<メッセージノート>

2014/8/17 message note 旧約聖書の人物シリーズ最終回:ヨブ
ヨブの絶望と希望 (ヨブ記・フィリピ1:20-25)


A. 人間の現実

1) 苦難によって生きる意欲を失う(7章)

7:1 この地上に生きる人間は兵役にあるようなもの。傭兵のように日々を送らなければならない。2 奴隷のように日の暮れるのを待ち焦がれ/傭兵のように報酬を待ち望む。3 そうだ/わたしの嗣業はむなしく過ぎる月日。労苦の夜々が定められた報酬。… 15 わたしの魂は息を奪われることを願い/骨にとどまるよりも死を選ぶ。16 もうたくさんだ、いつまでも生きていたくない。ほうっておいてください/わたしの一生は空しいのです。17 人間とは何なのか。なぜあなたはこれを大いなるものとし/これに心を向けられるのか。18 朝ごとに訪れて確かめ絶え間なく調べられる。19 いつまでもわたしから目をそらされない。唾を飲み込む間すらもほうっておいてはくださらない。20 人を見張っている方よ/わたしが過ちを犯したとしても/あなたにとってそれが何だというのでしょう。なぜ、わたしに狙いを定められるのですか。なぜ、わたしを負担とされるのですか。21 なぜ、わたしの罪を赦さず/悪を取り除いてくださらないのですか。今や、わたしは横たわって塵に返る。あなたが捜し求めてもわたしはもういないでしょう。


2) 友人の苦しみに鈍感(3人の友人たちの言葉)


B. 神様の下さる希望


1) 苦難に隠れた神様の意図(1・2章)


1:6 ある日、主の前に神の使いたちが集まり、サタンも来た。7 主はサタンに言われた。「お前はどこから来た。」「地上を巡回しておりました。ほうぼうを歩きまわっていました」とサタンは答えた。8 主はサタンに言われた。「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」9 サタンは答えた。「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。10 あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。彼の手の業をすべて祝福なさいます。お陰で、彼の家畜はその地に溢れるほどです。11 ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」12 主はサタンに言われた。「それでは、彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。ただし彼には、手を出すな。」サタンは主のもとから出て行った。


2) イエス・キリストを紹介し続けた(30, 31)


33: 19 苦痛に責められて横たわる人があるとする。骨のうずきは絶えることなく20 命はパンをいとい/魂は好みの食べ物をすらいとう。21 肉は消耗して見えなくなり/見えなかった骨は姿を現し22 魂は滅亡に/命はそれを奪うものに近づいてゆく。23 千人に一人でもこの人のために執り成し/その正しさを示すために遣わされる御使いがあり24 彼を憐れんで「この人を免除し、滅亡に落とさないでください。代償を見つけて来ました」と言ってくれるなら25 彼の肉は新しくされて若者よりも健やかになり/再び若いときのようになるであろう。26 彼は神に祈って受け入れられ/歓びの叫びの内に御顔を仰ぎ/再び神はこの人を正しいと認められるであろう。27 彼は人々の前でたたえて歌うであろう。「わたしは罪を犯し/正しいことを曲げた。それはわたしのなすべきことではなかった。28 しかし神はわたしの魂を滅亡から救い出された。わたしは命を得て光を仰ぐ」と。29 まことに神はこのようになさる。人間のために、二度でも三度でも。30 その魂を滅亡から呼び戻し/命の光に輝かせてくださる。

37: 21 今、光は見えないが/それは雲のかなたで輝いている。やがて風が吹き、雲を払うと22 北から黄金の光が射し/恐るべき輝きが神を包むだろう。23 全能者を見いだすことはわたしたちにはできない。神は優れた力をもって治めておられる。憐れみ深い人を苦しめることはなさらない。24 それゆえ、人は神を畏れ敬う。人の知恵はすべて顧みるに値しない。


C. 「生きるとはキリスト」(フィリピ1:20-26)


20 そして、どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。21 わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。22 けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。23 この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。24 だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。25 こう確信していますから、あなたがたの信仰を深めて喜びをもたらすように、いつもあなたがた一同と共にいることになるでしょう。26 そうなれば、わたしが再びあなたがたのもとに姿を見せるとき、キリスト・イエスに結ばれているというあなたがたの誇りは、わたしゆえに増し加わることになります。


メッセージのポイント

神様は私たちに命を与えて下さいました。私たちがこの世界で他人のために生き、神様の下さる希望を人々に伝えるためです。神様の下さる希望は、永遠の命です。この世界でどんな苦しみがあっても、この希望が打ち負かされることはありません。でも、人間は弱く、試練によって心が麻痺してしまい、神様を見失うことがあります。神様はそんな人間の弱さを知っていて、共に支え合う仲間を与えて下さっています。神様は、私たち一人一人が、弱っている仲間に神様の希望を思い起こさせるという役割を与えています。

話し合いのために
1)神様はなぜサタンがヨブに不幸をもたらすことを許したのですか?
2)私たちはどうやってお互いを支え合うことができますか?


