<メッセージノート>

2013/5/4 (使徒言行録 21:17-26)
ユダヤ人にはユダヤ人のように

A. エルサレム教会の事情 (17-21)

1) パウロの働きはよろこんだけれど (17-19)

わたしたちがエルサレムに着くと、兄弟たちは喜んで迎えてくれた。翌日、パウロはわたしたちを連れてヤコブを訪ねたが、そこには長老が皆集まっていた。パウロは挨拶を済ませてから、自分の奉仕を通して神が異邦人の間で行われたことを、詳しく説明した。


2) パウロについての悪いうわさ (20-22)

これを聞いて、人々は皆神を賛美し、パウロに言った。「兄弟よ、ご存じのように、幾万人ものユダヤ人が信者になって、皆熱心に律法を守っています。この人たちがあなたについて聞かされているところによると、あなたは異邦人の間にいる全ユダヤ人に対して、『子供に割礼を施すな。慣習に従うな』と言って、モーセから離れるように教えているとのことです。いったい、どうしたらよいでしょうか。彼らはあなたの来られたことをきっと耳にします。


B. わたしたちはどうする?(23-26)

1) パウロへのリクエスト (23-25)

だから、わたしたちの言うとおりにしてください。わたしたちの中に誓願を立てた者が四人います。この人たちを連れて行って一緒に身を清めてもら い、彼らのために頭をそる費用を出してください。そうすれば、あなたについて聞かされていることが根も葉もなく、あなたは律法を守って正しく生活している、ということがみんなに分かります。また、異邦人で信者になった人たちについては、わたしたちは既に手紙を書き送りました。それは、偶像に献げた肉と、血と、絞め殺した動物の肉とを口にしないように、また、みだらな行いを避けるようにという決定です。」


2) パウロの配慮 (26)

そこで、パウロはその四人を連れて行って、翌日一緒に清めの式を受けて神殿に入り、いつ清めの期間が終わって、それぞれのために供え物を献げることができるかを告げた。


わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。(2コリント9:19-23)


メッセージのポイント
律法からの自由を信じていたパウロですが、その原理・原則を、ユダヤ人でイエスを主と信じた人々に押し付けようとはしませんでした。彼らもまた、異邦人でイエスを主と信じた人々に律法を押し付けようとはしませんでした。私たちがイエスを紹介したい人々がどのような人であれ、私たちにもこの態度が必要です。イエスを紹介するのではなく、自分の文化を押し付けようとするなら、イエスの邪魔をすることになってしまいます。


話し合いのために
1) パウロはなぜ彼らの要求を受け入れたのですか?
2) 私たちは旧約聖書のどの戒めを守り、どの教えを守らなくても良いのですか?

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<メッセージ全文>

2013/5/4 (使徒言行録 21:17-26)
ユダヤ人にはユダヤ人のように

 聖書の言葉を聞いて、そこから神様が私たち一人一人がどのように日々を歩んだらよいかを知る。それが教会の礼拝の中で語られるメッセージの目的です。聖書は旧約39巻、新約27巻を合わせた書物ですが、ユアチャーチでは今、新約聖書の「使徒言行録」を少しづつ読み続けています。今日は21章17-26節を紹介します。初めて来てくださった方のために、すこし背景をについてお話させて下さい。エルサレムでイエス・キリストが十字架にかけられて死んだ後、三日目に復活されたという出来事がキリスト教会誕生のきっかけです。「死んでよみがえるなんてありえない」というのが普通の感想でしょう。しかしこの常識では理解できない出来事が今でも多くの人々の心のよりどころになっているのです。使徒言行録は、この出来事のすぐ後に起きたキリスト教会の誕生とイタリア半島にまで伝わって各地に教会ができてゆく様子を記録したものです。キリスト教は最初はユダヤ教内の一派と見られていましたが、やがてユダヤ教の中には収まりきれなくなって独自のものとなりました。使徒言行録の時代はその過渡期であり、そのことにまつわる混乱があったことが今日のテキストからも覗えます。使徒言行録のキーパーソンはパウロは今、その混乱のまっただ中にいます。パウロ自身は熱心なユダヤ教徒でした。イエスの教えが広まり始めると、ユダヤ教にとっては危険な異端だと考えて激しく弾圧する側の人だったのです。ところがパウロは復活されたイエスに出会い、イエスこそ本当の神だと信じ、イエスの弟子として、その教えを、現在のトルコ、ギリシャにまで広める活動をしていました。ユダヤ教徒にとっては大変な裏切り者となったわけです。イエスを信じる者の中でもパウロの評価はいろいろでした。まだユダヤ教との境界がはっきりしていなかったので、ユダヤ教の様々な戒律をイエスを信じた者が守るべきなのか、守る必要はないのか温度差があったのす。パウロは、ユダヤ教では汚れているとされていた異邦人たちにも積極的にイエスに従うことを勧め、その際、ユダヤ教の律法を守る必要はないと教えたので反感を持つ者が、特にユダヤ教の中心地エルサレムでは多かったのです。
 それでは、そのエルサレムにパウロがやってきたところから読んでゆきましょう。17-19節です。

