<メッセージノート>
2013/04/20 イースターメッセージ (ルカ24:1-8、13-53、ホセア6:1-3)
なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか?
A. 皆、目を遮られている
1) 婦人たち (1-4)
(婦人たちは、安息日には掟に従って休んだ。)そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。見ると、石が墓のわきに転がしてあり、中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。
2) 二人の弟子 (13-24)
ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」
3) エルサレムにいた弟子たち (33-37)
そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。
B. イエスと天使の呼びかけ
1) 婦人たちへの天使の答え (5-7)
婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」
2) 二人の弟子へのイエスの呼びかけ (25-30)
そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。
3) エルサレムにいた弟子たちへのイエスの呼びかけ (38-51)
そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」こう言って、イエスは手と足をお見せになった。彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。
C. 彼らの答え、私たちの答え
1) 彼らの答え (8, 31-32, 52-53)
そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。(8)
すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。(31,32)
彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。(52,53)
2) 私たちの答え (ホセア6:1-3)
「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし我々を打たれたが、傷を包んでくださる。二日の後、主は我々を生かし三日目に、立ち上がらせてくださる。我々は御前に生きる。我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。主は曙の光のように必ず現れ降り注ぐ雨のように大地を潤す春雨のように我々を訪れてくださる。」
メッセージのポイント
主イエスの復活に最初は誰も気付きませんでした。イエスや天使に呼びかけられて初めて覆いが取り去られたように復活した主に気付くことが出来たのです。私たちはもはや実際の目では地上を歩まれたイエスを見ること出来ないので、自分が本当にしっかりとイエスを見ているのか、実は遮られていてあらぬ方を見ているのか自信がなくなったり、イエスの存在を疑ってしまうことさえ起こります。そのようにならないためにできることがあります。それは、折にふれて聖霊に満たされることを祈り求めることです。また、イエスへの信頼が揺らいでしまっている友のために、イエスや天使が直接語りかけてくださることを求めて祈ることです
話し合いのために
1) イエスの復活は私達にとってどのような意味があるのでしょうか?
2) 私たちはどのようにしてイエスを知ることが出来ますか?
なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか?
A. 皆、目を遮られている
1) 婦人たち (1-4)
(婦人たちは、安息日には掟に従って休んだ。)そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。見ると、石が墓のわきに転がしてあり、中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。
2) 二人の弟子 (13-24)
ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」
3) エルサレムにいた弟子たち (33-37)
そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。
B. イエスと天使の呼びかけ
1) 婦人たちへの天使の答え (5-7)
婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」
2) 二人の弟子へのイエスの呼びかけ (25-30)
そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。
3) エルサレムにいた弟子たちへのイエスの呼びかけ (38-51)
そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」こう言って、イエスは手と足をお見せになった。彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。
C. 彼らの答え、私たちの答え
1) 彼らの答え (8, 31-32, 52-53)
そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。(8)
すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。(31,32)
彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。(52,53)
2) 私たちの答え (ホセア6:1-3)
「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし我々を打たれたが、傷を包んでくださる。二日の後、主は我々を生かし三日目に、立ち上がらせてくださる。我々は御前に生きる。我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。主は曙の光のように必ず現れ降り注ぐ雨のように大地を潤す春雨のように我々を訪れてくださる。」
メッセージのポイント
主イエスの復活に最初は誰も気付きませんでした。イエスや天使に呼びかけられて初めて覆いが取り去られたように復活した主に気付くことが出来たのです。私たちはもはや実際の目では地上を歩まれたイエスを見ること出来ないので、自分が本当にしっかりとイエスを見ているのか、実は遮られていてあらぬ方を見ているのか自信がなくなったり、イエスの存在を疑ってしまうことさえ起こります。そのようにならないためにできることがあります。それは、折にふれて聖霊に満たされることを祈り求めることです。また、イエスへの信頼が揺らいでしまっている友のために、イエスや天使が直接語りかけてくださることを求めて祈ることです
話し合いのために
1) イエスの復活は私達にとってどのような意味があるのでしょうか?