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<メッセージ全文>

2014/8/17 message note 旧約聖書の人物シリーズ最終回:ヨブ
ヨブの絶望と希望 (ヨブ記・フィリピ1:20-25)

今日は旧約聖書の人物シリーズ最終回です。取り上げるのはヨブです。ヨブ記の大部分は、主人公ヨブの絶望の叫びです。なぜこの世界には苦しみがあるのか。人は何のために生きるのか。ヨブの叫びは、時代も文化も超えて人間が問い続けてきた問いでもあります。正直に言って、私自身は、本気で生きていたくないと思うほどの絶望を味わったことはありません。でも、親しい友人の自死を通して、絶望が人の命を本当に奪ってしまうということを経験しました。生きることの苦しさを乗り越えるために、苦しくても生きたいと思わせてくれる何かはないのか、考えました。そこで出会ったのが聖書、イエス様でした。この本(聖書)は、どんなに苦しんでいる友人を前にしても、私たちが自信を持って「希望はある」と宣言できる根拠です。ただ、聖書は、その神様の希望が私たち人間側の問題によってしばしば見失われてしまうということも教えてくれています。

A. 人間の現実

1) 苦難によって生きる意欲を失う(7章)

7:1 この地上に生きる人間は兵役にあるようなもの。傭兵のように日々を送らなければならない。2 奴隷のように日の暮れるのを待ち焦がれ/傭兵のように報酬を待ち望む。3 そうだ/わたしの嗣業はむなしく過ぎる月日。労苦の夜々が定められた報酬。… 15 わたしの魂は息を奪われることを願い/骨にとどまるよりも死を選ぶ。16 もうたくさんだ、いつまでも生きていたくない。ほうっておいてください/わたしの一生は空しいのです。17 人間とは何なのか。なぜあなたはこれを大いなるものとし/これに心を向けられるのか。18 朝ごとに訪れて確かめ絶え間なく調べられる。19 いつまでもわたしから目をそらされない。唾を飲み込む間すらもほうっておいてはくださらない。20 人を見張っている方よ/わたしが過ちを犯したとしても/あなたにとってそれが何だというのでしょう。なぜ、わたしに狙いを定められるのですか。なぜ、わたしを負担とされるのですか。21 なぜ、わたしの罪を赦さず/悪を取り除いてくださらないのですか。今や、わたしは横たわって塵に返る。あなたが捜し求めてもわたしはもういないでしょう。

 ヨブは生きることに疲れ切っていました。なぜ苦しみばかりのこの世界に生きていなければいけないのか、もう生きていたくないと言ってます。別の箇所では、生まれてこなかった方が良かったとも言っています。突然家族を皆失い、自分自身も病に苦しみ、神様なぜですか、と叫んでも、神様はヨブに答えません。だから、もうこの世界に留まっていても意味がない、もう生きていたくない、と思うのは、人間の感情として自然だと思います。生きることがあまりに難しい状況に置かれると、私たちは生きる意味を失い、死ぬ方が楽だと思うようになってしまいます。それが人間の現実なのだと思います。ヨブは、神様を信じていても、苦難によって神様を見失い、死ぬことを望んでしまいました。そのヨブのことが物語として聖書に含まれていること自体、私たちにとって大きな慰めです。神様は私たちがそういう弱い者だということを知っているということです。
 ヨブ記には、もう一つの人間の現実が描かれています。それは、ヨブの友人たちの態度に表れています。


2) 友人の苦しみに鈍感(3人の友人たちの言葉)

 ヨブ記は、ヨブの嘆きが大半を占めるといいましたが、ヨブの3人の友人たちとヨブの対話の形式で書かれています。3人の友人たちは、ヨブを励まそうとしますが、反対にヨブを怒らせ、悲しませます。それは、彼らが因果応報の原則に従って、ヨブを責めたからです。彼らは、ヨブが試練に遭っているのは、ヨブ自身が何か悪いことをしたために、その罰を受けているからだと主張しました。ヨブは彼らに反論しますが、そのヨブの反論を受けてさらに彼らはヨブを非難しました。このヨブの友人たちと同じように、私たちは、他人の身に突然不幸がふりかかるのを見て、自分とは無関係の出来事と片付けてしまう傾向を持っています。友人の悩みに鈍感で、安易な言葉で傷つけてしまうことがあります。苦しんでいる人にとって、その苦しみを他人が分かち合ってくれないことは、苦しみをさらに大きくします。ヨブは、友人との対話によって、ますます神様への絶望を深めてしまいました。
 
