<メッセージノート>
2014/5/11 使徒言行録 21:27-22:16
イエスに従って歩むとは?
A. 自分ではコントロール出来ない様々な力 (21:27-40)
1) 陰謀、扇動、誤解 (27-30)
七日の期間が終わろうとしていたとき、アジア州から来たユダヤ人たちが神殿の境内でパウロを見つけ、全群衆を扇動して彼を捕らえ、こう叫んだ。「イスラエルの人たち、手伝ってくれ。この男は、民と律法とこの場所を無視することを、至るところでだれにでも教えている。その上、ギリシア人を境内に連れ込んで、この聖なる場所を汚してしまった。」彼らは、エフェソ出身のトロフィモが前に都でパウロと一緒にいたのを見かけたので、パウロが彼を境内に連れ込んだのだと思ったからである。それで、都全体は大騒ぎになり、民衆は駆け寄って来て、パウロを捕らえ、境内から引きずり出した。そして、門はどれもすぐに閉ざされた。
2) ローマの介入 (31-40)
彼らがパウロを殺そうとしていたとき、エルサレム中が混乱状態に陥っているという報告が、守備大隊の千人隊長のもとに届いた。千人隊長は直ちに兵士と百人隊長を率いて、その場に駆けつけた。群衆は千人隊長と兵士を見ると、パウロを殴るのをやめた。千人隊長は近寄ってパウロを捕らえ、二本の鎖で縛るように命じた。そして、パウロが何者であるのか、また、何をしたのかと尋ねた。しかし、群衆はあれやこれやと叫び立てていた。千人隊長は、騒々しくて真相をつかむことができないので、パウロを兵営に連れて行くように命じた。パウロが階段にさしかかったとき、群衆の暴行を避けるために、兵士たちは彼を担いで行かなければならなかった。
大勢の民衆が、「その男を殺してしまえ」と叫びながらついて来たからである。パウロは兵営の中に連れて行かれそうになったとき、「ひと言お話ししてもよいでしょうか」と千人隊長に言った。すると、千人隊長が尋ねた。「ギリシア語が話せるのか。それならお前は、最近反乱を起こし、四千人の暗殺者を引き連れて荒れ野へ行った、あのエジプト人ではないのか。」 パウロは言った。「わたしは確かにユダヤ人です。キリキア州のれっきとした町、タルソスの市民です。どうか、この人たちに話をさせてください。」 千人隊長が許可したので、パウロは階段の上に立ち、民衆を手で制した。すっかり静かになったとき、パウロはヘブライ語で話し始めた。
B. すべての力の上に立つ神の力 (22:1-16)
「兄弟であり父である皆さん、これから申し上げる弁明を聞いてください。」パウロがヘブライ語で話すのを聞いて、人々はますます静かになった。パウロは言った「わたしは、キリキア州のタルソスで生まれたユダヤ人です。そして、この都で育ち、ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しい教育を受け、今日の皆さんと同じように、熱心に神に仕えていました。わたしはこの道を迫害し、男女を問わず縛り上げて獄に投じ、殺すことさえしたのです。このことについては、大祭司も長老会全体も、わたしのために証言してくれます。実は、この人たちからダマスコにいる同志にあてた手紙までもらい、その地にいる者たちを縛り上げ、エルサレムへ連行して処罰するために出かけて行ったのです。」
「旅を続けてダマスコに近づいたときのこと、真昼ごろ、突然、天から強い光がわたしの周りを照らしました。わたしは地面に倒れ、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか』と言う声を聞いたのです。『主よ、あなたはどなたですか』と尋ねると、『わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスである』と答えがありました。一緒にいた人々は、その光は見たのですが、わたしに話しかけた方の声は聞きませんでした。『主よ、どうしたらよいでしょうか』と申しますと、主は、『立ち上がってダマスコへ行け。しなければならないことは、すべてそこで知らされる』と言われました。わたしは、その光の輝きのために目が見えなくなっていましたので、一緒にいた人たちに手を引かれて、ダマスコに入りました。
ダマスコにはアナニアという人がいました。律法に従って生活する信仰深い人で、そこに住んでいるすべてのユダヤ人の中で評判の良い人でした。この人がわたしのところに来て、そばに立ってこう言いました。『兄弟サウル、元どおり見えるようになりなさい。』するとそのとき、わたしはその人が見えるようになったのです。アナニアは言いました。『わたしたちの先祖の神が、あなたをお選びになった。それは、御心を悟らせ、あの正しい方に会わせて、その口からの声を聞かせるためです。あなたは、見聞きしたことについて、すべての人に対してその方の証人となる者だからです。今、何をためらっているのです。立ち上がりなさい。その方の名を唱え、洗礼を受けて罪を洗い清めなさい。』」
1) イエスの介入
2) パウロに現れたイエスがあなたにも現れた
メッセージのポイント
イエスとの出会いがパウロの人生を大きく変えました。それは彼の人生を苦労の連続としましたが、彼はイエスとの出会いによって得たものに比べれば、それ以前の彼の大切に思っていたものは塵芥(ちり、あくた)のようなものだったと言っています。自分ではコントロールすることの出来ない力によって起こってくる出来事を恐れず。それを超えて全てをコントロールされる方を信頼して歩みましょう。
話し合いのために
1) なぜこのような騒動が起こったのでしょうか?
