきり告白した。また、魔術を行っていた多くの者も、その書物を持って来て、皆の前で焼き捨てた。その値段を見積もってみると、銀貨五万枚にもなった。
この出来事を通して起こった一番素晴らしいことは、本当に心から主イエスに従って生きようとした人々が大勢起こされたということです。悪霊の恐ろしさよりもはるかに力ある主イエスの名があがめられるようになったのです。悪霊に対抗するには、イエスに従う者になるしかないということが明らかになったのです。中途半端な魔術では、悪魔の力にはかなわない事を知った多くの人々は、魔術の本を焼き捨てました。たとえそれが興味本位のものであったとしても、イエスの喜ばれない魔術や占いの本は持たないほうが良いのです。朝のテレビの、星座や血液型による今日の運勢を気にしてしまう人はいませんか?それは、イエスが今日させようとしていることに尻込みしてしまうか、反対にするべきではないことしてしまうことになりかねません。血液型で自分や人のことを決めつけてしまっている人はいませんか?それは自分や人のイエスに従う者としての大きな可能性に対して呪いを置くことになってしまうかもしれません。
それよりも私たちは、書物を持って来て皆の前で焼き捨てた人々のように、ただイエスに信頼を置くべきです。彼らは、この時、魔術を頼って生きるのではなく、イエスに頼って生きる者となるという人生の方向転換をしたのです。それまでの彼らは魔術にどれほどの大金をつぎ込んだかがここに明らかにされています。しかしイエスの力が明らかになった時、その投資をすべて投げ打つことも全く惜しくないほどに、イエスに従いたいと願ったのです。人は自分の幸せのために、知的な成長のために、あるいは肉体の強化のためにも投資することを惜しみません。けれども、私たちは気付いたのです。イエスの働きのために、お金ではなく自分自身を投資する事こそ、最も意味のある人生をもたらすということをです。
2) 主の言葉が力強く前進する (20)
このようにして、主の言葉はますます勢いよく広まり、力を増していった。
主の言葉がますます勢いよく広まり、力を増していくという状況を、私たちはここに、この時代に期待できるのでしょうか?確かに、私たちは神の恵みと憐れみによって着実に前進してくることは出来ました。しかし「勢いよく広まり、力を増してきた」というほどではないでしょう。例えば日本の文化は特殊だからとか、経済的に富み過ぎているからといった理由付けがなされてきました。けれども、勢いを妨げてきたのは私達自身ではなかったかという反省は無用なのでしょうか?教会はいつの間にか内向きな心地よさを追求するものになってきてしまったのではないでしょうか?イエスに、神の国に全く投資されていないとは言いませんが、イエスとは関係のないところにも分散投資を行ってきたのではないでしょうか?私たちは、イエスの名によって自分が、家族が、社会が、世界が変わることを望んでいたのではなかったのでしょうか?そうであれば私たちは、他のものに分散投資することは間違っていませんか?イエスは信頼を裏切らないお方だと本当に信じているならあなた自身を、生涯をイエスに委ねましょう。
メッセージのポイント
主イエスの名には力があります。しかしそれは、だれでも唱えれば発揮できるような魔術的な力ではありません。心から信じて従う者の働きの中に表されるものです。私たちはそのことを信じて、癒やすこと、悪霊を追い出すことさえ必要なら行うことができるのです。神の力は様々な形で、信じる者を通して現されてきました。その多くは瞬間的な奇跡のようなものではなく、あとから、このことは神の奇跡としてしか起こりようのなかったと思い返すものです。神が全能であるなら奇跡が起こることは不思議ではありません。大切なのは、心から信じて従うことです。そうすれば、イエスのようにパウロのように、悪霊からその名を知られている者として、襲われる心配はありません。あなたの周りにも、主の言葉が広まり、力が増していきます。
話し合いのために
1) なぜ祭司長の息子たちはひどい目に遭ったのですか?
2) イエスの名による奇跡と魔術の違いは?
名前と言葉
A あなたの名は悪霊に知られているか?(11-16)
1) 主イエスの名の力 (11-12)
神は、パウロの手を通して目覚ましい奇跡を行われた。彼が身に着けていた手ぬぐいや前掛けを持って行って病人に当てると、病気はいやされ、悪霊どもも出て行くほどであった。
パウロが超能力で奇跡を見せたのではなく、神がパウロの手を通して奇跡を行われたということが大切です。それを忘れれば、私たちの信仰は神の奇跡がパウロの奇跡になり、果ては手ぬぐいや前掛けに神秘的な力がある、というところにまでずれてゆきます。パウロにも私たちにも、もちろん手ぬぐいや前掛けにも奇跡を起こす力はありません。しかし神は、信じて従う者を通して、奇跡としか思えないようなことを起こします。神は私たちの切なる願いに応えてくださいます。それは必ずしも即座に結果が現れたり、自分の思い通りの応えではないかもしれませんが、神が必ず応えてくださるということは間違いありません。だから私たちも、主イエスの名によって癒やしが起こることを期待して手を置くのです。
2) 心から信じる者を通して働く力 (13-16)
ところが、各地を巡り歩くユダヤ人の祈祷師たちの中にも、悪霊どもに取りつかれている人々に向かい、試みに、主イエスの名を唱えて、「パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる」と言う者があった。ユダヤ人の祭司長スケワという者の七人の息子たちがこんなことをしていた。悪霊は彼らに言い返した。「イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、いったいお前たちは何者だ。」そして、悪霊に取りつかれている男が、この祈祷師たちに飛びかかって押さえつけ、ひどい目に遭わせたので、彼らは裸にされ、傷つけられて、その家から逃げ出した。
