<メッセージノート>

2014/11/9 マラキ書1-2章 シリーズ「絶望から希望へ」1/2
私たちの罪深い現実


A. 預言者マラキとその時代 (1:1)

託宣。マラキによってイスラエルに臨んだ主の言葉 (1:1)


B. 罪は


1) 神様を信頼しないこと (1:2-6)


あなたたちは、自分の目で見はっきりと言うべきである主はイスラエルの境を越えて大いなる方である、と。子は父を、僕は主人を敬うものだ。しかし、わたしが父であるならわたしに対する尊敬はどこにあるのか。わたしが主人であるならわたしに対する畏れはどこにあるのかと万軍の主はあなたたちに言われる。わたしの名を軽んずる祭司たちよあなたたちは言う我々はどのようにして御名を軽んじましたか、と。(1:5, 6)



2) 神に対する裏切りとして現れる (7-14)


あなたたちは、わたしの祭壇に汚れたパンをささげておきながら我々はどのようにしてあなたを汚しましたか、と言う。しかも、あなたたちは主の食卓は軽んじられてもよい、と言う。あなたたちが目のつぶれた動物をいけにえとしてささげても、悪ではないのか。足が傷ついたり、病気である動物をささげても悪ではないのか。それを総督に献上してみよ。彼はあなたを喜び、受け入れるだろうかと万軍の主は言われる。今、神が恵みを与えられるようひたすら神に赦しを願うがよい。これは、あなたたちが自ら行ったことだ。神はあなたたちの誰かを受け入れてくださるだろうかと万軍の主は言われる。(1:7-9)


3) 人に対する裏切りとして現れる (2:10-17)


我々は皆、唯一の父を持っているではないか。我々を創造されたのは唯一の神ではないか。なぜ、兄弟が互いに裏切り我々の先祖の契約を汚すのか。ユダは裏切りイスラエルとエルサレムでは忌まわしいことが行われている。まことに、ユダは主が慈しんでおられる聖なるものを汚し、異教の神を信じる娘をめとっている。(2:10, 11)
わたしは離婚を憎むとイスラエルの神、主は言われる。離婚する人は、不法でその上着を覆っていると万軍の主は言われる。あなたたちは自分の霊に気をつけるがよい。あなたたちは裏切ってはならない。あなたたちは、自分の語る言葉によって主を疲れさせている。それなのに、あなたたちは言うどのように疲れさせたのですか、と。あなたたちが悪を行う者はすべて、主の目に良しとされるとか主は彼らを喜ばれるとか裁きの神はどこにおられるのか、などと言うことによってである。(2:16, 17)



C. 罪に生き続ける者の結末 (2:1-9)

祭司たちよ、今あなたたちにこの命令が下される。もし、あなたたちがこれを聞かず、心に留めず、わたしの名に栄光を帰さないなら、と万軍の主は言われる。わたしはあなたたちに呪いを送り、祝福を呪いに変える。いや既に呪いに変えてしまった。これを心に留める者があなたたちの間に一人もいなかったからだ。(2:1, 2)
だが、あなたたちは道を踏みはずし教えによって多くの人をつまずかせレビとの契約を破棄してしまったと万軍の主は言われる。わたしも、あなたたちを民のすべてに軽んじられる価値なき者とした。あなたたちがわたしの道を守らず人を偏り見つつ教えたからだ。(2:8, 9)


メッセージのポイント
神様の意思を知りながら、それに背を向けて生きる姿勢を罪といいます。神様と人類との契約は信頼関係に基づいて結ばれたものでした。そこから離れた結果として、今の世界の悲惨を見ることが出来ます。そのまま突き進めば、待っているのは完全な破滅です。2500年前からすでに預言者はそのような危機意識を持っていたのです。神様は私たちに希望を備えてくださいました。しかしそれを受け取るためには自分の罪の現実を受け止める必要があります。


話し合いのために
1) マラキは人々に何を伝えたかったのでしょうか?
2) 本当に人類は神様に見捨てられてしまったのでしょうか?