2) 私たちはどのようにしてイエスを知ることが出来ますか?
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<メッセージ全文>
2013/04/20 イースターメッセージ (ルカ24:1-8、13-53、ホセア6:1-3)
なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか?
復活の朝の出来事について、各福音書がそれぞれに異なった報告をしています。出来事は人々の口から口へ言い伝えられて、福音書として記録された時には様々な伝承が流布されていたのです。四人の著者のニュースソースは重複するものもあれば、他の著者は採用しなかった、あるいは知らなかったものもあったので、福音書の報告は一致しないところがあるのです。四つの福音書を読み比べてみることは有意義ですが、それをしても、残念ながら出来事を正確に再現することは出来ません。しかしそれは決して悪いことではないのです。神様は、イエスとして人々に働きかけられたご自身の記録を四人の著者に委ね、神の言葉、聖書としてすべての人に下さったのです。神様がご自身の言葉を限界のある人間に編集することを委ねて著したものが聖書です。この限界が、それほど重要ではない諸事実をぼかされた背景にすることによって、目をそらせてはならない重要な事実を際立たせます。それは「イエスの遺体は墓から消えていた」という事実です。不思議なのは、誰もが墓が空になっていたということを認めたのに、イエスが以前から弟子たちに語っていた復活されたということには思いが及ばなかったことです。
A. 皆、目を遮られている
1) 婦人たち (1-4)
(婦人たちは、安息日には掟に従って休んだ。)そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。見ると、石が墓のわきに転がしてあり、中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。
十字架で苦しみ息絶えたイエスは墓に葬られました。その墓は洞窟の入り口のような形で大きな石で閉ざされていたのです。彼女たちが行ってみると、石は脇に転がしてあり、そこにイエスの遺体はありませんでした。彼女たちは復活を期待してそこに行ったのではありません。香料と香油を塗って葬りを完了するためだったのです。復活というアイディアはすっかり忘れられていました。だから彼女たちは、誰かが遺体を運び出してしまったと思って途方に暮れていたのです。彼女たちは誰にも負けないほどイエスを愛していました。見張りの兵士に見咎められることも恐れず最初に墓に行ったのです。けれども、この時点ではまだ目は遮られていました。愛だけでは大切なことを正しく見ることは出来ないのです。
2) 二人の弟子 (13-24)
ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」
この二人の弟子はイエスの遺体が消えてしまったことを聞かされていました。しかも天使が女性たちに告げた 『イエスは生きておられる』 という言葉さえ聞いていたのに、復活の事実は彼らの心に何の変化も与えてはいませんでした。だから、よみがえられたイエスに声をかけられてもイエスとは思えず、暗い顔をしていたのです。彼らにとって、イエスをイスラエルを政治的に解放しようとしたが、失敗して殺された革命家だったとしか思えなかったことがわかります。彼らはイエスに期待していました。しかし、それは十字架の死によって裏切られてしまったのです。彼らの期待は、間違った期待であり、小さすぎる期待でした。イエスは私たちのちっぽけな期待に収まる方ではありません。自分たちの「ああしてほしい、こうしてほしい」という期待でイエスを見るなら、イエスの本当の素晴らしさはわかりません。私たちの側からの期待もまた、目を遮るものとなるのです。期待だけでも大切なことを正しく見ることは出来ません。
3) エルサレムにいた弟子たち (33-37)
そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。
最も中心的な弟子たちも、前の二組のケースと同様に目が遮られていたことがわかります。彼らは復活されたイエスと会えることをイエスから直接聞いていました。それだけではなく、ペトロがイエスに会ったこと、婦人たちやエマオに向かっていた二人の証言も聞いていたのです。それでも信じることは出来ませんでした。イエスが彼らの中に現れると、恐れおののき、亡霊を見ているのだと思ってしまいます。弟子たちは、イエスの地上での活動を共にした、他の誰よりもイエスに近い人々でした。誰よりもイエスを尊敬し、従ってきました。しかし、彼らの目も遮られていたのです。この時点では、彼らにとってもイエスは「過去の人」となっていたのです。尊敬もまた、大切なことを正しく見るためには十分ではないことがわかります。
