<メッセージノート>
労苦=喜び?
A. 労苦する喜び
1) 仕える喜びに生きる (1:24-26)
24 今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。
25 神は御言葉をあなたがたに余すところなく伝えるという務めをわたしにお与えになり、この務めのために、わたしは教会に仕える者となりました。
26 世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画が、今や、神の聖なる者たちに明らかにされたのです。
2) すべての人がキリストに結ばれることを目指す (1:27-29)
27 この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。
28 このキリストを、わたしたちは宣べ伝えており、すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています。
29 このために、わたしは労苦しており、わたしの内に力強く働く、キリストの力によって闘っています。
B. 伝える喜び、伝える苦しさ
1) キリストを悟るとは? (2:1-3)
1 わたしが、あなたがたとラオディキアにいる人々のために、また、わたしとまだ直接顔を合わせたことのないすべての人のために、どれほど労苦して闘っているか、分かってほしい。
2 それは、この人々が心を励まされ、愛によって結び合わされ、理解力を豊かに与えられ、神の秘められた計画であるキリストを悟るようになるためです。
3 知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。
2) パウロの心配と願い (2:4,5)
4 わたしがこう言うのは、あなたがたが巧みな議論にだまされないようにするためです。
5 わたしは体では離れていても、霊ではあなたがたと共にいて、あなたがたの正しい秩序と、キリストに対する固い信仰とを見て喜んでいます。
メッセージのポイント
キリストの体である教会はすべての人がキリストに結ばれるために働いています。この体の一つ一つの部分である私たちは、支えあうために苦労することを喜んで、互いに仕え合う存在です。教会の実態はキリストを頭とする私たちの集合にほかなりません。純粋な御言葉に不純物を混入させるような企てを防ぎ、互いのキリストに対する固い信仰を見て喜び続けたいものです。
話し合いのために
1) 私たちがここにいる目的は何ですか?
2) どうしたらキリストを悟ることが出来ますか?
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<メッセージ全文>
労苦=喜び?
A. 労苦する喜び
1) 仕える喜びに生きる (1:24-26)
24 今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。
25 神は御言葉をあなたがたに余すところなく伝えるという務めをわたしにお与えになり、この務めのために、わたしは教会に仕える者となりました。
26 世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画が、今や、神の聖なる者たちに明らかにされたのです。
教会とは何でしょう?屋根に十字架のついている建物、ステンドグラス、パイプオルガン。普通はそういうイメージを持たれています。そして多くに人にとっては自分には関係ないところ、変わった人が行くところ、クリスマスに入ってみたいかなという場所です。でもこの手紙が言っている通り、教会とは「キリストの体」です。「イエス・キリストを中心とした大きな家族」ということです。実は建物ではなく、ここに集う私たちが教会そのものなのです。この手紙を書いたパウロは、キリストが頭である体の中で、キリストの意思を、体のそれぞれの部分に当たる各地で集う人々に伝えて教え導く、神経のような役割を果たした人です。そのパウロが「あなた方のために苦しむことを喜びとする、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たす」と言っていることから、私たちは重要な事を教えられます。この世界に教会が存在し、その役割を忠実に果たそうとするなら労苦は絶えません。反対、迫害、無理解、誤解です。キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。と言っていますが、キリストの苦しみが不完全だったという意味ではありません。キリストが天に戻られた後も、体である教会は完成を目指して進み、その道程はゴールに近づけば近づくほど困難になる。その困難を担っているのだという意味です。この体に連なる者は多かれ少なかれ、パウロと同じ苦しみを味わいます。それは大切な人々だからこそ、反対や誤解があって苦労しても確かな喜びを与えたいという、家族なら当然の思いです。教会は外から見る人にとっては、実際の親戚、家族でもないのになぜそれほど親密なのか理解できないかもしれません。様々な宗教団体が問題を起こすので、洗脳されているのではないか?実の家族をなおざりにしているのではないか?と疑う人もいるでしょう。けれども今では、家族の中でさえ、相手のために喜んで自分が労苦するということが失われつつあります。それは、人間関係の中心に自分を置こうとするからです。イエス・キリストを中心とする家族は、実の家族(教会の集まりに来ていようといまいと)はもちろん、目に見える一つの教会のメンバーも、世界中の教会のメンバーも含まれています。そしてまだそれが自分の家族だと思えない人々を招き入れようとしています。人が神によって創造されたと信じるなら、すべての人が大きな家族の一員です。憎まなければならない敵など本当はいないのです。しかし、反対に神を信じないなら、自分の好きなように生きるしかありません。自分が一番、そして自分と利害が一致する者だけが味方です。私、私の家族、私の民族、私の国、私と同じ主義の国々。イエスの教えが敬遠されるのは、私たちに「愛し合いなさい」と迫るからです。当時のユダヤの宗教家たちには、自分たちが見下し、罪人とみなしていた人々や、異邦人を愛しなさい、というイエスに従うことは出来ませんでした。イエスの言う愛は好きですという感情ではありません。「その人のために労苦を惜しみません。命すら惜しみません。」という意志です。あなたはそのように誰かを愛していますか?愛しあうとは、お互いに労苦を惜しまないということです。そのような人間関係にこそ、変わることのない深い喜びがあるのです。
