<メッセージノート>

2015/2/22 (テサロニケ2:13-16)
神の言葉 永原アンディ


A. 神の言葉を意識しよう


13 このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです。

1) 人が語り、人が聞く神の言葉


2) 私たちの中で働く神の言葉


B. 神の言葉を伝える苦難 (14-16)


14 兄弟たち、あなたがたは、ユダヤの、キリスト・イエスに結ばれている神の諸教会に倣う者となりました。彼らがユダヤ人たちから苦しめられたように、あなたがたもまた同胞から苦しめられたからです。
15 ユダヤ人たちは、主イエスと預言者たちを殺したばかりでなく、わたしたちをも激しく迫害し、神に喜ばれることをせず、あらゆる人々に敵対し、
16 異邦人が救われるようにわたしたちが語るのを妨げています。こうして、いつも自分たちの罪をあふれんばかりに増やしているのです。しかし、神の怒りは余すところなく彼らの上に臨みます。


1) 理解されず、妨害される


2) 苦難の中で求められる態度


メッセージのポイント
礼拝のメッセージは人の口を通して語られます。私たちはメッセンジャーの言葉を神様からのメッセージとして聞き日常生活に活かします。語る者も聞く者も神様への服従がなければ、メッセージは「神の言葉」にはなりません。メッセンジャーはその名の通り言葉を取り次ぐ者であって、言葉を発する者ではありません。本当に神の言葉が語られ、聞かれるところが神の教会です。本当の神の教会には世界を変える力があります。そして変えようとするなら、変えたくない者たちの妨害に会うことは必然ですが、教会はこの言葉によってそれを乗り越えてきました。

話し合いのために
1) 神の言葉とは何ですか?
2) なぜ神の言葉を伝えようとすると妨害されるのでしょう?

子供達のために
みなさんに誰かが神様について、聖書について語りかけるとき、実は神様がみなさんの心に語りかけていてくれるのです。聖書は神の言葉と言われます。神の言葉は、大人にとっても子供にとっても世界で一番頼りになるものです。子供の頃は。福音書のイエス様の言葉にたくさん触れて、神の言葉を心の中にたくさん蓄えてください、そうすれば、苦しいとき、悲しい時、神の言葉が力を与え、必ず乗り越えることができます。

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<メッセージ全文>

2015/2/22 (テサロニケ2:13-16)
神の言葉 永原アンディ


A. 神の言葉を意識しよう


13 このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです。

1) 人が語り、人が聞く神の言葉

 テサロニケの人々は、イエスについてパウロから聞きました。そしてそこからテサロニケの教会は始まったのです。パウロとその仲間たちがテサロニケの人たちに語った時、自分の言葉を聞かせているとは考えていませんでした。しかし聞いている人にとっては、一人の人間、パウロの言葉として聞くのが当然だったはずです。しかしテサロニケの人々は神の言葉として受け取ってくれたとパウロは言うのです。今日皆さんには「神についての言葉」と「神の発する言葉」との違いをはっきりと意識していただきたいと思います。神について人の発する言葉と、神ご自身の発する言葉とは本質的に違うのですが、表面的には区別がつきません。どちらも人の口から発せられるものだからです。それは結ばれる実から判断するしかありません。テサロニケで結ばれた実は、苦難の中でも神の恵みを伝える教会の成立です。そして出来た教会のなかで継続して働いておられるので、教会も愛と義の実践において更に力強く成長していきます。それが何よりのパウロの神に対する感謝なのです。
 それでは、私たちの中でメッセージが神の言葉として語られ、受け取られるとはどういうことでしょうか?私たちの中でそれは起こっているのでしょうか?
 今私達には、日曜日のメッセージを通して、礼拝で歌うことを通して、また自分で聖書を読むことを通して神の語りかけをキャッチすることが出来ます。聞く時、読む時、神が自分に何を語りかけて下さるのか注意深く聞いていただきたいのです。誰かとの会話の中で、その人の口を通して、神の言葉をいただけるチャンスもありますが、この場合には、あまりにもそれを期待して、そのことにフォーカスしてはいけません。