 さて、そもそも神様はなぜヨブをこれほど苦しめたのでしょうか?ヨブ記の始まりの部分に戻って、神様がヨブに苦難を与えた理由を考えてみたいと思います。


B. 神様の下さる希望


1) 苦難に隠れた神様の意図(1・2章)


1:6 ある日、主の前に神の使いたちが集まり、サタンも来た。7 主はサタンに言われた。「お前はどこから来た。」「地上を巡回しておりました。ほうぼうを歩きまわっていました」とサタンは答えた。8 主はサタンに言われた。「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」9 サタンは答えた。「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。10 あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。彼の手の業をすべて祝福なさいます。お陰で、彼の家畜はその地に溢れるほどです。11 ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」12 主はサタンに言われた。「それでは、彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。ただし彼には、手を出すな。」サタンは主のもとから出て行った。

 この後、サタンはヨブの子供たちを殺し、財産である家畜を外国人に略奪させました。そして、2章で同じような神様とサタンのやり取りが繰り返された後、次にサタンはヨブの体中に皮膚病を起こします。これが、ヨブに苦難がもたらされた事情です。神様は、「ヨブほどの者はいないだろう」とサタンに言っています。神様は、ヨブのことを特に信頼していたからこそ、サタンがヨブを苦しめることを許したということです。苦しみは、何か悪いことをした罰として与えられるのではなく、神様がその人を信頼しているから、あえて苦しみを与えられているということです。神様は、子を思う親のように、時に厳しい試練を与えて私たちを鍛えられます。それぞれの成長の度合いに応じた試練を与え、それを私たちが乗り越えて、神様との関係を深めるためにです。
 でも、だからと言って、私たちはどんな苦しみも喜んで受け入れられるほど、強くありません。ヨブと同じように、自分は正しく、神様に間違いがあるかのように神様を糾弾します。そんな私たちの弱さと罪を神様はよく知っています。ヨブの嘆きが書き連ねられたヨブ記が聖書に含まれていること自体もその証拠です。サタンの攻撃によって、神様を疑い、見失ってしまったヨブを、神様は赦しました。ヨブ記の最後には、神様ご自身がヨブに語りかけ、ヨブを元通りの境遇に戻し、ハッピーエンドで物語は終わります。でも、ヨブ記の面白いところは、その前にもう一人の人物が登場する点です。ヨブと3人の友人たちの対話の後、エリフという名の若者が登場して、反論を始めます。このエリフの言葉を聞いてみましょう。


2) イエス・キリストを紹介し続けた(30, 31)


33: 19 苦痛に責められて横たわる人があるとする。骨のうずきは絶えることなく20 命はパンをいとい/魂は好みの食べ物をすらいとう。21 肉は消耗して見えなくなり/見えなかった骨は姿を現し22 魂は滅亡に/命はそれを奪うものに近づいてゆく。23 千人に一人でもこの人のために執り成し/その正しさを示すために遣わされる御使いがあり24 彼を憐れんで「この人を免除し、滅亡に落とさないでください。代償を見つけて来ました」と言ってくれるなら25 彼の肉は新しくされて若者よりも健やかになり/再び若いときのようになるであろう。26 彼は神に祈って受け入れられ/歓びの叫びの内に御顔を仰ぎ/再び神はこの人を正しいと認められるであろう。27 彼は人々の前でたたえて歌うであろう。「わたしは罪を犯し/正しいことを曲げた。それはわたしのなすべきことではなかった。28 しかし神はわたしの魂を滅亡から救い出された。わたしは命を得て光を仰ぐ」と。29 まことに神はこのようになさる。人間のために、二度でも三度でも。30 その魂を滅亡から呼び戻し/命の光に輝かせてくださる。

 「千人に一人でも執り成す人がいて、苦しんでいる人のために代償を捧げるなら、その人は救われるだろう」とエリフは言っています。私たちは、どんなに神様を疑い、神様を非難した人に対しても、この「千人の一人」の執り成す人がいるのを知っています。イエス・キリストです。イエス様は、私たちが神様に背を向けていた時に、「この人をこのまま滅ぼさないで下さい」と神様に願い出て下さいました。そして、それだけではなくて、本当は私たちが負うはずだった罪の償いのために、自分の命を捧げて下さいました。だから、私たちがどんなに神様を疑って、神様を非難したとしても、神様は私たちに救いの道を用意して下っています。ヨブが苦しみ嘆いて、神様を呪ったとしても、神様はもうヨブを赦す準備をしていました。私たちが苦しみの中で神様を信頼できず、疑いの叫びをあげることを、神様は禁じていません。ただ次のことを覚えているべきです。エリフの言葉の最後の部分です。


37: 21 今、光は見えないが/それは雲のかなたで輝いている。やがて風が吹き、雲を払うと22 北から黄金の光が射し/恐るべき輝きが神を包むだろう。23 全能者を見いだすことはわたしたちにはできない。神は優れた力をもって治めておられる。憐れみ深い人を苦しめることはなさらない。24 それゆえ、人は神を畏れ敬う。人の知恵はすべて顧みるに値しない。

