<メッセージノート>
2014/3/9(使徒言行録19:21-40)
アイドルで儲ける
A 聖霊にローマ行きを教えられたパウロ(21, 22)
このようなことがあった後、パウロは、マケドニア州とアカイア州を通りエルサレムに行こうと決心し、「わたしはそこへ行った後、ローマも見なくてはならない」と言った。そして、自分に仕えている者の中から、テモテとエラストの二人をマケドニア州に送り出し、彼自身はしばらくアジア州にとどまっていた。
B 偶像で儲ける人の敵、イエス (23-40)
1) 偶像で儲かる社会 (23-25)
そのころ、この道のことでただならぬ騒動が起こった。そのいきさつは次のとおりである。デメトリオという銀細工師が、アルテミスの神殿の模型を銀で造り、職人たちにかなり利益を得させていた。彼は、この職人たちや同じような仕事をしている者たちを集めて言った。「諸君、御承知のように、この仕事のお陰で、我々はもうけているのだが、
2) イエスはなぜ偶像礼拝に反対するのか? (26-28)
諸君が見聞きしているとおり、あのパウロは『手で造ったものなどは神ではない』と言って、エフェソばかりでなくアジア州のほとんど全地域で、多くの人を説き伏せ、たぶらかしている。これでは、我々の仕事の評判が悪くなってしまうおそれがあるばかりでなく、偉大な女神アルテミスの神殿もないがしろにされ、アジア州全体、全世界があがめるこの女神の御威光さえも失われてしまうだろう。」これを聞いた人々はひどく腹を立て、「エフェソ人のアルテミスは偉い方」と叫びだした。
3) 偶像礼拝との戦いは一生続く (29-40)
そして、町中が混乱してしまった。彼らは、パウロの同行者であるマケドニア人ガイオとアリスタルコを捕らえ、一団となって野外劇場になだれ込んだ。パウロは群衆の中へ入っていこうとしたが、弟子たちはそうさせなかった。他方、パウロの友人でアジア州の祭儀をつかさどる高官たちも、パウロに使いをやって、劇場に入らないようにと頼んだ。さて、群衆はあれやこれやとわめき立てた。集会は混乱するだけで、大多数の者は何のために集まったのかさえ分からなかった。そのとき、ユダヤ人が前へ押し出したアレクサンドロという男に、群衆の中のある者たちが話すように促したので、彼は手で制し、群衆に向かって弁明しようとした。しかし、彼がユダヤ人であると知った群衆は一斉に、「エフェソ人のアルテミスは偉い方」と二時間ほども叫び続けた。そこで、町の書記官が群衆をなだめて言った。「エフェソの諸君、エフェソの町が、偉大なアルテミスの神殿と天から降って来た御神体との守り役であることを、知らない者はないのだ。これを否定することはできないのだから、静かにしなさい。決して無謀なことをしてはならない。諸君がここへ連れて来た者たちは、神殿を荒らしたのでも、我々の女神を冒涜したのでもない。デメトリオと仲間の職人が、だれかを訴え出たいのなら、決められた日に法廷は開かれるし、地方総督もいることだから、相手を訴え出なさい。それ以外のことで更に要求があるなら、正式な会議で解決してもらうべきである。本日のこの事態に関して、我々は暴動の罪に問われるおそれがある。この無秩序な集会のことで、何一つ弁解する理由はないからだ。」こう言って、書記官は集会を解散させた。
メッセージのポイント
偶像礼拝に対する警告は、旧新約聖書に一貫する重要なメッセージです。私たちの周りにも当時のエフェソのように、偶像にまつわることを生業にしている人がいます。私たちが求められていることは、そのような人々を非難、攻撃することではありません。私たち自身が偶像礼拝者にならないことです。偶像礼拝の本質は木や石で作った像を拝むことではなく、神様以外のものを神様のようにして仕えることです。人間は神以外のあらゆるものを神としてしまう、偶像礼拝の天才です。心して、唯一の神様を礼拝し続けましょう。
話し合いのために
1) 偶像礼拝とは?
