<メッセージノート>

2014/7/13 使徒言行録 使徒言行録 25:13-26:32
あなたは自由ですか?


A. 支配者、権力者の不自由 (25:13-27)

数日たって、アグリッパ王とベルニケが、フェストゥスに敬意を表するためにカイサリアに来た。彼らが幾日もそこに滞在していたので、フェストゥスはパウロの件を王に持ち出して言った。「ここに、フェリクスが囚人として残していった男がいます。わたしがエルサレムに行ったときに、祭司長たちやユダヤ人の長老たちがこの男を訴え出て、有罪の判決を下すように要求したのです。わたしは彼らに答えました。『被告が告発されたことについて、原告の面前で弁明する機会も与えられず、引き渡されるのはローマ人の慣習ではない』と。それで、彼らが連れ立って当地へ来ましたから、わたしはすぐにその翌日、裁判の席に着き、その男を出廷させるように命令しました。告発者たちは立ち上がりましたが、彼について、わたしが予想していたような罪状は何一つ指摘できませんでした。パウロと言い争っている問題は、彼ら自身の宗教に関することと、死んでしまったイエスとかいう者のことです。このイエスが生きていると、パウロは主張しているのです。わたしは、これらのことの調査の方法が分からなかったので、『エルサレムへ行き、そこでこれらの件に関して裁判を受けたくはないか』と言いました。しかしパウロは、皇帝陛下の判決を受けるときまで、ここにとどめておいてほしいと願い出ましたので、皇帝のもとに護送するまで、彼をとどめておくように命令しました。」そこで、アグリッパがフェストゥスに、「わたしも、その男の言うことを聞いてみたいと思います」と言うと、フェストゥスは、「明日、お聞きになれます」と言った。

翌日、アグリッパとベルニケが盛装して到着し、千人隊長たちや町のおもだった人々と共に謁見室に入ると、フェストゥスの命令でパウロが引き出された。そこで、フェストゥスは言った。「アグリッパ王、ならびに列席の諸君、この男を御覧なさい。ユダヤ人がこぞってもう生かしておくべきではないと叫び、エルサレムでもこの地でもわたしに訴え出ているのは、この男のことです。しかし、彼が死罪に相当するようなことは何もしていないということが、わたしには分かりました。ところが、この者自身が皇帝陛下に上訴したので、護送することに決定しました。しかし、この者について確実なことは、何も陛下に書き送ることができません。そこで、諸君の前に、特にアグリッパ王、貴下の前に彼を引き出しました。よく取り調べてから、何か書き送るようにしたいのです。囚人を護送するのに、その罪状を示さないのは理に合わないと、わたしには思われるからです。」


1) 王の憂鬱

2) パウロの弁明 (6-8)




B. 身柄を拘束されていたパウロの自由


1) パウロの弁明 (26:1-11)

アグリッパはパウロに、「お前は自分のことを話してよい」と言った。そこで、パウロは手を差し伸べて弁明した。「アグリッパ王よ、私がユダヤ人たちに訴えられていることすべてについて、今日、王の前で弁明させていただけるのは幸いであると思います。王は、ユダヤ人の慣習も論争点もみなよくご存じだからです。それで、どうか忍耐をもって、私の申すことを聞いてくださるように、お願いいたします。さて、私の若いころからの生活が、同胞の間であれ、またエルサレムの中であれ、最初のころからどうであったかは、ユダヤ人ならだれでも知っています。彼らは以前から私を知っているのです。だから、私たちの宗教の中でいちばん厳格な派である、ファリサイ派の一員として私が生活していたことを、彼らは証言しようと思えば、証言できるのです。今、私がここに立って裁判を受けているのは、神が私たちの先祖にお与えになった約束の実現に、望みをかけているからです。私たちの十二部族は、夜も昼も熱心に神に仕え、その約束の実現されることを望んでいます。王よ、私はこの希望を抱いているために、ユダヤ人から訴えられているのです。神が死者を復活させてくださるということを、あなたがたはなぜ信じ難いとお考えになるのでしょうか。実は私自身も、あのナザレの人イエスの名に大いに反対すべきだと考えていました。そして、それをエルサレムで実行に移し、この私が祭司長たちから権限を受けて多くの聖なる者たちを牢に入れ、彼らが死刑になるときは、賛成の意思表示をしたのです。また、至るところの会堂で、しばしば彼らを罰してイエスを冒涜するように強制し、彼らに対して激しく怒り狂い、外国の町にまでも迫害の手を伸ばしたのです。」


