<メッセージノート>
互いが希望、喜び、誉れ 永原アンディ
A. イエスに従う者の人間関係
1) 私たちの願いとサタンの妨害 (17, 18)
17 兄弟たち、わたしたちは、あなたがたからしばらく引き離されていたので、――顔を見ないというだけで、心が離れていたわけではないのですが――なおさら、あなたがたの顔を見たいと切に望みました。
18 だから、そちらへ行こうと思いました。殊に、わたしパウロは一度ならず行こうとしたのですが、サタンによって妨げられました。
2) あなた方こそ私たちの希望、喜び、誉れ (19, 20)
19 わたしたちの主イエスが来られるとき、その御前でいったいあなたがた以外のだれが、わたしたちの希望、喜び、そして誇るべき冠でしょうか。
20 実に、あなたがたこそ、わたしたちの誉れであり、喜びなのです。
B. 互いの信仰の様子を知り合うことの大切さ
1) 励まし、信仰を強めるために (1-3)
1 そこで、もはや我慢できず、わたしたちだけがアテネに残ることにし、
2 わたしたちの兄弟で、キリストの福音のために働く神の協力者テモテをそちらに派遣しました。それは、あなたがたを励まして、信仰を強め、
3 このような苦難に遭っていても、だれ一人動揺することのないようにするためでした。わたしたちが苦難を受けるように定められていることは、あなたがた自身がよく知っています。
2) 苦難の時こそキリストの体は強くなる (4, 5)
4 あなたがたのもとにいたとき、わたしたちがやがて苦難に遭うことを、何度も予告しましたが、あなたがたも知っているように、事実そのとおりになりました。
5 そこで、わたしも、もはやじっとしていられなくなって、誘惑する者があなたがたを惑わし、わたしたちの労苦が無駄になってしまうのではないかという心配から、あなたがたの信仰の様子を知るために、テモテを派遣したのです。
メッセージのポイント
イエスを信頼し、神様の愛に感謝するなら、自分と他人を比べることの無意味さに気が付きます。優越感も劣等感も必要ありまイエスに従う信仰は順調に広がっていったわけではありません。いつでも様々な困難があったのです。それでもパウロは、共にイエスに従う人々を、主イエスを思うのと同様に希望、喜び、誉れとみなしていました。一人一人を宝として大切にしてくださるイエスを私たちは宝として疑いませんが、世界中でイエスに従っている人々も宝です。そして今でも、その多くは困難の中にいるのです。私たち自身が抱えている困難があっても、互いに励まし助け、互いを喜びとして歩んで行きましょう。
話し合いのために
1) パウロはなぜテサロニケの人々と会いたいと強く願ったのですか?
2) サタンの妨害とはどのようなものだったのでしょう?
子供達のために
同じ神様を知っている教会のお友達と普段近くで一緒に遊ぶお友達。どちらも大切で、一緒にいられれば楽しいですが、今日は特に、普段は日曜日にしか会えない教会のお友達の大切さの意味(祈りあえる、励ましあえる)を伝えてください。離れていても互いが体としてつながっている、ということについて「身体」のイメージを使ってもいいかと思います。
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<メッセージ全文>
互いが希望、喜び、誉れ 永原アンディ
A. イエスに従う者の人間関係
1) 私たちの願いとサタンの妨害 (17, 18)
17 兄弟たち、わたしたちは、あなたがたからしばらく引き離されていたので、――顔を見ないというだけで、心が離れていたわけではないのですが――なおさら、あなたがたの顔を見たいと切に望みました。
18 だから、そちらへ行こうと思いました。殊に、わたしパウロは一度ならず行こうとしたのですが、サタンによって妨げられました。
パウロたちの生きた約2000年前の社会と今とでは、引き離されているという距離感には大きな違いがあります。交通手段や通信手段の発達は、パウロがいたアテネとテサロニケの距離は500km、今なら高速道路があるので渋滞がなければ5時間以内で行ける距離です。しかし当時は徒歩で10日以上かかりました。また今なら、通信は交通よりもはるかに早く、地球上のどこにいてもほとんど瞬時に顔を見ながら話ができます。しかし当時は、メールも歩く人が運ぶのですから、思いを伝えるのには相当の時間がかかりました。顔を見て話したければ、自分で10日以上歩いて行くしかなかったのです。
パウロは離れていても心は離れていないと言っていますが、テサロニケの人々とコミュニケーションが取れていたわけではありません。だから、パウロは会いたかったのです。互いに思う心があっても、コミュニケーションが取れていないのでは困るのです。顔を見たいという表現をしますが、実際のところは近づいて互いを知りあいたい、共に歩んでいることを確かめたいということが真意です。だから、写真を見るだけでは満足できないし、電話で話せることは写真を見るよりはるかに嬉しいですがそれでも物足りないと思うのです。さらにインターネットのお陰で画像を見ることが出来ても、やはり満足できないのだということを私は知りました。
