<メッセージノート>

2015/1/18 ルカ9:18-27
神の国を見る

A. あなたは私を何者だと言うのか?

1) 神からのメシア (18-20)

 
18 イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。そこでイエスは、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。19 弟子たちは答えた。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」20 イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」


2) 苦しむために生きている方 (21-22)
 
21 イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、22 次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」


B. 私に従うなら…
1) 自分を捨てなさい (23-26)
 
23 それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。24 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。25 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。26 わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。


2) 神の国を見るだろう (27)
 
27 確かに言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国を見るまでは決して死なない者がいる。」

ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は見える形ではこない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(17:20-21)



メッセージのポイント
イエス様は、神様が私たちを罪から贖うために送ってくださったメシア、救い主です。そのことを理解するのに、私たちの一生をかけても足りないでしょう。でも、十字架で苦しんで死ぬために生まれたその方を知っているなら、私たちはこの世界で希望を失うことなく生きることができます。イエス様に従って、自分の都合を脇に置いて、痛みの中でも愛し続けてみましょう。そうすれば、私たちの周りに神の国は実現し、世界が少しずつ変わっていくことを体験できるでしょう。

話し合いのために
1) 「自分を捨てること」は具体的にあなたにとって何を意味しますか?
2) 「神の国を見る」とはどういうことですか?

子供達のために
22節を中心に話してみてください。イエス様は自分が苦しむこと、殺されることを知っていました。イエス様もそのことを恐れていましたが、決して逃げ出さず、弟子たちにもここではっきりと予告しています。なぜイエス様は自分が殺されると知りながら、逃げなかったのでしょうか?答えはあげなくてもいいので、子供達に考えさせてみてください。

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<メッセージ全文>

2015/1/18 ルカ9:18-27
神の国を見る
去年の9月からルカによる福音書を月1回読んできましたが、来月からは月2回することになりました。そこで、これまでは飛ばし飛ばし読んでいましたが、今月からは連続して読んでいくことにしました。今日は前回11月に読んだ箇所の次の部分です。最初に9章18節から20節です。

A. あなたは私を何者だと言うのか?
1) 神からのメシア (18-20)
 
18 イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。そこでイエスは、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。19 弟子たちは答えた。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」20 イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」


 イエス様は弟子たちに聞きました。「私のことを人々は何だと思っているのか?」イエス様はなぜこんなことを聞いたのでしょうか?イエス様自身、人々が自分のことを洗礼者ヨハネだとかエリヤだとか、様々に言われていることを聞いたことがあったはずです。恐らくそれはイエス様が次のことを聞くためでした。「ではあなたは私を何だと言うのか?」他の人が何と言うかではなく、あなたにとって私は何であるか?この聞き方は、意見を求めているのではなく、関係を求めています。通りすがりの人に突然「私は誰だと思う?」と聞かれたら、私たちは戸惑うでしょう。見た目から想像するしかありません。でも親しい友達に聞かれたら、私たちはその人の名前も性格も好きなことも嫌いなことも、たくさん答えることができるでしょう。だから「私は誰か?」という問いは、「あなたは私のことをどれくらい知っているか?私とどれくらい親しいか?」という問いが隠れています。イエス様に「私は誰か?」と聞かれたら、皆さんは何と答えるでしょうか?ペトロは「神からのメシアです」と答えました。メシアとは「油注がれた者」の意味で、神様に選ばれた救い主を指す言葉です。神様によって送られた、私たちを救う方。これは正しい答えです。他にも正しい答えはたくさんありますが、とりあえずペトロはこう答えました。でもペトロも、なぜイエス様が自分たちを救う方なのか、どうやって救ってくださるのかはまだ完全に分かっていたわけではありませんでした。イエス様は自分が誰であるか、自分の目的が何であるかを話し始めました。続きの21-22節です。


2) 苦しむために生きている方 (21-22)

 
21 イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、22 次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」


 これはイエス様が初めて自分の苦しみと死をはっきりと予告した言葉です。イエス様は、人々から拒絶されて殺され、三日目に復活することが自分の使命であると知っていました。神からのメシアは人々に殺される運命にあるということです。イエス様は、自分が神からのメシアであるとはそういうことであると示しました。神から選ばれ、神に遣わされた目的は、人々に拒絶され苦しめられて殺されることにあると。この通り、イエス様が苦しんで死なれたために、私たちは救われました。イエス様の苦しみと死は、私たちが味わうべきものでした。イエス様は、私たちの身代わりとなって、私たちの罪に対する神様の裁きを受けてくださいました。そして同時に、それほど神様は私たちを愛していると示してくださいました。イエス様の一生の目的は、私たちを愛して、私たちのために苦しんで命を捧げることでした。このイエス様がしてくださったことの大きさ、愛の深さは、私たちが一生かけても知り尽くすことはできないでしょう。でも、この神様の大きな愛に少しでも触れたなら、私たちは自分の一生をどう過ごすべきかも知ることになります。どう過ごすことができるようになるか、とも言えます。23-26節を読みましょう。