2) あなたにとっては何が偶像でしたか?
アイドルで儲ける
A 聖霊にローマ行きを教えられたパウロ(21, 22)
このようなことがあった後、パウロは、マケドニア州とアカイア州を通りエルサレムに行こうと決心し、「わたしはそこへ行った後、ローマも見なくてはならない」と言った。そして、自分に仕えている者の中から、テモテとエラストの二人をマケドニア州に送り出し、彼自身はしばらくアジア州にとどまっていた。
B 偶像で儲ける人の敵、イエス (23-40)
1) 偶像で儲かる社会 (23-25)
そのころ、この道のことでただならぬ騒動が起こった。そのいきさつは次のとおりである。デメトリオという銀細工師が、アルテミスの神殿の模型を銀で造り、職人たちにかなり利益を得させていた。彼は、この職人たちや同じような仕事をしている者たちを集めて言った。「諸君、御承知のように、この仕事のお陰で、我々はもうけているのだが、
2) イエスはなぜ偶像礼拝に反対するのか? (26-28)
諸君が見聞きしているとおり、あのパウロは『手で造ったものなどは神ではない』と言って、エフェソばかりでなくアジア州のほとんど全地域で、多くの人を説き伏せ、たぶらかしている。これでは、我々の仕事の評判が悪くなってしまうおそれがあるばかりでなく、偉大な女神アルテミスの神殿もないがしろにされ、アジア州全体、全世界があがめるこの女神の御威光さえも失われてしまうだろう。」これを聞いた人々はひどく腹を立て、「エフェソ人のアルテミスは偉い方」と叫びだした。
3) 偶像礼拝との戦いは一生続く (29-40)
そして、町中が混乱してしまった。彼らは、パウロの同行者であるマケドニア人ガイオとアリスタルコを捕らえ、一団となって野外劇場になだれ込んだ。パウロは群衆の中へ入っていこうとしたが、弟子たちはそうさせなかった。他方、パウロの友人でアジア州の祭儀をつかさどる高官たちも、パウロに使いをやって、劇場に入らないようにと頼んだ。さて、群衆はあれやこれやとわめき立てた。集会は混乱するだけで、大多数の者は何のために集まったのかさえ分からなかった。そのとき、ユダヤ人が前へ押し出したアレクサンドロという男に、群衆の中のある者たちが話すように促したので、彼は手で制し、群衆に向かって弁明しようとした。しかし、彼がユダヤ人であると知った群衆は一斉に、「エフェソ人のアルテミスは偉い方」と二時間ほども叫び続けた。そこで、町の書記官が群衆をなだめて言った。「エフェソの諸君、エフェソの町が、偉大なアルテミスの神殿と天から降って来た御神体との守り役であることを、知らない者はないのだ。これを否定することはできないのだから、静かにしなさい。決して無謀なことをしてはならない。諸君がここへ連れて来た者たちは、神殿を荒らしたのでも、我々の女神を冒涜したのでもない。デメトリオと仲間の職人が、だれかを訴え出たいのなら、決められた日に法廷は開かれるし、地方総督もいることだから、相手を訴え出なさい。それ以外のことで更に要求があるなら、正式な会議で解決してもらうべきである。本日のこの事態に関して、我々は暴動の罪に問われるおそれがある。この無秩序な集会のことで、何一つ弁解する理由はないからだ。」こう言って、書記官は集会を解散させた。
メッセージのポイント
偶像礼拝に対する警告は、旧新約聖書に一貫する重要なメッセージです。私たちの周りにも当時のエフェソのように、偶像にまつわることを生業にしている人がいます。私たちが求められていることは、そのような人々を非難、攻撃することではありません。私たち自身が偶像礼拝者にならないことです。偶像礼拝の本質は木や石で作った像を拝むことではなく、神様以外のものを神様のようにして仕えることです。人間は神以外のあらゆるものを神としてしまう、偶像礼拝の天才です。心して、唯一の神様を礼拝し続けましょう。
話し合いのために
1) 偶像礼拝とは?