私たちは誰も婦人たち、エマオに向かう二人の弟子、エルサレムにいた弟子たちを非難することは出来ません。私たちがそこに居合わせても同じことだったでしょう。彼らは、しかし、わからないままではありませんでした。復活がわかりました。それは神様の側からの呼びかけがあったからです。彼らに対する呼びかけは、時を超えて私たちにも呼びかけられています。そして私たちも答えることが出来ますが、まずは神様がどのように彼らに語りかけたかを見てゆきたいと思います。
B. イエスと天使の呼びかけ
1) 婦人たちへの天使の答え (5-7)
婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」
婦人たちに声をかけたのは、神ご自身ではなく天使でした。天使は、婦人たちの記憶を整理し、復活を預言されたイエスの言葉通りにことが起きていることを認識させようとしています。決定的な言葉は「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか?」です。これは私たちがイエスを知ろうとするときによくする間違いを言い表している言葉です。私たちは無意識のうちに、イエスを聖書の中に、教会の伝統の中に、自分の期待や常識の中に押し込めたうえで、イエスを理解しようとしています。しかしそれでは目が遮られて、復活されたイエスに本当に出会うことは困難です。
私たちもこの問いに真剣に答えなければなりません。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのですか?」 どうしたら、生きているイエスに出会えるのでしょう?それは今日の最後のところでお話ししたいと思います。その前に他の弟子たちにイエスがどう語りかけたのかということを見ておきましょう。
2) 二人の弟子へのイエスの呼びかけ (25-30)
そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。
この二人の弟子たちにもイエスは記憶の再確認を促しています。旧約聖書全体を通して語られていた、歴史の最初からこの時までの、神から人々への語りかけを注意深く読むなら、十字架と復活こそが神からの答えであることは明らかではないかと、語りかけてくださっています。このことは、私たちが旧約聖書をユダヤ教のものだから新約だけでよいと捨ててしまうことなく、神の言葉として信じ大切にしている理由の一つです。
イエスはこの時、言葉で語りかけられるだけではなく、目に見え、口で味わうことが出来る方法で、彼らの記憶から覆いを取り除き、目を開きました。パンを裂いて与えるという、今私達が行う聖餐式の原型が彼らの記憶を新たなものとしたのです。
3) エルサレムにいた弟子たちへのイエスの呼びかけ (38-51)
そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」こう言って、イエスは手と足をお見せになった。彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。
恐れおののいていた弟子たちに、イエスは優しく語りかけられました。弟子たちも、少しずつ落ち着いて、イエスの言葉を聴き始めます。「私の体に触ってごらん。亡霊ではないことがわかるでしょう。ほら、肉も骨もこの通りあるでしょう。」そして、それでも弟子たちが不思議がっているので、焼いた魚を食べて見せさえしたのです。あまりにも普通のイエスの振る舞いに、彼らの心の中の「イエス亡霊説」は打ち消されました。そして、この「共にいる現実」を知らせた上で、二人の弟子たちに語ったように、復活の出来事は旧約聖書で読むことの出来る預言の成就にほかならないことを告げたのです。そして最後に、聖霊の力に覆われるためにエルサレムにとどまっていなさいという、具体的な指示を与え、彼らを祝福しながら、また見えなくなったのです。
C. 彼らの答え、私たちの答え
1) 彼らの答え (8, 31-32, 52-53)
そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。(8)
すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。(31,32)
彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。(52,53)
彼らは死んでしまったイエスを愛し、期待し、尊敬していたけれど、死を乗り越えるような新しい力にはなりませんでした。彼らが力を得たのは、ここで呼びかけられた言葉に対する信頼です。この信頼こそが、正しい意味での「信仰」です。この呼びかけの後イエスは見えなくなってしまいますが、弟子たちは、もう絶望へと後戻りすることはありませんでした。婦人たちにもう迷いはありませんでした。出来事を動かし難い事実として弟子たちに告げるために、走って弟子たちのところに向かったとマタイは伝えています。
二人の弟子たちも、目が開かれて、互いに確認し合い、それをエルサレムの弟子たちに告げに行くのです。
この二組の確信に満ちた報告があっても信じることが出来なかったエルサレムの弟子たちも、イエスが実際にご自身を表されたことで、大いに喜び、約束の時を待ち始めました。
2) 私たちの答え (ホセア6:1-3)
「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし我々を打たれたが、傷を包んでくださる。二日の後、主は我々を生かし三日目に、立ち上がらせてくださる。我々は御前に生きる。我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。主は曙の光のように必ず現れ降り注ぐ雨のように大地を潤す春雨のように我々を訪れてくださる。」
ここに私たちの神様の呼びかけに対して応える姿勢が示されています。神様が弟子たちに語りかけられたことを整理してみましょう。中心は、死者の中にイエスを探すなということです。イエスを知ることは私たちの日常の中で、出会いとして起こるのだということです。それは私たちの思考や感情や知識によって制限されるものではないということです。私たちのできることは出会いを期待することです。ここにいる全ての方に、イエスと出会っていただきたいのです。友達や家族にイエスのことを聞かされて興味を持ち、ここにいてくださるのだと思います。あの時の弟子たちのように確信が持てないでいるのかもしれません。すでに確信を与えられている人の歩みを見る時、聖書を読んでいる時、誰かと話をしている時、神様はあなたの心に呼びかけてくださいます。助けとなるヒントも幾つかいただけました。それは十字架と復活が旧約聖書全体を通して預言されていた神様の私達に対する愛の計画の中心であったと知ること。愛着や尊敬や期待ではなく信頼が信仰の中心であるということです。
すでにイエスに従って歩んでいるという人にも知っていただきたいことがあります。主を知ることは、イエスを知って信じる者となったことで終わるものではないということです。ホセアが勧めているように生きている限り追い求め続けるものです。イエスともっと親しくなることを追い求めましょう。主を知らなかった時の歩みは引き裂かれ、あるいは打ち倒されているように感じられるものであったかもしれません。しかし主を知ろうとするなら、主は癒し、立ち上がらせ、命を与え、私たちを新しく生きる者としていただけるのです。もっと聖霊に満たされることを追い求めましょう。愛する人々が、イエスと出会えるように祈り求めましょう。それは、私たちが言葉で説得できるものではありません。イエスに従って歩んでいる皆さんは、それぞれ生きた神イエスとの出会いを体験してここにいるはずです。誰かの説得に折れて、信じることにしたというわけではないはずです。私たちが直接愛する人々にできることは、私たちがイエスにいただいている愛で、忍耐して愛し続けることだけです。しかし、それが彼らのイエスとの出会いに貢献できる最高の、唯一の事なのです。
メッセージのポイント
主イエスの復活に最初は誰も気付きませんでした。イエスや天使に呼びかけられて初めて覆いが取り去られたように復活した主に気付くことが出来たのです。私たちはもはや実際の目では地上を歩まれたイエスを見ること出来ないので、自分が本当にしっかりとイエスを見ているのか、実は遮られていてあらぬ方を見ているのか自信がなくなったり、イエスの存在を疑ってしまうことさえ起こります。そのようにならないためにできることがあります。それは、折にふれて聖霊に満たされることを祈り求めることです。また、イエスへの信頼が揺らいでしまっている友のために、イエスや天使が直接語りかけてくださることを求めて祈ることです
話し合いのために
1) イエスの復活は私達にとってどのような意味があるのでしょうか?
