<メッセージノート>

2015/2/1 ルカによる福音書 9:28-36
神様の栄光  池田真理

A. 人であり神様であるイエス様

1) 人間としての苦悩 (28)

この話をしてから八日ほどたったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。



2) 神様としての栄光 (29)

祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。



3) 苦難を通して現される栄光 (30-31)

30 見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。31 二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。



B. この人に聞け (32-36)

32 ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。33 その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。34 ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。35 すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。36 その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。



メッセージのポイント
イエス様の姿が変わったというこのエピソードは、人間には理解できない神様の姿を私たちに示しています。イエス様は本来このように栄光に輝く神様ですが、私たちに分かる姿、私たちと同じ人間になって来て下さいました。そして、苦難を経て天に帰られました。それによって、私たちもまた本来神様と持っていたはずの関係を取り戻すためでした。聖書は、神様を知るにはこのイエス様に聞けと教えています。

話し合いのために
1) 31節の「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期」とは?
2) 神様の栄光とは?

子供達のために
イエス様は私たちと同じ人間でしたが、同時にこの箇所に書かれているような姿の神様でもあります。でも、「イエス様の顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」というところから色々想像を膨らませてしまうのではなくて、それが本当にどんな姿なのか私たちには結局分からないということも教えてください。大切なのは、イエス様は人間だったけれども同時に人間ではない神様だということです。(このことは子供達にとって謎のまま残っていいと思います。)そして、このイエス様を知ることで、私たちは神様をお父さんと呼んで、自分の思いを聞いてもらい、助けてもらうことができます。

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<メッセージ全文>

2015/2/1 ルカによる福音書 9:28-36
神様の栄光  池田真理

先々週、イエス様が初めて自分の受ける苦しみと死について予告したという場面を読みました。今日はその続きで9章28-36節です。28-31節を少し丁寧に読んでいきたいと思います。

A. 人であり神様であるイエス様


1) 人間としての苦悩 (28)

この話をしてから八日ほどたったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。

 福音書はイエス様の様々な言葉や行いを記録していますが、大体「ある日イエスが…」とか「ある時弟子たちは…」などと曖昧な設定です。でも今日のこの箇所は「この話をしてから8日ほどたったとき」と、具体的な場面設定がされています。「この話」というのは、イエス様が自分は殺されるということを予告し、弟子たちにも自己を犠牲にする生き方を勧めるという内容でした。その話をした8日後、イエス様は3人の弟子たちだけを連れて祈るために山に登ったと言われています。実はルカによる福音書では、イエス様の祈る姿というのが、他の福音書よりも多く描かれています。先々週の箇所の最初の節9:18でも「イエスが一人で祈っておられた時」とありました。これは、ルカが勝手に作り上げたイメージというわけではなく、ルカは特にイエス様が祈っている姿に注意を払ったということです。では、イエス様がこの時祈るために山に登ったというのは、どういう意味があるのでしょうか?そこには、初めてはっきり自分の死を予告したイエス様の苦悩が表れています。イエス様は自分が苦しむことが神様の計画だと分かっていましたが、人間としてそれが恐ろしいという感覚も私たちと同じように持っていました。イエス様は逮捕される直前、汗を滴らせて必死で祈ったということが記録されています。今読んだ一節にそこまでのことは書いていませんが、イエス様が祈ることで自分の目的を確認し、恐怖と戦っていたことが分かります。3人の弟子だけを一緒に連れて行ったということも、イエス様の不安を表しています。ペトロとヨハネとヤコブは、イエス様に「人間をとる漁師にしよう」と言われてイエス様に従ったあの漁師達です。イエス様は大事な場面で、何回かこの3人だけを連れて行くということをしました。それは彼ら3人がそこで起こることを見なければいけないという、彼らを成長させる目的もありました。でも同時に、イエス様自身が彼ら3人を特に信頼し、自分のそばに置きたかったという親密さの表れでもあります。人間であれば、誰にでも等しく親しくいるということは不可能です。その人間の限界を、イエス様も持っていたということです。神様が不公平だということではありません。ただイエス様は神様であると同時に人間であり、人間の限界も共有していたということです。実際はこの3人は非常に頼りになりませんでした。それはこの先読んでいく通りですが、それでもイエス様は彼らを連れて祈りに行きました。29節に進みましょう。


2) 神様としての栄光 (29)

祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。


 イエス様の姿がこのように神秘的な様子で変わるというのは、イエス様の生涯でこの時だけです。このイエス様が輝くという出来事にどんな意味があるのか、私たちは戸惑いますが、聖書全体からヒントを得ることができます。それは神様は光だということです。聖書の一番最初、創世記で神様が最初に言われたのは「光あれ」でした。クリスマスの物語で、イエス様の誕生を羊飼いたちに知らせに来た天使たちは、神様の栄光に輝いていました。十字架の出来事の後、イエス様が復活したと弟子たちや女性たちに伝えた天使も、光り輝く白い衣を着ていました。また、迫害者パウロを回心させたのは、突然彼の目をくらませた「天からの光」でした。イエス様の姿が光り輝く姿になったということは、この神様の光をこの時イエス様は放っていたということです。それは、人間として生まれたイエス様が、この世界に来られる前に持っていた神様の栄光です。また、復活して天に帰られたイエス様が、再び地上に来られる時にもその栄光と共に来られると言われている光です。人間としてこの世界を歩まれている間は、その輝きはずっと隠されていました。この今日の箇所を除いてです。人間として自分の使命を恐れ、神様に祈ったイエス様は、自分の姿が変わるという出来事を通して自分が何者であるのかを確認する必要がありました。イエス様はこの時代・この場所に生まれた一人の人間であると同時に、時と場所を超えておられる神様だということです。そして、何より、そのことを弟子たちも私たちも知る必要がありました。だから、この一見不可解な神秘的な出来事は聖書に記録されて、今日まで語り告げられてきています。不思議な出来事は続きます。30-31節です。