2) イエスがあなたの人生に介入されたことをシェアしましょう
イエスに従って歩むとは?
A. 自分ではコントロール出来ない様々な力 (21:27-40)
1) 陰謀、扇動、誤解 (27-30)
七日の期間が終わろうとしていたとき、アジア州から来たユダヤ人たちが神殿の境内でパウロを見つけ、全群衆を扇動して彼を捕らえ、こう叫んだ。「イスラエルの人たち、手伝ってくれ。この男は、民と律法とこの場所を無視することを、至るところでだれにでも教えている。その上、ギリシア人を境内に連れ込んで、この聖なる場所を汚してしまった。」彼らは、エフェソ出身のトロフィモが前に都でパウロと一緒にいたのを見かけたので、パウロが彼を境内に連れ込んだのだと思ったからである。それで、都全体は大騒ぎになり、民衆は駆け寄って来て、パウロを捕らえ、境内から引きずり出した。そして、門はどれもすぐに閉ざされた。
2) ローマの介入 (31-40)
彼らがパウロを殺そうとしていたとき、エルサレム中が混乱状態に陥っているという報告が、守備大隊の千人隊長のもとに届いた。千人隊長は直ちに兵士と百人隊長を率いて、その場に駆けつけた。群衆は千人隊長と兵士を見ると、パウロを殴るのをやめた。千人隊長は近寄ってパウロを捕らえ、二本の鎖で縛るように命じた。そして、パウロが何者であるのか、また、何をしたのかと尋ねた。しかし、群衆はあれやこれやと叫び立てていた。千人隊長は、騒々しくて真相をつかむことができないので、パウロを兵営に連れて行くように命じた。パウロが階段にさしかかったとき、群衆の暴行を避けるために、兵士たちは彼を担いで行かなければならなかった。
大勢の民衆が、「その男を殺してしまえ」と叫びながらついて来たからである。パウロは兵営の中に連れて行かれそうになったとき、「ひと言お話ししてもよいでしょうか」と千人隊長に言った。すると、千人隊長が尋ねた。「ギリシア語が話せるのか。それならお前は、最近反乱を起こし、四千人の暗殺者を引き連れて荒れ野へ行った、あのエジプト人ではないのか。」 パウロは言った。「わたしは確かにユダヤ人です。キリキア州のれっきとした町、タルソスの市民です。どうか、この人たちに話をさせてください。」 千人隊長が許可したので、パウロは階段の上に立ち、民衆を手で制した。すっかり静かになったとき、パウロはヘブライ語で話し始めた。
B. すべての力の上に立つ神の力 (22:1-16)
「兄弟であり父である皆さん、これから申し上げる弁明を聞いてください。」パウロがヘブライ語で話すのを聞いて、人々はますます静かになった。パウロは言った「わたしは、キリキア州のタルソスで生まれたユダヤ人です。そして、この都で育ち、ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しい教育を受け、今日の皆さんと同じように、熱心に神に仕えていました。わたしはこの道を迫害し、男女を問わず縛り上げて獄に投じ、殺すことさえしたのです。このことについては、大祭司も長老会全体も、わたしのために証言してくれます。実は、この人たちからダマスコにいる同志にあてた手紙までもらい、その地にいる者たちを縛り上げ、エルサレムへ連行して処罰するために出かけて行ったのです。」
「旅を続けてダマスコに近づいたときのこと、真昼ごろ、突然、天から強い光がわたしの周りを照らしました。わたしは地面に倒れ、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか』と言う声を聞いたのです。『主よ、あなたはどなたですか』と尋ねると、『わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスである』と答えがありました。一緒にいた人々は、その光は見たのですが、わたしに話しかけた方の声は聞きませんでした。『主よ、どうしたらよいでしょうか』と申しますと、主は、『立ち上がってダマスコへ行け。しなければならないことは、すべてそこで知らされる』と言われました。わたしは、その光の輝きのために目が見えなくなっていましたので、一緒にいた人たちに手を引かれて、ダマスコに入りました。