2) 私たちはどのようにしてイエスを知ることが出来ますか?
なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか?
復活の朝の出来事について、各福音書がそれぞれに異なった報告をしています。出来事は人々の口から口へ言い伝えられて、福音書として記録された時には様々な伝承が流布されていたのです。四人の著者のニュースソースは重複するものもあれば、他の著者は採用しなかった、あるいは知らなかったものもあったので、福音書の報告は一致しないところがあるのです。四つの福音書を読み比べてみることは有意義ですが、それをしても、残念ながら出来事を正確に再現することは出来ません。しかしそれは決して悪いことではないのです。神様は、イエスとして人々に働きかけられたご自身の記録を四人の著者に委ね、神の言葉、聖書としてすべての人に下さったのです。神様がご自身の言葉を限界のある人間に編集することを委ねて著したものが聖書です。この限界が、それほど重要ではない諸事実をぼかされた背景にすることによって、目をそらせてはならない重要な事実を際立たせます。それは「イエスの遺体は墓から消えていた」という事実です。不思議なのは、誰もが墓が空になっていたということを認めたのに、イエスが以前から弟子たちに語っていた復活されたということには思いが及ばなかったことです。
A. 皆、目を遮られている
1) 婦人たち (1-4)
(婦人たちは、安息日には掟に従って休んだ。)そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。見ると、石が墓のわきに転がしてあり、中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。
十字架で苦しみ息絶えたイエスは墓に葬られました。その墓は洞窟の入り口のような形で大きな石で閉ざされていたのです。彼女たちが行ってみると、石は脇に転がしてあり、そこにイエスの遺体はありませんでした。彼女たちは復活を期待してそこに行ったのではありません。香料と香油を塗って葬りを完了するためだったのです。復活というアイディアはすっかり忘れられていました。だから彼女たちは、誰かが遺体を運び出してしまったと思って途方に暮れていたのです。彼女たちは誰にも負けないほどイエスを愛していました。見張りの兵士に見咎められることも恐れず最初に墓に行ったのです。けれども、この時点ではまだ目は遮られていました。愛だけでは大切なことを正しく見ることは出来ないのです。
2) 二人の弟子 (13-24)
ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」
この二人の弟子はイエスの遺体が消えてしまったことを聞かされていました。しかも天使が女性たちに告げた 『イエスは生きておられる』 という言葉さえ聞いていたのに、復活の事実は彼らの心に何の変化も与えてはいませんでした。だから、よみがえられたイエスに声をかけられてもイエスとは思えず、暗い顔をしていたのです。彼らにとって、イエスをイスラエルを政治的に解放しようとしたが、失敗して殺された革命家だったとしか思えなかったことがわかります。彼らはイエスに期待していました。しかし、それは十字架の死によって裏切られてしまったのです。彼らの期待は、間違った期待であり、小さすぎる期待でした。イエスは私たちのちっぽけな期待に収まる方ではありません。自分たちの「ああしてほしい、こうしてほしい」という期待でイエスを見るなら、イエスの本当の素晴らしさはわかりません。私たちの側からの期待もまた、目を遮るものとなるのです。期待だけでも大切なことを正しく見ることは出来ません。
3) エルサレムにいた弟子たち (33-37)
そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。
最も中心的な弟子たちも、前の二組のケースと同様に目が遮られていたことがわかります。彼らは復活されたイエスと会えることをイエスから直接聞いていました。それだけではなく、ペトロがイエスに会ったこと、婦人たちやエマオに向かっていた二人の証言も聞いていたのです。それでも信じることは出来ませんでした。イエスが彼らの中に現れると、恐れおののき、亡霊を見ているのだと思ってしまいます。弟子たちは、イエスの地上での活動を共にした、他の誰よりもイエスに近い人々でした。誰よりもイエスを尊敬し、従ってきました。しかし、彼らの目も遮られていたのです。この時点では、彼らにとってもイエスは「過去の人」となっていたのです。尊敬もまた、大切なことを正しく見るためには十分ではないことがわかります。