3) 苦難を通して現される栄光 (30-31)

30 見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。31 二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。


 モーセとエリヤが登場しました。この二人は旧約聖書を代表する人物です。モーセは律法、エリヤは預言者の象徴と言えます。ここでこの二人がイエス様と語っていたのは、「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期」についてだと書かれています。この「最期」という言葉に少し注目していただきたいのですが、日本語と英語で少しニュアンスが違います。英語訳では「旅立ち」「出発」、日本語では「死」の意味で訳されています。これは元々のギリシャ語が両方の意味で訳せる言葉だからです。ギリシャ語でエクソドスという言葉です。英語で出エジプトはエクソダスと言うように、この言葉は出エジプトを指す言葉でもあります。出エジプトは、エジプトで奴隷として虐げられていたイスラエルの人々が、モーセに導かれて、彼らの祖先が元々神様に与えられていた土地に脱出する物語です。ですから、イエス様がエルサレムで遂げようとしている最期というのも、苦しんで死なれて終わりという意味ではなく、本来イエス様がおられたところに帰るという意味の死です。イエス様は、死に勝利し、復活して、神様のおられる天に戻られました。神様である方が、一人の人間としてこの世界に来られ、死に打ち勝って、神様の栄光を明らかにしたということでもあります。それは全て、見えない神様が私たちに見える存在となって、私たちも神様の栄光に与るためです。神様は、イエス様の姿が変わり、モーセとエリヤが現れるという、この不思議な出来事の中で、私たちにご自分の栄光を先取りして少しだけ知らせてくださいました。では、私たちがこの神様の栄光に与るとはどういうことか、続きを読んでいきましょう。


B. この人に聞け (32-36)

32 ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。33 その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。34 ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。35 すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。36 その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。

 こんな非日常的な神秘的な場面で、ペトロたちは眠かったというのは驚きです。そして、眠気をこらえて何とか口走ったことも意味不明です。でも、これが私たちの現実を象徴しています。私たちは栄光に輝く神様の姿を理解はできないし、どうしていいか分からないのです。だから、神様はイエス様を送り、「これに聞け」と言ってくださっている、というのが聖書のメッセージです。創世記によれば、私たち人間は神様によって初めは良いものとして造られました。神様を畏れ、慕い、どんな時でも神様と共にいる存在でした。でも、神様を忘れ、自分が神様になろう、自分が自分も他人も支配しようとしたことで、悪は始まりました。悪は連鎖を続け、もう私たちは悪に対する感覚が麻痺してしまっているのかもしれません。新聞を広げれば、数行読んだだけでも、この世界の状況をどれほど神様は悲しんでいるかと思います。イスラム国による日本人の人質事件が連日報道されています。暴力と恐怖で人を支配しようとするやり方には、どんな主張があろうと正当化されません。でも、イスラム国の構成員が特別悪人なのかというと、そうとは言えないと思います。私は、イスラム国に限らず、犯罪者が生まれるのは社会の責任だと思います。この世界は人間の罪で歪められているからです。経済格差や人種差別は、自分さえよければいい、異質なものは排除するという人間の罪が積み重なった結果です。子供でも人を殺してはいけないと知っているのに、戦争の大義名分はいくらでもでっちあげることができます。宗教と呼ばれるものは何でも、キリスト教でもイスラム教でも、狂信者、暴力的な原理主義者を生みます。そんなことが歴史上ずっと繰り返されてきました。一つの問題の背景にはあまりに多くの人々の勝手な思惑や傷つけられたという憎しみがあり、複雑すぎてどこから手をつけていいのか分からないほどです。世界規模の問題も、私たち個人が経験する問題も同じです。誰かを責めても、その人も誰かを責めるでしょう。だから私たちは、こんな世界の中で神様はどこにいるのかと思ってしまいます。人間の罪と悪が、栄光に輝く神様の姿を見えなくさせてしまうほど、あふれているからです。ペトロたちが神様の栄光を前にして眠かったというのは、この私たちの現実を象徴しています。神様はこんなに輝いていて、栄光にあふれているのに、私たちはそれを見ようとしないのです。聖書は私たちに語りかけています。「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」そして、この声が聞こえた時、そこにはイエスだけがいた、と聖書は言います。もう服の輝きはなくなり、モーセとエリヤも消え、いつもの私たちと同じ姿のイエス様です。でも、この方が、世界の始まる前からおられ、死に勝利して、この世界を治めている方です。神様の栄光は、十字架の苦しみを通して、輝いています。


メッセージのポイント
イエス様の姿が変わったというこのエピソードは、人間には理解できない神様の姿を私たちに示しています。イエス様は本来このように栄光に輝く神様ですが、私たちに分かる姿、私たちと同じ人間になって来て下さいました。そして、苦難を経て天に帰られました。それによって、私たちもまた本来神様と持っていたはずの関係を取り戻すためでした。聖書は、神様を知るにはこのイエス様に聞けと教えています。

話し合いのために
1) 31節の「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期」とは?
2) 神様の栄光とは?

子供達のために
イエス様は私たちと同じ人間でしたが、同時にこの箇所に書かれているような姿の神様でもあります。でも、「イエス様の顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」というところから色々想像を膨らませてしまうのではなくて、それが本当にどんな姿なのか私たちには結局分からないということも教えてください。大切なのは、イエス様は人間だったけれども同時に人間ではない神様だということです。(このことは子供達にとって謎のまま残っていいと思います。)そして、このイエス様を知ることで、私たちは神様をお父さんと呼んで、自分の思いを聞いてもらい、助けてもらうことができます。