<メッセージノート>

2014/11/16 ルカ9:10-17 (ルカによる福音書シリーズ5)
自分を分け与える恵み


A. 教会にとって大切な「パン裂き」(10–17) (22:19-20; 24:30-31)

10 使徒たちは帰って来て、自分たちの行ったことをみなイエスに告げた。イエスは彼らを連れ、自分たちだけでベトサイダという町に退かれた。11 群衆はそのことを知ってイエスの後を追った。イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた。12 日が傾きかけたので、十二人はそばに来てイエスに言った。「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです。」13 しかし、イエスは言われた。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」彼らは言った。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり。」14 というのは、男が五千人ほどいたからである。イエスは弟子たちに、「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」と言われた。15 弟子たちは、そのようにして皆を座らせた。16 すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。17 すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。

22:19 それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」20 食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である

24:30 一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。31 すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。


B. 教会で起こっていること


1) 癒し・希望を与える (10-14a)


10 使徒たちは帰って来て、自分たちの行ったことをみなイエスに告げた。イエスは彼らを連れ、自分たちだけでベトサイダという町に退かれた。11 群衆はそのことを知ってイエスの後を追った。イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた。12 日が傾きかけたので、十二人はそばに来てイエスに言った。「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです。」13 しかし、イエスは言われた。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」彼らは言った。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり。」14 というのは、男が五千人ほどいたからである。



2) 小さな私たちが用いられる (14b-17)


イエスは弟子たちに、「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」と言われた。15 弟子たちは、そのようにして皆を座らせた。16 すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。17 すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。



C. 一人ひとりの役割

1) 自分を分け与えること


2) 感謝と賛美と共に



メッセージのポイント
イエス様はご自分を私たちに与えてくださいました。イエス様の苦しみと死と引き換えに、私たちが命を得るためです。教会は、イエス様が与えてくださったこの希望を人々に伝え続ける使命を持っています。人々のニーズは私たちが満たすことができる以上に多く、深刻です。でも、イエス様に感謝と賛美を捧げて、わずかでも自分を他人に分け与えるなら、神様は私たちにもその人たちにも大きな恵みを与えて下さいます。

話し合いのために
1) この奇跡が起こるために必要だったのはどんなことでしょう?
2) あなたにとって「自分を分け与える」ことは具体的に何ですか?

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<メッセージ全文>

2014/11/16 ルカ9:10-17 (ルカによる福音書シリーズ5)
自分を分け与える恵み

 
 今日はルカによる福音書9章10−17節を読みたいと思います。ガリラヤでのイエス様の評判はますます広まり、イエス様に病気を癒していただくために、またイエス様からお話を聞くために、多くの人々がイエス様のもとに押しかけていました。イエス様のそばには12人の弟子がいつもいて、他にも何人かの女性たちが生活のお世話をしていたということが、ここまでの箇所に記録されています。今日読む箇所の直前の箇所では、イエス様は12人の弟子たちに病気を癒す力を与え、神様の言葉を人々に伝えるように、旅に送り出しています。今日の箇所は、その弟子たちがイエス様のもとに帰ってきた場面から始まります。疲れて帰ってきた弟子たちに対して、イエス様は一つの奇跡を見せます。この奇跡は、イエス様を求めて従っていこうと願うなら、誰もが知っているべき神様の恵みの秘密を教えてくれます。最初に全体を読んでみましょう。

A. 教会にとって大切な「パン裂き」(10–17) (22:19-20; 24:30-31)

10 使徒たちは帰って来て、自分たちの行ったことをみなイエスに告げた。イエスは彼らを連れ、自分たちだけでベトサイダという町に退かれた。11 群衆はそのことを知ってイエスの後を追った。イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた。12 日が傾きかけたので、十二人はそばに来てイエスに言った。「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです。」13 しかし、イエスは言われた。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」彼らは言った。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり。」14 というのは、男が五千人ほどいたからである。イエスは弟子たちに、「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」と言われた。15 弟子たちは、そのようにして皆を座らせた。16 すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。17 すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。

 今日は最初から少し脱線します。それは今日の箇所が少し特殊な箇所で、最初にそのことをお話ししておきたいからです。今読んだ中に、聞き覚えのある一節がなかったでしょうか?16節です。聖餐式で読む箇所ととても似ています。パンとぶどう酒ではなく、パンと魚という点は違いますが、他の動作はほぼ同じです。イエス様は、十字架にかけられる前に弟子たちと食事をし、パンとブドウ酒によってご自分の死を思い出すように、聖餐を定めました。今読んでいるルカによる福音書では22章に書かれています。22章の19-20節だけ読んでみましょう。

22:19 それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」20 食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である