ダマスコにはアナニアという人がいました。律法に従って生活する信仰深い人で、そこに住んでいるすべてのユダヤ人の中で評判の良い人でした。この人がわたしのところに来て、そばに立ってこう言いました。『兄弟サウル、元どおり見えるようになりなさい。』するとそのとき、わたしはその人が見えるようになったのです。アナニアは言いました。『わたしたちの先祖の神が、あなたをお選びになった。それは、御心を悟らせ、あの正しい方に会わせて、その口からの声を聞かせるためです。あなたは、見聞きしたことについて、すべての人に対してその方の証人となる者だからです。今、何をためらっているのです。立ち上がりなさい。その方の名を唱え、洗礼を受けて罪を洗い清めなさい。』」
1) イエスの介入
2) パウロに現れたイエスがあなたにも現れた
メッセージのポイント
イエスとの出会いがパウロの人生を大きく変えました。それは彼の人生を苦労の連続としましたが、彼はイエスとの出会いによって得たものに比べれば、それ以前の彼の大切に思っていたものは塵芥(ちり、あくた)のようなものだったと言っています。自分ではコントロールすることの出来ない力によって起こってくる出来事を恐れず。それを超えて全てをコントロールされる方を信頼して歩みましょう。
話し合いのために
1) なぜこのような騒動が起こったのでしょうか?
2) イエスがあなたの人生に介入されたことをシェアしましょう
<MP3 音声>
<ビデオ> 画面をクリックすると再生が始まります
<メッセージ全文>
2014/5/11 使徒言行録 21:27-22:16
イエスに従って歩むとは?
A. 自分ではコントロール出来ない様々な力 (21:27-40)
1) 陰謀、扇動、誤解 (27-30)
七日の期間が終わろうとしていたとき、アジア州から来たユダヤ人たちが神殿の境内でパウロを見つけ、全群衆を扇動して彼を捕らえ、こう叫んだ。「イスラエルの人たち、手伝ってくれ。この男は、民と律法とこの場所を無視することを、至るところでだれにでも教えている。その上、ギリシア人を境内に連れ込んで、この聖なる場所を汚してしまった。」彼らは、エフェソ出身のトロフィモが前に都でパウロと一緒にいたのを見かけたので、パウロが彼を境内に連れ込んだのだと思ったからである。それで、都全体は大騒ぎになり、民衆は駆け寄って来て、パウロを捕らえ、境内から引きずり出した。そして、門はどれもすぐに閉ざされた。
ユダヤ教の中心地エルサレムを訪れたパウロを、ユダヤ教を冒涜する裏切り者として憎むユダヤ人グループが「パウロが聖なる場所を汚した」といいふらし、人々を扇動してパウロを捕らえ神殿の境内から引きずり出しました。こんなふうにこの事件は始まったのです。エルサレムのユダヤ人はパウロを、見つけた途端に逮捕しなければならないほどの危険人物だとは考えていませんでした。パウロを捕らえようとしたのは、エルサレムのユダヤ人ではなく、小アジアでパウロの働きを妨害した人々でした。しかし、パウロがギリシャ人と付き合い、異邦人を入れてはいけない境内にまで連れ込んだという彼らの主張は、エルサレムの人々のパウロに対する敵意に火をつけることに成功したのです。
どの時代のどの社会でも、イエスに従って歩む人には同じ危険があるのです。宗教や信仰についての偏見や誤解、あるいはその人の経験によって、あなたがイエスに従う者だということをよく思わない人もいます。「イエスに従って歩む」人は、今でも少数者です。少数者は誤解されやすく、スケープゴートになりやすいのです。
