<メッセージノート>

2014/06/01 使徒言行録22:30-23:11
人生の主導権を握る

A. パウロはなぜ会議で主導権を握れたのか? (22:30-23:6)
1) 方向転換の経験 (22:30, 23:1)

翌日、千人隊長は、なぜパウロがユダヤ人から訴えられているのか、確かなことを知りたいと思い、彼の鎖を外した。そして、祭司長たちと最高法院全体の召集を命じ、パウロを連れ出して彼らの前に立たせた。そこで、パウロは最高法院の議員たちを見つめて言った。「兄弟たち、わたしは今日に至るまで、あくまでも良心に従って神の前で生きてきました。」


2) 冷静な状況判断 (2-6)


すると、大祭司アナニアは、パウロの近くに立っていた者たちに、彼の口を打つように命じた。パウロは大祭司に向かって言った。「白く塗った壁よ、神があなたをお打ちになる。あなたは、律法に従ってわたしを裁くためにそこに座っていながら、律法に背いて、わたしを打て、と命令するのですか。」近くに立っていた者たちが、「神の大祭司をののしる気か」と言った。パウロは言った。「兄弟たち、その人が大祭司だとは知りませんでした。確かに『あなたの民の指導者を悪く言うな』と書かれています。」パウロは、議員の一部がサドカイ派、一部がファリサイ派であることを知って、議場で声を高めて言った。「兄弟たち、わたしは生まれながらのファリサイ派です。死者が復活するという望みを抱いていることで、わたしは裁判にかけられているのです。」


B. なぜ議会はパウロを追い詰めることが出来なかったのか?

1) 一致がなかった  (7-9)

パウロがこう言ったので、ファリサイ派とサドカイ派との間に論争が生じ、最高法院は分裂した。サドカイ派は復活も天使も霊もないと言い、ファリサイ派はこのいずれをも認めているからである。そこで、騒ぎは大きくなった。ファリサイ派の数人の律法学者が立ち上がって激しく論じ、「この人には何の悪い点も見いだせない。霊か天使かが彼に話しかけたのだろうか」と言った。


2) より強い権力に邪魔された (10)

こうして、論争が激しくなったので、千人隊長は、パウロが彼らに引き裂かれてしまうのではないかと心配し、兵士たちに、下りていって人々の中からパウロを力ずくで助け出し、兵営に連れて行くように命じた。


C. 私たちも主の声に励まされて歩もう (23:11)

その夜、主はパウロのそばに立って言われた。「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。」(23:11)

最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。 (エフェソ 6:10-12)



メッセージのポイント
パウロは最高法院に引き出されますが、被告とは思えない態度で会議の主導権を握りました。逆にパウロを断罪しようとした人々は分裂し混乱しました。ここから私たちは、どんな状況下でも自分の人生の主導権を握り、着実に歩む秘訣を知ることが出来ます。主に招かれ、主と共に歩んでいるという自覚を持ち、主の声を聞きながら生きること、それが私たちの歩みを確かにする秘訣です。

話し合いのために
1) パウロはなぜ会議で主導権を握れたのでしょう?
2) 私達はどのように主の声を聞くことができますか?

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<メッセージ全文>

2014/06/01 使徒言行録22:30-23:11
人生の主導権を握る

 自分が世界の中心であるかのように振る舞うのは傲慢ですが、実際そのように振る舞う人はそう多くはありません。むしろ、周りに流されてしまう、人の言いなりになってしまう、自分の人生を生きていないのでは?と悩む人の方がずっと多いのです。自己中心、傲慢になることなく人生の主導権を持ち、人の言葉に流されず、主体的に生きることが出来るのは、イエスに従う人の特権です。まだ持っていないならぜひ手に入れるべきものです。また自分は主に従っているというあなたは、この特権を十分に活かしているでしょうか? このことを今日のテキストから確認しましょう。パウロはここで宗教裁判のような場に引き出されます。英語の聖書は「共に席につく」という意味の原語のまま Sanhedrin (:Sitting together) と書いています。日本語で最高法院と訳されている通り、それはユダヤ人の最も権威のある会議でした。ローマは、ユダヤの国内問題についてはここに権威を与えていました。ただし死刑を決めることだけは許されていませんでした。22:30, 23:1を読みます。 


A. パウロはなぜ会議で主導権を握れたのか? (22:30-23:6)
1) 方向転換の経験 (22:30, 23:1)

翌日、千人隊長は、なぜパウロがユダヤ人から訴えられているのか、確かなことを知りたいと思い、彼の鎖を外した。そして、祭司長たちと最高法院全体の召集を命じ、パウロを連れ出して彼らの前に立たせた。そこで、パウロは最高法院の議員たちを見つめて言った。「兄弟たち、わたしは今日に至るまで、あくまでも良心に従って神の前で生きてきました。」