2) パウロの体験談と勧め (12-23)


「こうして、私は祭司長たちから権限を委任されて、ダマスコへ向かったのですが、その途中、真昼のことです。王よ、私は天からの光を見たのです。それは太陽より明るく輝いて、私とまた同行していた者との周りを照らしました。私たちが皆地に倒れたとき、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか。とげの付いた棒をけると、ひどい目に遭う』と、私にヘブライ語で語りかける声を聞きました。私が、『主よ、あなたはどなたですか』と申しますと、主は言われました。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起き上がれ。自分の足で立て。わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしを見たこと、そして、これからわたしが示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人にするためである。 わたしは、あなたをこの民と異邦人の中から救い出し、彼らのもとに遣わす。それは、彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせ、こうして彼らがわたしへの信仰によって、罪の赦しを得、聖なる者とされた人々と共に恵みの分け前にあずかるようになるためである。』」
 
「アグリッパ王よ、こういう次第で、私は天から示されたことに背かず、ダマスコにいる人々を初めとして、エルサレムの人々とユダヤ全土の人々、そして異邦人に対して、悔い改めて神に立ち帰り、悔い改めにふさわしい行いをするようにと伝えました。そのためにユダヤ人たちは、神殿の境内にいた私を捕らえて殺そうとしたのです。ところで、私は神からの助けを今日までいただいて、固く立ち、小さな者にも大きな者にも証しをしてきましたが、預言者たちやモーセが必ず起こると語ったこと以外には、何一つ述べていません。つまり私は、メシアが苦しみを受け、また、死者の中から最初に復活して、民にも異邦人にも光を語り告げることになると述べたのです。」


3) パウロの願い (24-32)


パウロがこう弁明していると、フェストゥスは大声で言った。「パウロ、お前は頭がおかしい。学問のしすぎで、おかしくなったのだ。」パウロは言った。「フェストゥス閣下、わたしは頭がおかしいわけではありません。真実で理にかなったことを話しているのです。王はこれらのことについてよくご存じですので、はっきりと申し上げます。このことは、どこかの片隅で起こったのではありません。ですから、一つとしてご存じないものはないと、確信しております。アグリッパ王よ、預言者たちを信じておられますか。信じておられることと思います。」
 アグリッパはパウロに言った。「短い時間でわたしを説き伏せて、キリスト信者にしてしまうつもりか。」 パウロは言った。「短い時間であろうと長い時間であろうと、王ばかりでなく、今日この話を聞いてくださるすべての方が、私のようになってくださることを神に祈ります。このように鎖につながれることは別ですが。」 そこで、王が立ち上がり、総督もベルニケや陪席の者も立ち上がった。 彼らは退場してから、「あの男は、死刑や投獄に当たるようなことは何もしていない」と話し合った。 アグリッパ王はフェストゥスに、「あの男は皇帝に上訴さえしていなければ、釈放してもらえただろうに」と言った。


メッセージのポイント
イエスを主と信じる信仰は、ユダヤ教社会の中で生まれました。それはユダヤ教側から見れば分派、異端であったということです。パウロはいわれのない告発には抗議しましたが。分派であることは、はっきりと認めた上で、人々に希望を語っています。私たちは依然として少数派ですが、この社会にイエス・キリストによる希望を伝えることが出来ます。それが私たちの地上でのミッションなのです。

話し合いのために
1) 私たちは神様からどのように生きることを期待されていますか?
2) フェリクスとその妻はなぜパウロから話を聞きたいと思ったのでしょう?


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<メッセージ全文>

2014/7/13 使徒言行録 使徒言行録 25:13-26:32
あなたは自由ですか?


A. 支配者、権力者の不自由 (25:13-27)

数日たって、アグリッパ王とベルニケが、フェストゥスに敬意を表するためにカイサリアに来た。彼らが幾日もそこに滞在していたので、フェストゥスはパウロの件を王に持ち出して言った。「ここに、フェリクスが囚人として残していった男がいます。わたしがエルサレムに行ったときに、祭司長たちやユダヤ人の長老たちがこの男を訴え出て、有罪の判決を下すように要求したのです。わたしは彼らに答えました。『被告が告発されたことについて、原告の面前で弁明する機会も与えられず、引き渡されるのはローマ人の慣習ではない』と。それで、彼らが連れ立って当地へ来ましたから、わたしはすぐにその翌日、裁判の席に着き、その男を出廷させるように命令しました。告発者たちは立ち上がりましたが、彼について、わたしが予想していたような罪状は何一つ指摘できませんでした。パウロと言い争っている問題は、彼ら自身の宗教に関することと、死んでしまったイエスとかいう者のことです。このイエスが生きていると、パウロは主張しているのです。わたしは、これらのことの調査の方法が分からなかったので、『エルサレムへ行き、そこでこれらの件に関して裁判を受けたくはないか』と言いました。しかしパウロは、皇帝陛下の判決を受けるときまで、ここにとどめておいてほしいと願い出ましたので、皇帝のもとに護送するまで、彼をとどめておくように命令しました。」そこで、アグリッパがフェストゥスに、「わたしも、その男の言うことを聞いてみたいと思います」と言うと、フェストゥスは、「明日、お聞きになれます」と言った。