世の中の様々な出来事は、声が聞こえる、顔を見て話せる、数十時間の飛行でどの大陸にも行けるようになっても、心と心の距離はちっとも近くなっていないことを教えてくれます。昔より人間関係が希薄になったというのは錯覚かもしれません。むしろ、技術の進歩によって見た目の距離は恐ろしいほどに近くなったのに、人間の関係のあり方は昔から変わらないのでそう思えるのでしょう。電話がなければ振込詐欺は成立しません。スマートフォンがなければ、川崎の少年は死なずにすんだかもしれません。もちろん、昔に返ったほうがいいと言っているのではありません。私たちのうちにある変わらない罪は、いつの時代にもその時代に合わせた形で現れてきたのです。
テサロニケの人々に会えないことをパウロがサタンの妨げだと言っていることに注目して下さい。ここでサタンがどのように妨げたのかは想像するしかありませんが、行こうと思い立つたびに、反対者が攻撃したり、健康を損なったり、身の回りで問題が起きて出かけるわけには行かなかったのでしょう。サタンの妨害は巧妙です。殆どの場合はホラー映画のように派手な攻撃を仕掛けてくるわけではありません。むしろ普通の人にとってはサタンの妨げとは気づかないスマートなやり方で目的を達成します。サタンの目的は、私たちと神様との距離を引き離すことです。現代の状態を考えるならサタンは今でもかなり妨害に成功しているといえます。人の心と心の距離が縮まらないと思えるのは、サタンが今でも力を持っている証拠です。サタンは私たちの罪の性質につけ込んで、私たちを神と人とに背を向けさせようと頑張っているのです。サタンを退ける方法をイエスはすでに身を持って教えていてくれます。あなたに必要なのは、特別な霊的賜物でも、特別な追い出しの祈りの方法でも、徹夜や断食でもありません。必要なのは、サタンの誘惑を神の言葉で退けたイエスを信頼し、イエスについて行くことなのです。
2) あなた方こそ私たちの希望、喜び、誉れ (19, 20)
19 わたしたちの主イエスが来られるとき、その御前でいったいあなたがた以外のだれが、わたしたちの希望、喜び、そして誇るべき冠でしょうか。
20 実に、あなたがたこそ、わたしたちの誉れであり、喜びなのです。
パウロには願いがすぐにかなわなくても、心のうちに平和と喜びがありました。それは彼がテサロニケの教会の人々を始めとする、自分と同じように主に従う友を持っていたからです。パウロにも、テサロニケの人たちにも困難がありました。しかしパウロはテサロニケの人々こそが、わたしたちの希望、喜び、そして誇るべき冠だと言うのです。私たちも同じです。それぞれの抱えている困難は異なります。先週、ルカによる福音書か聞いたイエスの言葉は、今日の教えにも応用できます。それぞれの働きや性質が違っていようと互いに一つの体の一部であるように。抱えている困難は違っても同じ一つの体の一部なのです。だれでも自分の困難のほうが切実に感じられます。自分の方が大変だと感じるのです。それは普通の感覚です。けれども、救われたという私達が「どちらが困難か、不幸か」という競争するなんておかしいと思いませんか?私たちは、イエスに従うことによって、自分という体の一部分の問題にとらわれずに、希望と喜びを持つことが出来るのです。これは私たちに与えられている特権です。あなたの希望、喜び、そして誇るべき冠はどこにあるのですか?それを間違ったところに求めるから、希望がない、喜びがない、誇りもないと感じてしまうのです。私の希望、喜び、冠は皆さんです。私たちは互いに互いの希望、喜び、冠としてここにいるのです。この希望、喜び、誉れは、イエスが再び来られた時にその御前でとありますから、それは究極の、最終的な、最高の希望、喜び、誉れだということです。多くの人にとって何かを手に入れる、達成することが希望であり喜びであり誇りなのです。しかし、そういったものは実は不確かで、本当に求めるべきものではありません。
B. 互いの信仰の様子を知り合うことの大切さ
1) 励まし、信仰を強めるために (1-3)
1 そこで、もはや我慢できず、わたしたちだけがアテネに残ることにし、
2 わたしたちの兄弟で、キリストの福音のために働く神の協力者テモテをそちらに派遣しました。それは、あなたがたを励まして、信仰を強め、
3 このような苦難に遭っていても、だれ一人動揺することのないようにするためでした。わたしたちが苦難を受けるように定められていることは、あなたがた自身がよく知っています。
