<メッセージノート>
神様に属する者の希望 池田真理
A. 二つの対抗する力
1) 悪魔の力 (37-40)
37 翌日、一同が山を下りると、大勢の群衆がイエスを出迎えた。38 そのとき、一人の男が群衆の中から大声で言った。「先生、どうかわたしの子を見てやってください。一人息子です。39 悪霊が取りつくと、この子は突然叫びだします。悪霊はこの子にけいれんを起こさせて泡を吹かせ、さんざん苦しめて、なかなか離れません。40 この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに頼みましたが、できませんでした。」
2) 神様の力 (41-42)
41 イエスはお答えになった。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか。あなたの子供をここに連れて来なさい。」42 その子が来る途中でも、悪霊は投げ倒し、引きつけさせた。イエスは汚れた霊を叱り、子供をいやして父親にお返しになった。
B. 勝利と希望の約束 (43-45)
43 人々は皆、神の偉大さに心を打たれた。イエスがなさったすべてのことに、皆が驚いていると、イエスは弟子たちに言われた。44 「この言葉をよく耳に入れておきなさい。人の子は人々の手に引き渡されようとしている。」45 弟子たちはその言葉が分からなかった。彼らには理解できないように隠されていたのである。彼らは、怖くてその言葉について尋ねられなかった。。
メッセージのポイント
この世界には、悪魔(=神様に逆らう者)の力が及んでいて、私たちを罪(=神様に逆らうこと)の中に捕らえようとしています。悪魔は私たちの精神・肉体・霊を悲惨な状態にし、絶望をもたらします。でも、イエス様は既に悪魔に勝利して、私たちを解放し、神様に属する者として下さいました。神様に属する者として生きるなら、どんな状況でも希望を保つことができます。
話し合いのために
1) 悪霊、悪魔、病気、罪はどう関係していますか?
2) 神様に属するとは?
子供達のために
聖書を正直に読むなら、悪霊の存在を否定することはできません。悪霊、悪魔、幽霊、呪いなど、子供たちにとっては怖いけれども興味をそそる内容かもしれませんが、大切なのは、悪魔という人格的な存在がいる事実を知っていることと、その悪魔にイエス様は既に勝っているから恐れることはないということです。悪魔は、神様なんていないとか、神様はあなたに興味がないとか、私たちにささやいて、神様から私たちを引き離そうとします。そういう言葉は嘘です。不安な時、心細い時、イエス様に助けてくださいと祈れば、必ず答えて下さいます。
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<メッセージ全文>
神様に属する者の希望 池田真理
先々週、イエス様の姿が光輝き、モーセとエリヤが現れてイエス様の十字架と復活を語り合っていたという場面を読みました。今日読む続きの箇所では、そんな非日常的な出来事から一転、次の日山を降りたイエス様と弟子たちは早速待っていた群衆に取り囲まれます。少しずつ読んでいきましょう。
A. 二つの対抗する力
1) 悪魔の力 (37-40)
37 翌日、一同が山を下りると、大勢の群衆がイエスを出迎えた。38 そのとき、一人の男が群衆の中から大声で言った。「先生、どうかわたしの子を見てやってください。一人息子です。39 悪霊が取りつくと、この子は突然叫びだします。悪霊はこの子にけいれんを起こさせて泡を吹かせ、さんざん苦しめて、なかなか離れません。40 この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに頼みましたが、できませんでした。」
現代の日本のような社会に生きていると、悪霊なんて迷信だと思いがちです。また、ここに出てくる悪霊にとりつかれた子供というのも、現代の医学で言えば、てんかんとか精神病なんだと片付けてしまう聖書学者もいます。確かに、聖書の時代には様々な病気が悪霊の仕業だと思われていましたが、今ではその多くが医学によって解明されています。医学の発展が、病気の人たちに対する偏見や差別を取り除いてきたことも事実です。そして、医学の発展自体、多くの医師たちの苦労を通して、神様が人間に与えて下さったものだと言えます。ですから、医療技術を通して、医師たちを通して、神様は病気を癒して下さるというべきです。でも、今日は、それでも医学では解明できないものがあるということを最初にお話しします。