2) あなたにとっては何が偶像でしたか?
<MP3 音声>
<ビデオ> 画面をクリックすると再生が始まります
<メッセージ全文>
2014/3/9(使徒言行録19:21-40)
アイドルで儲ける
A 聖霊にローマ行きを教えられたパウロ(21, 22)
このようなことがあった後、パウロは、マケドニア州とアカイア州を通りエルサレムに行こうと決心し、「わたしはそこへ行った後、ローマも見なくてはならない」と言った。そして、自分に仕えている者の中から、テモテとエラストの二人をマケドニア州に送り出し、彼自身はしばらくアジア州にとどまっていた。
パウロがアジア州で過ごす時が終わろうとしています。今日お話するのは、パウロのエフェソ滞在中に起こった最後のエピソードです。ここでパウロはエルサレムを訪問してからローマに行くことになるであろうことを確信しています。そしてまた、アジア、マケドニア、ギリシャにはもう来られないだろうというという確信でもあったのです。だから、先にテモテとエラストをマケドニアに送り、パウロ自身は時間の許す限りエフェソにとどまっていました。彼も今日お話する出来事が終わると、ついにエフェソを離れ、マケドニア、ギリシアを訪問した後にエルサレムに向かいます。NIVも新共同訳も、パウロがエルサレムへ行くことを決心したと訳していますが、直訳すれば“霊に促されて”という言葉が使われているので、聖霊に促されてローマに行くべきことまで教えられて、エルサレムに向かうことを決心したと考えられます。もうアジア州に戻ってくることはないだろうということも感じていたのだと思います。ですから、残されている時間を大切に、エフェソにとどまってアジア州の人々のために費やしたのです。しかしその間にも新たな事件が発生しました。23-25節を読みましょう。
B 偶像で儲ける人の敵、イエス (23-40)
1) 偶像で儲かる社会 (23-25)
そのころ、この道のことでただならぬ騒動が起こった。そのいきさつは次のとおりである。デメトリオという銀細工師が、アルテミスの神殿の模型を銀で造り、職人たちにかなり利益を得させていた。彼は、この職人たちや同じような仕事をしている者たちを集めて言った。「諸君、御承知のように、この仕事のお陰で、我々はもうけているのだが、
エフェソにはアルテミスと呼ばれる女神の神殿が紀元前700年頃に立てられ何回かの破壊と再建を経て、この時代にも遠方からも大量の崇拝者をひきつけ大きな経済効果を生んでいました。ピラミッドなどと並び世界の七不思議とされた壮大な建造物でした。エフェソでもともと崇められていた女神がギリシャ神話の女神アルテミスと同一視されていたようです。女神の像は高さ15メートルほどの木製でd100m×w50m×h20mの神殿の中におかれていたと伝えられています。
エフェソは小アジアの商業の中心地でもありましたが、女神はギリシャのアルテミスよりずっと大きな影響力を持っていたので、信仰の中心地でもあったのです。当然、そこにはアルテミス参拝、拝観にくる人々が落とすお金は莫大なものでした。デメトリオのように、それで生計を立てていたものが大勢いたのです。
私たちは、日本のお寺や神社に関連したことで生計を立てている人々を非難するために、この箇所を学んでいるのではありません。私たち自身が陥りやすいこととして偶像礼拝の本質を知ろうとしているのです。偶像礼拝の禁止は、神がイスラエル民族を通してご自身を現された、その始めから戒められていた事です。それはモーセの十戒(出エジプト記20:1-17)によってはっきりと民に知らされていました。十戒の2つ目の戒めとして記されていますが、それは最初の戒めを別な角度から言い換えたものだと言えます。第一戒は「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」です。それを実際に破る行為が像を作る、それにひれ伏す、仕えることです。イエスの教えが届くまで、エフェソの人々にとってはユダヤ人の教えである十戒は自分たちには関係のないことだったのです。