当時のように、信仰を理由に逮捕される、裁判にかけられるということは想像しにくいですが、日本の70年前の法律のもとでは、それが起こりました。この国の支配する者達の態度が「主はイエスではなく、天皇でなければならない。」 というものだったからです。キリスト教だけではなく、思想でも宗教でも、時の権力に都合の悪いものはすべて弾圧されました。この反省に立って作られたのが象徴天皇制や戦争放棄を謳った現憲法ですが、70年前に戻したい人が権力の中枢にいて、それを許してもいいという雰囲気が広がっています。そのようなことは起こりうることですが、また別の力が働いて全く違う方向に向かうということもあります。エルサレムでもユダヤ人たちの思い通りには事は運びませんでした。31節以下を読みます。
2) ローマの介入 (31-40)
彼らがパウロを殺そうとしていたとき、エルサレム中が混乱状態に陥っているという報告が、守備大隊の千人隊長のもとに届いた。千人隊長は直ちに兵士と百人隊長を率いて、その場に駆けつけた。群衆は千人隊長と兵士を見ると、パウロを殴るのをやめた。千人隊長は近寄ってパウロを捕らえ、二本の鎖で縛るように命じた。そして、パウロが何者であるのか、また、何をしたのかと尋ねた。しかし、群衆はあれやこれやと叫び立てていた。千人隊長は、騒々しくて真相をつかむことができないので、パウロを兵営に連れて行くように命じた。パウロが階段にさしかかったとき、群衆の暴行を避けるために、兵士たちは彼を担いで行かなければならなかった。
大勢の民衆が、「その男を殺してしまえ」と叫びながらついて来たからである。パウロは兵営の中に連れて行かれそうになったとき、「ひと言お話ししてもよいでしょうか」と千人隊長に言った。すると、千人隊長が尋ねた。「ギリシア語が話せるのか。それならお前は、最近反乱を起こし、四千人の暗殺者を引き連れて荒れ野へ行った、あのエジプト人ではないのか。」 パウロは言った。「わたしは確かにユダヤ人です。キリキア州のれっきとした町、タルソスの市民です。どうか、この人たちに話をさせてください。」 千人隊長が許可したので、パウロは階段の上に立ち、民衆を手で制した。すっかり静かになったとき、パウロはヘブライ語で話し始めた。
支配する、支配される構造はどのような社会でも単純ではありません。この時代、エルサレムではユダヤ人の権力者の上に、さらにもう一つの権力が存在していました。ローマ帝国です。ローマはイエスの時代より750年前に、現在のローマの位置に小さな村から発展した都市国家としてスタートしましたが、500年でイタリア半島全体に、そしてイエスの時代には、ヨーロッパ、小アジア、アフリカの地中海沿岸を支配し、いまのEUよりはるかに巨大な国となっていました。ユダヤも帝国に組み込まれていたのです。ローマ帝国は征服した他民族の領地では、政治的にも、宗教的にもある程度の自治を与えていましたが、ローマに対する反逆や経済的な損失につながるような動きには敏感でした。そこで今読んだように、この騒ぎを警戒して介入してきたのです。パウロがローマ市民の資格を持っていたので、彼らはパウロを保護しなければなりませんでした。この時は、ローマの力が、パウロをユダヤ人たちから救い出しましたが、パウロは、このより大きな権力も本当により頼むことの出来るものではないということを知っていました。パウロは結局皇帝ネロの時代にローマ帝国の権力によって処刑されてしまうのです。
「パウロのようにイエスに従うと、しなくてもいい苦労をすることになるから、やめたほうがいいよ」という話をしているようですが、そうではありません。どうか誤解しないで下さい。実際のところは、イエスを信じていようといまいと、私たちは自分ではどうすることも出来ない大きな力によって翻弄されることがあるのです。パウロのフィリピの信徒への手紙には、「自分がイエスに出会う前、社会的にも、宗教的にも恵まれ、尊敬され、非の打ち所のないような者であったけれど、主イエスを知ることのあまりの素晴らしさに、彼に出会ってそれら一切が無価値なものになった。」(フィリピ 3:5-9)と書かれています。この手紙は、パウロがイエスに従っていることによって獄に入れられているときに書いたものなのです!