これと同じ内容が、マルコとマタイの福音書にもあります。そしてそれがパウロにも伝えられて、私たちがいつも聖餐式で読んでいる第一コリントの言葉になっています。パンを取って、感謝の祈りをささげ、パンを裂いて皆に分け与える。ブドウ酒も同じように、一つの杯を回し飲みする。それが聖餐式です。聖餐式という言葉は最初の頃の教会にはありません。使徒言行録やパウロの手紙を読むと、単純に「パン裂き」と言われていたり、「主の晩餐」と呼ばれていたりします。つまり、最初の教会の人々は「パンを裂く」と言われれば何を意味するのか分かったということです。パンが裂かれることによって、イエス様の体が自分たちのために裂かれたことを思い起こしました。イエス様を信じているということは、イエス様が自分のために死んでくださったと信じているということです。だから私たちは、聖餐式でパンをいただく時に、自分の信仰を確認します。使徒言行録などに書かれている、最初にイエス様を信じて集まった人々からずっと2000年の間引き継がれてきた伝統です。イエス様がご自分を私たちに与えてくださり、イエス様の苦しみと死と引き換えに、私たちは新しい本当の命をいただきました。そのことを思い起こすように、イエス様ご自身がこのパン裂きの儀式、聖餐式を定めてくださいました。そのことが今日の箇所にどう関わってくるのか、そろそろ戻りたいと思いますが、もう一つだけ加えおきたいと思います。実は、ルカによる福音書には、もう一箇所、この「パン裂き」に関わるところがあります。イエス様が復活された後、二人の弟子に現れて、話をされたという箇所です。24章の30-31節だけ読みます。


24:30 一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。31 すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。

 ここからも、裂かれたパンを受け取るということが、私たちの信仰にとっていかに重要かが分かります。イエス様が自分のために苦しんで死んでくださったと知ることが、私たちの信仰の中心です。そして、イエス様があなたのためにも死んでくださったと世界に伝えることが、教会の目的です。今日の箇所が特殊だと言える理由は、このようにイエス様を信じる者達にとって一番重要なことが関わっているからです。また、今日の箇所は、イエス様の奇跡のエピソードでは唯一、マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの四つの福音書全てに記録されています。だから重要なんだと言うより、四つの福音書が書かれた背景にある教会の全てで重要だと思われていたと言えます。この箇所は、イエス様の死と復活が成し遂げられた後、教会がどんな希望のもとに歩むべきかということを、その出来事が起こる前に先回りしてイエス様が教えてくださっている箇所です。では10節から14節の前半に戻りましょう。


B. 教会で起こっていること


1) 癒し・希望を与える (10-14a)


10 使徒たちは帰って来て、自分たちの行ったことをみなイエスに告げた。イエスは彼らを連れ、自分たちだけでベトサイダという町に退かれた。11 群衆はそのことを知ってイエスの後を追った。イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた。12 日が傾きかけたので、十二人はそばに来てイエスに言った。「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです。」13 しかし、イエスは言われた。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」彼らは言った。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり。」14 というのは、男が五千人ほどいたからである。


使徒と呼ばれた12人の弟子たちは、旅から帰ってきたばかりでした。イエス様も最初は彼らを労って、人のあまりいない静かな場所で休みをとろうとしていました。でも、癒しを求める病人やその家族・友人たち、イエス様の教えを聞きたいと願う人々は、彼らを追いかけて押し寄せてきました。おそらく弟子たちは戸惑ったと思いますが、イエス様はこの群衆を迎え入れて、癒したり教えたりしました。そして更に、夕食の時間になると、もう解散にしましょうと言う弟子たちに対して、イエス様は「あなた方が彼らに食べ物を与えなさい」と言います。その時弟子たちが持っていたのはパン5つと魚2匹だけでした。彼ら自身の分にも足りません。この状況は、今この世界に置かれている私たちの現実でもあります。教会の現実です。イエス様は今でも、私たちの目には見えなくても、休まず働いておられて、癒したり、教えたりしています。イエス様が与えてくださる癒しと希望を求める人はいなくなることはありません。それは他では決して得られない癒しと希望だからです。私たちの周りでも、助けを必要とする人たちが大勢います。私たちはイエス様に倣って自分にできることをしようと思いますが、自分にできることはあまりに少なく、神様に「これでは全然足りません」と言いたくなります。でもそんな心配をする必要はないと、イエス様は教えてくださっています。14節の後半以降です。


2) 小さな私たちが用いられる (14b-17)


イエスは弟子たちに、「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」と言われた。15 弟子たちは、そのようにして皆を座らせた。16 すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。17 すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。

イエス様は、パンと魚を弟子たちから受け取って、賛美の祈りを捧げ、裂いて弟子たちに渡して人々に配らせました。すると、5千人もの人が満足するまで食べることができ、そればかりか、まだまだ余りがあったとあります。私たちがどんなに少ないものしか持っていないと思っても、イエス様はそれを用いることができます。自分の必要を満たすにも足りないくらいのわずかな量でも、それをイエス様に渡すなら、イエス様はそれを何百倍にもできるということです。それは、自分に足らなくなることを恐れず、わずかな量でも他人と分け合おうとすることを、神様は喜ばれるからです。弟子たちが有り余るほどの食料を持っていたなら、この奇跡は必要ありません。彼らが少ししか持っていなかったから、この物語は奇跡の物語になりました。私たちが他人のために自分にできることがあまりに少ないと感じるなら、それが神様の奇跡を見せていただくチャンスだということです。私たちの小ささは神様にとっては何の問題もなく、むしろそれでもできることを続けることで、神様は私たちには届きようのない人たちのところまで恵みを届けて下さいます。そして、それによって私たち自身も、神様の大きさに励まされることになるでしょう。これは神様の恵みを知った私たちの特権であると同時に、「あなたたちが彼らに食べ物を与えなさい」と言われている通り、教会の使命であり、私たち一人ひとりの役割でもあります。この私たちの役割について、もう少し詳しくお話ししたいと思います。まず、私たちは自分を他人に分け与えることを期待されているということについてお話しします。


