<メッセージノート>
ローマでのパウロ
A. 神様の計画の確かさ
1) ローマ到着(11-15)
三か月後、わたしたちは、この島で冬を越していたアレクサンドリアの船に乗って出航した。ディオスクロイを船印とする船であった。わたしたちは、シラクサに寄港して三日間そこに滞在し、ここから海岸沿いに進み、レギオンに着いた。一日たつと、南風が吹いて来たので、二日でプテオリに入港した。わたしたちはそこで兄弟たちを見つけ、請われるままに七日間滞在した。こうして、わたしたちはローマに着いた。ローマからは、兄弟たちがわたしたちのことを聞き伝えて、アピイフォルムとトレス・タベルネまで迎えに来てくれた。パウロは彼らを見て、神に感謝し、勇気づけられた。
2) 全ては神様によって整えられていた(16-23)
わたしたちがローマに入ったとき、パウロは番兵を一人つけられたが、自分だけで住むことを許された。三日の後、パウロはおもだったユダヤ人たちを招いた。彼らが集まって来たとき、こう言った。「兄弟たち、わたしは、民に対しても先祖の慣習に対しても、背くようなことは何一つしていないのに、エルサレムで囚人としてローマ人の手に引き渡されてしまいました。ローマ人はわたしを取り調べたのですが、死刑に相当する理由が何も無かったので、釈放しようと思ったのです。しかし、ユダヤ人たちが反対したので、わたしは皇帝に上訴せざるをえませんでした。これは、決して同胞を告発するためではありません。だからこそ、お会いして話し合いたいと、あなたがたにお願いしたのです。イスラエルが希望していることのために、わたしはこのように鎖でつながれているのです。」
すると、ユダヤ人たちが言った。「私どもは、あなたのことについてユダヤから何の書面も受け取ってはおりませんし、また、ここに来た兄弟のだれ一人として、あなたについて何か悪いことを報告したことも、話したこともありませんでした。あなたの考えておられることを、直接お聞きしたい。この分派については、至るところで反対があることを耳にしているのです。」そこで、ユダヤ人たちは日を決めて、大勢でパウロの宿舎にやって来た。パウロは、朝から晩まで説明を続けた。神の国について力強く証しし、モーセの律法や預言者の書を引用して、イエスについて説得しようとしたのである。
B. パウロがローマに連れて来られた本当の理由
1) 受け入れる人と、聞き入れない人がいる(24-28)
ある者はパウロの言うことを受け入れたが、他の者は信じようとはしなかった。彼らが互いに意見が一致しないまま、立ち去ろうとしたとき、パウロはひと言次のように言った。「聖霊は、預言者イザヤを通して、実に正しくあなたがたの先祖に、語られました。『この民のところへ行って言え。あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない。』だから、このことを知っていただきたい。この神の救いは異邦人に向けられました。彼らこそ、これに聞き従うのです。」
2) イエス・キリストを紹介し続けた(30, 31)
パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。
メッセージのポイント
イエスに出会って以来、ローマに到着するまで、パウロの人生は波乱に満ちたものでしたが、最後の地ローマでの様子はとても穏やかに描写されています。二年間という、決して長い間ではありませんでしたがじっくりと腰を落ち着けてイエスを紹介するという、パウロにとって最も楽しいことに集中出来ました。イエスに従う私たちの人生にもいろいろな季節があります。その時々に、与えられる使命を忠実に果たしてゆきましょう。
話し合いのために
1) パウロはローマで二年間、何をしていましたか?
2) ローマのユダヤ人はパウロにどのような態度を取りましたか?