しかし、ユダヤ人以外の人々に対しても、何もできない虚しい偶像ではなくイエスに従うことを勧めるパウロの主張は、自分たちの利益を損ねるものだったのです。真理に従おうとするとき、今までは何の後ろめたさも感じずにしていたことが疑問に思えて、その人の生き方を変えるのです。アメイジング・グレイスの作者ジョン・ニュートンは奴隷船の船長でしたが、嵐に会い命の危険を感じた時に初めて、彼の母が信じていた神に必死に祈り、救われる体験をして主に従う人になりました。後に自分が奴隷売買という不正義で利益を得ていたことを深く恥じ船を降り、やがて牧師となってこの曲を書きました。
この社会には、イエスに従う人は多くはありませんが、大抵の人はイエスを知らなくても、神が喜んで下さる働きに従事しています。しかし中には、人々に不利益を与えるようなことに従事して生きていて、社会問題となりニュースとなるのです。
今何かと話題になる金融のシステムですが、それは元々大きな儲けを目的とするものではなく、様々な取引をより安全に、便利に行うために考案され発展してきたものです。問題は、そこから利益を求めることが目的化し、貪欲、強欲が肯定されることです。
人間は神様の栄光を表すために生きる - それが聖書の教える人生の目的です。しかし、神を知らなければ、人間は自分の利益を追求するために生きるしかありません。その生き方の本質はデメトリオと変わりありません。神の恵みによって生かされているのではなく、何かを偶像としてその力で生きているのです。その意味では、私たちの生きる社会は偶像で儲けるエフェソと同じです。しかし私たちは、偶像のない神の国を目指すのです。それは、この世界の至るところに、教会や団体として様々な形で実現していますが、まだ完成してはいないのです。先を読み進めましょう。26-28節です。
2) イエスはなぜ偶像礼拝に反対するのか? (26-28)
諸君が見聞きしているとおり、あのパウロは『手で造ったものなどは神ではない』と言って、エフェソばかりでなくアジア州のほとんど全地域で、多くの人を説き伏せ、たぶらかしている。これでは、我々の仕事の評判が悪くなってしまうおそれがあるばかりでなく、偉大な女神アルテミスの神殿もないがしろにされ、アジア州全体、全世界があがめるこの女神の御威光さえも失われてしまうだろう。」これを聞いた人々はひどく腹を立て、「エフェソ人のアルテミスは偉い方」と叫びだした。
十戒のことをお話して確認したとおり、偶像礼拝の禁止はイエスが初めにしたわけではありません。イエスがしたのは、表面的には偶像礼拝の禁止に従っているように見えても、実際は神と向きあおうとせず、心から神を愛すことも、その意志に従おうとすることもせず、ただ律法を機械的に守る「律法主義」を徹底的に批判することでした。「そうではなく、本当に神を愛しなさい」と命じたのです。イエスの目にも、パウロの目にも、人々の心は神様から遠く離れているように映りました。実際に木の像を作ろうと作るまいと同じ罪人なのです。愛さないからです。従わないからです。イエスは、あれをしなさいとか、これをしてはいけません、ということではなく、シンプルに私に従ってきなさいと言われます。私とともに生きなさいということであり、私のように生きなさいということでもあります。イエスが偶像礼拝を嫌われるのは、それによって人々の目が曇らされ、神とその恵みを見出すことの出来ない状態に人をとどめるからです。
3) 偶像礼拝との戦いは一生続く (29-40)