私たちは誰も婦人たち、エマオに向かう二人の弟子、エルサレムにいた弟子たちを非難することは出来ません。私たちがそこに居合わせても同じことだったでしょう。彼らは、しかし、わからないままではありませんでした。復活がわかりました。それは神様の側からの呼びかけがあったからです。彼らに対する呼びかけは、時を超えて私たちにも呼びかけられています。そして私たちも答えることが出来ますが、まずは神様がどのように彼らに語りかけたかを見てゆきたいと思います。
B. イエスと天使の呼びかけ
1) 婦人たちへの天使の答え (5-7)
婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」
婦人たちに声をかけたのは、神ご自身ではなく天使でした。天使は、婦人たちの記憶を整理し、復活を預言されたイエスの言葉通りにことが起きていることを認識させようとしています。決定的な言葉は「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか?」です。これは私たちがイエスを知ろうとするときによくする間違いを言い表している言葉です。私たちは無意識のうちに、イエスを聖書の中に、教会の伝統の中に、自分の期待や常識の中に押し込めたうえで、イエスを理解しようとしています。しかしそれでは目が遮られて、復活されたイエスに本当に出会うことは困難です。
私たちもこの問いに真剣に答えなければなりません。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのですか?」 どうしたら、生きているイエスに出会えるのでしょう?それは今日の最後のところでお話ししたいと思います。その前に他の弟子たちにイエスがどう語りかけたのかということを見ておきましょう。
2) 二人の弟子へのイエスの呼びかけ (25-30)
そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。
この二人の弟子たちにもイエスは記憶の再確認を促しています。旧約聖書全体を通して語られていた、歴史の最初からこの時までの、神から人々への語りかけを注意深く読むなら、十字架と復活こそが神からの答えであることは明らかではないかと、語りかけてくださっています。このことは、私たちが旧約聖書をユダヤ教のものだから新約だけでよいと捨ててしまうことなく、神の言葉として信じ大切にしている理由の一つです。
イエスはこの時、言葉で語りかけられるだけではなく、目に見え、口で味わうことが出来る方法で、彼らの記憶から覆いを取り除き、目を開きました。パンを裂いて与えるという、今私達が行う聖餐式の原型が彼らの記憶を新たなものとしたのです。
3) エルサレムにいた弟子たちへのイエスの呼びかけ (38-51)
そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」こう言って、イエスは手と足をお見せになった。彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。
恐れおののいていた弟子たちに、イエスは優しく語りかけられました。弟子たちも、少しずつ落ち着いて、イエスの言葉を聴き始めます。「私の体に触ってごらん。亡霊ではないことがわかるでしょう。ほら、肉も骨もこの通りあるでしょう。」そして、それでも弟子たちが不思議がっているので、焼いた魚を食べて見せさえしたのです。あまりにも普通のイエスの振る舞いに、彼らの心の中の「イエス亡霊説」は打ち消されました。そして、この「共にいる現実」を知らせた上で、二人の弟子たちに語ったように、復活の出来事は旧約聖書で読むことの出来る預言の成就にほかならないことを告げたのです。そして最後に、聖霊の力に覆われるためにエルサレムにとどまっていなさいという、具体的な指示を与え、彼らを祝福しながら、また見えなくなったのです。
C. 彼らの答え、私たちの答え
1) 彼らの答え (8, 31-32, 52-53)
そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。(8)
すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。(31,32)
彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。(52,53)