翌日、アグリッパとベルニケが盛装して到着し、千人隊長たちや町のおもだった人々と共に謁見室に入ると、フェストゥスの命令でパウロが引き出された。そこで、フェストゥスは言った。「アグリッパ王、ならびに列席の諸君、この男を御覧なさい。ユダヤ人がこぞってもう生かしておくべきではないと叫び、エルサレムでもこの地でもわたしに訴え出ているのは、この男のことです。しかし、彼が死罪に相当するようなことは何もしていないということが、わたしには分かりました。ところが、この者自身が皇帝陛下に上訴したので、護送することに決定しました。しかし、この者について確実なことは、何も陛下に書き送ることができません。そこで、諸君の前に、特にアグリッパ王、貴下の前に彼を引き出しました。よく取り調べてから、何か書き送るようにしたいのです。囚人を護送するのに、その罪状を示さないのは理に合わないと、わたしには思われるからです。」


1) 王の憂鬱

 アグリッパ王は憂鬱でした。王といってもローマの支配下にある小国の王です。王であるのに、ローマ帝国の役人である総督には頭が上がらないのです。一方で国内の様々な勢力は、そのバランスの上に成り立っている王を突き上げます。それが少しでも狂えば暗殺されてしまう恐れもありました。基本的に親族にも心を許すことが出来ません。ソロモンの箴言は「乾いたパンの一片しかなくとも、平安があればいけにえの肉で家を満たして争うよりよい」と言っています。あなたの憂鬱を癒やすのは、富でも、名誉でも、人間関係でもありません。神様とともにいる平安だけが王の憂鬱を癒やすことが出来るのですが、アグリッパは気付いていません。ところで皆さんも、ある意味で王なのです。土地や人民でなくても何かを支配したり、所有したりしています。また今、支配、所有していないものを自分の支配下に置きたいと考えています。この意味で私たちは「王」なのです。そして私たちもまた失う心配、得られない不満で憂鬱になります。それぞれの憂鬱は違っていても、そこから解放されるために必要なことは共通しています。神様の平和のうちに過ごすということです。神様の平安の中にいれば争いに巻き込まれることはありません。必要なことは神様に王権を返還することなのですが、ある人々にとってそれはとても困難なことなのです。しかし、王であるかぎり王の憂鬱から逃れることは出来ません。



2) パウロの弁明 (6-8)


 総督も憂鬱でした。裁きが自分の手では収まらずに、皇帝に上訴されることになるというのは、彼のキャリアの汚点となることです。しかし彼には事件の全容がつかめず、ちゃんとした報告書を作ることも出来なかったのです。これは、総督としてマイナスの評価を受けることを意味します。結局ユダヤ人のご機嫌をとる事はできませんでした。就任早々、自分の理解の及ばない、嫌な騒動に巻き込まれてしまったわけです。ユダヤの総督には、伝統的に政治家ではなく騎士、軍人が任命されていました。ローマにとっては富をもたらす属州ではなく、政情が不安定で、軍事的な意味で重要な地域だったのです。フェストゥスにとってはちゃんと治められて当然、反乱を起こされたりすれば左遷される憂鬱な職場です。彼はいわばボスであるローマ皇帝と支配下にある厄介なユダヤ人との間に挟まれた中間管理職的な憂鬱を持っていました。間に挟まれて心が休まらない悩みです。王の憂鬱は、私たちの中の悩みからくるものです。総督の憂鬱は、置かれている関係からくるものです。あなたは総督の悩みも知っているのではありませんか?会社勤めをしている人は特に身につまされるでしょうが、関係の悩みは、子供たちの中にも、ママ友の中にも、家族の中にも存在します。この憂鬱から離れたいなら、自分の真のボスが誰であるかを心に刻み続けなければなりません。