そして、町中が混乱してしまった。彼らは、パウロの同行者であるマケドニア人ガイオとアリスタルコを捕らえ、一団となって野外劇場になだれ込んだ。パウロは群衆の中へ入っていこうとしたが、弟子たちはそうさせなかった。他方、パウロの友人でアジア州の祭儀をつかさどる高官たちも、パウロに使いをやって、劇場に入らないようにと頼んだ。さて、群衆はあれやこれやとわめき立てた。集会は混乱するだけで、大多数の者は何のために集まったのかさえ分からなかった。そのとき、ユダヤ人が前へ押し出したアレクサンドロという男に、群衆の中のある者たちが話すように促したので、彼は手で制し、群衆に向かって弁明しようとした。しかし、彼がユダヤ人であると知った群衆は一斉に、「エフェソ人のアルテミスは偉い方」と二時間ほども叫び続けた。そこで、町の書記官が群衆をなだめて言った。「エフェソの諸君、エフェソの町が、偉大なアルテミスの神殿と天から降って来た御神体との守り役であることを、知らない者はないのだ。これを否定することはできないのだから、静かにしなさい。決して無謀なことをしてはならない。諸君がここへ連れて来た者たちは、神殿を荒らしたのでも、我々の女神を冒涜したのでもない。デメトリオと仲間の職人が、だれかを訴え出たいのなら、決められた日に法廷は開かれるし、地方総督もいることだから、相手を訴え出なさい。それ以外のことで更に要求があるなら、正式な会議で解決してもらうべきである。本日のこの事態に関して、我々は暴動の罪に問われるおそれがある。この無秩序な集会のことで、何一つ弁解する理由はないからだ。」こう言って、書記官は集会を解散させた。
デメトリオたちはパウロの弟子たちをつかまえて、当時大きな集会に使われた野外劇場に連行し、大勢であつまってパウロたちの投獄か追放を町全体の決定としたかったようです。しかしここで明らかにされているように、パウロたちは直接、神殿を荒らしたり、アルテミスを冒涜するようなことは何一つしていなかったので、イエスを伝えることができなくなるような事態にはなりませんでした。
私たちの生きる社会もエフェソのように偶像礼拝に寛容ですが、私たちがイエスに従って真理を主張することや、その教えに従って社会を変えようとすることに対しても自由が与えられています。
しかし問題は具体的な目に見える偶像ではないのです。私たちの周りの多くの人々は、抵抗なく偶像を拝みますが、それらを心から信じているのではなく、気休めに過ぎません。何もしないより安心できるからするのです。本当に安心して信頼できるイエスを知らないから拝むのです。私たちが彼らにすべきことは、偶像礼拝を非難することではなく、本当に信頼できる神、主イエスを知ってもらうことです。それも、私たちが口で語って教えるものではなく、私たちの生き方を見て知りたいと思ってもらう息の長いことなのです。
そしてそこにもっと深刻な、私たちが注意しなければならない私達自身の問題があるのです。それは私たちの「内なる偶像礼拝」です。目に見える偶像を作って拝まなければ、自動的に「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」という第一戒を守れているわけではありません。神ではないものを神としてはいけないと厳しく戒められていますが、人間は神以外のあらゆるものを神としてしまう、偶像礼拝の天才です。イエスに従って歩んでいても例外ではありません。お金、人、自分、子供、仕事、趣味をいつの間にか神にしてしまうのです。教会、建物、教団、牧師といったキリスト教関係の物事も例外ではありません。神以外のあらゆるものが、私たちの心のなかの神の指定席にちゃっかりと座っていることがあるのです。今挙げたことは、全て大切にしなければならないものです。しかし、それらが神以上に大切にされるとき、それらはあなたの偶像となるのです。このような偶像礼拝に陥らないように、唯一の神様を心から礼拝し続けましょう。
メッセージのポイント
偶像礼拝に対する警告は、旧新約聖書に一貫する重要なメッセージです。私たちの周りにも当時のエフェソのように、偶像にまつわることを生業にしている人がいます。私たちが求められていることは、そのような人々を非難、攻撃することではありません。私たち自身が偶像礼拝者にならないことです。偶像礼拝の本質は木や石で作った像を拝むことではなく、神様以外のものを神様のようにして仕えることです。人間は神以外のあらゆるものを神としてしまう、偶像礼拝の天才です。心して、唯一の神様を礼拝し続けましょう。
話し合いのために
1) 偶像礼拝とは?
