<メッセージノート>

2015/3/15  ルカによる福音書 9:51-56; 10:25-37
あなたのサマリア人は誰ですか? 池田真理


A. あなたと対立する人


1) 根深い敵対心 (9:51-53)

9: 51 イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。52 そして、先に使いの者を出された。彼らは行って、イエスのために準備しようと、サマリア人の村に入った。53 しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである。


2) イエス様は争わなかった (9:54-56)

54 弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言った。55 イエスは振り向いて二人を戒められた。56 そして、一行は別の村に行った。


B. あなたの隣人(10:25-37)


10: 25 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」26 イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、27 彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」28 イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」29 しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。30 イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。31 ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。32 同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。33 ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、34 近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。35 そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』36 さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」37 律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」。

1) 差別や偏見を捨てる


2) 具体的に「隣人になる」



メッセージのポイント
サマリア人とユダヤ人は歴史的背景から、互いに敵対し合っていました。でも、人間から見ればどんなに根深い問題があっても、神様はどんな人も分け隔てしません。私たちが対立する相手でも、神様は愛しています。そして、敵同士ではなく、隣人となるように望んでいます。神様の愛によって、私たちが持っている偏見や誤解に気づかせていただきましょう。うまくいっている人と仲良くするのは簡単ですが、そうでない人の隣人になるとはどういうことか、状況に応じて具体的に行動することが大切です。

話し合いのために
1) ユダヤ人にとってのサマリア人のように、あなたは誰かと対立して争っていますか?
2) 「隣人になる」とは具体的にどういうことですか?

子供達のために
大人向けのポイントとは少し違ってしまいますが、「善いサマリア人」の話を中心にして、子供たちに自分はどの登場人物にあてはまりそうか、聞いてみてください。そして、実はみんな「追いはぎに襲われて半殺しにされた人」で、善いサマリア人はイエス様なんだと教えてください。誰に対しても優しくしなさいという道徳的な教えではなく、イエス様がみんなをいつも助けてくれる善い方なんだということを子供たちに覚えてほしいと思います。

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<メッセージ全文>

2015/3/15  ルカによる福音書 9:51-56; 10:25-37
あなたのサマリア人は誰ですか? 池田真理

 今日もルカによる福音書の続きを読んでいきますが、今日の箇所は、ルカによる福音書全体でも一つの区切りとなっている箇所です。今までは、イエス様が自分の故郷であるガリラヤ周辺で活動していたことが書かれてありました。今日の箇所から、イエス様と弟子たちは、ガリラヤを出て、エルサレムに向かう旅を始めています。ガリラヤ地方からエルサレムに向かうには、サマリアを通るのが近道でした。でも、サマリア人とユダヤ人は歴史的に対立関係にありました。今日の箇所を読むと、イエス様もサマリア人から反発を受け、旅の最初から行く手を阻まれてしまったことが分かります。でも、イエス様の方でサマリア人を拒否することはありませんでした。私たちにも、私たちのサマリア人がいます。互いに理解しようとせず、対立し合っているなら、その人はあなたのサマリア人です。どういうことか、今日の箇所を読んでお話ししてきたいと思います。


A. あなたと対立する人


1) 根深い敵対心 (9:51-53)

9: 51 イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。52 そして、先に使いの者を出された。彼らは行って、イエスのために準備しようと、サマリア人の村に入った。53 しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである。

 サマリア人がイエス様を歓迎しなかった理由は、53節にヒントがあります。「イエスがエルサレムを目指して進んでおられたから」とあります。このことは、この福音書が書かれた当時の人々にはピンときたとしても、私たちにはあまり意味が分かりません。でも、サマリア人とはどういう人達なのか、歴史的に探っていくと、サマリア人がエルサレムを憎んだ理由が分かります。そしてまた、サマリア人とユダヤ人の間には、根深い敵対心があったことも分かります。今日は、最初から歴史の勉強のようになってしまいますが、少しユダヤ人の歴史を振り返ってみたいと思います。

