<メッセージノート>

2014/10/12 コロサイの信徒への手紙 2:20-3:11
古い人と新しい人


A. 世に属している「古い人」は

1) 人の基準に縛られる (2:20-23)


20 あなたがたは、キリストと共に死んで、世を支配する諸霊とは何の関係もないのなら、なぜ、まだ世に属しているかのように生き、
21 「手をつけるな。味わうな。触れるな」などという戒律に縛られているのですか。
22 これらはみな、使えば無くなってしまうもの、人の規則や教えによるものです。
23 これらは、独り善がりの礼拝、偽りの謙遜、体の苦行を伴っていて、知恵のあることのように見えますが、実は何の価値もなく、肉の欲望を満足させるだけなのです。


2) 神の基準を求めない (3:5-8)


5 だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。
6 これらのことのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下ります。
7 あなたがたも、以前このようなことの中にいたときには、それに従って歩んでいました。
8 今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。



B. 神の国に属している「新しい人」は

1) 神の国を求める (3:1-4, 9-10)


3:1 さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。
2 上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。
3 あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。
4 あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。

9 互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、
10 造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。



2) 人種、国籍、身分、性指向性などあらゆる壁を超えられる(3:11)


11 そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。


メッセージのポイント
 私たちの罪の性質とは、原語の意味する「的外れ」が良く言い表しているように、するべきでないことをし、するべきことをしないというものです。その原因は神様につながっていないことにあるのですが、つながっているつもりでも的外れに生きているということが起こるので、時々自分を観察する必要があるのです。



話し合いのために
1) 聖書の言う新しい(古い)人とは?
2) 私たちはどのようにして新しい人になれるのですか?

<MP3 音声>

<ビデオ> 画面をクリックすると再生が始まります

<メッセージ全文>

2014/10/12 コロサイの信徒への手紙 2:20-3:11
古い人と新しい人


 新しい人と古い人の違いについてお話します。年齢のことを行っているのではありません。今日のテキストは、本当にイエスを信じて従っているなら、その人は“新しい人”だと言っています。あなたは“新しい人”でしょうか?そうでなければ、どうしたら“新しい人”になることが出来るのでしょうか?そのためには、まず新しい人と古い人の違いを知ることから始めましょう。

A. 世に属している「古い人」は

1) 人の基準に縛られる (2:20-23)


20 あなたがたは、キリストと共に死んで、世を支配する諸霊とは何の関係もないのなら、なぜ、まだ世に属しているかのように生き、
21 「手をつけるな。味わうな。触れるな」などという戒律に縛られているのですか。
22 これらはみな、使えば無くなってしまうもの、人の規則や教えによるものです。
23 これらは、独り善がりの礼拝、偽りの謙遜、体の苦行を伴っていて、知恵のあることのように見えますが、実は何の価値もなく、肉の欲望を満足させるだけなのです。

 ここに古い人の第一の特徴が示されています。それは人の規則や教えによる戒律に縛られている人です。まだイエスを知らない人々に向けられている言葉ではありません。イエスを信じていると自分では思っているのに、イエスを信じる者にふさわしい歩みをしていない人々に向けられています。どのようにふさわしくないのでしょうか?
 もう世を支配する霊とは手を切ったはずなのに、それに影響を受けて世に属しているかのように生きている、ということが問題なのです。戒律に縛られて不自由だというのです。戒律は神様からの教えではありません。人の規則や教えだとパウロは見破っています。これらの教えのやっかいなのは、それが一見、神の意志にかなっているかのように見えることです。霊的な礼拝、見習うべき謙遜、体の苦行は誰にでも知恵のあることのように見えます。しかしそれらは神様を満足させることはできません。自分の肉の欲望を満足させるだけで、無意味なだけでなく、有害なものなのです。自分とは関係ないと思わないで下さい。新しくされた人も油断していると古くなってしまいます。イエスに従って行きたいなら見た目のアンチエージングもいいですが、魂の方もお忘れなくと言いたいところです。
 私たちは当時のパリサイ人や律法学者を責めることは出来ません。私たちも同じ傾向を持っているからです。安息日を守りなさいという十戒の真意は、神様との時間を何よりも大切にし、人を際限なく働かせてはいけません、というものだったのです。しかし、彼らは具体的にどのような行動をすればよいのかというところに関心を持ち、事細かく守るべきことの体系を作り上げてしまいました。イエスはそこから人々を解放し、神様との本当の関係を取り戻すために来て下さったのです。それなのに、今でもキリスト教会の中に、人の規則や教えは持ち込まれています。日曜日は全てを犠牲にして教会に行かなくてはいけないし、礼拝以外のことをするべきではない、と教える人もいます。私がいた教派では飲酒、喫煙は罪と教えられていました。しかしそういったことは人の教えであって、イエスのものではありません。自分勝手な人の基準に惑わされてはいけません。私が知っている牧師の中には、Black Sabbathのファンがいる一方で、Dreams come true は俗的だからCDを持っていたら処分しなさいという人までいるのです。もちろんその二人は友達ではありません。もし互いを知っていても友達にはなれないでしょう。牧師の基準を信じてはいけません。それは沢山ありすぎます。そうではなく牧師が指し示すイエスを信じましょう。メッセージを聞くだけではなく、自分でそのテキストを読み、祈って考えましょう。あるいは誰かと話し合ってみましょう。そうすれば神様の基準が少しづつ明らかになってきます。