個人の人生は、世界の様々な力によって翻弄されているように見えますが、誰でもイエスによってパウロのようにそこから自由になれるのです。パウロはなぜそのような心境になれたのでしょう?次の部分でわかります。22:1-16 です。
B. すべての力の上に立つ神の力 (22:1-16)
「兄弟であり父である皆さん、これから申し上げる弁明を聞いてください。」パウロがヘブライ語で話すのを聞いて、人々はますます静かになった。パウロは言った「わたしは、キリキア州のタルソスで生まれたユダヤ人です。そして、この都で育ち、ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しい教育を受け、今日の皆さんと同じように、熱心に神に仕えていました。わたしはこの道を迫害し、男女を問わず縛り上げて獄に投じ、殺すことさえしたのです。このことについては、大祭司も長老会全体も、わたしのために証言してくれます。実は、この人たちからダマスコにいる同志にあてた手紙までもらい、その地にいる者たちを縛り上げ、エルサレムへ連行して処罰するために出かけて行ったのです。」
「旅を続けてダマスコに近づいたときのこと、真昼ごろ、突然、天から強い光がわたしの周りを照らしました。わたしは地面に倒れ、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか』と言う声を聞いたのです。『主よ、あなたはどなたですか』と尋ねると、『わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスである』と答えがありました。一緒にいた人々は、その光は見たのですが、わたしに話しかけた方の声は聞きませんでした。『主よ、どうしたらよいでしょうか』と申しますと、主は、『立ち上がってダマスコへ行け。しなければならないことは、すべてそこで知らされる』と言われました。わたしは、その光の輝きのために目が見えなくなっていましたので、一緒にいた人たちに手を引かれて、ダマスコに入りました。
ダマスコにはアナニアという人がいました。律法に従って生活する信仰深い人で、そこに住んでいるすべてのユダヤ人の中で評判の良い人でした。この人がわたしのところに来て、そばに立ってこう言いました。『兄弟サウル、元どおり見えるようになりなさい。』するとそのとき、わたしはその人が見えるようになったのです。アナニアは言いました。『わたしたちの先祖の神が、あなたをお選びになった。それは、御心を悟らせ、あの正しい方に会わせて、その口からの声を聞かせるためです。あなたは、見聞きしたことについて、すべての人に対してその方の証人となる者だからです。今、何をためらっているのです。立ち上がりなさい。その方の名を唱え、洗礼を受けて罪を洗い清めなさい。』」
1) イエスの介入
パウロは与えられた弁明の機会に、9章に記録されているパウロのイエスとの出会いの時のことを語りました。ここでパウロがしていることは、教えの説明ではなく、自分の体験でした。イエスに出会う前の自分がどのような者であったか、イエスが、そんな迫害者である自分に現れて招かれ、新しい人生を指し示したことを語っています。後に、王の前で話をする機会が与えられた時(26章)も同じ話をしています。イエスを紹介するチャンスが有れば、パウロはまず第一に「こんな自分にもイエスは出会ってくれました。ついてくるように招いてくれました。私の人生は新しいものに、素晴らしいものになりました」と自分の身に起こったことを知ってもらおうとしたのです。
ここにパウロの人生の中心があります。彼にとってイエスとの出会いが最大の出来事であり、それを知らない人に伝えたい第一のことでした。それは、この出会いが彼の人生を襲った多くの困難にもかかわらず、喜びに満ち、充実したものにしていたからです。このことは私にとってもいつでも、皆さんに一番知ってもらいたいことです。
2) パウロに現れたイエスがあなたにも現れた
ここには、イエスに興味を持っているけれど、まだ彼に従っていこうと決心するほどの確信は持てないという方も多いと思います。そのような皆さんが、主イエスに礼拝を捧げるというこの時に、共にいてくださることをとても嬉しく思っています。皆さんは今、パウロと同じ体験をしているのです。イエスに招かれ、呼びかけられているのです。この出会いの特別な意味を受け止めて「イエスが私の主だ」という確信を持っていただけたら、かけがえのない親友イエスを紹介したいという私たちの第一の願いが叶うことになります。私たちは皆、パウロのように劇的ではないにしても、それぞれの人生の歩みの中でイエスに出会いました。親が信仰を持っていたとしても、それが自分のものになるという時があったのです。生まれた時からイエスに従っている人はいません。もしあなたが「イエスに従うように招かれている」と信じるなら、それはこのユアチャーチという大きな家族に加わるようにと招かれているということでもあります。ですから私も入りたいと表明してほしいのです。なぜ心の中でだけ信じているのではいけないのだろうか?と思う人もいるでしょう。しかし、聖書は神様とつながることは、個人的なだけのことではなく、同じ確信を持つ人々とつながることでもあると教えています。人には信頼できる、安心できるコミュニティーが必要です。神様はその切り札として、イエスに従うコミュニティー:教会を世に誕生させたのです。
この国には誇っても良い世界一もたくさんありますが、悲しい世界一があるのです。岩波明さんという精神科医の本で教えられたのですが、日本はOECDが2005年に発表した「社会的孤立者の人口に対する比率」世界一なのです。友人、同僚、宗教、スポーツ、文化的グループの人と全く、あるいはめったに付き合わないと答えた人の比率です。さらに衝撃的なのは2007年の Unicef による「自分は孤独だと感じる15歳児」の割合世界一です。しかも殆どの国が10%前後なのに、日本では30%もの子供が自分は孤独だと感じています。この数は、頼りになる共同体の存在がとても少ない事を意味しています。子供の幸せを思わない親はいません。しかし親たちもまた孤立しているなら一つの家庭ではそれを実現することは難しいでしょう。イエスはその体である教会がその共同体となることを望んでおられないでしょうか?