彼らは死んでしまったイエスを愛し、期待し、尊敬していたけれど、死を乗り越えるような新しい力にはなりませんでした。彼らが力を得たのは、ここで呼びかけられた言葉に対する信頼です。この信頼こそが、正しい意味での「信仰」です。この呼びかけの後イエスは見えなくなってしまいますが、弟子たちは、もう絶望へと後戻りすることはありませんでした。婦人たちにもう迷いはありませんでした。出来事を動かし難い事実として弟子たちに告げるために、走って弟子たちのところに向かったとマタイは伝えています。
二人の弟子たちも、目が開かれて、互いに確認し合い、それをエルサレムの弟子たちに告げに行くのです。
この二組の確信に満ちた報告があっても信じることが出来なかったエルサレムの弟子たちも、イエスが実際にご自身を表されたことで、大いに喜び、約束の時を待ち始めました。
2) 私たちの答え (ホセア6:1-3)
「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし我々を打たれたが、傷を包んでくださる。二日の後、主は我々を生かし三日目に、立ち上がらせてくださる。我々は御前に生きる。我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。主は曙の光のように必ず現れ降り注ぐ雨のように大地を潤す春雨のように我々を訪れてくださる。」
ここに私たちの神様の呼びかけに対して応える姿勢が示されています。神様が弟子たちに語りかけられたことを整理してみましょう。中心は、死者の中にイエスを探すなということです。イエスを知ることは私たちの日常の中で、出会いとして起こるのだということです。それは私たちの思考や感情や知識によって制限されるものではないということです。私たちのできることは出会いを期待することです。ここにいる全ての方に、イエスと出会っていただきたいのです。友達や家族にイエスのことを聞かされて興味を持ち、ここにいてくださるのだと思います。あの時の弟子たちのように確信が持てないでいるのかもしれません。すでに確信を与えられている人の歩みを見る時、聖書を読んでいる時、誰かと話をしている時、神様はあなたの心に呼びかけてくださいます。助けとなるヒントも幾つかいただけました。それは十字架と復活が旧約聖書全体を通して預言されていた神様の私達に対する愛の計画の中心であったと知ること。愛着や尊敬や期待ではなく信頼が信仰の中心であるということです。
すでにイエスに従って歩んでいるという人にも知っていただきたいことがあります。主を知ることは、イエスを知って信じる者となったことで終わるものではないということです。ホセアが勧めているように生きている限り追い求め続けるものです。イエスともっと親しくなることを追い求めましょう。主を知らなかった時の歩みは引き裂かれ、あるいは打ち倒されているように感じられるものであったかもしれません。しかし主を知ろうとするなら、主は癒し、立ち上がらせ、命を与え、私たちを新しく生きる者としていただけるのです。もっと聖霊に満たされることを追い求めましょう。愛する人々が、イエスと出会えるように祈り求めましょう。それは、私たちが言葉で説得できるものではありません。イエスに従って歩んでいる皆さんは、それぞれ生きた神イエスとの出会いを体験してここにいるはずです。誰かの説得に折れて、信じることにしたというわけではないはずです。私たちが直接愛する人々にできることは、私たちがイエスにいただいている愛で、忍耐して愛し続けることだけです。しかし、それが彼らのイエスとの出会いに貢献できる最高の、唯一の事なのです。
メッセージのポイント
主イエスの復活に最初は誰も気付きませんでした。イエスや天使に呼びかけられて初めて覆いが取り去られたように復活した主に気付くことが出来たのです。私たちはもはや実際の目では地上を歩まれたイエスを見ること出来ないので、自分が本当にしっかりとイエスを見ているのか、実は遮られていてあらぬ方を見ているのか自信がなくなったり、イエスの存在を疑ってしまうことさえ起こります。そのようにならないためにできることがあります。それは、折にふれて聖霊に満たされることを祈り求めることです。また、イエスへの信頼が揺らいでしまっている友のために、イエスや天使が直接語りかけてくださることを求めて祈ることです
話し合いのために
1) イエスの復活は私達にとってどのような意味があるのでしょうか?
2) 私たちはどのようにしてイエスを知ることが出来ますか?