2) 神の基準を求めない (3:5-8)


5 だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。
6 これらのことのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下ります。
7 あなたがたも、以前このようなことの中にいたときには、それに従って歩んでいました。
8 今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。


 第二の特徴、神の基準を求めないということは、第一の人の基準に縛られるということと連動しています。コインの裏表のように切り離せません。人の基準に縛られていては、決して神の基準を求めることはありません。しかしどんなに人の基準に縛られていた人でも、イエスに従い続けることによって、神の基準を求める人になれ、人の基準の束縛からも逃れることが出来ます。
 人間の、自分の欲望に従った様々な行いは、神様を悲しませ、人を傷つけるものです。それは、自分の求めるべきではないものを求める行為=貪欲によって引き起こされます。この貪欲こそ神様が最も忌み嫌われる<偶像礼拝>なのだとパウロは教えています。偶像礼拝を勘違いしてはいけません。仏像の前に頭を下げる、神社で手を合わせるといったことが本質ではないのです。しかし教会の中でも勘違いしている人がいます。昔「仏教の葬式に行ったら、焼香(offer [burn] incense)してはいけない、それは偶像礼拝だから」とアドヴァイスされたことがありました。このような教えこそ、戒律に縛られたひとりよがりの礼拝の要求です。十戒の中の偶像礼拝の禁止は、神様を人生の中心にしないことを戒めるものです。どんなにクリスチャンらしく、礼拝したり、祈ったり、善い行いをしたり、生活の中から異教的なものを締め出そうとしても、心が神様に向いていないなら、その人は偶像礼拝者です。私たちの“偶像礼拝傾向”は、8節でわかります。わたしたちは神様にではなく、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉にコントロールされてしまうことがあるのです。これを自分の力で捨てることは出来ません。それではどうしたら偶像礼拝傾向から離れてゆくことが出来るのか?次の部分から確かめてゆきましょう。


B. 神の国に属している「新しい人」は

1) 神の国を求める (3:1-4, 9-10)


3:1 さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。
2 上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。
3 あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。
4 あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。

9 互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、
10 造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。


 人の基準に従う人は、自分を守る壁を作ろうとします。かつてのユダヤ人は神様に真剣に従いたいという願いから出発したのに、聖くあるために、聖くない者との間に高い壁を作って安心しようとしました。しかし神様は行いではなく心を見られる方です。神様は、戒律を守るか守らないかによって、聖いか汚れているかを区別する方ではないのです。私たちに求められているのは、境界線を作って、そこから出ないようにすることではありません。むしろ私たちに求められているのは、神から来る良いものを求め続けることです。人と差別化を図っている暇はありません。イエスがせっかく取り壊した壁を、再びせっせと築き上げることが教会の使命ではありません。
 人間の基準という偽りを人に押し付けるなら、それは嘘つきです。それによって人を罪人呼ばわりするなら、私たちは依然として古い人のままであると言わなければなりません。そんな古い人は脱ぎ捨てて、イエスに従う新しい人となることを求めましょう。


2) 人種、国籍、身分、性指向性などあらゆる壁を超えられる(3:11)


11 そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。


 壁を作ってしまいがちの私たちと、壁を軽々と越えたイエスとは対照的です。人々は神様に与えられた戒めを、人間的な戒めにすり替えて、自分たちの好みにあった信仰的スタイルを守り、人にも守らせようとしました。そして守らない人は徹底的に排除しました。自分の正しさを証明するために、自分のようではない人を罪人と定めたのです。
 けれどもイエスには、この高い壁は意味がありませんでした。ユダヤ人が罪人と見下す人々の宴会に喜んで出席しました。律法を守れないことが罪なのではありません。心が神様と離れていることが罪なのです。この時代、イエスだけがほんとうの罪の意味をご存知でした。イエスは、自分の考えを神様の考えであるかのように教える人々が、実は自分の地位、名誉、利益を守ることを神様よりも大切にしていることを見抜いていました。
 私たちはこのイエスに従って歩いているのではありませんか?あらゆる隔ての壁を崩すために、イエスと共に歩んでいるのではありませんか?当時、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別が問題であったように、今私達が直面しているのは人種、国籍、身分、性指向性などの壁です。これらの壁を打ち壊すことの出来るのはイエスに従う者たちです。
 それなのに、まるでエルサレムのように高い壁を張り巡らして、その中心の神殿に神様がいてくださると信じているかのように、パリサイ派でもないのに旧約聖書から引いてきた好みの節を積み上げて壁を築き、壁の外側にいる人々を罪人とレッテルを貼ることに、自分の生涯を費やして良いのでしょうか?こちらからも越えられない高い壁を作ってみたら、イエス様はこちら側にはおられなかったということにならないように、ただイエスの後を従ってゆくことに心を砕きましょう。


メッセージのポイント
 私たちの罪の性質とは、原語の意味する「的外れ」が良く言い表しているように、するべきでないことをし、するべきことをしないというものです。その原因は神様につながっていないことにあるのですが、つながっているつもりでも的外れに生きているということが起こるので、時々自分を観察する必要があるのです。 


話し合いのために
1) 聖書の言う新しい(古い)人とは?
2) 私たちはどのようにして新しい人になれるのですか?