先にイエスを知ってもらうことが第一の願いだと言いましたが、そこから、皆さんがこの大きな家族に連なることによって、孤独を癒され、成長し、この国の人々がイエス・キリストを知って幸せになるための働きに参加してほしい。それがもう一つの願いなのです。
メッセージのポイント
イエスとの出会いがパウロの人生を大きく変えました。それは彼の人生を苦労の連続としましたが、彼はイエスとの出会いによって得たものに比べれば、それ以前の彼の大切に思っていたものは塵芥(ちり、あくた)のようなものだったと言っています。自分ではコントロールすることの出来ない力によって起こってくる出来事を恐れず。それを超えて全てをコントロールされる方を信頼して歩みましょう。
話し合いのために
1) なぜこのような騒動が起こったのでしょうか?
2) イエスがあなたの人生に介入されたことをシェアしましょう
イエスに従って歩むとは?
A. 自分ではコントロール出来ない様々な力 (21:27-40)
1) 陰謀、扇動、誤解 (27-30)
七日の期間が終わろうとしていたとき、アジア州から来たユダヤ人たちが神殿の境内でパウロを見つけ、全群衆を扇動して彼を捕らえ、こう叫んだ。「イスラエルの人たち、手伝ってくれ。この男は、民と律法とこの場所を無視することを、至るところでだれにでも教えている。その上、ギリシア人を境内に連れ込んで、この聖なる場所を汚してしまった。」彼らは、エフェソ出身のトロフィモが前に都でパウロと一緒にいたのを見かけたので、パウロが彼を境内に連れ込んだのだと思ったからである。それで、都全体は大騒ぎになり、民衆は駆け寄って来て、パウロを捕らえ、境内から引きずり出した。そして、門はどれもすぐに閉ざされた。
ユダヤ教の中心地エルサレムを訪れたパウロを、ユダヤ教を冒涜する裏切り者として憎むユダヤ人グループが「パウロが聖なる場所を汚した」といいふらし、人々を扇動してパウロを捕らえ神殿の境内から引きずり出しました。こんなふうにこの事件は始まったのです。エルサレムのユダヤ人はパウロを、見つけた途端に逮捕しなければならないほどの危険人物だとは考えていませんでした。パウロを捕らえようとしたのは、エルサレムのユダヤ人ではなく、小アジアでパウロの働きを妨害した人々でした。しかし、パウロがギリシャ人と付き合い、異邦人を入れてはいけない境内にまで連れ込んだという彼らの主張は、エルサレムの人々のパウロに対する敵意に火をつけることに成功したのです。
どの時代のどの社会でも、イエスに従って歩む人には同じ危険があるのです。宗教や信仰についての偏見や誤解、あるいはその人の経験によって、あなたがイエスに従う者だということをよく思わない人もいます。「イエスに従って歩む」人は、今でも少数者です。少数者は誤解されやすく、スケープゴートになりやすいのです。
当時のように、信仰を理由に逮捕される、裁判にかけられるということは想像しにくいですが、日本の70年前の法律のもとでは、それが起こりました。この国の支配する者達の態度が「主はイエスではなく、天皇でなければならない。」 というものだったからです。キリスト教だけではなく、思想でも宗教でも、時の権力に都合の悪いものはすべて弾圧されました。この反省に立って作られたのが象徴天皇制や戦争放棄を謳った現憲法ですが、70年前に戻したい人が権力の中枢にいて、それを許してもいいという雰囲気が広がっています。そのようなことは起こりうることですが、また別の力が働いて全く違う方向に向かうということもあります。エルサレムでもユダヤ人たちの思い通りには事は運びませんでした。31節以下を読みます。
2) ローマの介入 (31-40)
彼らがパウロを殺そうとしていたとき、エルサレム中が混乱状態に陥っているという報告が、守備大隊の千人隊長のもとに届いた。千人隊長は直ちに兵士と百人隊長を率いて、その場に駆けつけた。群衆は千人隊長と兵士を見ると、パウロを殴るのをやめた。千人隊長は近寄ってパウロを捕らえ、二本の鎖で縛るように命じた。そして、パウロが何者であるのか、また、何をしたのかと尋ねた。しかし、群衆はあれやこれやと叫び立てていた。千人隊長は、騒々しくて真相をつかむことができないので、パウロを兵営に連れて行くように命じた。パウロが階段にさしかかったとき、群衆の暴行を避けるために、兵士たちは彼を担いで行かなければならなかった。
大勢の民衆が、「その男を殺してしまえ」と叫びながらついて来たからである。パウロは兵営の中に連れて行かれそうになったとき、「ひと言お話ししてもよいでしょうか」と千人隊長に言った。すると、千人隊長が尋ねた。「ギリシア語が話せるのか。それならお前は、最近反乱を起こし、四千人の暗殺者を引き連れて荒れ野へ行った、あのエジプト人ではないのか。」 パウロは言った。「わたしは確かにユダヤ人です。キリキア州のれっきとした町、タルソスの市民です。どうか、この人たちに話をさせてください。」 千人隊長が許可したので、パウロは階段の上に立ち、民衆を手で制した。すっかり静かになったとき、パウロはヘブライ語で話し始めた。