 裁かれようとしているのはパウロなのに、まるでパウロが主催者であるかのように会議の主導権を握っています。パウロの言葉に注目しましょう。「兄弟たち、わたしは今日に至るまで、あくまでも良心に従って神の前で生きてきました。」 なぜパウロが確信を持ってこう言えるのか?それは、イエスとの出会いによって、新しい人生が始まった。正しい方向性を得たと確信しているからです。パウロだけではありません。他のの弟子たちも、裁きの場に立たされても恐れず、実質的に会議の主導権をとってしまいます。ペトロとヨハネもペンテコステの出来事の後、逮捕されてサンヘドリンに引き出され、イエスを伝えてはいけなと命じられましたが、 「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」(4:19,20) と宣言し、サンヘドリンは何も出来ず釈放するしかありませんでした。イエスとの出会いを体験して新しい人生を歩み始め、神様の前に正しく歩んでいるなら何も恐れるものはありません。イエスに従って歩むという決心こそ本当に必要な「方向転換」です。それを公に言い表すことが「洗礼」です。しかし、方向転換は自分が決心するだけではまだ完成していません。神様からの働きがなければならないのです。臆病だった弟子たちがすっかり変えられたのはペンテコステの出来事でした。パウロの場合はアナニアが彼の頭に手をおいた時に、目が見えるようになり、聖霊に満たされ、洗礼を受けて、新しい歩みをはじめました。この方向転換には聖霊に満たしていただくということが不可欠なのです。


2) 冷静な状況判断 (2-6)

すると、大祭司アナニアは、パウロの近くに立っていた者たちに、彼の口を打つように命じた。パウロは大祭司に向かって言った。「白く塗った壁よ、神があなたをお打ちになる。あなたは、律法に従ってわたしを裁くためにそこに座っていながら、律法に背いて、わたしを打て、と命令するのですか。」近くに立っていた者たちが、「神の大祭司をののしる気か」と言った。パウロは言った。「兄弟たち、その人が大祭司だとは知りませんでした。確かに『あなたの民の指導者を悪く言うな』と書かれています。」パウロは、議員の一部がサドカイ派、一部がファリサイ派であることを知って、議場で声を高めて言った。「兄弟たち、わたしは生まれながらのファリサイ派です。死者が復活するという望みを抱いていることで、わたしは裁判にかけられているのです。」   

 サンヘドリンの頂点に立つ大祭司アナニアは、献金を着服して私腹を肥やすような人物で、人々から心から尊敬されるような人ではありませんでした。ペトロ、ヨハネが引き出された時にも彼が大祭司でした。パウロが「あくまでも良心に従って神の前で生きてきました。」 というのを聞いて、彼の口を打てと命じました。偽善者が、心から神様に従って歩んでいる者に対して、嘘つき!偽善者!を罰する意味でこう命じたのです。「白く塗った壁」つまり、あなたこそ神様に打たれてもおかしくない偽善者だと言い返しました。人々は唖然としました。今までこの宗教界のトップに、こんなことを言った人はなかったでしょう。彼らの抗議にパウロは、出エジプト記22章に「あなたの民の中の代表者を呪ってはならない」と書いてあったと言い、さらに「大祭司とは知りませんでした」と言うのですが、70人ほどの最高会議の議長、大祭司を本当にわからなかったということはないでしょう。話し合いの主導権を握ってしまったパウロは、自分の主張の本質=イエスの復活を、議会の二大勢力の対立を促す表現で主張したのです。これで会議はすっかり混乱に陥りましたが、パウロだけは聖霊によって冷静でいられたのです。だからパウロはその時々に効果ある言葉を発し、結局その場からローマ兵によって救出されることになります。


B. なぜ議会はパウロを追い詰めることが出来なかったのか?

1) 一致がなかった  (7-9)

パウロがこう言ったので、ファリサイ派とサドカイ派との間に論争が生じ、最高法院は分裂した。サドカイ派は復活も天使も霊もないと言い、ファリサイ派はこのいずれをも認めているからである。そこで、騒ぎは大きくなった。ファリサイ派の数人の律法学者が立ち上がって激しく論じ、「この人には何の悪い点も見いだせない。霊か天使かが彼に話しかけたのだろうか」と言った。

 ユダヤの最高法院、サンヘドリンは様々な考え方を持つ有力者の集合で、その利害は一致していませんでした。ユダヤ教の二大派閥のパリサイ派とサドカイ派は主導権争いをしていました。唯一の神を信仰しているという立派な看板を共有しながら、皆、お互いに利用しあって、自分たちの地位や名誉や財産を守ろうとしていただけでした。単にイエスやパウロが共通の敵であったというだけの人々でした。私たちの社会も同じことです。個人では立ち向かうことの出来ない大きな障害があるように見えても、それは決して一枚岩ではありません。必ず突破口を見出すことが出来ます。しかしそれには私たちにも知恵と一致が必要です。というのは私たちにとっての本当の敵は、敵と思われるような人々ではないからです。本当の敵とそれにどう立ち向かうかについては最後の部分で詳しくお話したいと思います。


