<メッセージノート>

2014/4/6 使徒言行録 20:25-38 (ルカによる福音書 22:14-38)
神とその恵みの言葉にすべてをゆだねよう!

A. パウロの満足と心配 (25-30)

1) 責任を果たせた満足 (25-27)

そして今、あなたがたが皆もう二度とわたしの顔を見ることがないとわたしには分かっています。わたしは、あなたがたの間を巡回して御国を宣べ伝えたのです。だから、特に今日はっきり言います。だれの血についても、わたしには責任がありません。わたしは、神の御計画をすべて、ひるむことなくあなたがたに伝えたからです。


2) 起こってくることへの警告 (28-30)

どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです。わたしが去った後に、残忍な狼どもがあなたがたのところへ入り込んで来て群れを荒らすことが、わたしには分かっています。また、あなたがた自身の中からも、邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現れます。


B. 神にゆだねて (31-38)

1) 恵みを受け継ぎ、それを伝える (31, 32)

だから、わたしが三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです。 (31, 32)


2) イエスの言葉に生きる (33-38)

わたしは、他人の金銀や衣服をむさぼったことはありません。ご存じのとおり、わたしはこの手で、わたし自身の生活のためにも、共にいた人々のためにも働いたのです。あなたがたもこのように働いて弱い者を助けるように、また、主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました。」このように話してから、パウロは皆と一緒にひざまずいて祈った。人々は皆激しく泣き、パウロの首を抱いて接吻した。特に、自分の顔をもう二度と見ることはあるまいとパウロが言ったので、非常に悲しんだ。人々はパウロを船まで見送りに行った。 (33-38)


メッセージのポイント
神とともに永遠に生きる者にも、この地上での働きには終わりが来ます。2000年の教会の歩みは、恵みを受け継ぎそれを伝えるという仕方で今日まで続けられてきました。そして世の終わりまで続けてゆくのです。心配を数えればきりがありません。けれども私たちは、どのようなことでも、特に人々についての心配事を「神とその恵みの言葉」にゆだねることができます。ですから、私たちは限られた時を、ただイエスの言葉に従って憂いなく喜んで歩んで行けるのです。


話し合いのために
1) パウロはどのような気持ちでエフェソを去ろうとしているのでしょうか?
2) 恵みの言葉とは何ですか?

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<メッセージ全文>

2014/4/6 使徒言行録 20:25-38 (ルカによる福音書 22:14-38)
神とその恵みの言葉にすべてをゆだねよう!
 
前回に引き続き、パウロが小アジアを離れエルサレムに向かう最後の時のパウロの言葉です。先週の部分でパウロは主に仕えるということを具体的な自身の行動として示し、どのような状況であれ聖霊の促しに従って進むことが最善であるという確信を伝えました。いよいよアジアでの働きの終了を宣言し、将来も困難が続くであろう働きを人々に委ねようとしています。それではまず25-27節を読みましょう。

A. パウロの満足と心配 (25-30)

1) 責任を果たせた満足 (25-27)

そして今、あなたがたが皆もう二度とわたしの顔を見ることがないとわたしには分かっています。わたしは、あなたがたの間を巡回して御国を宣べ伝えたのです。だから、特に今日はっきり言います。だれの血についても、わたしには責任がありません。わたしは、神の御計画をすべて、ひるむことなくあなたがたに伝えたからです。

