<メッセージノート>
2014/5/25 メッセージノート(使徒言行録22:17-29)
神を畏れる人になる
A 異邦人恐怖症
1) 食い違っていたパウロの考えと神の計画 (17-21)
「さて、わたしはエルサレムに帰って来て、神殿で祈っていたとき、我を忘れた状態になり、主にお会いしたのです。主は言われました。『急げ。すぐエルサレムから出て行け。わたしについてあなたが証しすることを、人々が受け入れないからである。』わたしは申しました。『主よ、わたしが会堂から会堂へと回って、あなたを信じる者を投獄したり、鞭で打ちたたいたりしていたことを、この人々は知っています。また、あなたの証人ステファノの血が流されたとき、わたしもその場にいてそれに賛成し、彼を殺す者たちの上着の番もしたのです。』すると、主は言われました。『行け。わたしがあなたを遠く異邦人のために遣わすのだ。』」(17-21)
2) 恐れと怒り (22)
パウロの話をここまで聞いた人々は、声を張り上げて言った。「こんな男は、地上から除いてしまえ。生かしてはおけない。」(22)
B 権力を恐れる人 (23-29)
彼らがわめき立てて上着を投げつけ、砂埃を空中にまき散らすほどだったので、千人隊長はパウロを兵営に入れるように命じ、人々がどうしてこれほどパウロに対してわめき立てるのかを知るため、鞭で打ちたたいて調べるようにと言った。パウロを鞭で打つため、その両手を広げて縛ると、パウロはそばに立っていた百人隊長に言った。「ローマ帝国の市民権を持つ者を、裁判にかけずに鞭で打ってもよいのですか。」これを聞いた百人隊長は、千人隊長のところへ行って報告した。「どうなさいますか。あの男はローマ帝国の市民です。」千人隊長はパウロのところへ来て言った。「あなたはローマ帝国の市民なのか。わたしに言いなさい。」パウロは、「そうです」と言った。千人隊長が、「わたしは、多額の金を出してこの市民権を得たのだ」と言うと、パウロは、「わたしは生まれながらローマ帝国の市民です」と言った。そこで、パウロを取り調べようとしていた者たちは、直ちに手を引き、千人隊長もパウロがローマ帝国の市民であること、そして、彼を縛ってしまったことを知って恐ろしくなった。(23-29)
1) 人間的な権力を恐れる人々
2) 神を畏れる人となろう
メッセージのポイント
私たちの考えには限界があります。それが神様の意思を知る妨げとなるのです。自分とは違う人、理解できない人を汚れた異邦人のように退けることが今でも起こります。ユダヤ人は律法を根拠に異邦人を恐れました。しかしそれは、神様の意思とは異なっていました。今でも聖書に書いてあるからといって自分が受け入れられない人々を裁く人がいますが、それは神様の意思に従っているのではなく、自分の聖書解釈に従っているのです。もっと謙虚に神様の意思を求めましょう。それが、人を恐れるのではなく神を畏れるという態度です。
話し合いのために
1) パウロが何を言った時、人々は怒り出しましたか?
2) 千人隊長は何が怖かったのでしょう?