支配する、支配される構造はどのような社会でも単純ではありません。この時代、エルサレムではユダヤ人の権力者の上に、さらにもう一つの権力が存在していました。ローマ帝国です。ローマはイエスの時代より750年前に、現在のローマの位置に小さな村から発展した都市国家としてスタートしましたが、500年でイタリア半島全体に、そしてイエスの時代には、ヨーロッパ、小アジア、アフリカの地中海沿岸を支配し、いまのEUよりはるかに巨大な国となっていました。ユダヤも帝国に組み込まれていたのです。ローマ帝国は征服した他民族の領地では、政治的にも、宗教的にもある程度の自治を与えていましたが、ローマに対する反逆や経済的な損失につながるような動きには敏感でした。そこで今読んだように、この騒ぎを警戒して介入してきたのです。パウロがローマ市民の資格を持っていたので、彼らはパウロを保護しなければなりませんでした。この時は、ローマの力が、パウロをユダヤ人たちから救い出しましたが、パウロは、このより大きな権力も本当により頼むことの出来るものではないということを知っていました。パウロは結局皇帝ネロの時代にローマ帝国の権力によって処刑されてしまうのです。
「パウロのようにイエスに従うと、しなくてもいい苦労をすることになるから、やめたほうがいいよ」という話をしているようですが、そうではありません。どうか誤解しないで下さい。実際のところは、イエスを信じていようといまいと、私たちは自分ではどうすることも出来ない大きな力によって翻弄されることがあるのです。パウロのフィリピの信徒への手紙には、「自分がイエスに出会う前、社会的にも、宗教的にも恵まれ、尊敬され、非の打ち所のないような者であったけれど、主イエスを知ることのあまりの素晴らしさに、彼に出会ってそれら一切が無価値なものになった。」(フィリピ 3:5-9)と書かれています。この手紙は、パウロがイエスに従っていることによって獄に入れられているときに書いたものなのです!
個人の人生は、世界の様々な力によって翻弄されているように見えますが、誰でもイエスによってパウロのようにそこから自由になれるのです。パウロはなぜそのような心境になれたのでしょう?次の部分でわかります。22:1-16 です。
B. すべての力の上に立つ神の力 (22:1-16)
「兄弟であり父である皆さん、これから申し上げる弁明を聞いてください。」パウロがヘブライ語で話すのを聞いて、人々はますます静かになった。パウロは言った「わたしは、キリキア州のタルソスで生まれたユダヤ人です。そして、この都で育ち、ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しい教育を受け、今日の皆さんと同じように、熱心に神に仕えていました。わたしはこの道を迫害し、男女を問わず縛り上げて獄に投じ、殺すことさえしたのです。このことについては、大祭司も長老会全体も、わたしのために証言してくれます。実は、この人たちからダマスコにいる同志にあてた手紙までもらい、その地にいる者たちを縛り上げ、エルサレムへ連行して処罰するために出かけて行ったのです。」
「旅を続けてダマスコに近づいたときのこと、真昼ごろ、突然、天から強い光がわたしの周りを照らしました。わたしは地面に倒れ、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか』と言う声を聞いたのです。『主よ、あなたはどなたですか』と尋ねると、『わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスである』と答えがありました。一緒にいた人々は、その光は見たのですが、わたしに話しかけた方の声は聞きませんでした。『主よ、どうしたらよいでしょうか』と申しますと、主は、『立ち上がってダマスコへ行け。しなければならないことは、すべてそこで知らされる』と言われました。わたしは、その光の輝きのために目が見えなくなっていましたので、一緒にいた人たちに手を引かれて、ダマスコに入りました。
ダマスコにはアナニアという人がいました。律法に従って生活する信仰深い人で、そこに住んでいるすべてのユダヤ人の中で評判の良い人でした。この人がわたしのところに来て、そばに立ってこう言いました。『兄弟サウル、元どおり見えるようになりなさい。』するとそのとき、わたしはその人が見えるようになったのです。アナニアは言いました。『わたしたちの先祖の神が、あなたをお選びになった。それは、御心を悟らせ、あの正しい方に会わせて、その口からの声を聞かせるためです。あなたは、見聞きしたことについて、すべての人に対してその方の証人となる者だからです。今、何をためらっているのです。立ち上がりなさい。その方の名を唱え、洗礼を受けて罪を洗い清めなさい。』」