2) すべての人がキリストに結ばれることを目指す (1:27-29)
27 この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。
28 このキリストを、わたしたちは宣べ伝えており、すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています。
29 このために、わたしは労苦しており、わたしの内に力強く働く、キリストの力によって闘っています。
なぜこの労苦が喜びでさえあるのか?それは労苦が多くても、伝えた人々が受け入れ、イエスに結ばれることによって、その人に何があっても変わることのない幸せが訪れることを見ることができるからです。イエスが自分にとってどのような方なのかを知ることが、本当の幸せのはじまりです。人はキリストに結ばれると「完全」になります。これをすべての人に伝えたい、というのがイエスの願いです。ここでいう神様の計画とは、イエスとしてご自身が来られ、神に背を向けて生きる人間の罪を全て背負い、十字架で苦しみ死ぬことでした。このことによって背を向けていた者が立ち返り神イエスに従って生きる者となる。それが神様の計画です。だからイエスは、私に従ってきなさいと言われるのです。あなたにイエスを紹介したいのは、あなたがイエスを知って完全な者となるためです。
人は誰も努力や経験で「完全な者」になることは不可能です。ただイエスにつながることだけが人を完全にすると聖書は言うのです。次の部分を読んで、聖書の教える「完全な者」について考えてゆきましょう。
B. 伝える喜び、伝える苦しさ
1) キリストを悟るとは? (2:1-3)
1 わたしが、あなたがたとラオディキアにいる人々のために、また、わたしとまだ直接顔を合わせたことのないすべての人のために、どれほど労苦して闘っているか、分かってほしい。
2 それは、この人々が心を励まされ、愛によって結び合わされ、理解力を豊かに与えられ、神の秘められた計画であるキリストを悟るようになるためです。
3 知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。
私たちが「完全」になれるのは、「完全な方」イエスに結ばれるからです。私たち自身が信じた途端に、神のように変身してパーフェクトマンになるというのではなく、様々な弱さ、欠けを持ったまま、しかしイエスにつながることによって「完全な者」とされるのです。最近のコンピュータはハードディスクドライブを持たず、それに比べれば小さなメモリーしか持っていません。アプリケーションもファイルも最小限しか持てません。クラウドと呼ばれる、どこかの国に置かれた巨大なサーバにファイルを置いているのです。ですからコンピュータ自体の性能ではなく、クラウドサービスの質や容量に依存しています。それ以前にインターネットに繋がっていなければ、できることは少ないのです。私たちの大切な写真や書類が自分のPCではなくクラウドの中にあるように、知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。
キリストを悟るというのは、個人的、哲学的、感情的、抽象的なことではありません。具体的にキリストに結びついて、キリストの体の一部となることです。これは世界中のどんなクラウドよりも信頼できるネットワークです。ユアチャーチはこのネットワークに繋がる数多くのコネクターの一つなのです。
2) パウロの心配と願い (2:4,5)
4 わたしがこう言うのは、あなたがたが巧みな議論にだまされないようにするためです。
5 わたしは体では離れていても、霊ではあなたがたと共にいて、あなたがたの正しい秩序と、キリストに対する固い信仰とを見て喜んでいます。
私たちの完全は、私たち自身に由来するのではなくイエスに結び合わされていることから保証されているのですから、この結びつきが損なわれるなら「永遠の幸せ」を手放すことになってしまうでしょう。それは、時として「巧みな議論にだまされて」という形で起こるのです。私たちは、神様を全く信じない人々や、イエスを否定する人からのものであれば、警戒して議論に巻き込まれることはないでしょう。むしろ危険は教会の中に入り込み、イエスの教えとは異なる歩みを勧める人々です。コロサイの教会で実際にどのような問題が起こったのかは次回お話する予定ですが、この危険は現代の方が深刻です。それはもっと巧妙な形で現れているからです。モルモンやエホバの証人なら福音とは程遠いことがすぐわかります。けれども、今キリスト教会を変質させようとしている人々は、「イエスは真の神であり真の人です。イエスの十字架が唯一の救いです。イエスは死からよみがえられました」と少なくとも言葉ではそう信じており教えている人々です。イエスは「人々を私の弟子としなさい」と言われましたが、人々を自分の弟子にしようと試みる人がいます。「繁栄の神学」と呼ばれる、献金をすればするほど祝福される、それを求めることが信仰であるかのように教える人もいます。自分の道徳的基準をイエスのものとして教え人を裁く人もいます。だからこそ、私たちはイエスの言葉に耳を傾け、人々とつながっていることが大切なのです。誰でも繋がっていればいいというものでもありません。友達が多ければいいというわけでもありません。インターネットを介してつながっている相手が信頼できるクラウドでなければならないように、確かな、信頼できる関係を築きましょう。それはイエス・キリストを中心とした人間関係にほかなりません。あなたが、イエスを知らない人と良い関係を結びたいならイエスを紹介すればよいのです。あなたがまだイエスについて知らないなら、どうかイエスを知ろうとしてみてください。イエスは、あなたをここに誘ってくれた人の心の宝なのです。それをあなたの宝にもしてもらいたくてお誘いしたのです。どうぞ私たちの家族となってください。十分確かめた上で結構ですから。
メッセージのポイント
キリストの体である教会はすべての人がキリストに結ばれるために働いています。この体の一つ一つの部分である私たちは、支えあうために苦労することを喜んで、互いに仕え合う存在です。教会の実態はキリストを頭とする私たちの集合にほかなりません。純粋な御言葉に不純物を混入させるような企てを防ぎ、互いのキリストに対する固い信仰を見て喜び続けたいものです。
話し合いのために
1) 私たちがここにいる目的は何ですか?
2) どうしたらキリストを悟ることが出来ますか?