神を畏れる人になる
A 異邦人恐怖症
1) 食い違っていたパウロの考えと神の計画 (17-21)
「さて、わたしはエルサレムに帰って来て、神殿で祈っていたとき、我を忘れた状態になり、主にお会いしたのです。主は言われました。『急げ。すぐエルサレムから出て行け。わたしについてあなたが証しすることを、人々が受け入れないからである。』わたしは申しました。『主よ、わたしが会堂から会堂へと回って、あなたを信じる者を投獄したり、鞭で打ちたたいたりしていたことを、この人々は知っています。また、あなたの証人ステファノの血が流されたとき、わたしもその場にいてそれに賛成し、彼を殺す者たちの上着の番もしたのです。』すると、主は言われました。『行け。わたしがあなたを遠く異邦人のために遣わすのだ。』」(17-21)
2) 恐れと怒り (22)
パウロの話をここまで聞いた人々は、声を張り上げて言った。「こんな男は、地上から除いてしまえ。生かしてはおけない。」(22)
B 権力を恐れる人 (23-29)
彼らがわめき立てて上着を投げつけ、砂埃を空中にまき散らすほどだったので、千人隊長はパウロを兵営に入れるように命じ、人々がどうしてこれほどパウロに対してわめき立てるのかを知るため、鞭で打ちたたいて調べるようにと言った。パウロを鞭で打つため、その両手を広げて縛ると、パウロはそばに立っていた百人隊長に言った。「ローマ帝国の市民権を持つ者を、裁判にかけずに鞭で打ってもよいのですか。」これを聞いた百人隊長は、千人隊長のところへ行って報告した。「どうなさいますか。あの男はローマ帝国の市民です。」千人隊長はパウロのところへ来て言った。「あなたはローマ帝国の市民なのか。わたしに言いなさい。」パウロは、「そうです」と言った。千人隊長が、「わたしは、多額の金を出してこの市民権を得たのだ」と言うと、パウロは、「わたしは生まれながらローマ帝国の市民です」と言った。そこで、パウロを取り調べようとしていた者たちは、直ちに手を引き、千人隊長もパウロがローマ帝国の市民であること、そして、彼を縛ってしまったことを知って恐ろしくなった。(23-29)
1) 人間的な権力を恐れる人々
2) 神を畏れる人となろう
メッセージのポイント
私たちの考えには限界があります。それが神様の意思を知る妨げとなるのです。自分とは違う人、理解できない人を汚れた異邦人のように退けることが今でも起こります。ユダヤ人は律法を根拠に異邦人を恐れました。しかしそれは、神様の意思とは異なっていました。今でも聖書に書いてあるからといって自分が受け入れられない人々を裁く人がいますが、それは神様の意思に従っているのではなく、自分の聖書解釈に従っているのです。もっと謙虚に神様の意思を求めましょう。それが、人を恐れるのではなく神を畏れるという態度です。
話し合いのために
1) パウロが何を言った時、人々は怒り出しましたか?
2) 千人隊長は何が怖かったのでしょう?
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<メッセージ全文>
2014/5/25 メッセージノート(使徒言行録22:17-29)
神を畏れる人になる
A 異邦人恐怖症
1) 食い違っていたパウロの考えと神の計画 (17-21)
「さて、わたしはエルサレムに帰って来て、神殿で祈っていたとき、我を忘れた状態になり、主にお会いしたのです。主は言われました。『急げ。すぐエルサレムから出て行け。わたしについてあなたが証しすることを、人々が受け入れないからである。』わたしは申しました。『主よ、わたしが会堂から会堂へと回って、あなたを信じる者を投獄したり、鞭で打ちたたいたりしていたことを、この人々は知っています。また、あなたの証人ステファノの血が流されたとき、わたしもその場にいてそれに賛成し、彼を殺す者たちの上着の番もしたのです。』すると、主は言われました。『行け。わたしがあなたを遠く異邦人のために遣わすのだ。』」(17-21)
パウロを捕らえて処刑してしまいたかったユダヤ人グループの扇動された群衆によって、彼は神殿から引きずり出され取り囲まれていました。混乱を嫌うローマの守備大隊の隊長は彼を保護し、兵営の中に連れて行こうとしました。その時パウロは隊長に発言を許されて群衆に語りかけました。パウロは、使徒言行録9章に記されていた、彼が最初にイエスに呼びかけられた時の出来事について話し始めたのでした。それが前回までお話ししてきたことです。いま読んだのはその続きの部分ですが、この部分は、他の箇所にはどこにも書かれていない、数年後のエルサレムでの体験です。
