<メッセージノート>

2014/10/19 メッセージノート ルカによる福音書 7:36-50
罪の多さ=愛の大きさ?


A. 間違った罪のとらえ方 (36-39)

36 さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。37 この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、38 後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。39 イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。


B. 聖書の教える罪の赦し

1. 罪=神様への借金 (40-43)


40 そこで、イエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。41 イエスはお話しになった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。42 二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」43 シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。



2. 罪の大小は重要ではない (44-47)


44 そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。45 あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。46 あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。47 だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」


C. 主を愛することに集中する (47-50)

47 だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」 48 そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。49 同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。50 イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。


メッセージのポイント
 自分がどれほど神様に背を向けて自分勝手に生きているか、誰も完全に理解することはできません。だから、他人の罪の大小を計れるはずもありません。ただ聖書が教えているのは、その全ての罪を、神様は既に帳消しにして赦して下さっているということです。神様は、罪の大小よりも、私たちの示す愛の大小を見ておられます。赦された罪人は、主を愛することによって強く変えられ、神様と人を愛する者に変えられていきます。


話し合いのために
1) この女性は、なぜイエス様にこのようなことをしたのでしょうか?
2) もっと主を愛するためには、どうすればよいのでしょうか?

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<メッセージ全文>

2014/10/19 メッセージノート ルカによる福音書 7:36-50
罪の多さ=愛の大きさ?


 先月からルカによる福音書を読んでいます。今日読む箇所は、前回に引き続いて、イエス様が故郷ガリラヤ地方で教えていた時の出来事です。イエス様の噂は広まり、イエス様を敵視する人々も増えていました。最初に36-39節を読みます。

A. 間違った罪のとらえ方 (36-39)

36 さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。37 この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、38 後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。39 イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。

 このファリサイ派の人は、イエス様の噂を聞いて、どんな人か確かめようとして自分の家に招待しました。(ファリサイ派というのは、ユダヤ教の中の一派の名前で、律法を研究して忠実に守ることを最重要視し、人々の生活に影響力を持っていたと言われています。)この人とイエス様が食事をしている最中に、女性が一人入ってきました。当時、教えを聞いたり、お金を施してもらうために、他人が人の家に勝手に出入りすることは珍しくなかったそうです。この女性は、今読んだところから考えると、恐らく町中の人に「罪深い女」として知られていました。遊女だったのかもしれませんが、断定はできません。ただ、少なくともこの女性が罪人だと言われていた一つの理由は、人間の偏見によるものです。昔も今も、人が蔑むような職業に就く人は、子供のときからその職業に憧れてなっているわけではありません。ほとんどの場合、他に選択肢がなく、生きるために仕方なくそこで働いています。また、職業ではなくても、社会的に堕落した生活をしていると思われるような人でも、そこに至るまでに様々な苦しい人間関係や出来事があったはずです。その生活で自分の人生は大満足だと思っている人はいないでしょう。むしろ、昔も今も、人間の目から見て「あの人はまともな生活をしていない」と言われている人ほど、生きる苦しさと虚しさを感じているのかもしれません。だからといって、社会的に犯罪とされる行為が赦されるわけではありませんし、傷つけられた人の悲しみが消えるわけではありません。ただ、人間は分かりやすい基準で人を見下したがります。目に見える範囲で、他人の正しさ、あるいは間違いを評価します。このファリサイ派の人は、この女性を罪深いと決めつけて、自分は彼女と違って正しいと思っています。罪は汚れなので、罪人と関わりを持つことは自分の清さを保つ妨げになるという考え方が普通でした。この女性がなぜ罪深いとされていたのか分かりませんが、それは結局人間の勝手な基準による評価です。実は、そんな風に自分の価値観を絶対化して、自分を正しいとすること自体が罪です。人間に、一人の人間も完全に正確に理解することはできません。だから私たちは、自分勝手な基準によって自分も他人も評価することはできません。聖書は私たちがもっと気にするべき基準を教えています。神様の基準です。この神様の基準によっては、誰一人正しいとされる人はいません。続きを読みます。


B. 聖書の教える罪の赦し

1. 罪=神様への借金 (40-43)


40 そこで、イエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。41 イエスはお話しになった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。42 二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」43 シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。


 聖書の教える人間の罪は、神様に対する借金と考えることができます。神様に対する借金とは、神様に背を向けて自分勝手に生きているということです。私たちは皆、神様に良いものとして造られました。でも、その神様を見ずに、自分の願いのおもむくままに、なぜ生まれてきたのかも考えないで勝手に生きようとします。その生き方が自分も他人も幸せにできないと気が付いても、相変わらず自分の願いを優先して、神様を忘れてしまいます。神様に仕えると言いながら、これだけは取り上げないでほしい、手放したくないと無意識に思っているものがあって、気付いた時に愕然とすることがあります。神様という中心を見失って自分勝手に生きる傾向は、生きている限りなくなりません。それが聖書の教える人間の罪です。人間には一人の人間も理解し尽くせませんが、神様には何も隠せる人はいません。人間の基準より、神様の基準の方が厳しいに決まっています。もし神様が人間の間違いを一つ一つ追及する方だとしたら、間違いのない人はいません。だから、神様に借金がない人はいないと言えます。そして、神様に対する借金を返済できる人はいません。たとえ話の中で、50デナリオンの人も500デナリオンの人も借金を返済できません。このファリサイ派の人はそのことを忘れていたか、気が付いていませんでした。自分自身の罪を認めず、他人を不当に責めていました。でも、イエス様のたとえ話はそこで終わりません。金貸しは両方の借金を帳消しにしたと言われています。この、借金が帳消しにされたということが、この分厚い聖書全体が私たちに教えていることです。イエス・キリストは、私たちの借金を帳消しにするために、十字架で苦しみました。私たちがこれまでに神様を悲しませてきたことも、これから神様を裏切ることも、その全ての償いを、イエス様が十字架で果たして下さいました。たとえ話の最後に、イエス様は更に、帳消しにされた借金の額の大きい方、つまりより多くの罪を赦された者の方が、より神様を愛するだろうと言っています。これは私たちにどういう意味があるのでしょうか。続きを読みます。


