<メッセージノート>

2014/10/5 コロサイの信徒への手紙 2:6-19
真に霊的であるとは?


A. 神様が私たちにしてくださったこと

6 あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れた のですから、キリストに結ばれて歩みなさい。
7 キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。

8 人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません。

9,10 キリストの内には、満ちあふれる神性が、余すところなく、見える形をとって宿っており、あなたがたは、キリストにおいて満たされているのです。キリストはすべての支配や権威の頭です。

1) キリストはどのような方か? (9, 10)


2) 神様がイエス・キリストとしてしてくださったこと(11-15)


11 あなたがたはキリストにおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け、
12 洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。
13 肉に割礼を受けず、罪の中にいて死んでいたあなたがたを、神はキリストと共に生かしてくださったのです。神は、わたしたちの一切の罪を赦し、
14 規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。
15 そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。



B. 霊的に生きる

1) 霊なら何でも良いわけではない (8,16-19a)


8 人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません。

16 だから、あなたがたは食べ物や飲み物のこと、また、祭りや新月や安息日のことでだれにも批評されてはなりません。
17 これらは、やがて来るものの影にすぎず、実体はキリストにあります。
18,19a 偽りの謙遜と天使礼拝にふける者から、不利な判断を下されてはなりません。こういう人々は、幻で見たことを頼りとし、肉の思いによって根拠もなく思い上がっているだけで、頭であるキリストにしっかりと付いていないのです。



2) 真に霊的に生きよう (6,7,19b)


6 あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。
7 キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。

19 この頭の働きにより、体全体は、節と節、筋と筋とによって支えられ、結び合わされ、神に育てられて成長してゆくのです。


メッセージのポイント
 聖書が伝える「霊」という言葉の意味は、一般に考えられているものとは異なります。聖書の教えとは相容れない「霊的」なことが教会に入り込んで混乱を起こすことは、昔も今も変わりません。霊的とは三位一体の神に忠実に従うことであって、一般に霊的と呼ばれるような物事に関心を持つことではないのです。 


話し合いのために
1) キリストはどのようなお方ですか?
2) 一般に考えられている「霊的」と聖書の教えるそれとはどう違いますか?

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<メッセージ全文>

2014/10/5 コロサイの信徒への手紙 2:6-19
真に霊的であるとは?

 聖書は私たちが「霊的」であることを勧めています。しかしその言葉は誤解され混乱を招いています。私は皆さんが霊的であることを望みますが、その前にこの誤解を解いておきたいと思います。皆さんは「霊的な人」とはどのような人を指すと思っていますか? それはよく言われる霊感が強いといったようなことではありません。この誤解は教会の中にも入り込み、異言や預言をする、それを解き明かす、幻を見るような人、癒やしを行う人などが霊的な人だという印象を持たれています。それらは本当に神様からのものであるならば、聖霊によって与えられた賜物であり良いものです。しかし、それはその人が霊的であることの証明にはなりません。コロサイの教会にも現代の教会にも、自分の見た幻や預言をして教会を混乱させる人々がいるのです。偽預言者は旧約の時代から存在していました。このような人々は、今日の聖書のテキストによれば、全く霊的ではなく、むしろ頭であるキリストにしっかり繋がっていない人々です。
今日のテキストは、本当に霊的であるとはどういうことなのかを私たちに教えてくれます。始めに6節から10節までを読みます。

A. 神様が私たちにしてくださったこと

6 あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れた のですから、キリストに結ばれて歩みなさい。
7 キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。

8 人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません。

9,10 キリストの内には、満ちあふれる神性が、余すところなく、見える形をとって宿っており、あなたがたは、キリストにおいて満たされているのです。キリストはすべての支配や権威の頭です。

1) キリストはどのような方か? (9, 10)


 今朝、最初に注目したいのは、神様の全てがキリストのうちに満ち溢れているという9節と、私たちはそのキリストによって満たされていて、キリストは全ての支配や権威の頭だという10節です。イエス・キリストのうちには神様の全ての性質が、しかも見える形、つまり私たちが分かる形で宿っているのです。私たちはイエスにつながることによって、私たちの内にも神様の全てが豊かに宿っている。だから、本当に霊的な人とは、聖霊の助けによってしっかりと頭であるキリストに付いている人のことなのです。
この事はただ、その人の大きな喜びや安心となるだけではなく、その人を取り巻く社会にも良い影響を与えることができる、ということが10節でわかります。
 私たちがそのように霊的であるならば、本来キリストのもとになければならない、全ての支配、権威が、今は神様に背を向けて人々を苦しめている世界を変えてゆく力となれるのです。


2) 神様がイエス・キリストとしてしてくださったこと(11-15)


イエスにつながるためには、イエスが実際に私たちのためにしてくださったことをよく知る必要があります。11節から15節を読んで知りたいと思います。

11 あなたがたはキリストにおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け、
12 洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。
13 肉に割礼を受けず、罪の中にいて死んでいたあなたがたを、神はキリストと共に生かしてくださったのです。神は、わたしたちの一切の罪を赦し、
14 規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。
15 そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。