パウロはこの時まで、エルサレムを拠点として、ユダヤ人に対してイエスを伝えようとしていたことがわかります。それはパウロが、新しい宗教を伝えようとしているのではなく、ユダヤ人がイエスを、待望していた救い主として受け入れることを期待していたということです。自分が熱心なユダヤ教徒であったことが、エルサレムのユダヤ人たちを説得する良い材料になると考えていたのです。しかし、神様の計画はそれとは違っていました。それは私たちがここ数ヶ月読んできたように小アジア、マケドニア、ギリシャでユダヤ人以外の異邦人にもイエスを紹介するというものだったのです。パウロは博学で、国際人でもあり、良くも悪くも情熱豊かな人だったようですが、彼自身の考えにはイエスを異邦人に紹介することなど全くありませんでした。イエスは、ペトロにも同じように異邦人にも伝えなさいと、語りかけています(10章)。ペトロはパウロ以上にドメスティックな人でしたが、このことによってパウロと共通の認識を持つことができました。聖書の神と人間との関係は、イエスの登場によって新しい段階に入ったのです。それまでは主にイスラエル民族に対してご自身を表わされていたのです。旧約時代は神様にとって、イエスの時代への準備段階でした。異邦人にも神様の直接の働きが始まることをパウロは受け入れ踏み出しましたが、ユダヤ人は受け入れられませんでした。異邦人を自分と同等の尊い人間であるとは思えなかったのです。
神様の意思に従おうとするなら、私たちは時としてこのような飛躍をしなければなりません。それまでの常識にとらわれているなら、神様の用意した良い計画を拒否することになってしまうかもしれないのです。私たちが新しい一歩を踏み出すのを邪魔するのは、私たち自身の中にある保守性です。イエスに従う者になれば誰でも、彼の働きを担いたいとは思うでしょう。そのことが自分が得意だから、自分に向いていると思うから、自分が好きな分野だからという選択もあるでしょう。しかし、神様はパウロに異邦人への働きを求めたように、あなたに思いもよらない道を用意されているかもしれないということは知っておいていただきたいのです。いつでも聞きますという思いで、礼拝し、祈っていただきたいのです。
教会もその保守性によって身動きがとれなくなり、神の意志に答えられなくなるという経験をしてきました。神様はそのたびに、聖霊として積極的に介入され、教会を刷新されました。そのたびに新しい教派、グループができることを喜ばない人もいますが、決して悪いことではなかったのです。宗教改革はルター派や改革派教会を産んだだけでなく、カトリック教会が自身を見直し刷新する機会ともなりました。ユアチャーチの誕生に関わりのあるヴィンヤードやホープチャペルのムーヴメントは、新しいグループを生んだだけでなく、それまでにあった教会にも反省と刷新の機会ともなったのです。キリストの体はいつもフレッシュです。しかし、人の組織として存在する以上、その構造は古くなり神様の期待に応えられなくなります。私たちも例外ではありません。時には大きな構造改革が必要です。聖霊によって日々新しくされたいのです。神様が私たちの何を変えたいのか?どのようなことを新しくさせたいのか?それをどうか教えてください。そういう気持ちで礼拝したいと思うのです。
2) 恐れと怒り (22)
パウロの話をここまで聞いた人々は、声を張り上げて言った。「こんな男は、地上から除いてしまえ。生かしてはおけない。」(22)
ここまではおとなしく聞いていた人々が騒ぎ出したのは、「イエスがパウロを異邦人のために遣わす」と聞いた時でした。神が異邦人もユダヤ人と同様に愛しているということが受け入れ難かったのです。自分たちだけが特別に愛されていると思い続けていたかったのです。当時のユダヤ人は、異邦人を汚れているものとして嫌うと同時に、権力を持った異邦人の帝国ローマを恐れていました。恐れ、軽蔑、優越感、劣等感が複雑にミックスした状態だったのです。日本は第二次大戦後、歴史上初めて他国に占領された時、同じような状態を経験をしました。80歳以上の人々は、これと似た感覚を知っています。終戦後を舞台とした映画などでも、その雰囲気を知ることが出来るでしょう。日本人は昭和初期に「欧米人は恐ろしく残酷でアジア人、アフリカ人は日本人より劣っている、日本人だけは特別だ」と教えこまれてこの時を迎えたのです。しかしユダヤ人と日本人だけが責められるものではありません。何人であれ、異邦人(恐れと軽蔑の対象)を作って自分を正当化してきました。
この世の知恵によれば、グループをまとめるために一番よい方法は「共通の敵」を作ることです。敵を作って、人々にはそれに対する恐怖心と憎悪を吹き込めばグループの一体感は高まるのです。民族でも、地域でも、学校でも、職場でも、家庭でも当てはまります。先住民や力の弱い他民族、少数民族を支配し苦しめることはどの国にも見られます。自分がいじめられないためにはいじめる側にしがみついているしかない子どもを責めることは出来ません。そして、同様のことが職場でもおきます。犠牲となるのは、いろいろな意味で違っている人、劣っているとみなされる人です。本当は恐れる必要などない人、むしろ助けを必要としている人々です。間違った情報で恐れていたり、嫌っていたら、イエスのように愛することは出来ません。イエスはそのような人にこそ手を差し伸べました。周りの人が、それらの人と近づけば汚れると思われているような人々のところにも行き、共に食べたり飲んだりしたのです。イエスは敵を作りませんでした。どのような人々をも愛していたので、恐れていなかったので、敵を作る必要はなかったのです。だから弟子たちに「敵はこういう人々で、そいつらをやっつけよう」とは決して言わなかったのです。イエスは愛しなさいと言われます。