2) 私たちの中で働く神の言葉

対話が成り立たなくなってしまうし、誰もあなたと話をしたくなくなってしまうかもしれませんから。 様々な人が用いられて神が人々に語りかける時に、聞き手がそれを人の言葉として聞き流さず、神からのメッセージとして受け取り、それに答えて行動する時、人々は結び合わされて本当の教会になるのです。共に神を礼拝すること、互いに愛しあい助けあうこと、地域に、社会に、世界に自分たちのできる方法で愛すること、働くこと、が起きているなら、私たちは教会ですと胸を張って言うことが出来ます。私たちは様々な収穫を得てきました。実を見ることが出来ました。テサロニケの教会と同様に私たちも教会なのです。キリストの体の一部なのです。しかし、この神の言葉に、私たちの中で活き活きと働き続けていただくためには、ここで神の言葉が語られ続け、聴き続けられなければなりません。このことを宗教改革で始まったプロテスタント教会は特に重視してきました。当時のカトリック教会では重視されてこなかったことへの反省から来ています。信じる者が皆、リアルタイムで神の言葉を聞くことが出来るのだということの再発見として貴重な改革だったのです。しかしここへ来て、礼拝の中で逆にメッセージが強調されすぎて、その結果、礼拝が「言葉を頂く」ことに偏重され、「捧げる」という要素が軽くなってしまいました。皮肉なことですが、それによって神の言葉を聞くチャンスを逆に少なくしてはいないか?という反省が必要だと思います。だから私たちは、神に向かって歌う時間を十分に取り、その時に一人一人に対する神の語りかけを期待しているのです。今日もメッセージのあとで何曲か歌いますが、それを神との対話と考えて、言葉を受け取ることも期待して、その時を過ごしてもらいたいと思います。


B. 神の言葉を伝える苦難 (14-16)


14 兄弟たち、あなたがたは、ユダヤの、キリスト・イエスに結ばれている神の諸教会に倣う者となりました。彼らがユダヤ人たちから苦しめられたように、あなたがたもまた同胞から苦しめられたからです。
15 ユダヤ人たちは、主イエスと預言者たちを殺したばかりでなく、わたしたちをも激しく迫害し、神に喜ばれることをせず、あらゆる人々に敵対し、
16 異邦人が救われるようにわたしたちが語るのを妨げています。こうして、いつも自分たちの罪をあふれんばかりに増やしているのです。しかし、神の怒りは余すところなく彼らの上に臨みます。


1) 理解されず、妨害される

 神の言葉は時として耳に痛いのです。人には耳を貸さず、自分の思い通りに事を運びたいと思う人々や現状を変えたくないと思っている人々には特にそうです。自分で得た地位や資金源を絶たれることに怒り、語る人の口を暴力的に閉ざさせることが起こります。この最初の時代から現代に至るまで、イエスの愛、イエスの正義を求めるところに迫害は起こり続けてきました。
 ユダヤ人であったパウロたちが、ユダヤ教徒から迫害を受けたように、ギリシャ人であったテサロニケの人々も同胞から非難され妨害されました。
 しかし、神の言葉に対する無理解、妨害はもっと身近なところでも起こっているのです。人生をイエスに明け渡したくない人、全てを自分の支配下に置きたい人にとって神の言葉は煩わしいものとなります。私たちの周りにも多くいます。その関係が近ければ近いほど、私たちの悩みも大きいものとなるのです。

2) 苦難の中で求められる態度
 まず最初に問われているのは自分自身だと知りましょう。決心してバプテスマを受けただけでは、神の言葉で生きているとはいえないのです。天国に迎え入れられたとき、そこでイエスに「あなたは私の言葉で生きては来なかった」と指摘されたいですか?イエスが、何を栄養として人は生きると教えられたのか、みなさんは覚えていると思います。神の言葉です。これを食べ、消化して、それを知恵と力として生きるのでなければ、人は本当に生きたことにはならないということです、厳しい言葉ではありませんか?しかし、だからこそ私たちは愛する人々に、嫌われる危険を犯しても、知ってほしいと語るのです。その人にほんとうに生きてほしいからです。
 私たちは誰も一人でこの困難に耐えることは出来ません。神と神を信じる人々の支えによって、喜んで苦しみの中でも歩むことが出来るのです。教会に人間関係、ミニチャーチはこの事のためにあるのです。どうぞここに助けを求めて下さい、またここにいればあなたが誰かを支えることにもなるのです。

 神様の語り掛けを聞いていただけましたか?この後は、神に向かって歌い、またその中で神が語り掛けてくださることを期待しましょう。


メッセージのポイント
礼拝のメッセージは人の口を通して語られます。私たちはメッセンジャーの言葉を神様からのメッセージとして聞き日常生活に活かします。語る者も聞く者も神様への服従がなければ、メッセージは「神の言葉」にはなりません。メッセンジャーはその名の通り言葉を取り次ぐ者であって、言葉を発する者ではありません。本当に神の言葉が語られ、聞かれるところが神の教会です。本当の神の教会には世界を変える力があります。そして変えようとするなら、変えたくない者たちの妨害に会うことは必然ですが、教会はこの言葉によってそれを乗り越えてきました。

話し合いのために
1) 神の言葉とは何ですか?
2) なぜ神の言葉を伝えようとすると妨害されるのでしょう?

子供達のために
みなさんに誰かが神様について、聖書について語りかけるとき、実は神様がみなさんの心に語りかけていてくれるのです。聖書は神の言葉と言われます。神の言葉は、大人にとっても子供にとっても世界で一番頼りになるものです。子供の頃は。福音書のイエス様の言葉にたくさん触れて、神の言葉を心の中にたくさん蓄えてください、そうすれば、苦しいとき、悲しい時、神の言葉が力を与え、必ず乗り越えることができます。