 サマリアというのは、もともと場所の名前です。ユダヤ人の王国が、北と南に分裂してしまった紀元前10世紀当時から、北の王国の中心地がサマリアでした。南王国の中心はエルサレムです。やがて北の王国も南の王国も、アッシリアやバビロニアなどの周辺の強国によって支配されてしまいます。先に滅んだのは、サマリアを中心とする北王国でした。サマリアは植民地とされて、たくさんの異民族が住むようになりました。ユダヤ人にとって異民族というのは、唯一の神を信じない汚れた人々です。だから、異民族との混血が進んだサマリアの人々を、生き残っていた南王国のユダヤ人たちは見下すようになりました。「サマリア人」という呼び方自体も、南のユダヤ人から見て、正統なユダヤ教徒である自分たちと北のユダヤ人を差別するために、南のユダヤ人が呼び始めたと言われています。やがて、滅ぼされた南王国の人々が、捕囚から解放されて、ソロモンがエルサレムに建てた神殿を再建しようとします。サマリアの人々もそれを喜んで、その再建事業を手伝おうとしました。しかし、エルサレムの人々は彼らの申し出を断りました。サマリアの人々は正統なユダヤ教徒ではないからという理由でです。サマリア人は怒って、エルサレムでの神殿再建を妨害し、同時に彼ら独自の神殿をサマリア地方に建てました。こうして、元々は同じ神を礼拝する一つの民族だったユダヤ人とサマリア人は、他国の支配から解放された後も、互いに対する根強い反感を抱き続けることになってしまいました。

 
 サマリア人たちが、エルサレムに向うイエス様を拒否した背景にはこういう事情がありました。互いに対する敵対心は、歴史を遡れば1000年以上も前から始まっていたことになります。悲しいのは、何百年も前の出来事が、代々語り継がれて、差別や偏見が人々の意識の中で固定してしまうことです。それは、いつもいつも戦争をしているわけではなくても、人々の生活の中で、常に不信や疑いが根底にあることになります。私は、このユダヤ人とサマリア人の関係を考えていて、日本人と中国人、韓国人の関係を思いました。事情は異なりますが、隣国として争ってきた歴史があります。歴史認識を巡って、今でも政治的にギクシャクしています。その一方、個人の間や文化交流の面では友好が深まっていることは、嬉しいことです。この教会にも韓流スターのファンがいらっしゃいます。でも、最近問題になっている「ヘイトスピーチ」や、数年前に起こった中国での反日デモを見ると、やはり過去から互いに対する偏見を引き継いでいることは否定できません。それは、何か自分たちの今の生活に問題が起こると、その怒りの矛先を向ける相手を作るために、都合よく歴史を利用しているだけです。ナチスドイツがユダヤ人をスケープゴートとしたのも同じです。現代に生きる私たちが、過去の過ちをなかったかのようにすることはできません。歴史を正しく理解して、過ちの責任を明確にすることは必要です。でも、「韓国人はこうだから」「中国人はこうだから」「ユダヤ人はこうだから」「日本人はこうだから」と、勝手なイメージで互いを差別するなら、過ちを繰り返すことになります。そしてそれは、民族間、国家間だけのことではありません。家族の中、友人の間でも起こることです。過去の出来事が、ずっとわだかまりの原因となって、和解することができません。過ちの責任をとるべき人は確かにいるかもしれません。でも、その人を責めて、責任をとらせたとしても、自分が受けた傷はすぐに癒されるわけではありません。ではどうすればいいのかということですが、今日の箇所の続きにいきましょう。


2) イエス様は争わなかった (9:54-56)

54 弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言った。55 イエスは振り向いて二人を戒められた。56 そして、一行は別の村に行った。

 イエス様は、サマリア人たちを責めませんでした。弟子たちは怒りましたが、イエス様は彼らを叱って、ただ「別の村へ行こう」と自分から身を引きました。イエス様は、その時代の固定観念にとらわれませんでした。イエス様にとっては、サマリア人もユダヤ人も関係なく、愛すべき対象でした。イエス様のこの姿勢を一番よく表しているのは、今日の箇所の少しだけ後にある、有名な「善いサマリア人」のたとえ話です。少し長いですが、10章25-37節全体を読みます。


B. あなたの隣人(10:25-37)

10: 25 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」26 イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、27 彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」28 イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」29 しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。30 イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。31 ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。32 同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。33 ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、34 近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。35 そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』36 さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」37 律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」。