B 権力を恐れる人 (23-29)
彼らがわめき立てて上着を投げつけ、砂埃を空中にまき散らすほどだったので、千人隊長はパウロを兵営に入れるように命じ、人々がどうしてこれほどパウロに対してわめき立てるのかを知るため、鞭で打ちたたいて調べるようにと言った。パウロを鞭で打つため、その両手を広げて縛ると、パウロはそばに立っていた百人隊長に言った。「ローマ帝国の市民権を持つ者を、裁判にかけずに鞭で打ってもよいのですか。」これを聞いた百人隊長は、千人隊長のところへ行って報告した。「どうなさいますか。あの男はローマ帝国の市民です。」千人隊長はパウロのところへ来て言った。「あなたはローマ帝国の市民なのか。わたしに言いなさい。」パウロは、「そうです」と言った。千人隊長が、「わたしは、多額の金を出してこの市民権を得たのだ」と言うと、パウロは、「わたしは生まれながらローマ帝国の市民です」と言った。そこで、パウロを取り調べようとしていた者たちは、直ちに手を引き、千人隊長もパウロがローマ帝国の市民であること、そして、彼を縛ってしまったことを知って恐ろしくなった。(23-29)
1) 人間的な権力を恐れる人々
占領地ユダヤで大きな権力を持っていた千人隊長にも恐れるものがありました。それは自分を隊長として任命したローマ帝国という大きな権威です。現代の人権の概念とは程遠い社会でしたが、ローマ市民には手厚い人権が保証されていました。千人隊長自身もローマ市民でしたが、それは先祖代々のものではなく、多額の金で買ったものだと告白しています。しかしパウロの市民権は生まれながらのものだったので、隊長は恐れたのです。もしパウロに市民としての強い人脈があれば、金で買った市民権を持つ隊長を告発して罷免させる事もできるかもしれません。だからパウロを縛ってしまったことを後悔したのです。ローマ人の地方権力者も、ユダヤ人も、怖れに支配され、いつも自分の力では対抗できないものにびくびくしています。その一方で、相手が弱く攻撃できることがわかると徹底的に自分の力を見せつけたくなります。が、どちらにしても心の安らぎは誰にもやって来ないのです。そしてそれは、私たちも同じです。どうしたら、徒党を組んで敵を作るような一致ではなく、何も恐れることなく、本当に平和な歩みをすることが出来るのでしょうか?
2) 神を畏れる人となろう
その答えが今日のメッセージの題「神を畏れる人となる」ということです。何かを恐れるという性質自体は、私たちを危険から守る大切な感覚です。これがなければ、落下事故、交通事故でもっと多くの人が命を落とすでしょう。またローラーコースターもバンジージャンプといったスリルを味わうという遊びも存在しなかったはずです。
しかし、今日お話ししてきたように、誰かを恐れるという感覚には注意をしなければなりません。恐れる必要のない者を恐れ、攻撃する必要のない者を攻撃し、手を差し伸べなければならない人を突き放してしまうおそれがあるからです。現代の一部の教会によるLGBTの人々対する偏見は、ユダヤ人の異邦人恐怖症にそっくりです。
私たちが異邦人的存在を恐れ、攻撃するのは自分と違う価値観を持った人を排除し、周りを同じような人で固めれば安心できると思うからでしょう。しかしそれは先に触れたようにイエスの愛の態度とは正反対のものです。サマリア人がイエスを歓迎しなかった時、弟子たちは怒り、イエスが天からの火で焼き払ってしまう事を期待しました(ルカ9:51-55)が、イエスはそれを叱りました。どのような人でもイエスにとっては敵ではありません。恐れてもいないし、嫌ってもいません。地上でのイエスの関心は父である神の意思:愛することを行うこと以外にはありませんでした。父の意志に従うといってもいいでしょう。それが神を畏れるという生き方です。神様を恐れることは、神様を怖がることではありません。神様は気まぐれに私たちを苦しめたり、襲いかかったりはしないからです。神様を怖がらなければならないのは不正を行って人々を苦しめる者だけです。そのような者を容赦しない方だと知っていることは怖がるより信頼につながります。信頼してついて行くということです。この信頼があれば私たちには何も怖がることはありません。神様を畏れる人、それは人を愛する人でもあります。神様を信頼し安心して愛する者として歩んでください。
メッセージのポイント
私たちの考えには限界があります。それが神様の意思を知る妨げとなるのです。自分とは違う人、理解できない人を汚れた異邦人のように退けることが今でも起こります。ユダヤ人は律法を根拠に異邦人を恐れました。しかしそれは、神様の意思とは異なっていました。今でも聖書に書いてあるからといって自分が受け入れられない人々を裁く人がいますが、それは神様の意思に従っているのではなく、自分の聖書解釈に従っているのです。もっと謙虚に神様の意思を求めましょう。それが、人を恐れるのではなく神を畏れるという態度です。
話し合いのために
1) パウロが何を言った時、人々は怒り出しましたか?