B. 身柄を拘束されていたパウロの自由


 見たところは身柄を拘束され不自由なのに、パウロの心は王や総督とは対照的に晴れやかです。イエスとの出会いがパウロに、誰も取り去ることの出来ない平安をもたらしたので、王の憂鬱はパウロにはありません。
そして自分のボスがイエスであるということを確信しているので総督の憂鬱もパウロにはありません。憂鬱を抱えた二人に「あなた方にも、イエスが与える平安を求めること、イエスに従うことによって私のように自由になってください」と語り始めます。

1) パウロの弁明 (26:1-11)

アグリッパはパウロに、「お前は自分のことを話してよい」と言った。そこで、パウロは手を差し伸べて弁明した。「アグリッパ王よ、私がユダヤ人たちに訴えられていることすべてについて、今日、王の前で弁明させていただけるのは幸いであると思います。王は、ユダヤ人の慣習も論争点もみなよくご存じだからです。それで、どうか忍耐をもって、私の申すことを聞いてくださるように、お願いいたします。さて、私の若いころからの生活が、同胞の間であれ、またエルサレムの中であれ、最初のころからどうであったかは、ユダヤ人ならだれでも知っています。彼らは以前から私を知っているのです。だから、私たちの宗教の中でいちばん厳格な派である、ファリサイ派の一員として私が生活していたことを、彼らは証言しようと思えば、証言できるのです。今、私がここに立って裁判を受けているのは、神が私たちの先祖にお与えになった約束の実現に、望みをかけているからです。私たちの十二部族は、夜も昼も熱心に神に仕え、その約束の実現されることを望んでいます。王よ、私はこの希望を抱いているために、ユダヤ人から訴えられているのです。神が死者を復活させてくださるということを、あなたがたはなぜ信じ難いとお考えになるのでしょうか。実は私自身も、あのナザレの人イエスの名に大いに反対すべきだと考えていました。そして、それをエルサレムで実行に移し、この私が祭司長たちから権限を受けて多くの聖なる者たちを牢に入れ、彼らが死刑になるときは、賛成の意思表示をしたのです。また、至るところの会堂で、しばしば彼らを罰してイエスを冒涜するように強制し、彼らに対して激しく怒り狂い、外国の町にまでも迫害の手を伸ばしたのです。」


パウロは、まず自分がどのよう者であったかということから話し始めます。彼を訴えている者たちと全く同じように、イエスとイエスに従う者たちに対して徹底的に迫害していたことを伝えます。ここでも、私たちは自分が人々に伝えるべき事の一つを知らされます。なぜ、その人にイエスを紹介したいのか、それはイエスが自分の生き方に人生最大の変化をもたらしたからです。自分とは関係のないところで、イエスがどんなに素晴らしい救い主かを神学的に説明する必要はありません。「あなたとわたしとは本質的に何も変わらない、しかしイエスとの出会いが私を根本的に変えてしまったのです。」それが、私たちが伝えるべきことです。自分に素晴らしいことが起こり、あなたにもそれが起こるという確信を伝えます。その際に私たちが忘れてはならないのが、イエスに出会う前の自分です。目の前にいる人の中に、昔の自分を見ているでしょうか?自分の生き方への後悔、それと同じ道を歩んでいる人への憐れみ、相手が自分より地位が高くても、優秀でも、富んでいても、人間的に魅力があったとしても、それが必要です。パウロはこの思いを自分のうちに留められずに、相手にイエスを紹介しているのです。語らずにいられないのです。


2) パウロの体験談と勧め (12-23)


「こうして、私は祭司長たちから権限を委任されて、ダマスコへ向かったのですが、その途中、真昼のことです。王よ、私は天からの光を見たのです。それは太陽より明るく輝いて、私とまた同行していた者との周りを照らしました。私たちが皆地に倒れたとき、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか。とげの付いた棒をけると、ひどい目に遭う』と、私にヘブライ語で語りかける声を聞きました。私が、『主よ、あなたはどなたですか』と申しますと、主は言われました。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起き上がれ。自分の足で立て。わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしを見たこと、そして、これからわたしが示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人にするためである。 わたしは、あなたをこの民と異邦人の中から救い出し、彼らのもとに遣わす。それは、彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせ、こうして彼らがわたしへの信仰によって、罪の赦しを得、聖なる者とされた人々と共に恵みの分け前にあずかるようになるためである。』」
 