それが聖書で悪霊、または悪魔の力と呼ばれているものです。今日は最初に、悪霊が人間の体に影響を及ぼすということをお話しするために、悪魔が何であるかにも触れなければいけません。でもどうぞ誤解しないでください。私たちは悪霊や悪魔について詳しくなる必要はありません。ただ、イエス様に従う者として、悪魔も悪霊も存在すると知っておくことは重要です。悪魔にとって一番都合がいいのは、悪魔の存在を認めない人たちです。そういう人は簡単に悪魔の罠にかかってしまうからです。悪魔は、一言で言えば、神様に逆らう者です。そして、自分の支配力を広げようと、人間を神様に逆らわせよう、神様から引き離そうと誘います。イエス様も、荒れ野での40日間、悪魔の誘惑を受けたと言われています。私たちが日常的に聞く悪魔の声は、神様なんていない、神様はお前に興味はない、というささやきかもしれません。そのささやきを聞き入れてしまえば、私たちには絶望しかありませんが、それが悪魔の思うつぼです。悪魔は私たちの自尊心にも働きます。誰かのために働きたい、お世話をしたいという、最初は良い動機も、神様を見失えば悪魔に利用されて、名誉欲・支配欲となって、自分も他人も苦しめることになってしまいます。私たちが神様を忘れ、神様に背を向ける時、それが悪魔の喜ぶ時です。最終的には、私たちが神様から切り離されて身を滅ぼすことが悪魔の狙いです。そして、そのために、時に悪魔は直接人間の体に攻撃をするということが、今日の箇所で言われています。この男の子のような、悪霊に取りつかれた状態です。悪霊は悪魔から出て、本当は神様のものである人間の体を乗っ取って、滅ぼそうとします。私自身は、こういう状態になっている人を実際に見たことはありません。今思えば、もしかしたらそうだったのかもしれないと思う人はいます。でも、信頼している何人かの人が実際にこういうことがあると教えてくれました。また、聖書に悪霊や悪魔のことが書かれているのは事実であり、それを自分が体験していないからといって、聖書の時代だけにあったことで現代にはないと言い切ることはできないと思います。大切なのは、私たちを神様から引き離すために、あらゆる手段を使ってくる存在がいると知っていることです。そして、その悪魔的存在は、私たちの理性に対してだけでなく、体と精神にも力を及ぼすこともあると、聖書は語っているということです。でもこのことは、もちろん聖書のメッセージの中心ではありません。悪霊や悪魔は、イエス様を知っているなら全く恐れるべき対象ではありません。続きを読んでいきましょう。
2) 神様の力 (41-42)
41 イエスはお答えになった。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか。あなたの子供をここに連れて来なさい。」42 その子が来る途中でも、悪霊は投げ倒し、引きつけさせた。イエスは汚れた霊を叱り、子供をいやして父親にお返しになった。
弟子たちにはなぜか追い出せなかった悪霊も、イエス様が叱ると簡単に出て行きました。人間にはどうにもできないと思われるような悪魔の力も、神様の前には何の抵抗もできないということです。今読んだところの最後には、イエス様は子供を「父親にお返しになった」と言われていますが、これはただその文字通りの意味以上の意味があります。この子供はずっと悪魔の力に縛られていて、父親からしてみれば悪魔に自分の子供を奪われている状態でした。イエス様は、子供を悪魔から解放することで、その子が本来いるべき場所である父親の元に戻しました。イエス様はここで、怒りとも嘆きとも思える言葉を口にしています。「なんて不信仰で邪悪な時代なのか。いつまで私はあなたたちに我慢しなければならないのか。」これは、悪霊を追い出すことができなかった弟子達に対する言葉ともとれますが、そうであれば「時代」と言わなくても良いはずです。おそらくイエス様は、弟子たちも含めた世界全体が不信仰だと嘆いています。悪魔がそんなふうに力を働かせ、悪霊が人間を支配できてしまう、そのことをゆるしている私たちを嘆いていると言えます。神様が造られた世界はこんなはずではありませんでした。私たちがいつも神様を求め、神様と共に歩んでいれば、悪魔がつけいる隙はありません。悪魔が入ってきて、悪霊が力を振るうのは、私たちに神様に従わない罪があるからです。それは悪霊に取りつかれた人やその家族が特別罪深いという因果応報の法則ではありません。もっと複雑で、私たちの罪が吹き溜まりのようになって、特定の人に対する悪魔の攻撃をゆるしています。