<メッセージノート>

2014/6/8 ペンテコステ メッセージ
聖霊に満たされる

A. 預言されていたペンテコステ
1) 旧約の預言 (イザヤ42:1-4, ヨエル3:1-5)

見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ彼は国々の裁きを導き出す。彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく暗くなってゆく灯心を消すことなく裁きを導き出して、確かなものとする。暗くなることも、傷つき果てることもないこの地に裁きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む。(イザヤ42:1-4)

その後わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し老人は夢を見、若者は幻を見る。その日、わたしは奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。天と地に、しるしを示す。それは、血と火と煙の柱である。主の日、大いなる恐るべき日が来る前に太陽は闇に、月は血に変わる。しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。主が言われたようにシオンの山、エルサレムには逃れ場があり主が呼ばれる残りの者はそこにいる。 (ヨエル3:1-5)


2) イエスの預言 (ヨハネ14:26, 27, ルカ24:45-49)


しかし、
弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。(ヨハネ14:26, 27)

そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。
エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」(ルカ24:45-49)


B. 私たちはその恵みに与ることができるのか?

1) その日に起こったこと (使徒言行録2:1-13)

五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。(使徒言行録2:1-13)



2) 私たちが期待すべきこと (使徒言行録2:43-47)

すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。(使徒言行録2:43-47)



メッセージのポイント
イエスにしっかりと従ってゆきたいと思うなら、聖霊に満たされることを求めましょう。普通の人々が聖霊に満たされる事によって教会は誕生しました。聖霊は私たちの弱さを補って、主と共に歩み続ける力を与えてくださいます。礼拝の中のワーシップタイムは聖霊に満たされることを実感できる貴重な時です。

話し合いのために
1) ペンテコステとはどのような日だったのですか?
2) 聖霊に満たされるためにはどうしたら良いのですか?

<MP3 音声>

<ビデオ> 画面をクリックすると再生が始まります

<メッセージ全文>

2014/6/8 ペンテコステ メッセージ
聖霊に満たされる

キリスト教会の記念日で一番知られているのはクリスマスです。そしてイースターも、キリスト教国ではない日本でもだいぶ知られるようになってきました。それらと同様に重要な意味を持つのに、なかなか認知度が上がらないのが「ペンテコステ」です。日本語の聖書では使徒言行録2:1に五旬祭の日とあります。ペンタゴンと呼ばれる建物があるようにペンタは5を意味する言葉で、もともと過ぎ越しの祭から数えて50日後に行われるイスラエルの重要な祭りでした。イスラエルにとって、過越は出エジプトを記念する時であり、五旬祭はシナイ山でモーセが十戒をいただいた記念日です。それはやがて小麦の収穫祭としても祝われるようになりました。イスラエルにとっては大切な律法の中心、現代の法律に例えるなら憲法が与えられた日として憶えられているわけです。十字架と復活の出来事は過越祭の時に起こり、弟子たちは復活したイエスに、聖霊に満たされることを待ち望みなさいと命じられました。子羊の血の犠牲によってエジプトから解放されたイスラエルが50日目に、彼らの歩みの基礎となる十戒を与えられたように、神様はイエスの犠牲の地が十字架で流された50日後に、イエスの弟子たちに聖霊を注いだのです。この出来事によってキリスト教会は始まりませんでした。私たちが活き活きと働いていない、不健康な状態にあるとしたら、聖霊との付き合いが上手くできていないということを疑うべきです。私たちは「消極的過ぎて聖霊のはたらく余地がない」という状態と、「積極的に聖霊の介入を求めるのだけれど、感情、感覚、思い込みで人工的な高揚感を聖霊の働きと勘違いして満足している」状態という両極端になりがちで、どちらにしても、人間が頑張り、聖霊の働きを邪魔してしまうことになってしまいます。yourchurchのyouは聖霊でもあるわけですから、私たちが本当に神様の霊に自由自在に働いていただける人、そして教会となれるように、聖書に耳を傾けましょう。


A. 預言されていたペンテコステ
1) 旧約の預言 (イザヤ42:1-4, ヨエル3:1-5)

信じる者たちの上に神の霊が注がれることは旧約聖書でも預言されていました。

見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ彼は国々の裁きを導き出す。彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく暗くなってゆく灯心を消すことなく裁きを導き出して、確かなものとする。暗くなることも、傷つき果てることもないこの地に裁きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む。(イザヤ42:1-4)