B. 私に従うなら…
1) 自分を捨てなさい (23-26)
 
23 それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。24 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。25 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。26 わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。


 24節「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである」とありますが、これは一見非常に矛盾しています。でも「イエス様は誰か」という問いに戻って考えるなら、理解することができます。あなたにとってイエス様は、あなたのために苦しんで死なれるほど、あなたを愛している方でしょうか?あなたの罪のために苦しんだ方でしょうか?私たちは、このことを日々自分に問い続けるべきです。一度知って受け入れるだけでは到底足りません。なぜなら、私たちは常に「自分の命を救いたいと思う者」だからです。自分の都合を最優先し、他人の利益より自分の利益を求める傾向を私たちはずっと持ち続けています。また、この世界全体がこの傾向に支配されているので、それが当たり前であるかのような錯覚まで持ってしまいます。神様の都合よりも自分の都合を優先してほしいとまで願ってしまうほどです。でもこの傾向に従って生きるなら、私たち自身の中でも、私たちの周りの世界でも、苦しみと痛み、失望は絶えません。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失う」ということです。
 でも、イエス様の苦しみが自分のためだと受け止め、神様がそれほど自分を愛していると受け入れるなら、私たちには違う生き方ができます。神様が自分を愛してくださったように、自分の都合を脇に置いて人々を愛する生き方です。イエス様は、見返りを求めず、自分が傷つくことになっても、私たちを愛し続けて下さいました。イエス様と共に歩むなら、私たちも、自分が苦しんでも、痛みを抱えたままでも、そのように人を愛し続けることができます。それが「神様のために自分の命をささげる」生き方です。23節では「自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、私に従いなさい」と言われています。ルカは、他の福音書にはない「日々」という言葉を付け加えることで、これが一度きりの決心ではなく、毎日の挑戦であるということを強調しています。神様のために自分を捨てるというのは、抽象的なことではなく、日常生活の中での挑戦だということです。週末疲れていても、家族のために何か小さな気遣いをできるでしょうか?悩みを持った友人に、自分の予定を切り上げて声をかけられるでしょうか?苦手な人を前にして、話を早く切り上げることに集中せず、誠実に向き合うことができるでしょうか?これらすべての中で、自分の名誉ではなく、神様の栄光を求めることができるでしょうか?全部私自身の挑戦で、失敗することの方が多いです。それでも、神様は良い方で、私がほんの少し挑戦しただけでも、多くのことを教えて下さり、励まして下さいます。
 最後に27節を読みましょう。


2) 神の国を見るだろう (27)

 
27 確かに言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国を見るまでは決して死なない者がいる。」


今日の前半で、ペトロはイエス様のことを「神から送られたメシアです」と答えたけれども、本当の意味は分かっていなかっただろうと言いました。ペトロだけでなく、イエス様の十字架と復活の出来事が起こる前に、イエス様が何者であるか、本当の意味を理解していた人は誰もいませんでした。でも、イエス様が十字架で死なれた後復活し、聖霊が弟子たちに注がれたことで、弟子たちの目は開かれました。彼らは神様の深い愛を知り、その愛に生き、伝える者に変えられました。「自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って」イエス様に従う者になりました。だからと言って、彼らはいきなり聖人君子になったわけではありません。使徒言行録や手紙を読めば、彼らは衝突を繰り返し、失敗もたくさんしたことが分かります。それでも、イエス様はここで、彼らが生きている間に神の国を見るだろうと言っています。彼らが失敗をしながらでも、イエス様の愛を伝え続けることをイエス様は知っていました。それが神の国を見るということです。神様が求められ、神様の愛が働くところ、それが神の国です。神様の愛にはほど遠い、不完全な形ではあっても、私たちも神様の愛を少しでも写すことはできます。イエス様に従って、進んで自分を他人のために捧げる時、私たちの周りに神の国は実現します。ルカによる福音書17章には、こう書いてあります。

ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は見える形ではこない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(17:20-21)

神様はこんな私たちを通して、働いてくださいます。私たちの周りに神の国が来ることを楽しみに、イエス様に期待して、毎日できることを続けましょう



メッセージのポイント
イエス様は、神様が私たちを罪から贖うために送ってくださったメシア、救い主です。そのことを理解するのに、私たちの一生をかけても足りないでしょう。でも、十字架で苦しんで死ぬために生まれたその方を知っているなら、私たちはこの世界で希望を失うことなく生きることができます。イエス様に従って、自分の都合を脇に置いて、痛みの中でも愛し続けてみましょう。そうすれば、私たちの周りに神の国は実現し、世界が少しずつ変わっていくことを体験できるでしょう。

話し合いのために
1) 「自分を捨てること」は具体的にあなたにとって何を意味しますか?
2) 「神の国を見る」とはどういうことですか?

子供達のために
22節を中心に話してみてください。イエス様は自分が苦しむこと、殺されることを知っていました。イエス様もそのことを恐れていましたが、決して逃げ出さず、弟子たちにもここではっきりと予告しています。なぜイエス様は自分が殺されると知りながら、逃げなかったのでしょうか?答えはあげなくてもいいので、子供達に考えさせてみてください。