イエスの名を唱えることが奇跡を起こすのではないと言いましたが、イエスに従っていない人にとっては、それがマジックワードと思えたのです。ここの出てくる祈祷師とはExorcistの原語エクソルキステースと呼ばれる人々でした。彼らは、アブラハムやソロモン、ヤーウエの名を用いて悪魔祓いをしていたようです。そしてここでイエスの弟子であるパウロが、イエスの名によって、奇跡を起こしていると見た彼らは、その名の威力を試してみようと思ったわけです。イエスの名は、他のどの名よりも悪霊を刺激するのです。本当にイエスの権威を委ねられた弟子が、イエスの何よって立ち向かえば悪霊は逃げ出すしかありません。しかし悪霊はスケワの息子たちのように、イエスの権威を帯びていない者までが、イエスの名を用いることに我慢できませんでした。そして聖霊の守りの内にいない彼らは、悪霊の攻撃に対して全く無防備だったということです。
皆さんは、悪霊を追い出さなければならない状況に置かれたら、自信を持って「主イエスの名によってお前に命じる。この人から出てゆけ!」と言えるでしょうか?「イエスは知っている、パウロも知っている、だが、いったいお前たちは何者だ。」と言い返されない自信がありますか?なければ、そんなことはしなければよいのですが、自信を持っていただきたいのです。というか、悪霊は私の名前も(パウロのようにイエスに属するものとして知られているということに自信が持てるほどにイエスを信じ従う人になっていただきたいのです。私は幸いなことに、かなり長い間、悪霊の追い出しということをしないで済んできましたが、いつでもそれを行うつもりではいるのです。
B 力の表れが起こすこと (17-20)
1) 人生の方向転換 (17-19)
このことがエフェソに住むユダヤ人やギリシア人すべてに知れ渡ったので、人々は皆恐れを抱き、主イエスの名は大いにあがめられるようになった。信仰に入った大勢の人が来て、自分たちの悪行をはっきり告白した。また、魔術を行っていた多くの者も、その書物を持って来て、皆の前で焼き捨てた。その値段を見積もってみると、銀貨五万枚にもなった。
この出来事を通して起こった一番素晴らしいことは、本当に心から主イエスに従って生きようとした人々が大勢起こされたということです。悪霊の恐ろしさよりもはるかに力ある主イエスの名があがめられるようになったのです。悪霊に対抗するには、イエスに従う者になるしかないということが明らかになったのです。中途半端な魔術では、悪魔の力にはかなわない事を知った多くの人々は、魔術の本を焼き捨てました。たとえそれが興味本位のものであったとしても、イエスの喜ばれない魔術や占いの本は持たないほうが良いのです。朝のテレビの、星座や血液型による今日の運勢を気にしてしまう人はいませんか?それは、イエスが今日させようとしていることに尻込みしてしまうか、反対にするべきではないことしてしまうことになりかねません。血液型で自分や人のことを決めつけてしまっている人はいませんか?それは自分や人のイエスに従う者としての大きな可能性に対して呪いを置くことになってしまうかもしれません。
それよりも私たちは、書物を持って来て皆の前で焼き捨てた人々のように、ただイエスに信頼を置くべきです。彼らは、この時、魔術を頼って生きるのではなく、イエスに頼って生きる者となるという人生の方向転換をしたのです。それまでの彼らは魔術にどれほどの大金をつぎ込んだかがここに明らかにされています。しかしイエスの力が明らかになった時、その投資をすべて投げ打つことも全く惜しくないほどに、イエスに従いたいと願ったのです。人は自分の幸せのために、知的な成長のために、あるいは肉体の強化のためにも投資することを惜しみません。けれども、私たちは気付いたのです。イエスの働きのために、お金ではなく自分自身を投資する事こそ、最も意味のある人生をもたらすということをです。
2) 主の言葉が力強く前進する (20)
このようにして、主の言葉はますます勢いよく広まり、力を増していった。
主の言葉がますます勢いよく広まり、力を増していくという状況を、私たちはここに、この時代に期待できるのでしょうか?確かに、私たちは神の恵みと憐れみによって着実に前進してくることは出来ました。しかし「勢いよく広まり、力を増してきた」というほどではないでしょう。例えば日本の文化は特殊だからとか、経済的に富み過ぎているからといった理由付けがなされてきました。けれども、勢いを妨げてきたのは私達自身ではなかったかという反省は無用なのでしょうか?教会はいつの間にか内向きな心地よさを追求するものになってきてしまったのではないでしょうか?イエスに、神の国に全く投資されていないとは言いませんが、イエスとは関係のないところにも分散投資を行ってきたのではないでしょうか?私たちは、イエスの名によって自分が、家族が、社会が、世界が変わることを望んでいたのではなかったのでしょうか?そうであれば私たちは、他のものに分散投資することは間違っていませんか?イエスは信頼を裏切らないお方だと本当に信じているならあなた自身を、生涯をイエスに委ねましょう。
メッセージのポイント
主イエスの名には力があります。しかしそれは、だれでも唱えれば発揮できるような魔術的な力ではありません。心から信じて従う者の働きの中に表されるものです。私たちはそのことを信じて、癒やすこと、悪霊を追い出すことさえ必要なら行うことができるのです。神の力は様々な形で、信じる者を通して現されてきました。その多くは瞬間的な奇跡のようなものではなく、あとから、このことは神の奇跡としてしか起こりようのなかったと思い返すものです。神が全能であるなら奇跡が起こることは不思議ではありません。大切なのは、心から信じて従うことです。そうすれば、イエスのようにパウロのように、悪霊からその名を知られている者として、襲われる心配はありません。あなたの周りにも、主の言葉が広まり、力が増していきます。
話し合いのために
1) なぜ祭司長の息子たちはひどい目に遭ったのですか?
2) イエスの名による奇跡と魔術の違いは?