 ユダヤ教では割礼を受けることが神様への従順の印でした。しかしそれは内実の伴わない表面上の従順のしるしとなってしまっていました。十字架で苦しまれ復活されたイエスに従う決心をしたということは、自分勝手な生き方を捨て、キリストとともに歩む道を選んだということです。イエスはその記念として聖餐式を、告白のしるしとして洗礼を私たちに定めて、割礼を過去のものとし、天に帰られたのです。本来ちっとも霊的ではない、つまり神様が内側に住んでいただくのに相応しくない私たちを、このキリストに付くことによって、私たちの乏しさ、罪深さにもかかわらず、来て満たしてくださったのです。この満たしは十字架に付けられ死んで三日目によみがえられたイエスに連なる以外には与えられることはありません。
 イエスに連なり真に霊的な人々にとって人間的な支配や権威は恐れる必要のないものになってしまったのだと、パウロはここで宣言しています。わかっていただけましたか、本当に霊的な人とは、生きている限りイエスに従って生きていこうと歩んでいるあなたのことなのです。霊感が強くても弱くても、特別な賜物が与えられていても、いなくても、あなたは聖霊に満たされた「霊的な人」なのです。


B. 霊的に生きる

1) 霊なら何でも良いわけではない (8,16-19a)


8節をもう一度、そして16節から19節a までお読みします。


8 人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません。

16 だから、あなたがたは食べ物や飲み物のこと、また、祭りや新月や安息日のことでだれにも批評されてはなりません。
17 これらは、やがて来るものの影にすぎず、実体はキリストにあります。
18,19a 偽りの謙遜と天使礼拝にふける者から、不利な判断を下されてはなりません。こういう人々は、幻で見たことを頼りとし、肉の思いによって根拠もなく思い上がっているだけで、頭であるキリストにしっかりと付いていないのです。


 8節で哲学と呼ばれているものがどのようなものであったかということにはいろいろな説がありますが、それは今「哲学」と呼ばれているものを否定すべきだということではありません。コロサイの教会で人々に悪い影響を与え混乱させていたのは人間の言い伝えに基づいた、人々の心をキリストから引き離す教えであり、世を支配する霊から来たもの、キリストに従うものではないとパウロは警告しています。これらの影響を受けた人々が、もっともらしい謙遜の作法、天使を礼拝する、あるいは天使が行う礼拝に参加する、などといったイエスが求めもしなかった宗教的戒律を人々に押し付け、自分は神からの幻を見てそれを命じているのだと自分を権威であるかのように主張していたようです。そしてそっくりそのままのことが現代のキリスト教会の中にも存在しているのです。
 私たちは、偽りの霊に従う者にだまされずに、本当に霊的な者でありたいと思います。それは、キリストに従う者であること、頭であるキリストにしっかりと付いている者であることです。

2) 真に霊的に生きよう (6,7,19b)


6,7節をもう一度、そして19節の後半の部分を読みます。


6 あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。
7 キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。

19 この頭の働きにより、体全体は、節と節、筋と筋とによって支えられ、結び合わされ、神に育てられて成長してゆくのです。

 最初の提案は、6節にあるキリストに結ばれて歩みなさい、ということです。簡単に言うならキリストに結ばれたことはゴールではなく、これからも今まで生きてきた社会の中で歩み続けるということです。特別の霊的な世界に入ったのだから、体は社会の中にあっても霊は別なところにいるということではありません。喜び、悲しみ、怒り、あるいは苦労して歩いてきた世界から離れ去るのではなく、来た道から続く道を行くのです。喜び、悲しみ、苦労は続くということです。しかし歩むのは昔の自分ではありません。キリストによって新しくされた霊的な自分です。
 7節と19節後半によれば、新たな道は成長の道です。しっかりとキリストに根を下ろしているので必要な力には不足せず、霊的な人は霊的に成長するのです。しかも一人だけでやり遂げなければならない孤独な作業ではありません。互いに支えられ、結び合わされ、神に育てられるのです。なぜ神様はこれほどまでに良くしてくださるのでしょう? 私たちを誰よりも愛していてくださるからです。これほど感謝なことがあるでしょうか? だから、わたしたちは礼拝を通して感謝し続けましょう。感謝を忘れれば私たちは高慢になるしかありません。感謝しながらずっとイエスに従ってゆきましょう。


メッセージのポイント
 聖書が伝える「霊」という言葉の意味は、一般に考えられているものとは異なります。聖書の教えとは相容れない「霊的」なことが教会に入り込んで混乱を起こすことは、昔も今も変わりません。霊的とは三位一体の神に忠実に従うことであって、一般に霊的と呼ばれるような物事に関心を持つことではないのです。 


話し合いのために
1) キリストはどのようなお方ですか?
2) 一般に考えられている「霊的」と聖書の教えるそれとはどう違いますか?