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<メッセージ全文>
ローマでのパウロ
A. 神様の計画の確かさ
1) ローマ到着(11-15)
三か月後、わたしたちは、この島で冬を越していたアレクサンドリアの船に乗って出航した。ディオスクロイを船印とする船であった。わたしたちは、シラクサに寄港して三日間そこに滞在し、ここから海岸沿いに進み、レギオンに着いた。一日たつと、南風が吹いて来たので、二日でプテオリに入港した。わたしたちはそこで兄弟たちを見つけ、請われるままに七日間滞在した。こうして、わたしたちはローマに着いた。ローマからは、兄弟たちがわたしたちのことを聞き伝えて、アピイフォルムとトレス・タベルネまで迎えに来てくれた。パウロは彼らを見て、神に感謝し、勇気づけられた。
58年11月頃、船を失いマルタで足止めされた一行は、この海域が安全になる翌年2月にイタリアに向かう船に乗って、シラクサ、レギオンと寄港してナポリに近いプテリオで上陸して、ここから陸路でローマを目指します。プテリオにもイエスを信じる人々がいて、そこに7日間滞在することになります。パウロから直接教えてもらいたいことが沢山あったのでしょう。その後、ローマに向かうと途中の町までローマの仲間の数人が迎えに来てくれていました。パウロは彼らが来てくれたことを神様に感謝して、勇気を出したという最後の一文に注目しましょう。今まで、パウロの手紙と比較しながらこの使徒言行録を読んできて、ルカが描くパウロとパウロ自身の心境との違いを所々で見てきました。どちらかと言えばルカのパウロ像は自信に満ちたヒーロー的ですが、ここにはパウロの正直な気持ちが現れています。パウロは、神様に導かれているとはいえ、自分がどのようにローマの人々に迎えられるかということが心配でした。すでに書き送ったローマの信徒への手紙(56年にコリントに3ヶ月ほど滞在した時に書かれました)がどのように受け取られていたかも心配だったのでしょう。ところがローマまではまだ数日かかる宿場町までローマの信徒たちは迎えに来てくれていました。(ローマまでアピイフォルムからは3、4日、三軒茶屋という意味のトレス・タベルネからは2、3日を要します)。パウロの心配は、この歓迎に消え去りました。自分と同じようにイエスに従って歩んでいる人々が、すでにローマにいて彼の活動を支えてくれることが確信できたのです。ルカはローマ帝国を、イエスを信じる者達に対して好意的なものとして描いていますが、パウロはそれほど楽観的に見てはいませんでした。イエスを信じている人々がサポートしてくれなければローマでの働きはとても困難なものになることをパウロは知っていました。私たちの、イエスを知ってもらい、その愛を体験してもらい、ひとりでも多くの人にイエスの愛で愛する人となってもらうという働きも同様に困難なものです。だからこそ私たちには、同じイエスを見上げ、ついて行く仲間が必要なのです。私たちが互いに、互いを見て神に感謝し勇気づけられる存在であるということを覚えていて下さい。
2) 全ては神様によって整えられていた(16-23)
わたしたちがローマに入ったとき、パウロは番兵を一人つけられたが、自分だけで住むことを許された。三日の後、パウロはおもだったユダヤ人たちを招いた。彼らが集まって来たとき、こう言った。「兄弟たち、わたしは、民に対しても先祖の慣習に対しても、背くようなことは何一つしていないのに、エルサレムで囚人としてローマ人の手に引き渡されてしまいました。ローマ人はわたしを取り調べたのですが、死刑に相当する理由が何も無かったので、釈放しようと思ったのです。しかし、ユダヤ人たちが反対したので、わたしは皇帝に上訴せざるをえませんでした。これは、決して同胞を告発するためではありません。だからこそ、お会いして話し合いたいと、あなたがたにお願いしたのです。イスラエルが希望していることのために、わたしはこのように鎖でつながれているのです。」
すると、ユダヤ人たちが言った。「私どもは、あなたのことについてユダヤから何の書面も受け取ってはおりませんし、また、ここに来た兄弟のだれ一人として、あなたについて何か悪いことを報告したことも、話したこともありませんでした。あなたの考えておられることを、直接お聞きしたい。この分派については、至るところで反対があることを耳にしているのです。」そこで、ユダヤ人たちは日を決めて、大勢でパウロの宿舎にやって来た。パウロは、朝から晩まで説明を続けた。神の国について力強く証しし、モーセの律法や預言者の書を引用して、イエスについて説得しようとしたのである。
ローマに住む仲間の出迎えに励まされたパウロのローマでの生活が始まりました。裁判を待つ被告人らしいことは、番兵が一人付けられたことだけでした。施設に収容されたのではなく、自分だけで住むことを許された家にいられたのです。そして、ローマに住むユダヤ人たちに、イエスこそイスラエルの希望であることを伝えようとしています。ローマでのパウロの評判は、ユダヤや小アジアのように悪いものではありませんでした。主流派から反対されているユダヤ教の分派と見られていましたが、ローマのユダヤ人たちは、自分で聞いて判断したいと考えていたのです。そこでパウロは丁寧に時間をかけて彼らに説明を試みました。このことは私たちが人々にイエスを紹介する際に大切なことです。私たちは「私たちは正しい、あなた方は間違っている、だから私のようにイエスを信じなければ幸せになれない、不幸になる」というようなアプローチをすることは間違っています。日本での宣教は長くこのような態度でなされてきました。これが日本人に対して適切なアプローチではなかったことは、私たちが今もマイノリティーであることが証明しています。このような上から目線のアプローチは、まじめに聞いてみたいと思う人の心も閉ざしてしまいます。パウロには、この人から説明を聞いてみたいと思わせる魅力がありました。誰も「私は正しい、あなたは間違っている、私の神を信じなさい」という人から聞きたいとは思いません。その人の生活を見て素敵だなと思い、その秘密を知りたいと思うのです。急ぐ必要も、慌てる必要もありません。「今信じなければ、明日死んだら地獄行きだ」と脅迫することを宣教、伝道だと思うような人の仲間にならないでください。それは「この世でイエスを受け入れ信じなければ神の国に入るチャンスはない」という聖書を誤解した強迫観念に基づくものだからです。イエスもそんな宣教はなさいませんでした。聖書も、ノアの時代に神の忍耐にもかかわらず、従わず滅ぼされた人々に、イエスはもう一度チャンスを与えようとよみに下り、死んだ者にも福音が告げ知らされたと告げています。聖書は地上で締め切りとは言っていないのです。