ついにパウロは、自分は離れることのできないアテネから、テモテをテサロニケに派遣することにしたのです。心の中で思っているだけではいけないと思ったのでしょう。一見するとそれは神様を信頼していないことになるようにも思えます。神様を信頼するということは、自分からは動かず、神の働きが起こることを待つということではないのです。テサロニケでの困難は、人々の心が動揺する、神への信頼が揺らぐような性質のものだったのでしょう。パウロはそれに対して、神を信頼して何もしなかったのではなく、神が自分たちの働きかけを通して働いてくださると信じたのです。もちろん私たちは互いのために祈ることが出来ます。しかしそれだけでは足りません。会って、共に時を過ごすことなしに、その人の本当のニーズを知ることは出来ないからです。ぜひ週に一度、あなたの希望であり喜びであり誉れである人々と会って、語り合い、祈り合う時を作って下さい。私たちは互いに互いを必要としているのです。ミニチャーチはそのような場なのです。
2) 苦難の時こそキリストの体は強くなる (4, 5)
4 あなたがたのもとにいたとき、わたしたちがやがて苦難に遭うことを、何度も予告しましたが、あなたがたも知っているように、事実そのとおりになりました。
5 そこで、わたしも、もはやじっとしていられなくなって、誘惑する者があなたがたを惑わし、わたしたちの労苦が無駄になってしまうのではないかという心配から、あなたがたの信仰の様子を知るために、テモテを派遣したのです。
テサロニケで起こっている苦難と私たちが直面していることとは異なります。私たちは苦難ではありませんが、重要な時を迎えていることは確かです。教会のリーダーが世代交代をしようとしているのです。私は10年以上前から、この時期を迎えることをお話し、祈り備えるようにお願いしてきました。神は私たちの祈りに応えて、私たちの中から新しいリーダーを立ててくださいました。多くの教会がこのプロセスを苦難の時として経験してきましたが、私たちは、この時を力強く成長する時としたいのです。教会は人間の集合です。そこに存在するだけでなく、つながっていることが必要です。ポトラックの時全員で手をつないで祈りますが、手がつながっていればいいのではありません。心と心がつながっている、互いが互いを支えている、互いに互いが希望と喜びと誉れになっていることが、本当に必要なことなのです。イエスに従うということは、目に見えるキリストの体の中の一つの教会の責任あるメンバーになることです。最近続けてきてくださるようになった方には、様子を見て確かめる時間は必要だと思います。しかし、あなたがそれをずっと続けていることは神様の願いではありません。まだイエスに従うことに確信が持てない人は、どうぞゆっくりと時間をかけて確かめて下さい。それが今のあなたには一番大切なことです。私たちは何の責任も追わせるつもりはありませんが、何でも一緒にやってみましょう。皆そのようにして、イエスと出会う時、ついていこうと決心する時を迎えたのです。神様はすべての人に「本当につながってほしい」と願っているのです。私もそう願っています。それがユアチャーチであれば一番嬉しいですが、本当につながることが出来るのが他のところであればそれでも嬉しいのです。それは、あなたが共にいる人々を自分の希望、喜び、誉れと思える教会です。私たちもできるだけ多くの人にとってそのようなキリストの体の一部でありたいと願います。しかし、先週教えられたように、それぞれの教会には特色があり、そこでイエスに仕えたい、人々に仕えたいという人々が集まってるのですから、ユアチャーチではなく、そこでつながりたいという人々もまた私たちの希望であり、喜びであり、誉れなのです。
メッセージのポイント
イエスを信頼し、神様の愛に感謝するなら、自分と他人を比べることの無意味さに気が付きます。優越感も劣等感も必要ありまイエスに従う信仰は順調に広がっていったわけではありません。いつでも様々な困難があったのです。それでもパウロは、共にイエスに従う人々を、主イエスを思うのと同様に希望、喜び、誉れとみなしていました。一人一人を宝として大切にしてくださるイエスを私たちは宝として疑いませんが、世界中でイエスに従っている人々も宝です。そして今でも、その多くは困難の中にいるのです。私たち自身が抱えている困難があっても、互いに励まし助け、互いを喜びとして歩んで行きましょう。
話し合いのために
1) パウロはなぜテサロニケの人々と会いたいと強く願ったのですか?
2) サタンの妨害とはどのようなものだったのでしょう?
子供達のために
同じ神様を知っている教会のお友達と普段近くで一緒に遊ぶお友達。どちらも大切で、一緒にいられれば楽しいですが、今日は特に、普段は日曜日にしか会えない教会のお友達の大切さの意味(祈りあえる、励ましあえる)を伝えてください。離れていても互いが体としてつながっている、ということについて「身体」のイメージを使ってもいいかと思います。