この子供も、あらゆる人々の罪の犠牲になったとも言えます。だから、私たちも、罪によって悪魔につけいる隙を与えている限り、「信仰のない、よこしまな時代(世代)」なのです。でも、私たちが自分の力でこの罪と悪魔の支配から逃れられなくても、神様にできないことは何もありません。神様は、悪霊に捕えられていた人を自由にし、本来あるべき状態に戻します。罪によって破壊的な生活を続けるかわりに、神様に愛され、神様を愛す、神様に属する者としての生活を与えてくださいます。タイトルは「二つの対抗する力」としましたが、実際は悪魔の力は神様の力の前に全く無力です。イエス様は既に死の力に打ち勝ち、悪魔の敗北を確定させています。それでも悪魔が今でも力を振るうのは、決着がついた後でも残党が残っていて散発的に戦いが続いているようなものです。私たちは悪魔も悪霊も恐れることはありません。なぜそう言えるのか、続きを読みます。
B. 勝利と希望の約束 (43-45)
43 人々は皆、神の偉大さに心を打たれた。イエスがなさったすべてのことに、皆が驚いていると、イエスは弟子たちに言われた。44 「この言葉をよく耳に入れておきなさい。人の子は人々の手に引き渡されようとしている。」45 弟子たちはその言葉が分からなかった。彼らには理解できないように隠されていたのである。彼らは、怖くてその言葉について尋ねられなかった。。
「人の子は人々の手に引き渡されようとしている」とだけ言われても、その本当の意味を誰も理解できませんでした。でもイエス様は弟子たちに、このことをよく覚えておくように言われています。今は理解できなくても、そのことが起こった時に、それは神様にとって予定外のことではなく、それこそが神様の計画であると弟子たちは知らなければいけませんでした。イエス様が人々の手にかかって苦しめられ、殺されてしまうというのは、一見明らかな敗北です。人間の罪と悪魔の力が、神の子まで殺してしまったということになりそうです。でも、それこそが神様の計画でした。悪魔の力が働くことを許す私たちの罪は、イエス様の十字架の死によって償われなければなりませんでした。そして、神様はイエス様を十字架で死なれたままにはせず、復活させられたことを、私たちは知っています。復活によって、敗北と思われていたものは勝利に変わりました。十字架の出来事の後、神様はもう、私たちの罪を赦し、悪魔を敗北させています。そして、私たちを自分の子として、永遠に苦しみと悲しみから解放された、喜びの尽きない命を約束してくださいました。それはイエス様が再び地上に来られ、その約束を果たしてくださる時までは、完全な形で味わうことはできません。罪と悪魔との散発的な戦いは残念ながら続きます。それでも、その戦いを私たちは自分の力で戦うわけではありません。私たちは聖霊の力によって戦うのであり、勝利が決まっている戦いを戦うだけです。イエス様が悪霊追放によってこの子供と父親にもたらしたハッピーエンドは、私たちと神様のハッピーエンドでもあります。イエス様は、子供を悪魔から救い出して父親に返したように、私たちを罪と悪から解放して天の父である神様の元に戻して下さいました。だから私たちは、もう罪と悪魔に支配されず、神様のものとして、神様の愛を受け取って生きられるようにされています。神様が与えてくださっている勝利と希望を見失わず、愛に生きることができるように、いつも聖霊に満たされることを求めていきましょう。
メッセージのポイント
この世界には、悪魔(=神様に逆らう者)の力が及んでいて、私たちを罪(=神様に逆らうこと)の中に捕らえようとしています。悪魔は私たちの精神・肉体・霊を悲惨な状態にし、絶望をもたらします。でも、イエス様は既に悪魔に勝利して、私たちを解放し、神様に属する者として下さいました。神様に属する者として生きるなら、どんな状況でも希望を保つことができます。
話し合いのために
1) 悪霊、悪魔、病気、罪はどう関係していますか?
2) 神様に属するとは?
子供達のために
聖書を正直に読むなら、悪霊の存在を否定することはできません。悪霊、悪魔、幽霊、呪いなど、子供たちにとっては怖いけれども興味をそそる内容かもしれませんが、大切なのは、悪魔という人格的な存在がいる事実を知っていることと、その悪魔にイエス様は既に勝っているから恐れることはないということです。悪魔は、神様なんていないとか、神様はあなたに興味がないとか、私たちにささやいて、神様から私たちを引き離そうとします。そういう言葉は嘘です。不安な時、心細い時、イエス様に助けてくださいと祈れば、必ず答えて下さいます。