<メッセージノート>

2015/1/11 2015 カヴェナントメッセージ
ユアチャーチのメンバーになろう

0. カヴェナントという考え方
 
それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(マタイ 16:24)


1. 私たちは礼拝を生活の中で最優先することと十分の一の献げ物によって神様を愛し神様に仕えます
 
彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立、派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」 イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』(マルコ12:28-30)



2. 私たちは惜しみなく分かち与えることによって互いに愛し仕えあいます
 
イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。 世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。 子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。(1ヨハネ 3:16-18)



3. 私たちは神様の世界に対する働きを担い、様々な働きを支援することによ
って世界を愛し世界に仕えます (マタイによる福音書 5:13-16)


「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。 あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。 また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」 (マタイ5:13-16)



メッセージのポイント
キリストの体の一部としての責任を私たちは負っています。それは個人的な責任ではなく連帯的な責任です。細胞はある器官の一部として体の中に位置付けられているのと同様です。イエス・キリストに従って歩むという決心は責任を伴います。しかしその責任は一人で背負いこむものではなく、みんなで負うのです。それぞれは賜物や置かれている状況に従ってそれを果たすのですから、人と比べる必要はありません。自分ができることを誠実に果たしてゆきましょう。

話し合いのために
1) イエスに従うとは?
2) 教会のメンバーになるとは?

子供達のために
子供達が神様に対して、家や教会で共にいる人々に対して、それ以外の世界の人々に対してどのように愛することができるかを考えさせてください

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<メッセージ全文>

2015/1/11 2015 カヴェナントメッセージ
ユアチャーチのメンバーになろう

0. カヴェナントという考え方
 
それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(マタイ 16:24)


 この数年、私がクリスチャンという言葉をできるだけ避けていることに気付いていてくれていますか?私はその代わりにイエスについて行く者、従って行く者という言い方を意識しています。それは、クリスチャンという言葉をとても簡単に、軽く使っているのではないかという反省によるものです。クリスチャンという言葉は、もともと自分たちで言い出した言葉ではありません。使徒言行録の時代の弟子たちのイエスに対する熱心さを見た人々が「キリストに夢中になっている人々」という意味で名付けた言葉なのです。(使徒言行録11:26) しかし現代では、キリスト教を信じている人、洗礼を受けた人、教会のメンバーになった人をさす言葉として、周りの人々だけではなく私たち自身も使っていて、イエスを主と信じる人は、そうではない人との違いを表す言葉として使っています。イエスは宗教団体を作って、「これに参加しなさい、信じて、洗礼を受けて教会のメンバーになりなさい」とは言われませんでした。そうではなく「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」 イエスの体である教会を構成するのは、この言葉に応えて従ってゆく人々です。これは心の決心であって、行動を監視するルールではありません。イエス自身具体的な決まりを作らなかったばかりか、自分と行動を共にしなかった12人の弟子以外の人々の存在さえ認めていました。ユアチャーチカヴェナントはイエスに対して、他のメンバーに対して、自分に対しての自分の人生の優先順位についての決意の表明なのです。私たちは共にこの優先順位で生きる決心を毎年新たにして、それをこの教会のメンバーとする事にしたのです。


1. 私たちは礼拝を生活の中で最優先することと十分の一の献げ物によって神様を愛し神様に仕えます
 
彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立、派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」 イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』(マルコ12:28-30)


 以前に教会は3階建ての建物のようだと話しました。神様という大地にしっかり立つ上で、そこに固定される一階なしに二階、三階はあり得ません。神様を礼拝すること。これを何よりも優先することはユアチャーチのメンバーの一番大切な価値観です。礼拝に出席するということではありません。私たちが意味する礼拝とは、この礼拝もそうですが、神様と向き合い語り合うあらゆるチャンスを指しています。最優先にするとは、その一つ一つを「キリストに夢中になっている者」にふさわしく熱心に捧げるということです。このメッセージの後のワーシップタイムを魂を注ぎ出すように歌うことも、その重要な要素の一つです。私たちはただ歌うのではありません。<大人が真剣にワーシップしている教会>という評価をいただいたことがあります。それは私たちにとって何よりも嬉しい褒め言葉です。もっと神様を知りたい、今心に語りかけて欲しい。私の気持ちを知って下さい。と願いを込めて歌い続けましょう。


2. 私たちは惜しみなく分かち与えることによって互いに愛し仕えあいます
 
イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。 世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。 子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。(1ヨハネ 3:16-18)

 神様を愛する、世界を愛することに比べてイエスに従う者が互いに愛し合うということの大切さはあまりピンとこないかもしれません。またこのことだけが意識されるなら。居心地の良いコミュニティーはできても、第一のこと第三のことが忘れられてしまい、神様の願う教会の姿とは全く違うものになってしまいます。互いに愛するということは、まずその愛の提供者である神様にしっかりとつながっていなければ、すぐに資源不足になってしまいます。教会は世界の中では「愛し合う」ということのショーケースであり、同時に私たちにとっては「愛し合う」ということの練習の場です。


3. 私たちは神様の世界に対する働きを担い、様々な働きを支援することによ
って世界を愛し世界に仕えます (マタイによる福音書 5:13-16)


「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。 あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。 また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」 (マタイ5:13-16)


 どんなに熱心に礼拝を大切にしても、それに加えて互いに愛し合ったとしても、そのままでは世界からは見えない状態です。イエスは、私たちに地の塩、世の光となることを期待されているのです。私たちの世界はどこにありますか?世界とは私たちの生きている社会です。私たちは世界の中で生きています。世界の中には神様が作られたものの全てが含まれています。私たちは毎週、最初の日に礼拝で励まされて世界を愛するためにここを出て行きます。それだけではなく海の向こうにも、例えばインドネシアの子供達の助けとなれるようにイザヤインスティチュートを支援するというような方法で出て行きます。今月、町田防災ネットワークという組織が始まります。町田にある教会が大規模災害が起こった時に、それぞれが与えられているリソースを用いて、互いに助け合うだけではなく地域に貢献するためのネットワークです。このように世界に向き合うといても様々なのです。そして私たち個人にはできることとできないことがあります。私たちはキリストの体の一部としての責任を負っています。それは個人的な責任ではなく連帯的な責任です。細胞はある器官の一部として体の中に位置付けられているのと同様です。イエス・キリストに従って歩むという決心は責任を伴います。しかしその責任は一人で背負いこむものではなく、みんなで負うのです。それぞれは賜物や置かれている状況に従ってそれを果たすのですから、人と比べる必要はありません。自分ができることを誠実に果たしてゆきましょう。少なくとも、これからの一年間、これら三つのことについてベストを尽くしてイエスに従おうと決心する人はカヴェナントに署名して、献金ボックスに入れるか牧師に渡して下さい。


メッセージのポイント
キリストの体の一部としての責任を私たちは負っています。それは個人的な責任ではなく連帯的な責任です。細胞はある器官の一部として体の中に位置付けられているのと同様です。イエス・キリストに従って歩むという決心は責任を伴います。しかしその責任は一人で背負いこむものではなく、みんなで負うのです。それぞれは賜物や置かれている状況に従ってそれを果たすのですから、人と比べる必要はありません。自分ができることを誠実に果たしてゆきましょう。

話し合いのために
1) イエスに従うとは?
2) 教会のメンバーになるとは?

子供達のために
子供達が神様に対して、家や教会で共にいる人々に対して、それ以外の世界の人々に対してどのように愛することができるかを考えさせてください