2) あなたにとっては何が偶像でしたか?
アイドルで儲ける
A 聖霊にローマ行きを教えられたパウロ(21, 22)
このようなことがあった後、パウロは、マケドニア州とアカイア州を通りエルサレムに行こうと決心し、「わたしはそこへ行った後、ローマも見なくてはならない」と言った。そして、自分に仕えている者の中から、テモテとエラストの二人をマケドニア州に送り出し、彼自身はしばらくアジア州にとどまっていた。
パウロがアジア州で過ごす時が終わろうとしています。今日お話するのは、パウロのエフェソ滞在中に起こった最後のエピソードです。ここでパウロはエルサレムを訪問してからローマに行くことになるであろうことを確信しています。そしてまた、アジア、マケドニア、ギリシャにはもう来られないだろうというという確信でもあったのです。だから、先にテモテとエラストをマケドニアに送り、パウロ自身は時間の許す限りエフェソにとどまっていました。彼も今日お話する出来事が終わると、ついにエフェソを離れ、マケドニア、ギリシアを訪問した後にエルサレムに向かいます。NIVも新共同訳も、パウロがエルサレムへ行くことを決心したと訳していますが、直訳すれば“霊に促されて”という言葉が使われているので、聖霊に促されてローマに行くべきことまで教えられて、エルサレムに向かうことを決心したと考えられます。もうアジア州に戻ってくることはないだろうということも感じていたのだと思います。ですから、残されている時間を大切に、エフェソにとどまってアジア州の人々のために費やしたのです。しかしその間にも新たな事件が発生しました。23-25節を読みましょう。
B 偶像で儲ける人の敵、イエス (23-40)
1) 偶像で儲かる社会 (23-25)
そのころ、この道のことでただならぬ騒動が起こった。そのいきさつは次のとおりである。デメトリオという銀細工師が、アルテミスの神殿の模型を銀で造り、職人たちにかなり利益を得させていた。彼は、この職人たちや同じような仕事をしている者たちを集めて言った。「諸君、御承知のように、この仕事のお陰で、我々はもうけているのだが、
エフェソにはアルテミスと呼ばれる女神の神殿が紀元前700年頃に立てられ何回かの破壊と再建を経て、この時代にも遠方からも大量の崇拝者をひきつけ大きな経済効果を生んでいました。ピラミッドなどと並び世界の七不思議とされた壮大な建造物でした。エフェソでもともと崇められていた女神がギリシャ神話の女神アルテミスと同一視されていたようです。女神の像は高さ15メートルほどの木製でd100m×w50m×h20mの神殿の中におかれていたと伝えられています。
エフェソは小アジアの商業の中心地でもありましたが、女神はギリシャのアルテミスよりずっと大きな影響力を持っていたので、信仰の中心地でもあったのです。当然、そこにはアルテミス参拝、拝観にくる人々が落とすお金は莫大なものでした。デメトリオのように、それで生計を立てていたものが大勢いたのです。
私たちは、日本のお寺や神社に関連したことで生計を立てている人々を非難するために、この箇所を学んでいるのではありません。私たち自身が陥りやすいこととして偶像礼拝の本質を知ろうとしているのです。偶像礼拝の禁止は、神がイスラエル民族を通してご自身を現された、その始めから戒められていた事です。それはモーセの十戒(出エジプト記20:1-17)によってはっきりと民に知らされていました。十戒の2つ目の戒めとして記されていますが、それは最初の戒めを別な角度から言い換えたものだと言えます。第一戒は「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」です。それを実際に破る行為が像を作る、それにひれ伏す、仕えることです。イエスの教えが届くまで、エフェソの人々にとってはユダヤ人の教えである十戒は自分たちには関係のないことだったのです。しかし、ユダヤ人以外の人々に対しても、何もできない虚しい偶像ではなくイエスに従うことを勧めるパウロの主張は、自分たちの利益を損ねるものだったのです。真理に従おうとするとき、今までは何の後ろめたさも感じずにしていたことが疑問に思えて、その人の生き方を変えるのです。アメイジング・グレイスの作者ジョン・ニュートンは奴隷船の船長でしたが、嵐に会い命の危険を感じた時に初めて、彼の母が信じていた神に必死に祈り、救われる体験をして主に従う人になりました。後に自分が奴隷売買という不正義で利益を得ていたことを深く恥じ船を降り、やがて牧師となってこの曲を書きました。