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<メッセージ全文>

2014/11/9 マラキ書1-2章 シリーズ「絶望から希望へ」1/2
私たちの罪深い現実


 町はハロウィーンの大騒ぎが終了して、気の早いところではクリスマスデコレーション、イルミネーションが見られるようになりました。教会ではクリスマスイヴのキャンドルライトサーヴィスの前に、アドヴェントと呼ばれる4回の特別な日曜礼拝を行います。クリスマスを待ち望むアドヴェントは、私たちの心、人間の歴史が暗闇のような状態から、輝きに満ちた光に変わる時です。今週は、良いアドヴェントを過ごすことが出来るように、それ以前の暗闇、私たちが置かれている絶望的な状況を直視したいと思います。愉快なことではありませんが、それをすれば光の明るさをもっとよく実感できるはずです。

A. 預言者マラキとその時代 (1:1)

託宣。マラキによってイスラエルに臨んだ主の言葉 (1:1)

 マラキはイエスの誕生から500年位前の預言者です。彼の前の時代、イスラエルはバビロニアに征服され、希望のない時代でした。バビロニアの支配が終わりバビロニアの首都バビロンに囚われていた民の指導者たちが国に帰ると、彼らは神殿の再建を行います。神殿を再建すれば、イスラエルの栄光は再び輝き繁栄がやってくると信じて熱意を持って、この事業に取り組み完成させました。ハガイやゼカリヤによって指導された事業です。詳しく知りたい人はハガイ書、ゼカリヤ書を読んで下さい。しかし、神殿は完成しても、神様に従うという信仰の本質が取り戻されたわけではありませんでした。結局人々は自分たちの繁栄を求めていたのです。その結果彼らが期待していたようなことは全く起こりませんでした。結局、バビロニアを倒したペルシャに支配されつづけていました。人々は自分たちの信仰の間違いを棚に上げて、希望を失い、さらに神様から遠ざかっていきます。マラキはそのような時代に、神様に立てられた預言者です。人々の心をもう一度、神様に立ち返らせようと預言したのです。それは民の罪深い現実を鋭く指摘した厳しいものであると同時に、それでも救いはあるのだという希望に満ちたものでした。ただし、今日の部分は前半で、その希望はまだ見えてきません。ぜひ来週もあわせて聞いて下さい。


B. 罪は


1) 神様を信頼しないこと (1:2-6)


あなたたちは、自分の目で見はっきりと言うべきである主はイスラエルの境を越えて大いなる方である、と。子は父を、僕は主人を敬うものだ。しかし、わたしが父であるならわたしに対する尊敬はどこにあるのか。わたしが主人であるならわたしに対する畏れはどこにあるのかと万軍の主はあなたたちに言われる。わたしの名を軽んずる祭司たちよあなたたちは言う我々はどのようにして御名を軽んじましたか、と。(1:5, 6)


 マラキはまず、民のひどい現状を告発することから始めます。この状態が改まらなければ根本的な解決はないからです。彼らの罪の本質は神様を信頼していないということです。神様を信頼しないから、他のものに頼ります。他のものを信頼して神様を軽んじるのです。この罪の性質はユダヤ人だけのものではありません。人間は誰でも、この罪の傾向を持っています。本当に信頼すべき人を信頼せず、目先の利益を与える者に耳を貸してしまう。その伴侶と互いにあなただけを愛しますと誓ったのに裏切ることをする。本当に大切にすべき者を軽んじ、悲しませる。しかも、そのことを自覚できずに「いつあなたを軽んじましたか?」などと言ってしまう。これらはみな、まず第一に神様を信頼していないということから出てくることなのです。


2) 神に対する裏切りとして現れる (7-14)


あなたたちは、わたしの祭壇に汚れたパンをささげておきながら我々はどのようにしてあなたを汚しましたか、と言う。しかも、あなたたちは主の食卓は軽んじられてもよい、と言う。あなたたちが目のつぶれた動物をいけにえとしてささげても、悪ではないのか。足が傷ついたり、病気である動物をささげても悪ではないのか。それを総督に献上してみよ。彼はあなたを喜び、受け入れるだろうかと万軍の主は言われる。今、神が恵みを与えられるようひたすら神に赦しを願うがよい。これは、あなたたちが自ら行ったことだ。神はあなたたちの誰かを受け入れてくださるだろうかと万軍の主は言われる。(1:7-9)

 口では一番よいものを捧げますと言いながら、そうしないなら、それは裏切りです。あなたに従いますと言いながら、ほかの者に従うなら、それは裏切りです。そうしますと言わないほうがまだましなのです。問題にされているのは、信じると言いながら裏切る人、自分は信じていると思い込んでいるけれどそうではない人なのです。つまり、これは私たち神様を信じていると自覚している者に対する警告なのです。主よ、主よとイエスを呼んでも私はあなたを知らないと言われてしまう危険性と同じものです。イエスは他の信仰を持つ人や信仰を持たない人を「不信者」と裁く方ではありません。
マラキの時代の人々の失敗から、私たちは何を学ぶことが出来るのでしょうか?私たちは犠牲の動物を献げなさいと命じられてはいません。礼拝や祈りの回数や時間を求められているのでもありません。献金の額でもありません。神様に愛され、神様の心を知る者として、正直に誠実に生きることを求められているのです。そこには、神様に対して、人々に対して様々な犠牲を払うということが含まれています。礼拝も献金も喜んで心を込めて捧げる、ということが大切なのです。