B. パウロがローマに連れて来られた本当の理由
1) 受け入れる人と、聞き入れない人がいる(24-28)
ある者はパウロの言うことを受け入れたが、他の者は信じようとはしなかった。彼らが互いに意見が一致しないまま、立ち去ろうとしたとき、パウロはひと言次のように言った。「聖霊は、預言者イザヤを通して、実に正しくあなたがたの先祖に、語られました。『この民のところへ行って言え。あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない。』だから、このことを知っていただきたい。この神の救いは異邦人に向けられました。彼らこそ、これに聞き従うのです。」
物事は様々な人の意思がからみ合って進んでゆくように見えます。百人隊長とローマの意思、ユダヤ人宗教者の意思、パウロの意思。しかしそれらを超えて神の意思が働いているのだということを私たちは知っています。この神の意志にできるかぎり従おうとするのが本当のクリスチャンです。祈りとは決して神様を自分の意志に屈服させようとする、わがままな子供の泣き叫びのようなものではありません。パウロの意思とは、自分の計画を全うすることではなく神の意思に従うことでした。それはイエスが、その地上での歩みにおいて自ら示して下さったものです。イエスは十字架の待つエルサレムに向かって地上での最後の歩みを進められました。十字架は、宗教家、政治家たちにとっては反逆者、異端者の処刑であり、彼らの意志は全うされたかに見えたのです。イエスも処刑としての十字架に恐ろしさを覚えていました。だから神様に祈ったのです。「父よできることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせて下さい。」 しかしイエスはそう叫び続けたわけではありません。その後こう続けられました。「しかし、私の願いどおりではなく、御心のままに。」(マタイ26:39)全ては権力者たちの思い通りに進んでいるかのように見えましたが、それは復活のプロローグに過ぎなかったことを私達は知っています。人々にはそれぞれの思惑がありました。しかし神様の意思は、パウロをもちいて、そこに住むユダヤ人にもイエスを知るチャンスを与え、さらに当時の世界の中心であったローマから、ユダヤ人ではなく異邦人に向かってご自身を表す新しいプロジェクトの担当者としてパウロを用いることだったのです。パウロの丁寧な説明にもかかわらずユダヤ人の殆どはイエスを受け入れることが出来ませんでした。イエスの福音はもうユダヤ教の中に留まることは出来ませんでした。それはすべての人を救うという神様の計画が新しい段階に入ったことを意味します。パウロはユダヤ人のことを断罪したのではありません。神様に委ねたのです。
2) イエス・キリストを紹介し続けた(30, 31)
パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。
29節が抜けているに気付きましたか?聖書には時々そういう箇所があります。まず知っておきたいことは、元々の聖書には章も節もなかったということです。その頃には印刷の技術がなかったので、書き写す他に広める方法はありませんでした。そのようにして書き写されたものを写本 (manuscript) と呼びますが、多くが存在し、違いがあるのです。そして現代の聖書は、それら多くの写本の中から、出来るだけ信頼できるものを中心に構成されています。29節は入るとむしろ28−30節のつながりが文章的にはスムーズになるのですが、有力な写本には欠けているので、後からの付け足しの可能性が大きく、保留しています。新共同訳では後ろで紹介しています。
さて、使徒言行録の長い学びの最後の二節を考えるのですが、ずいぶんとあっさりした結びのように感じられます。裁判はどうなったのだろう?ローマで殉教したと考えられているけれど、パウロはどのような最後を迎えたのだろう?伝説にあるようにスペインにまで宣教旅行に行けたのだろうか?ルカは現代の脚本家のようにパート2、3と続けませんでした。
その生涯の大半を、あちこちに旅をして回ったパウロは、最後に一つの場所に留まり、そこに人々が自由に集まり、パウロから教えられる場所を、神様は二年限定で確保されたということです。私たちに対しても、神様は「私の言葉はここまでで十分です」と宣言しているようです。もちろん私たちはそれ以降の教会の歴史からも多くを学ぶことが出来ます。しかしそれらは、ここまでの聖書の教えの適用の成功例、失敗例であり、基本は、あくまでも66巻の旧新約聖書であるということです。私たちもこの神の言葉である聖書から生き方を学び、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストを紹介し続けましょう。
メッセージのポイント
イエスに出会って以来、ローマに到着するまで、パウロの人生は波乱に満ちたものでしたが、最後の地ローマでの様子はとても穏やかに描写されています。二年間という、決して長い間ではありませんでしたがじっくりと腰を落ち着けてイエスを紹介するという、パウロにとって最も楽しいことに集中出来ました。イエスに従う私たちの人生にもいろいろな季節があります。その時々に、与えられる使命を忠実に果たしてゆきましょう。
話し合いのために
1) パウロはローマで二年間、何をしていましたか?
2) ローマのユダヤ人はパウロにどのような態度を取りましたか?