2) 千人隊長は何が怖かったのでしょう?
神を畏れる人になる
A 異邦人恐怖症
1) 食い違っていたパウロの考えと神の計画 (17-21)
「さて、わたしはエルサレムに帰って来て、神殿で祈っていたとき、我を忘れた状態になり、主にお会いしたのです。主は言われました。『急げ。すぐエルサレムから出て行け。わたしについてあなたが証しすることを、人々が受け入れないからである。』わたしは申しました。『主よ、わたしが会堂から会堂へと回って、あなたを信じる者を投獄したり、鞭で打ちたたいたりしていたことを、この人々は知っています。また、あなたの証人ステファノの血が流されたとき、わたしもその場にいてそれに賛成し、彼を殺す者たちの上着の番もしたのです。』すると、主は言われました。『行け。わたしがあなたを遠く異邦人のために遣わすのだ。』」(17-21)
パウロを捕らえて処刑してしまいたかったユダヤ人グループの扇動された群衆によって、彼は神殿から引きずり出され取り囲まれていました。混乱を嫌うローマの守備大隊の隊長は彼を保護し、兵営の中に連れて行こうとしました。その時パウロは隊長に発言を許されて群衆に語りかけました。パウロは、使徒言行録9章に記されていた、彼が最初にイエスに呼びかけられた時の出来事について話し始めたのでした。それが前回までお話ししてきたことです。いま読んだのはその続きの部分ですが、この部分は、他の箇所にはどこにも書かれていない、数年後のエルサレムでの体験です。
パウロはこの時まで、エルサレムを拠点として、ユダヤ人に対してイエスを伝えようとしていたことがわかります。それはパウロが、新しい宗教を伝えようとしているのではなく、ユダヤ人がイエスを、待望していた救い主として受け入れることを期待していたということです。自分が熱心なユダヤ教徒であったことが、エルサレムのユダヤ人たちを説得する良い材料になると考えていたのです。しかし、神様の計画はそれとは違っていました。それは私たちがここ数ヶ月読んできたように小アジア、マケドニア、ギリシャでユダヤ人以外の異邦人にもイエスを紹介するというものだったのです。パウロは博学で、国際人でもあり、良くも悪くも情熱豊かな人だったようですが、彼自身の考えにはイエスを異邦人に紹介することなど全くありませんでした。イエスは、ペトロにも同じように異邦人にも伝えなさいと、語りかけています(10章)。ペトロはパウロ以上にドメスティックな人でしたが、このことによってパウロと共通の認識を持つことができました。聖書の神と人間との関係は、イエスの登場によって新しい段階に入ったのです。それまでは主にイスラエル民族に対してご自身を表わされていたのです。旧約時代は神様にとって、イエスの時代への準備段階でした。異邦人にも神様の直接の働きが始まることをパウロは受け入れ踏み出しましたが、ユダヤ人は受け入れられませんでした。異邦人を自分と同等の尊い人間であるとは思えなかったのです。
神様の意思に従おうとするなら、私たちは時としてこのような飛躍をしなければなりません。それまでの常識にとらわれているなら、神様の用意した良い計画を拒否することになってしまうかもしれないのです。私たちが新しい一歩を踏み出すのを邪魔するのは、私たち自身の中にある保守性です。イエスに従う者になれば誰でも、彼の働きを担いたいとは思うでしょう。そのことが自分が得意だから、自分に向いていると思うから、自分が好きな分野だからという選択もあるでしょう。しかし、神様はパウロに異邦人への働きを求めたように、あなたに思いもよらない道を用意されているかもしれないということは知っておいていただきたいのです。いつでも聞きますという思いで、礼拝し、祈っていただきたいのです。