C. 一人ひとりの役割

1) 自分を分け与えること

 
13節でイエス様は弟子たちに「あなたたちが彼らに食べ物を与えなさい」と言いましたが、彼らが5千人もの人々に必要な食料を持っていないことを知っていたはずです。にもかかわらず、イエス様が一見理不尽なことを命じられたのは、イエス様に従う上で一番重要なことを教えようとしたからです。イエス様は、弟子たちが自分たちの持っているわずかな食糧を群衆と分けることを望みました。それが、イエス様に従おうとするなら一番重要な、愛するということだからです。自分を分け与えることと言い換えることもできます。自分のためにとっておいてあるもの、時間、労力、能力、財産などを、他人のために使うということです。しかも、有り余っている中から余っている部分を使うのではなく、自分自身にも足りない中から分けるということです。それは痛みを共有するとも言えます。さっき、小さな私たちだからこそ神様の奇跡を見るチャンスがあると言いました。それはこの、愛すること、自分を分け与えることと関係があります。もう一度この奇跡の物語を振り返ってみましょう。パンと魚は物質です。だから、本当はそれを裂いて分けても、絶対量は変わらず、裂かれた欠片はどんどん小さくなるのが当然です。でも、イエス様がここで起こした奇跡は、裂かれることによってパンと魚が増えたということです。そして、無くなることもありませんでした。これが愛というものの性質を表しています。愛は、十字架で苦しまれたイエス様の愛です。それは自分が苦しんでも痛くても、相手を思う愛です。この本当の愛は、裂かれ、分けられることによって、大きくなります。相手から見返りを求める愛は、見返りがなければ減ってしまい、いずれは無くなってしまいます。でも、自分が痛みを感じるのも厭わず相手のニーズを満たそうとするなら、その愛は決して消えて無くなることはありません。そして、目には見えなくても、人から人へ伝わって、広がって大きくなっていきます。

でも皆さん、ちょっと待ってください。自分を分け与えなさいと言われてどう感じますか?自分が苦しくても痛くても相手に尽くすことができますか?しかも見返りを求めずです。どうぞ無理矢理やろうとしないで下さい。これは私たちが自分の力でできることではありません。自分の力でやろうとすれば、偽善に陥るか、燃え尽きてしまうかのどちらかです。私たちは、自分がまずどれだけの痛みを伴って愛されているかを知らなければいけません。今日最初にお話ししたことですが、イエス様が自分のために苦しんで死んでくださったと知ることが私たちのスタートラインであり、全ての土台です。イエス様のしてくださったことを知るなら、私たちが自分で変わろうとしなくても、喜んで自分を分け与える者に変えられていきます。私たちがイエス様に従い、神様と人を愛する人になろうとするなら、この喜び、感謝があるかどうかが鍵です。それも見せかけではなく、心からの感謝と賛美です。最後にこのことについてお話ししたいのですが、16節をもう一度見てください。


2) 感謝と賛美と共に


16節で、イエス様はパンと魚を取って、それらに賛美の祈りを捧げています。また、今日の最初の部分で読んだ、パン裂きに関連する箇所全てで、イエス様はパンを裂く前に賛美の祈り、感謝の祈りを唱えています。これが、私たちが自分を捧げようとするときにも必要なことです。もし主への感謝と賛美がないのに、神様はこれを私に望んでいるからやらなければならないと思うとしたら、それはあなたの思い込みです。でも、痛みが伴っても、そこに主への感謝と賛美があるなら、それは神様が私たちにしてくださる奇跡です。イエス様は痛みを伴って、命を捧げるほど、私たちを愛してくださっています。また、同じように、イエス様はすべての人のために、命を捧げてくださいました。このイエス様を求めて生きるなら、私たちは決して尽きることのない神様の愛の大きさを繰り返し知らされるでしょう。そして、それによって私たちは変えられ、私たちの周りから少しずつ、痛みを癒され、苦しみを希望に変えられる人が増えていくでしょう。


メッセージのポイント
イエス様はご自分を私たちに与えてくださいました。イエス様の苦しみと死と引き換えに、私たちが命を得るためです。教会は、イエス様が与えてくださったこの希望を人々に伝え続ける使命を持っています。人々のニーズは私たちが満たすことができる以上に多く、深刻です。でも、イエス様に感謝と賛美を捧げて、わずかでも自分を他人に分け与えるなら、神様は私たちにもその人たちにも大きな恵みを与えて下さいます。

話し合いのために
1) この奇跡が起こるために必要だったのはどんなことでしょう?
2) あなたにとって「自分を分け与える」ことは具体的に何ですか?