 もし、私たちが生きているこの世界の状況だけに目を注ぐなら、確かに希望はないように見える時があります。ヨブの物語はハッピーエンドですが、実際は、この世界に生きているあまりに多くの人が、苦しみの中で悲しんだまま命を落としています。神様を信じれば必ず何でもうまくいくということもありません。病気は癒されることも癒されないこともあります。突然大切な人が奪われることもあります。その理由を私たちは知ることはできません。でも私たちは、「今は雲に隠れていて見えないが、確かにそこで輝いている光」を知っています。それは神様が約束して下さっている永遠の命です。神様は、私たちを愛して、私たちの罪を赦し、永遠に共にいることを望んで下さいました。この世界は、神様によって良いものとして造られたのに、人間の罪によって悪く変えられ、苦しみが耐えません。苦しまなくていいことで苦しみ、苦しまなくていい人が苦しむのは、人間の責任です。自ら死を選ぶ人が絶えないのは、神様の愛と希望がその人に見えなくなってしまったからです。自死をした人の近しい特定の誰かが悪いというのでは決してありません。社会全体で人間の罪によって神様の愛が阻まれているということです。でも、そんなこの世界に、神様は来て下さいました。イエス様は私たちがこの世界で味わう苦しみを全て知っています。イエス様ご自身が十字架で極限の苦しみを味わいました。だから私たちは、この世界で苦しんでも、希望を失うことはありません。そして、その希望を、どんな苦しみの中にいる人にも伝え続けることができます。また、それが私たちがこの世界に生まれ、生かされている目的でもあります。神様の愛を人々に伝え、この世界に神様の国の希望を広めるという役割です。パウロはこのことを、「生きるとはキリスト」という言い方をしています。フィリピ1:20-26を読んでみましょう。


C. 「生きるとはキリスト」(フィリピ1:20-26)


20 そして、どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。21 わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。22 けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。23 この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。24 だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。25 こう確信していますから、あなたがたの信仰を深めて喜びをもたらすように、いつもあなたがた一同と共にいることになるでしょう。26 そうなれば、わたしが再びあなたがたのもとに姿を見せるとき、キリスト・イエスに結ばれているというあなたがたの誇りは、わたしゆえに増し加わることになります。

 パウロの言うように、私たちも、いつかこの世を去ってイエス様と永遠に共にいられることを楽しみにしています。私たちには、神様の家という帰るべき場所があります。だから、この世界を生きづらく感じるのは当然です。パウロも「この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい」と言っています。でもパウロは命のある限り、この世界でやるべきことがあると確信していました。それは、「あなたがたのために必要」だということです。それは、「生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるように」という言葉にも現れています。パウロにとって「生きるとはキリスト」でした。生きるということは、神様の国の希望を人々に伝え、人々を愛したイエス様と同じ道をたどるということです。それには、イエス様が味わった苦しみを味わうことも伴います。私たちは、他人のために、神様のために、今生かされているということです。そして、それによって私たちの間で神様の愛が実現され、神様の国がもたらされるためです。
 神様は、ヨブが友人3人のために祈った後、彼の境遇を戻したと書かれています。また、若者エリフがヨブの前に現れて、神様の口を代弁している点にも、意味があります。神様が登場して一気に問題が解決されるのではなく、エリフという人間がヨブを励ましたということです。神様との関係を正しく保っている者が、神様を見失った人を助けることができます。弱っている人を励ますことができるのは、本当の希望をその人に指し示す人です。私たち一人一人が、神様の愛によって生かされていると自分で実感し、それによって他の人々を愛するなら、私たちの間で神様の国が実現されていきます。人間の罪によって歪められているこの世界が、私たちの周りから少しずつ変わっていきます。弱っている人を支えましょう。弱っている時は支えてもらいましょう。そのために私たちはここに集まっています。
 来月からは新約聖書のルカによる福音書を読んでいく予定です。私たちの最高の友人、イエス・キリストの言葉を直接読んでいきたいと思います。


メッセージのポイント

神様は私たちに命を与えて下さいました。私たちがこの世界で他人のために生き、神様の下さる希望を人々に伝えるためです。神様の下さる希望は、永遠の命です。この世界でどんな苦しみがあっても、この希望が打ち負かされることはありません。でも、人間は弱く、試練によって心が麻痺してしまい、神様を見失うことがあります。神様はそんな人間の弱さを知っていて、共に支え合う仲間を与えて下さっています。神様は、私たち一人一人が、弱っている仲間に神様の希望を思い起こさせるという役割を与えています。 

話し合いのために
1)神様はなぜサタンがヨブに不幸をもたらすことを許したのですか?
2)私たちはどうやってお互いを支え合うことができますか?