2. 罪の大小は重要ではない (44-47)


44 そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。45 あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。46 あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。47 だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」

 イエス様がここで強調していることは何でしょうか?この女性がイエス様に対してしたことです。女性がファリサイ派の人より大きな愛をイエス様に見せたということです。女性とファリサイ派の人、どちらが神様の目により多くの罪を犯していたかは実際分かりません。イエス様が注目しているのは、どちらの罪がより大きいかではなく、どちらの愛がより大きいかです。イエス様の十字架によって全ての罪が赦された今、神様が注目するのは、私たちが今までどれくらい悪いことをしてきたかではなく、これからどれくらい愛するかです。借金が帳消しにされたなら、元々の借金の額の大小を比べて何になるでしょうか。また、借金の全貌は人生を通して誰にも分かりません。イエス様と歩む中で、新たな借金の山に気が付くことはよくあります。私たちは皆、神様に借金があるという意味で同じです。イエス様を信じているかいないかの違いは、その借金が全て帳消しにされたと知っているかいないかの違いだけです。私たちは皆、イエス様と歩んでいるかいないかに関係なく、神様の前にはただ赦された罪人です。自己中心性という全ての罪のおおもとの罪によって、神様との関係を壊し、人との関係を壊す存在です。一度それを知っても、常に神様の前に正直になって、神様の無条件の愛に自分を照らし出してもらい、聖霊に変えてもらわなければ、自己中心性という罪に飲まれてしまいます。だから私たちは、自分の罪を数えることも、他人の罪を数えることもせず、ただ主の前に正直になって、主を愛することに力を注ぎたいと思います。もう一度47節から、今日の最後の部分を読みます。



C. 主を愛することに集中する (47-50)

47 だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」 48 そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。49 同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。50 イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。

 この女性は、イエス様の足元で泣きながらイエス様にすがり、イエス様の足を涙できれいにし、足にキスをして香油を塗りました。何でもいいから、この人にだけはすがっていたい、この人には受け入れてほしいという気持ちが伝わってきます。イエス様は、この女性の行動を喜びました。私たちがイエス様を愛する、主を愛するということも同じことです。ありのままでただ主を求めるということです。他人と比べて一喜一憂するのではなく、自分と主の関係に集中するということです。私たちの自己中心性という罪は、油断すればすぐに自分も他人も傷つけ、神様を悲しませます。だから、私たちは、この女性のように、ただイエス様の足元にすがっていくことしかできません。でも、その度に、私たちはイエス様がこう語るのを聞くことになります。「あなたの罪は赦された。あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と。主を悲しませ、でも赦され、主に喜んでもらえるように歩んでいくこと、それが主を愛するということです。主の悲しまれることを繰り返しながら、その度に主に教えていただいて、少しずつ、主の悲しみと喜びに敏感になっていきます。また、主を愛そうとする者に、主は聖霊を送って助けて下さいます。聖霊によって、私たちは神様の思いを知ることができるようになります。そして、私たちは罪に振り回されず、神様の愛によって力強く生きていくことができるように変えられていきます。

 今日の箇所の前半では、帳消しにされた借金の額が大きい方が、帳消しにしてくれた金貸しをより多く愛するということが言われていました。それは言い換えるなら、罪の多い者の方が罪を赦してくれた神様をより多く愛する、ということになります。赦された罪の大きさと神様への愛の大きさは比例するということです。でも、それは単純に罪深い方がいいということではありません。罪を赦された経験が多い方がいいということです。私たちは、自分の罪の大きさがどれほどのものか、その判断も神様に委ね、赦して下さっている神様の愛を信じて期待するだけです。イエス様はもう既に私たちの全ての罪のために、十字架で苦しんで命を捧げて下さいました。どんな時でも、そのイエス様の愛を求めて生きることが、私たちの目を開かせ、力を与えます。どうぞ、神様の大きな愛の前に、何も心配しないで出て行って下さい。神様は私たちを喜んで迎えて、聖霊を注いで、必要なことを教えて下さいます。


メッセージのポイント
 自分がどれほど神様に背を向けて自分勝手に生きているか、誰も完全に理解することはできません。だから、他人の罪の大小を計れるはずもありません。ただ聖書が教えているのは、その全ての罪を、神様は既に帳消しにして赦して下さっているということです。神様は、罪の大小よりも、私たちの示す愛の大小を見ておられます。赦された罪人は、主を愛することによって強く変えられ、神様と人を愛する者に変えられていきます。


話し合いのために
1) この女性は、なぜイエス様にこのようなことをしたのでしょうか?
2) もっと主を愛するためには、どうすればよいのでしょうか?