教会もその保守性によって身動きがとれなくなり、神の意志に答えられなくなるという経験をしてきました。神様はそのたびに、聖霊として積極的に介入され、教会を刷新されました。そのたびに新しい教派、グループができることを喜ばない人もいますが、決して悪いことではなかったのです。宗教改革はルター派や改革派教会を産んだだけでなく、カトリック教会が自身を見直し刷新する機会ともなりました。ユアチャーチの誕生に関わりのあるヴィンヤードやホープチャペルのムーヴメントは、新しいグループを生んだだけでなく、それまでにあった教会にも反省と刷新の機会ともなったのです。キリストの体はいつもフレッシュです。しかし、人の組織として存在する以上、その構造は古くなり神様の期待に応えられなくなります。私たちも例外ではありません。時には大きな構造改革が必要です。聖霊によって日々新しくされたいのです。神様が私たちの何を変えたいのか?どのようなことを新しくさせたいのか?それをどうか教えてください。そういう気持ちで礼拝したいと思うのです。
2) 恐れと怒り (22)
パウロの話をここまで聞いた人々は、声を張り上げて言った。「こんな男は、地上から除いてしまえ。生かしてはおけない。」(22)
ここまではおとなしく聞いていた人々が騒ぎ出したのは、「イエスがパウロを異邦人のために遣わす」と聞いた時でした。神が異邦人もユダヤ人と同様に愛しているということが受け入れ難かったのです。自分たちだけが特別に愛されていると思い続けていたかったのです。当時のユダヤ人は、異邦人を汚れているものとして嫌うと同時に、権力を持った異邦人の帝国ローマを恐れていました。恐れ、軽蔑、優越感、劣等感が複雑にミックスした状態だったのです。日本は第二次大戦後、歴史上初めて他国に占領された時、同じような状態を経験をしました。80歳以上の人々は、これと似た感覚を知っています。終戦後を舞台とした映画などでも、その雰囲気を知ることが出来るでしょう。日本人は昭和初期に「欧米人は恐ろしく残酷でアジア人、アフリカ人は日本人より劣っている、日本人だけは特別だ」と教えこまれてこの時を迎えたのです。しかしユダヤ人と日本人だけが責められるものではありません。何人であれ、異邦人(恐れと軽蔑の対象)を作って自分を正当化してきました。
この世の知恵によれば、グループをまとめるために一番よい方法は「共通の敵」を作ることです。敵を作って、人々にはそれに対する恐怖心と憎悪を吹き込めばグループの一体感は高まるのです。民族でも、地域でも、学校でも、職場でも、家庭でも当てはまります。先住民や力の弱い他民族、少数民族を支配し苦しめることはどの国にも見られます。自分がいじめられないためにはいじめる側にしがみついているしかない子どもを責めることは出来ません。そして、同様のことが職場でもおきます。犠牲となるのは、いろいろな意味で違っている人、劣っているとみなされる人です。本当は恐れる必要などない人、むしろ助けを必要としている人々です。間違った情報で恐れていたり、嫌っていたら、イエスのように愛することは出来ません。イエスはそのような人にこそ手を差し伸べました。周りの人が、それらの人と近づけば汚れると思われているような人々のところにも行き、共に食べたり飲んだりしたのです。イエスは敵を作りませんでした。どのような人々をも愛していたので、恐れていなかったので、敵を作る必要はなかったのです。だから弟子たちに「敵はこういう人々で、そいつらをやっつけよう」とは決して言わなかったのです。イエスは愛しなさいと言われます。
B 権力を恐れる人 (23-29)
彼らがわめき立てて上着を投げつけ、砂埃を空中にまき散らすほどだったので、千人隊長はパウロを兵営に入れるように命じ、人々がどうしてこれほどパウロに対してわめき立てるのかを知るため、鞭で打ちたたいて調べるようにと言った。パウロを鞭で打つため、その両手を広げて縛ると、パウロはそばに立っていた百人隊長に言った。「ローマ帝国の市民権を持つ者を、裁判にかけずに鞭で打ってもよいのですか。」これを聞いた百人隊長は、千人隊長のところへ行って報告した。「どうなさいますか。あの男はローマ帝国の市民です。」千人隊長はパウロのところへ来て言った。「あなたはローマ帝国の市民なのか。わたしに言いなさい。」パウロは、「そうです」と言った。千人隊長が、「わたしは、多額の金を出してこの市民権を得たのだ」と言うと、パウロは、「わたしは生まれながらローマ帝国の市民です」と言った。そこで、パウロを取り調べようとしていた者たちは、直ちに手を引き、千人隊長もパウロがローマ帝国の市民であること、そして、彼を縛ってしまったことを知って恐ろしくなった。(23-29)