この社会には、イエスに従う人は多くはありませんが、大抵の人はイエスを知らなくても、神が喜んで下さる働きに従事しています。しかし中には、人々に不利益を与えるようなことに従事して生きていて、社会問題となりニュースとなるのです。
今何かと話題になる金融のシステムですが、それは元々大きな儲けを目的とするものではなく、様々な取引をより安全に、便利に行うために考案され発展してきたものです。問題は、そこから利益を求めることが目的化し、貪欲、強欲が肯定されることです。
人間は神様の栄光を表すために生きる - それが聖書の教える人生の目的です。しかし、神を知らなければ、人間は自分の利益を追求するために生きるしかありません。その生き方の本質はデメトリオと変わりありません。神の恵みによって生かされているのではなく、何かを偶像としてその力で生きているのです。その意味では、私たちの生きる社会は偶像で儲けるエフェソと同じです。しかし私たちは、偶像のない神の国を目指すのです。それは、この世界の至るところに、教会や団体として様々な形で実現していますが、まだ完成してはいないのです。先を読み進めましょう。26-28節です。
2) イエスはなぜ偶像礼拝に反対するのか? (26-28)
諸君が見聞きしているとおり、あのパウロは『手で造ったものなどは神ではない』と言って、エフェソばかりでなくアジア州のほとんど全地域で、多くの人を説き伏せ、たぶらかしている。これでは、我々の仕事の評判が悪くなってしまうおそれがあるばかりでなく、偉大な女神アルテミスの神殿もないがしろにされ、アジア州全体、全世界があがめるこの女神の御威光さえも失われてしまうだろう。」これを聞いた人々はひどく腹を立て、「エフェソ人のアルテミスは偉い方」と叫びだした。
十戒のことをお話して確認したとおり、偶像礼拝の禁止はイエスが初めにしたわけではありません。イエスがしたのは、表面的には偶像礼拝の禁止に従っているように見えても、実際は神と向きあおうとせず、心から神を愛すことも、その意志に従おうとすることもせず、ただ律法を機械的に守る「律法主義」を徹底的に批判することでした。「そうではなく、本当に神を愛しなさい」と命じたのです。イエスの目にも、パウロの目にも、人々の心は神様から遠く離れているように映りました。実際に木の像を作ろうと作るまいと同じ罪人なのです。愛さないからです。従わないからです。イエスは、あれをしなさいとか、これをしてはいけません、ということではなく、シンプルに私に従ってきなさいと言われます。私とともに生きなさいということであり、私のように生きなさいということでもあります。イエスが偶像礼拝を嫌われるのは、それによって人々の目が曇らされ、神とその恵みを見出すことの出来ない状態に人をとどめるからです。
3) 偶像礼拝との戦いは一生続く (29-40)
そして、町中が混乱してしまった。彼らは、パウロの同行者であるマケドニア人ガイオとアリスタルコを捕らえ、一団となって野外劇場になだれ込んだ。パウロは群衆の中へ入っていこうとしたが、弟子たちはそうさせなかった。他方、パウロの友人でアジア州の祭儀をつかさどる高官たちも、パウロに使いをやって、劇場に入らないようにと頼んだ。さて、群衆はあれやこれやとわめき立てた。集会は混乱するだけで、大多数の者は何のために集まったのかさえ分からなかった。そのとき、ユダヤ人が前へ押し出したアレクサンドロという男に、群衆の中のある者たちが話すように促したので、彼は手で制し、群衆に向かって弁明しようとした。