3) 人に対する裏切りとして現れる (2:10-17)


我々は皆、唯一の父を持っているではないか。我々を創造されたのは唯一の神ではないか。なぜ、兄弟が互いに裏切り我々の先祖の契約を汚すのか。ユダは裏切りイスラエルとエルサレムでは忌まわしいことが行われている。まことに、ユダは主が慈しんでおられる聖なるものを汚し、異教の神を信じる娘をめとっている。(2:10, 11)
わたしは離婚を憎むとイスラエルの神、主は言われる。離婚する人は、不法でその上着を覆っていると万軍の主は言われる。あなたたちは自分の霊に気をつけるがよい。あなたたちは裏切ってはならない。あなたたちは、自分の語る言葉によって主を疲れさせている。それなのに、あなたたちは言うどのように疲れさせたのですか、と。あなたたちが悪を行う者はすべて、主の目に良しとされるとか主は彼らを喜ばれるとか裁きの神はどこにおられるのか、などと言うことによってである。(2:16, 17)


 全体を通して注意深く読めば、神様がいたずらにイスラエル民族だけを愛し異邦人を嫌っているわけではない事がわかります。離婚を考えている人、経験した人、心配しないでください。神様はあらゆる離婚を認めないわけではないのです。神様が、良くないと言っているのは、自分の利得のために配偶者を捨て新しい結婚をするということです。再婚相手がクリスチャンならいい仏教徒はダメということではないのです。あなたの配偶者を裏切ってはいけないということです。現代では夫の方が捨てられるケースが増えていますが、これは聖書に書いてないからOKなのでしょうか?そんなことはないでしょう。この時代には妻は夫の所有物です。女性の方から離婚を求めるというのは想定外のことなので書いてはいないのです。
 神様を信頼せず、自分の力で自分の目的を果たそうとするとき、人はそれまで共に歩んで来た者を裏切ります。それは夫婦関係には限りません。


C. 罪に生き続ける者の結末 (2:1-9)

祭司たちよ、今あなたたちにこの命令が下される。もし、あなたたちがこれを聞かず、心に留めず、わたしの名に栄光を帰さないなら、と万軍の主は言われる。わたしはあなたたちに呪いを送り、祝福を呪いに変える。いや既に呪いに変えてしまった。これを心に留める者があなたたちの間に一人もいなかったからだ。(2:1, 2)
だが、あなたたちは道を踏みはずし教えによって多くの人をつまずかせレビとの契約を破棄してしまったと万軍の主は言われる。わたしも、あなたたちを民のすべてに軽んじられる価値なき者とした。あなたたちがわたしの道を守らず人を偏り見つつ教えたからだ。(2:8, 9)

 この部分はイスラエルの祭司に向かって宣告された厳しい言葉です。神様は彼らの先祖と「命と平和のため」の契約を交わしました。「神様は人々に祝福を惜しまない、人々は誠実に神様に従う道を歩む」契約です。しかしそれは人々によって破られました。神様を敬う気持ちはなくなり、正義は行われず、平和も失われました。一人一人の心も、その集合である社会も、間違いの根本は、今日お話してきた「罪」にあります。そして多くの人はそれが罪であるということに気がついてもいません。一見、現代の社会が抱えている様々な問題を見ると、マラキの時代から神様に見放されたままの同じ状態にあるようにも見えるでしょう。しかしそれは違います。神様は、来週のテキストでマラキに預言させた「特別な希望」を与えてくださったからです。来週、この希望についてお話します。しかし私たちが今日知らされた罪の現実によって感じた絶望を自分のこととして受け止めてください。そうすればクリスマスの喜びはもっと深く素晴らしいものとなります。


メッセージのポイント
神様の意思を知りながら、それに背を向けて生きる姿勢を罪といいます。神様と人類との契約は信頼関係に基づいて結ばれたものでした。そこから離れた結果として、今の世界の悲惨を見ることが出来ます。そのまま突き進めば、待っているのは完全な破滅です。2500年前からすでに預言者はそのような危機意識を持っていたのです。神様は私たちに希望を備えてくださいました。しかしそれを受け取るためには自分の罪の現実を受け止める必要があります。


話し合いのために
1) マラキは人々に何を伝えたかったのでしょうか?
2) 本当に人類は神様に見捨てられてしまったのでしょうか?