2) より強い権力に邪魔された (10)

こうして、論争が激しくなったので、千人隊長は、パウロが彼らに引き裂かれてしまうのではないかと心配し、兵士たちに、下りていって人々の中からパウロを力ずくで助け出し、兵営に連れて行くように命じた。

 ローマは混乱を恐れました。パウロを守りたいからではなく治安を維持のためにパウロを保護したにすぎません。しかしこのローマの思惑によってユダヤの権威者たちは、パウロを横取りされてしまいました。もう議会としてパウロをさばくことは出来そうもありませんでしたし、出来たとしても処刑することは出来ません。この後彼らは、パウロの暗殺を企てるようになります。


C. 私たちも主の声に励まされて歩もう (23:11)

その夜、主はパウロのそばに立って言われた。「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。」(23:11)

 パウロが終始主導権を握り、この会議をこのような形で失敗に追い込んだ理由をお話してきました。パウロ自身の確信や冷静さ、周りの状況が彼の主導権を確かなものにしたわけですが、その根底には神の意志があったことを忘れてはいけません。パウロはローマに行くことが神の意志であると確信していました。そしてそれは間違いありませんでした。自分の体験、与えられている能力を惜しまず活かすことに手を抜いてはいけませんが、それだけではまだ不足なのです。
パウロはエフェソの信徒への手紙(エフェソ 6:13-18) で真理、正義、信仰、神の言葉といった神武具を身につけて、神様の意思に従えるように、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさいと勧めています。

 神の武具が必要だということは、私たちの歩みが戦いでもあるということです。そして戦いであるなら敵を知らなければなりません。イエスにとっても、ペトロにとっても、パウロにとっても、そして私たちにとっても敵はユダヤ人でもなければローマでもありません。本当の敵は目に見える者の背後にいる悪魔です。この敵に対抗できるように、神は教会に聖霊を送ったのです。“霊”に助けられなければ、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けることはできません。パウロは神の武具を紹介する直前の部分で、私たちの本当の敵を明らかにしています。 


最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。 (エフェソ 6:10-12)


 これは私たちの共同の戦いなのです。神を知らない人は本当の敵を知らないので互いにいがみ合いますが、私たちは本当の敵を知っています。しかし私たちも一致していなければ敵に立ち向かうことが出来ません。今キリストの体も当時のユダヤ教社会のように分裂し、いがみ合っている部分が見られます。教団、教派のことだけではなく、ユアチャーチというその体の一つの部分にも言えることです。私たち分裂しているわけではありません。しかし孤立している人がいる、つながりが十分ではないと思えるのです。それは敵に隙を与えるものです。一人では、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けることはできないのです。ですから誰も一人でいてはいけません。またカップル、夫婦、家族としても孤立していてはいけません。これが誰かと繋がってって欲しい、今最も切実な理由です。ミニチャーチに参加しましょうと言い続けてきました。ミニチャーチは集会ではありません。この戦いのために祈り合い、支えあう教会の中の小さなグループです。 

 パウロのような人でさえ、先行きの不安がないわけではありません。しかしイエスははっきりとパウロにご自身を表わされ「勇気を出せ」と語られました。皆さんもイエスの「だいじょうぶだよ」という声を聞くことが出来ます。いつでも、主の前に出て礼拝する時、語りかけを期待してください。これからのワーシップタイムの中でも、週日の短い一時に主に向かって礼拝する時を持ち耳をかたむけるなら、主はあなたの心に語りかけてくださいます。私たちは誰であれ、パウロのように主の声に励まされなければ、最後まで歩み通すことは出来ません。神に、イエスに、聖霊に期待しましょう。来週はペンテコステです。シリーズを休んで聖霊に満たされることについてお話しします。今この時から、聖霊に満たされて「戦う」ことができるように、期待して祈り求めましょう。


メッセージのポイント

パウロは最高法院に引き出されますが、被告とは思えない態度で会議の主導権を握りました。逆にパウロを断罪しようとした人々は分裂し混乱しました。ここから私たちは、どんな状況下でも自分の人生の主導権を握り、着実に歩む秘訣を知ることが出来ます。主に招かれ、主と共に歩んでいるという自覚を持ち、主の声を聞きながら生きること、それが私たちの歩みを確かにする秘訣です。

話し合いのために
1) パウロはなぜ会議で主導権を握れたのでしょう?
2) 私達はどのように主の声を聞くことができますか?