1) 人間的な権力を恐れる人々
占領地ユダヤで大きな権力を持っていた千人隊長にも恐れるものがありました。それは自分を隊長として任命したローマ帝国という大きな権威です。現代の人権の概念とは程遠い社会でしたが、ローマ市民には手厚い人権が保証されていました。千人隊長自身もローマ市民でしたが、それは先祖代々のものではなく、多額の金で買ったものだと告白しています。しかしパウロの市民権は生まれながらのものだったので、隊長は恐れたのです。もしパウロに市民としての強い人脈があれば、金で買った市民権を持つ隊長を告発して罷免させる事もできるかもしれません。だからパウロを縛ってしまったことを後悔したのです。ローマ人の地方権力者も、ユダヤ人も、怖れに支配され、いつも自分の力では対抗できないものにびくびくしています。その一方で、相手が弱く攻撃できることがわかると徹底的に自分の力を見せつけたくなります。が、どちらにしても心の安らぎは誰にもやって来ないのです。そしてそれは、私たちも同じです。どうしたら、徒党を組んで敵を作るような一致ではなく、何も恐れることなく、本当に平和な歩みをすることが出来るのでしょうか?
2) 神を畏れる人となろう
その答えが今日のメッセージの題「神を畏れる人となる」ということです。何かを恐れるという性質自体は、私たちを危険から守る大切な感覚です。これがなければ、落下事故、交通事故でもっと多くの人が命を落とすでしょう。またローラーコースターもバンジージャンプといったスリルを味わうという遊びも存在しなかったはずです。
しかし、今日お話ししてきたように、誰かを恐れるという感覚には注意をしなければなりません。恐れる必要のない者を恐れ、攻撃する必要のない者を攻撃し、手を差し伸べなければならない人を突き放してしまうおそれがあるからです。現代の一部の教会によるLGBTの人々対する偏見は、ユダヤ人の異邦人恐怖症にそっくりです。
私たちが異邦人的存在を恐れ、攻撃するのは自分と違う価値観を持った人を排除し、周りを同じような人で固めれば安心できると思うからでしょう。しかしそれは先に触れたようにイエスの愛の態度とは正反対のものです。サマリア人がイエスを歓迎しなかった時、弟子たちは怒り、イエスが天からの火で焼き払ってしまう事を期待しました(ルカ9:51-55)が、イエスはそれを叱りました。どのような人でもイエスにとっては敵ではありません。恐れてもいないし、嫌ってもいません。地上でのイエスの関心は父である神の意思:愛することを行うこと以外にはありませんでした。父の意志に従うといってもいいでしょう。それが神を畏れるという生き方です。神様を恐れることは、神様を怖がることではありません。神様は気まぐれに私たちを苦しめたり、襲いかかったりはしないからです。神様を怖がらなければならないのは不正を行って人々を苦しめる者だけです。そのような者を容赦しない方だと知っていることは怖がるより信頼につながります。信頼してついて行くということです。この信頼があれば私たちには何も怖がることはありません。神様を畏れる人、それは人を愛する人でもあります。神様を信頼し安心して愛する者として歩んでください。
メッセージのポイント
私たちの考えには限界があります。それが神様の意思を知る妨げとなるのです。自分とは違う人、理解できない人を汚れた異邦人のように退けることが今でも起こります。ユダヤ人は律法を根拠に異邦人を恐れました。しかしそれは、神様の意思とは異なっていました。今でも聖書に書いてあるからといって自分が受け入れられない人々を裁く人がいますが、それは神様の意思に従っているのではなく、自分の聖書解釈に従っているのです。もっと謙虚に神様の意思を求めましょう。それが、人を恐れるのではなく神を畏れるという態度です。
話し合いのために
1) パウロが何を言った時、人々は怒り出しましたか?
2) 千人隊長は何が怖かったのでしょう?