A. エルサレム教会の事情 (17-21)

1) パウロの働きはよろこんだけれど (17-19)

わたしたちがエルサレムに着くと、兄弟たちは喜んで迎えてくれた。翌日、パウロはわたしたちを連れてヤコブを訪ねたが、そこには長老が皆集まっていた。パウロは挨拶を済ませてから、自分の奉仕を通して神が異邦人の間で行われたことを、詳しく説明した。

 パウロの小アジア、マケドニア、ギリシャでの働きはエルサレムの教会の人々の間でも、うれしいことでした。パウロのエルサレム訪問の目的はマケドニア、ギリシャの人々が捧げた、経済的困難に陥っていたエルサレムの教会への献金を届けるためであり、それもありがたいことだったのです。しかし困惑もあったのです。ユダヤ人で信仰を持った人々は、自分たちがユダヤ教を捨ててイエスを信じているという意識はなく、イエスがユダヤ教で期待されているメシアだと信じていたのです。だからユダヤ人としては律法を守ることは当然であるばかりか、異邦人でイエスに従いたいなら律法も守るべきだと考える人々も多くいたのです。ところがパウロは異邦人にまで律法に従わせるのは間違っていると確信していました。以前エルサレムで開かれた会議でもそれは認められていたのですが、抵抗を感じる人も多かったのです。異邦人がイエスを信じることはユダヤ教への改宗だという意識だったからです。そのパウロがエルサレムにやってきたことで教会の大問題でもあったので、当時のリーダー、ヤコブを尋ねると長老たちが勢揃いして待ち構えていたというわけです。22節まで読み進めてみましょう。


2) パウロについての悪いうわさ (20-22)

これを聞いて、人々は皆神を賛美し、パウロに言った。「兄弟よ、ご存じのように、幾万人ものユダヤ人が信者になって、皆熱心に律法を守っています。この人たちがあなたについて聞かされているところによると、あなたは異邦人の間にいる全ユダヤ人に対して、『子供に割礼を施すな。慣習に従うな』と言って、モーセから離れるように教えているとのことです。いったい、どうしたらよいでしょうか。彼らはあなたの来られたことをきっと耳にします。

 長老たちの「幾万人ものユダヤ人が信者になって、皆熱心に律法を守っています。」という発言はエルサレムの教会の人々の価値観がよく現れています。イエスを信じることと律法と呼ばれた戒律を守ることとは、彼らにとって矛盾するものではありませんでした。しかし、パウロはすでに、イエスを信じる者にとって律法が本質的な教えではないことを確信していたので、何人でも律法とは関係なしにイエスに従うことが出来るとユダヤ人以外の人々にイエスを信じることを勧めていました。ただパウロはユダヤ人でイエスを信じた人々に対しては注意深く、律法を軽んじるように勧めたりはしていませんでした。しかし、誤解、あるいは悪意によって流された噂は、今読んだ通り、パウロがもっとラディカルに「律法を捨て去ってイエスに従え」と言っているというものだったのです。彼らには「ユダヤ人の文化は、全部良くないから捨ててしまわないとイエスに従うことにはならない」と言われているように聞こえたのでしょう。しかしこの後を読んでゆくと、パウロは決してそのような乱暴な考え方を持っていたわけではないことがわかります。起ころうとしている混乱を避けるためにエルサレムの教会の人々は次のように提案しました。23−25節です。


B. わたしたちはどうする?(23-26)

1) パウロへのリクエスト (23-25)

だから、わたしたちの言うとおりにしてください。わたしたちの中に誓願を立てた者が四人います。この人たちを連れて行って一緒に身を清めてもら い、彼らのために頭をそる費用を出してください。そうすれば、あなたについて聞かされていることが根も葉もなく、あなたは律法を守って正しく生活している、ということがみんなに分かります。また、異邦人で信者になった人たちについては、わたしたちは既に手紙を書き送りました。それは、偶像に献げた肉と、血と、絞め殺した動物の肉とを口にしないように、また、みだらな行いを避けるようにという決定です。」

 ここで言っている誓願とは、自分自身を神の働きのために捧げる誓いの印として一定期間(元々は一生)、最初に髪を剃って以降、髪を切らない、ぶどう酒を飲まない、穢れを避けることで、その儀式に必要な費用を負担することも正しい行いとされていたのです。パウロがそれをすれば、律法を大切にする人だということがわかり、パウロに対する誤解は解けると考えました。次回にお話する箇所になりますが、結局この試みは成功しませんでした。それだけでは反対者は納得できなかったので、パウロは捉えられてしまうことになります。パウロに対する憎しみは、もはや理屈を超えたものにまで膨れ上がっていたのです。パウロも無駄になることを知っていたのかもしれませんが、彼らのリクエストに応じることにしました26節です。