1) イエスの介入
パウロは与えられた弁明の機会に、9章に記録されているパウロのイエスとの出会いの時のことを語りました。ここでパウロがしていることは、教えの説明ではなく、自分の体験でした。イエスに出会う前の自分がどのような者であったか、イエスが、そんな迫害者である自分に現れて招かれ、新しい人生を指し示したことを語っています。後に、王の前で話をする機会が与えられた時(26章)も同じ話をしています。イエスを紹介するチャンスが有れば、パウロはまず第一に「こんな自分にもイエスは出会ってくれました。ついてくるように招いてくれました。私の人生は新しいものに、素晴らしいものになりました」と自分の身に起こったことを知ってもらおうとしたのです。
ここにパウロの人生の中心があります。彼にとってイエスとの出会いが最大の出来事であり、それを知らない人に伝えたい第一のことでした。それは、この出会いが彼の人生を襲った多くの困難にもかかわらず、喜びに満ち、充実したものにしていたからです。このことは私にとってもいつでも、皆さんに一番知ってもらいたいことです。
2) パウロに現れたイエスがあなたにも現れた
ここには、イエスに興味を持っているけれど、まだ彼に従っていこうと決心するほどの確信は持てないという方も多いと思います。そのような皆さんが、主イエスに礼拝を捧げるというこの時に、共にいてくださることをとても嬉しく思っています。皆さんは今、パウロと同じ体験をしているのです。イエスに招かれ、呼びかけられているのです。この出会いの特別な意味を受け止めて「イエスが私の主だ」という確信を持っていただけたら、かけがえのない親友イエスを紹介したいという私たちの第一の願いが叶うことになります。私たちは皆、パウロのように劇的ではないにしても、それぞれの人生の歩みの中でイエスに出会いました。親が信仰を持っていたとしても、それが自分のものになるという時があったのです。生まれた時からイエスに従っている人はいません。もしあなたが「イエスに従うように招かれている」と信じるなら、それはこのユアチャーチという大きな家族に加わるようにと招かれているということでもあります。ですから私も入りたいと表明してほしいのです。なぜ心の中でだけ信じているのではいけないのだろうか?と思う人もいるでしょう。しかし、聖書は神様とつながることは、個人的なだけのことではなく、同じ確信を持つ人々とつながることでもあると教えています。人には信頼できる、安心できるコミュニティーが必要です。神様はその切り札として、イエスに従うコミュニティー:教会を世に誕生させたのです。
この国には誇っても良い世界一もたくさんありますが、悲しい世界一があるのです。岩波明さんという精神科医の本で教えられたのですが、日本はOECDが2005年に発表した「社会的孤立者の人口に対する比率」世界一なのです。友人、同僚、宗教、スポーツ、文化的グループの人と全く、あるいはめったに付き合わないと答えた人の比率です。さらに衝撃的なのは2007年の Unicef による「自分は孤独だと感じる15歳児」の割合世界一です。しかも殆どの国が10%前後なのに、日本では30%もの子供が自分は孤独だと感じています。この数は、頼りになる共同体の存在がとても少ない事を意味しています。子供の幸せを思わない親はいません。しかし親たちもまた孤立しているなら一つの家庭ではそれを実現することは難しいでしょう。イエスはその体である教会がその共同体となることを望んでおられないでしょうか?
先にイエスを知ってもらうことが第一の願いだと言いましたが、そこから、皆さんがこの大きな家族に連なることによって、孤独を癒され、成長し、この国の人々がイエス・キリストを知って幸せになるための働きに参加してほしい。それがもう一つの願いなのです。
メッセージのポイント
イエスとの出会いがパウロの人生を大きく変えました。それは彼の人生を苦労の連続としましたが、彼はイエスとの出会いによって得たものに比べれば、それ以前の彼の大切に思っていたものは塵芥(ちり、あくた)のようなものだったと言っています。自分ではコントロールすることの出来ない力によって起こってくる出来事を恐れず。それを超えて全てをコントロールされる方を信頼して歩みましょう。
話し合いのために
1) なぜこのような騒動が起こったのでしょうか?
2) イエスがあなたの人生に介入されたことをシェアしましょう