「アグリッパ王よ、こういう次第で、私は天から示されたことに背かず、ダマスコにいる人々を初めとして、エルサレムの人々とユダヤ全土の人々、そして異邦人に対して、悔い改めて神に立ち帰り、悔い改めにふさわしい行いをするようにと伝えました。そのためにユダヤ人たちは、神殿の境内にいた私を捕らえて殺そうとしたのです。ところで、私は神からの助けを今日までいただいて、固く立ち、小さな者にも大きな者にも証しをしてきましたが、預言者たちやモーセが必ず起こると語ったこと以外には、何一つ述べていません。つまり私は、メシアが苦しみを受け、また、死者の中から最初に復活して、民にも異邦人にも光を語り告げることになると述べたのです。」

 自分に起こったイエスとの出会いの出来事の意味を、パウロは王に丁寧に説いています。旧約聖書が預言し、ユダヤ人が期待していた救い主はイエスだというのがパウロの結論です。「他の書物ではなく、旧約聖書だけを読み、イエスのことを思えば、あなたもそうは思いませんか」と王に勧めます。古い自分がどうだったかを知ってもらうことの必要を前に触れましたが、あと二つ伝えたい大切なことがあります。一つは、あなた自身がどのようにイエスに出会ったか?ということです。そしてもう一つは、その個人的な体験が、実は旧約聖書の教えと、新約聖書の教えに記されている神様の恵みであるということです。聖書はただ遠い昔の異国の人にだけ意味のある宗教書ではなく、私たちにとっても、今も生きて働く神様のフレッシュな言葉だということです。


3) パウロの願い (24-32)


パウロがこう弁明していると、フェストゥスは大声で言った。「パウロ、お前は頭がおかしい。学問のしすぎで、おかしくなったのだ。」パウロは言った。「フェストゥス閣下、わたしは頭がおかしいわけではありません。真実で理にかなったことを話しているのです。王はこれらのことについてよくご存じですので、はっきりと申し上げます。このことは、どこかの片隅で起こったのではありません。ですから、一つとしてご存じないものはないと、確信しております。アグリッパ王よ、預言者たちを信じておられますか。信じておられることと思います。」
 アグリッパはパウロに言った。「短い時間でわたしを説き伏せて、キリスト信者にしてしまうつもりか。」 パウロは言った。「短い時間であろうと長い時間であろうと、王ばかりでなく、今日この話を聞いてくださるすべての方が、私のようになってくださることを神に祈ります。このように鎖につながれることは別ですが。」 そこで、王が立ち上がり、総督もベルニケや陪席の者も立ち上がった。 彼らは退場してから、「あの男は、死刑や投獄に当たるようなことは何もしていない」と話し合った。 アグリッパ王はフェストゥスに、「あの男は皇帝に上訴さえしていなければ、釈放してもらえただろうに」と言った。

 それまでのパウロの話は、ローマ人のフェストゥスには難しすぎてついて行けませんでした。そこで口を挟むわけですが、パウロは言葉こそ丁寧ですが、遮ってフェストゥスに言葉を続けさせず、王に再び語り続けました。アグリッパには、パウロが短い時間で自分を説得してキリスト信者にさせようとしている、感じられるほどにストレートに訴えます。「私のようになってくれる」ことを願うとさえ言うのです。パウロは「鎖につながれている」ということは除いてと余裕の冗談のようにも聞こえる言葉を付け加えていますが、実はここに、王や総督は得ることは出来ない、パウロが得ている自由の本質が現れています。身体的な自由は王、総督にありましたが、心の自由を持っていたのはパウロの方でした。神、イエス・キリストを知り、彼に従う者になることによって心は解放されます。どんな状況にあっても、体に不自由があっても拘束されない心はイエスを通して与えられます。それこそが本質的な自由なのです。しかしパウロはその自由を、自分の解放、自己実現のために用いようとはしませんでした。私たちは自分の自由を理由に、誰かの身体的な不自由に見てみないふりをしていてもよいということではありません。なぜならイエスの下さった自由は愛に基づく自由だからです。愛するという生き方の外に自由は見いだせないからです。愛は人の苦しみや悲しみを放っておくことが出来ないからです。


メッセージのポイント
イエスを主と信じる信仰は、ユダヤ教社会の中で生まれました。それはユダヤ教側から見れば分派、異端であったということです。パウロはいわれのない告発には抗議しましたが。分派であることは、はっきりと認めた上で、人々に希望を語っています。私たちは依然として少数派ですが、この社会にイエス・キリストによる希望を伝えることが出来ます。それが私たちの地上でのミッションなのです。

話し合いのために
1) 私たちは神様からどのように生きることを期待されていますか?
2) フェリクスとその妻はなぜパウロから話を聞きたいと思ったのでしょう?