 神様の小アジアでの働きは、パウロがいなくなても続きます。今でも続いています。現在の小アジアはトルコの領土で、人口の99%以上がイスラムの人々です。ギリシャ正教徒、ユダヤ教徒が少数。更に少数ですがプロテスタント教会もあります。しかしイスラム以外の活動に対する制限は多いようです。パウロが去ったあと250年ほどで、キリスト教はこの地域で公認されましたが、600年代に始まるイスラムは11世紀には小アジアを支配し今に至っているのです。しかし本当は、そこで多数派か少数派かということを気にすることはないのです。そこにイエスに従う人が存在するということが重要なのです。イランでも同じことです。私たちはそこにイエスに従って生きている者がいることを知っています。日本でも同じことです。私たちは他の宗教を信じる人々と信者獲得競争をしているわけではないし、この国を「キリスト教国」にすることを目的にしているわけでもありません。名目上のキリスト教徒の数は意味がありません。それはキリスト教国と言われる国々の実態を見れば明らかなことです。
 パウロは自分が去ったあと、小アジアの教会には様々な困難が待ち受けている事を知りながら、自分の働きに満足しているようです。ここで自分のすべきことは一つ残らず出来たという満足です。将来の困難の中でイエスに背を向ける者が出てくることもわかっていましたが、その人達についての責任は自分にはないと言い切っています。パウロは無責任なのではなく、謙虚なのです。自分が与えられている責任は無限ではなく完璧を求められているのではないことを知っているのです。私たちがそれぞれ置かれているところで求められている責任も同じです。
 私たちに求められているのは、愛することと、愛の源泉であるイエスを紹介することです。その人がどう決断するかは、私たちの責任の範囲にはありません。パウロはここで十分に責任を果たしました。犠牲を惜しまずイエスを伝え、その働きを続けてくれる人々を育てたからです。私たちにはそれぞれにまだ時間があります。愛し続けましょう。イエスを伝え続けましょう。


2) 起こってくることへの警告 (28-30)

どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです。わたしが去った後に、残忍な狼どもがあなたがたのところへ入り込んで来て群れを荒らすことが、わたしには分かっています。また、あなたがた自身の中からも、邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現れます。

 ここでパウロが、これからの小アジアでの働きを任せようとしている人々に向かって告げているのは、彼らがなすべきこと、彼らは聖霊によって任命されていること、そしてこれから起こってくる問題についてです。
 パウロは最初に、教会のリーダーとして自分自身の在り方に気をつけなさい、そしてそこに集う人々全体に気を配りなさい、と勧めています。リーダーの資格の第一は「世話好き」なことではなく自分を客観的に見られることなのです。喜んで人々の世話をするのは当然のことですが、“自分に気を配る”ことはそれ以上に大切なことです。特にリーダーの皆さんに自覚していただきたいことですが、私たち全てに当てはまることです。なぜならイエスに従う者は皆、そこにいる人が認めていようといまいと、家庭であれ学校であれ職場であれ、置かれているところで霊的なリーダーであるからです。自分とイエスとの関係を緊密で健康なものに出来ないリーダーが、人々の霊的なお世話をすることは不可能です。パウロは、ここで話しているエフェソのリーダーの中にも、十分に自分に気を配ることができず。イエスに背き人々を惑わす者が出ると予告しています。キリストの体は、外からの悪い影響だけではなく、内部からの危機にもさらされているのです。問題は牧師かリーダーによって引き起こされます。だから、牧師のために、リーダーたちのために祈っていて下さいといつもお願いしているのです。
 そして、もうひとつこの部分で注目していただきたいのは「聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさった」という言葉です。霊的なリーダーは、誰か人によってではなく、聖霊によって任命されたお世話係だというのです。私たちは皆「私は聖霊によって任命された、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会のお世話係です」といえるのです。聖霊によって任命されたということは真実です。しかしこのことを都合よく使って「私は神によって任命された指導者だから、神に従うように私に従いなさい。」という牧師、指導者がいつの時代にもどこの国にも現れます。彼らは、パウロの言う「邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者」です。「聖霊によって任命されている」というのは、人を従わせるための言葉ではなく、自分をしっかりと立たせ励ますために自分に向けられている言葉であることを忘れてはいけません。私たちは誰に向かっても「私はお世話係です」とだけ言いましょう。



B. 神にゆだねて (31-38)

1) 恵みを受け継ぎ、それを伝える (31, 32)

だから、わたしが三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです。 (31, 32)