ここでイザヤはイエスが聖霊に満たされた者として現れ、世界を治めるが、それは「叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせず、傷ついた葦を折ることなく暗くなってゆく灯心を消すことなく」とあるように人間の王、宗教家には真似することの出来ない特別の仕方で、つまり神の霊によって治める、と預言しているのです。しかしその霊はイエスにだけ注がれるのではなく、彼に続く者にも注がれることをヨエルは預言しました。NIVは3章と4章を一つの章として扱っているので箇所の表記が違っています。

その後わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し老人は夢を見、若者は幻を見る。その日、わたしは奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。天と地に、しるしを示す。それは、血と火と煙の柱である。主の日、大いなる恐るべき日が来る前に太陽は闇に、月は血に変わる。しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。主が言われたようにシオンの山、エルサレムには逃れ場があり主が呼ばれる残りの者はそこにいる。 (ヨエル3:1-5)

 ここでわかることは、聖霊に満たされるということが性別や年令、地位のあらゆる制限から解放されることを意味しているということです。男だから女だから、性的少数者だから、若すぎるから、年老いているから、独身だから、結婚してしまったから、離婚してしまったから、能力が劣るから、学歴が劣るからといったことからくるハンディキャップから解放される。低い自己評価から解放されるそれが私たちのペンテコステです。


2) イエスの預言 (ヨハネ14:26, 27, ルカ24:45-49)

ペンテコステはイエスの十字架と復活から50日、復活後、その姿が見えなくなってから10日後に起こりました。イエスもまた旧約の預言者のようにペンテコステを預言していました。人として生きていた時の言葉と、復活後に弟子たちに呼びかけられた言葉が記録されています。

しかし、
弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。(ヨハネ14:26, 27)

イエスは十字架にかかられる前に「神様が私の名によって聖霊を私たちのところへ遣わされるので、あなた方には、世界の誰にも与えることの出来ない平和が与えられるのだから心配しないでいい」とおっしゃっいました。そして復活されたあとでイエスは弟子たちに「聖霊を受けるためにエルサレムで待っていなさい」と命じられました。

そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。
エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」(ルカ24:45-49)


B. 私たちはその恵みに与ることができるのか?

1) その日に起こったこと (使徒言行録2:1-13)

待っていた弟子たちに起こったことは、強烈で不思議なことでした。シナイ山でモーセが十戒を受けた時のように強い風が巻き起こり、大音響がとどろき、炎が見られました。

五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。(使徒言行録2:1-13)


 少なくとも外側からは陶酔状態に見えるようなことが起こっていました。

2) 私たちが期待すべきこと (使徒言行録2:43-47)

 私たちは、この出来事を大昔の自分とは関係のないエピソードとすることも出来ます。人工的にそのような雰囲気を作ることも難しくはありません。しかし自分の弱さを正直に認める人なら、聖霊を求めずにはいられないはずです。

すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。(使徒言行録2:43-47)


 聖霊を受けるときに起こる現象や自分の感覚に気を奪われてはいけません。異言とか預言とか奇蹟、癒やし、めったに耳にあるいは目にすることが出来ないような不思議なことでも、聖霊が働かれるなら起こるでしょう!しかし、誰かにそれが与えられ、自分には与えられなかったとしてもがっかりする必要はありません。私たちに与えられたと受け止めて喜んで下さい。自分にもと、焦ってなんとか証拠を見つけようとは思わないで下さい。それらは聖霊の賜物と呼ばれるものであって聖霊が自由に分け与えられるもので、与えられない人がいても問題はないのです。それらは聖霊に満たされた決定的な証拠ではありません。私たちは催眠術や集団心理のトリックを行おうとしているのではありません。ただ聖霊を待ち望むのです。賜物は証拠ではありません。証拠は「聖霊の実」と呼ばれるものです。それは愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。(ガラテア5:22,23) 。これらのあらわれがなければ、どんなに不思議な霊的な能力を発揮しても聖霊に満たされているとはいえません。ですからむしろこの聖霊の実が、皆さんの歩みの中で、ユアチャーチの中で力強く現されるように、聖霊の注ぎを求めましょう。


メッセージのポイント
イエスにしっかりと従ってゆきたいと思うなら、聖霊に満たされることを求めましょう。普通の人々が聖霊に満たされる事によって教会は誕生しました。聖霊は私たちの弱さを補って、主と共に歩み続ける力を与えてくださいます。礼拝の中のワーシップタイムは聖霊に満たされることを実感できる貴重な時です。

話し合いのために
1) ペンテコステとはどのような日だったのですか?
2) 聖霊に満たされるためにはどうしたら良いのですか?