しかし、彼がユダヤ人であると知った群衆は一斉に、「エフェソ人のアルテミスは偉い方」と二時間ほども叫び続けた。そこで、町の書記官が群衆をなだめて言った。「エフェソの諸君、エフェソの町が、偉大なアルテミスの神殿と天から降って来た御神体との守り役であることを、知らない者はないのだ。これを否定することはできないのだから、静かにしなさい。決して無謀なことをしてはならない。諸君がここへ連れて来た者たちは、神殿を荒らしたのでも、我々の女神を冒涜したのでもない。デメトリオと仲間の職人が、だれかを訴え出たいのなら、決められた日に法廷は開かれるし、地方総督もいることだから、相手を訴え出なさい。それ以外のことで更に要求があるなら、正式な会議で解決してもらうべきである。本日のこの事態に関して、我々は暴動の罪に問われるおそれがある。この無秩序な集会のことで、何一つ弁解する理由はないからだ。」こう言って、書記官は集会を解散させた。
デメトリオたちはパウロの弟子たちをつかまえて、当時大きな集会に使われた野外劇場に連行し、大勢であつまってパウロたちの投獄か追放を町全体の決定としたかったようです。しかしここで明らかにされているように、パウロたちは直接、神殿を荒らしたり、アルテミスを冒涜するようなことは何一つしていなかったので、イエスを伝えることができなくなるような事態にはなりませんでした。
私たちの生きる社会もエフェソのように偶像礼拝に寛容ですが、私たちがイエスに従って真理を主張することや、その教えに従って社会を変えようとすることに対しても自由が与えられています。
しかし問題は具体的な目に見える偶像ではないのです。私たちの周りの多くの人々は、抵抗なく偶像を拝みますが、それらを心から信じているのではなく、気休めに過ぎません。何もしないより安心できるからするのです。本当に安心して信頼できるイエスを知らないから拝むのです。私たちが彼らにすべきことは、偶像礼拝を非難することではなく、本当に信頼できる神、主イエスを知ってもらうことです。それも、私たちが口で語って教えるものではなく、私たちの生き方を見て知りたいと思ってもらう息の長いことなのです。
そしてそこにもっと深刻な、私たちが注意しなければならない私達自身の問題があるのです。それは私たちの「内なる偶像礼拝」です。目に見える偶像を作って拝まなければ、自動的に「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」という第一戒を守れているわけではありません。神ではないものを神としてはいけないと厳しく戒められていますが、人間は神以外のあらゆるものを神としてしまう、偶像礼拝の天才です。イエスに従って歩んでいても例外ではありません。お金、人、自分、子供、仕事、趣味をいつの間にか神にしてしまうのです。教会、建物、教団、牧師といったキリスト教関係の物事も例外ではありません。神以外のあらゆるものが、私たちの心のなかの神の指定席にちゃっかりと座っていることがあるのです。今挙げたことは、全て大切にしなければならないものです。しかし、それらが神以上に大切にされるとき、それらはあなたの偶像となるのです。このような偶像礼拝に陥らないように、唯一の神様を心から礼拝し続けましょう。
メッセージのポイント
偶像礼拝に対する警告は、旧新約聖書に一貫する重要なメッセージです。私たちの周りにも当時のエフェソのように、偶像にまつわることを生業にしている人がいます。私たちが求められていることは、そのような人々を非難、攻撃することではありません。私たち自身が偶像礼拝者にならないことです。偶像礼拝の本質は木や石で作った像を拝むことではなく、神様以外のものを神様のようにして仕えることです。人間は神以外のあらゆるものを神としてしまう、偶像礼拝の天才です。心して、唯一の神様を礼拝し続けましょう。
話し合いのために
1) 偶像礼拝とは?
2) あなたにとっては何が偶像でしたか?