 先週もこの節を紹介しました。度々涙を流すほどに人々に寄り添ってきたパウロの三年間でした。この間に涙とともに教えられてきたことをしっかりと覚えているなら、あなたがたは苦難を乗り越えていけると励ましています。パウロはその信仰的遺産を彼らに引き継がせました。そして今度は彼らが人々に伝えるのです。しかし、ここは注意深く読んでいただきたいところです。「神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。」であって「あなた方に神とその言葉をゆだねます。」ではありません。信仰を継承するということは、家業を継承する、家族の伝統を継承することとは違います。それらは困難ではあっても私たちができることです。しかし「神とその恵みの言葉」を継承する」ことは、私たちの能力を超えていることなのです。だから、パウロは神様と、伝えられてきた神様の言葉に信頼をおいて「人々を」ゆだねたのです。小アジアの人々に後を任せて、そこを去ろうとしているパウロの態度は、教会であれ家庭であれ次世代に神の働きをバトンタッチしてゆく私たちの良いお手本です。その根本は「神とその恵みの言葉とに全てをゆだねます」ということだと覚えていましょう。


2) イエスの言葉に生きる (33-38)

わたしは、他人の金銀や衣服をむさぼったことはありません。ご存じのとおり、わたしはこの手で、わたし自身の生活のためにも、共にいた人々のためにも働いたのです。あなたがたもこのように働いて弱い者を助けるように、また、主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました。」このように話してから、パウロは皆と一緒にひざまずいて祈った。人々は皆激しく泣き、パウロの首を抱いて接吻した。特に、自分の顔をもう二度と見ることはあるまいとパウロが言ったので、非常に悲しんだ。人々はパウロを船まで見送りに行った。 (33-38)

 最後にパウロは、イエスご自身の言葉を紹介して話を終えます。『受けるよりは与える方が幸いである』 この言葉は福音書には記録されていません。福音書以前の伝承として伝えられてきた言葉です。しかし福音書に記録されているイエスの言動を見れば、それがイエスの教えの真髄であることは疑う余地がありません。貧しい人々から得たお金で裕福な暮らしをしている宗教指導者たちをイエスは非難されました。パウロはこの旅行の間、自分の労働で得た収入で生活していたことを、イエスのこの言葉の実践として紹介しています。この言葉は、神の働きをする人々の在り方としてしばしば話題となります。ある人々はこのパウロの言葉を引いて有給の指導者は純粋ではないと考えます。反対にある人々は、同じパウロのテモテへの手紙5:17, 18などを引いて、他の仕事で収入を得ながら牧師をするなんて純粋ではないと考えます。イエスご自身は 『受けるよりは与える方が幸いである』 と言われただけではなく、12人の弟子を地方に派遣するにあたって「働くものが食べ物を受け取るのは当然である」(マタイ10:10) ともいわれています。パウロの最初の旅行はアンティオケア教会のサポートで行われたので伝えることに専念できました。このことは時と場合によるのです。どちらでも良いことです。当時の指導者たちにも両方のケースが存在していました。私は6年前まで仕事をしながら牧師をしてきました。その1年前までは牧師給はいただいていませんでした。その状態が続くならそれでも良かったのです。給与のあるなしにかかわらず、これは私が神様に与えられたライフワークだと受け取っているからです。しかし皆さんは私が牧師の働きに専念できることを願い祈って下さいました。そして神様はそれをよしとし実現して下さったのです。『受けるよりは与える方が幸いである』と「働くものが食べ物を受け取るのは当然である」は矛盾しません。『受けるよりは与える方が幸いである』ことはイエスの教えの真髄です。しかし、受け取る人がいなければ与えることも出来ません。
 ただ私たちはイエスの言葉に従って生きてゆきましょう。それは、聖書に書かれている特定の言葉をコンテキストから抜き出してスローガンにすることではありません。聖書全体を通して伝えられている「イエスの言葉」に生きるという事です。



メッセージのポイント
神とともに永遠に生きる者にも、この地上での働きには終わりが来ます。2000年の教会の歩みは、恵みを受け継ぎそれを伝えるという仕方で今日まで続けられてきました。そして世の終わりまで続けてゆくのです。心配を数えればきりがありません。けれども私たちは、どのようなことでも、特に人々についての心配事を「神とその恵みの言葉」にゆだねることができます。ですから、私たちは限られた時を、ただイエスの言葉に従って憂いなく喜んで歩んで行けるのです。


話し合いのために
1) パウロはどのような気持ちでエフェソを去ろうとしているのでしょうか?
2) 恵みの言葉とは何ですか?