2) パウロの配慮 (26)

そこで、パウロはその四人を連れて行って、翌日一緒に清めの式を受けて神殿に入り、いつ清めの期間が終わって、それぞれのために供え物を献げることができるかを告げた。


 パウロは外国から帰国したばかりだったので、この儀式に関わるためには、7日間の清めの時をすごさなければなりませんでした。この期間が終わる前に騒ぎは起こり、パウロは捕まってしまうことになります。しかしパウロはこのような配慮が無駄だとは考えていません。コリントの信徒への第二の手紙で9:19-23でパウロは自分のスタンスをこう紹介しています。

わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。(2コリント9:19-23)

 このスタンスがイエスを紹介する上で非常に重要なのです。イエス・キリストに出会うことは文化を超えたことです。どんな文化の背景を持っている人でもイエスに従うことができます。育った文化の影響力とても大きなものですが、イエスとの出会いを妨げるほどのものではありません。イエスを信じている人は、誰も意識して自分の文化を受け入れさせたいと思っているわけではありません。純粋にイエスを紹介したいと思うのです。しかし私たちは、自分の文化を注意深く自覚していないので、イエスを伝えるつもりで「イエスを信じている自分の文化」も一緒に伝える事になります。それは私たちの方でイエスの魅力を台無しにしてしまう、だれでも私のように信じるべきだと考える「不寛容」です。例えば、ある教派の宣教師は禁酒、禁煙、安息日(日曜日)の厳守を戒律のように教え、今でもその影響は残っています。仏壇、神棚を忌み嫌い、信じた人々にそれらを焼き捨てさせて反感を買った宣教師もいました。だから実際、キリスト教は不寛容だと批判されることがあります。悪や、不正義を許さないということであればそれは誇れることです。しかし、問題はもっと別の、本質的ではないところで、真理というよりは文化の領域で「不寛容」なところです。いいこと悪いこと、するべきことしてはいけないこと、その本質的基準は律法と呼ばれる「戒律」ではなく「愛」であることをイエスは教えました。それなのに私たちは自分流の戒律を判断の基準にしてしまうのです。これは人をイエスから遠ざけてしまう「無意識の律法主義」です。イエスは子どもたちのところへも、律法で罪と定められた人、汚れているとされている人のところに行って彼らの友となられました。パウロもそれに習ってユダヤ人のようにも異邦人のようになったのです。誰かをイエスに近づけるとは、その人を教会の建物に連れてきて、ここの雰囲気にフィットする人になりなさいと説得することではありません。私たちが出て行って、その人の友となることなのです。ユアチャーチは建物ではありません。私たち一人一人です。あなたが誰かといるとき、そこにユアチャーチはあります。この場所はできるだけしきいの低い入りやすく、居心地の良い場所だといいと思います。避けたいのは社会では使わないような言葉や、一見意味が有りげで実はそれほどでもない習慣です。教会の中でしか使われないような言葉はなるべく避けたいのです。自分が教会で使う言葉とイエスを信じていない友達との間で使う言葉は違っていないでしょうか?イエスに従う者はこうでなければいけないという議論のほとんどは文化の領域の問題です。イエスに従うことは、戒律的宗教とは違います。祈るときには目をつぶり手を組まなければいけないとか、食事の前には必ず祈らなければいけないとか、教会では牧師は牧師先生、男性は兄弟、女性は姉妹と呼びましょう。どれも文化であって本質的なことではありません。文化ですから他の教会がどのような文化を持っているかは私たちが是非を判断することではありません。互いの在り方を尊重しなければひとつの体に属するとはいえません。私たちだけが正しいと言い始めたら、それはカルトへの転落を意味します。ただ私たちはできるだけニュートラルでありたいのです。知り合いの牧師たちはユアチャーチはアメリカンな教会で楽しそうとか、たまたまアロハを着ているのを見てハワイアンな教会を目指しているのですか?とか、多分褒め言葉なのでしょうが、アメリカ人よりはカナダ人の方が多いし、アロハな教会ならもっと気合の入って教会がたくさんあるのです。ただ普通でいたいのです。私たちは、怪しい隠語を使う宗教団体に入ったのではありません。そのままでいいから私に従ってきなさいと招いてくれたイエスといっしょに歩いているだけなのです。


メッセージのポイント
律法からの自由を信じていたパウロですが、その原理・原則を、ユダヤ人でイエスを主と信じた人々に押し付けようとはしませんでした。彼らもまた、異邦人でイエスを主と信じた人々に律法を押し付けようとはしませんでした。私たちがイエスを紹介したい人々がどのような人であれ、私たちにもこの態度が必要です。イエスを紹介するのではなく、自分の文化を押し付けようとするなら、イエスの邪魔をすることになってしまいます。


話し合いのために
1) パウロはなぜ彼らの要求を受け入れたのですか?
2) 私たちは旧約聖書のどの戒めを守り、どの教えを守らなくても良いのですか?