1) 差別や偏見を捨てる

 まず最初に注目したいのは、この話が「善いサマリア人」の話であって、「善いユダヤ人」の話ではないという点です。イエス様もこの律法の専門家も弟子たちもみんなユダヤ人なので、この話はユダヤ人向けに語られている話です。それでも、この話の主人公はユダヤ人ではなくサマリア人です。瀕死の重傷を負っているのはユダヤ人で、その人を助けた善い人がサマリア人という設定です。祭司とレビ人は同じユダヤ人でありながら、彼を見て見ぬ振りをして通り過ぎた冷たい人たちとして描かれています。聞いていたユダヤ人たちの中から、反論の声が上がりそうなストーリー設定なのです。瀕死のサマリア人を助けた善いユダヤ人の話なら、快く受け入れられたかもしれません。でもイエス様はそんな妥協はせず、彼らの常識をひっくり返しました。そこには、ユダヤ人がサマリア人に対して持っている差別と偏見が間違っているという厳しい批判もこめられています。私たちも、このイエス様の批判が自分に向けられていないか、考える必要があります。私たちが長年対立して争ってきた相手でも、神様の愛に例外はありません。間違っているのは私たちの方かもしれません。相手が悪いとしても、私たちも悪いのかもしれません。神様は誰も差別しないという事実は、私たちにとって恵みであると同時に、時には受け入れがたい厳しい現実でもあります。私たちの差別と偏見が深ければ深いほど、私たちはそれが当たり前で正当だと思っているからです。でも神様は、私たちが対立している相手も私たちの隣人だと言われています。この隣人であるということについて、最後にお話ししていきたいと思います。


2) 具体的に「隣人になる」

 イエス様に質問した律法の専門家は、神様を愛し、隣人を自分のように愛することが大切なのは知っていました。でも彼は、自分の隣人とは自分の近しい人達だけを指すと思っていました。自分が自分を愛するように愛する相手に、なぜ異民族や見ず知らずの人が含まれる必要があるのか、彼には想像もつかなかったはずです。彼だけでなく、そこにいたイエス様以外の人はみんなそうだったでしょう。でもイエス様は、たとえ話の最後に彼らに尋ねます。「瀕死の人を無視した祭司とレビ人、彼を哀れに思ってお世話したサマリア人、そのうち誰が彼の隣人になったと思うか?」この問いの答えは、誰にも明らかでした。ユダヤ人かサマリア人かに関係なく、苦しんでいる人を助けた人が、その人の隣人です。自分の隣人は誰か、私たちが自分の好みで決めるとしたら、私たちは神様の愛を全然理解していないことになってしまいます。神様の愛は、この善いサマリア人の愛です。善いサマリア人はイエス様自身でもあります。私たちは皆、瀕死の重傷を負っているこのユダヤ人でもあります。互いを差別しあって、対立します。神様が愛するようには愛せず、神様が赦すように赦すことができず、争いの中にいます。自分を傷つけた誰かを責めることで自分を守っているつもりでも、傷を大きくしているだけです。イエス様は、そんな私たちすべての「善いサマリア人」として、私たちの傷を癒し、隣人になってくれました。そして、律法の専門家に言ったように、私たちにも言われます。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

 誰かの隣人になることは、抽象的に誰でも愛するというより、とても具体的な(実際的な)ことです。愛せない人を愛し、赦せない人を赦し、それを実際に行動にするということです。皆さんにとってのサマリア人は誰でしょうか?その人の隣人になるとは具体的に何を意味するのでしょうか?私たちすべての隣人になって下さったイエス様に、よく聞いてみてください。


メッセージのポイント
サマリア人とユダヤ人は歴史的背景から、互いに敵対し合っていました。でも、人間から見ればどんなに根深い問題があっても、神様はどんな人も分け隔てしません。私たちが対立する相手でも、神様は愛しています。そして、敵同士ではなく、隣人となるように望んでいます。神様の愛によって、私たちが持っている偏見や誤解に気づかせていただきましょう。うまくいっている人と仲良くするのは簡単ですが、そうでない人の隣人になるとはどういうことか、状況に応じて具体的に行動することが大切です。

話し合いのために
1) ユダヤ人にとってのサマリア人のように、あなたは誰かと対立して争っていますか?
2) 「隣人になる」とは具体的にどういうことですか?

子供達のために
大人向けのポイントとは少し違ってしまいますが、「善いサマリア人」の話を中心にして、子供たちに自分はどの登場人物にあてはまりそうか、聞いてみてください。そして、実はみんな「追いはぎに襲われて半殺しにされた人」で、善いサマリア人はイエス様なんだと教えてください。誰に対しても優しくしなさいという道徳的な教えではなく、イエス様がみんなをいつも助けてくれる善い方なんだということを子供たちに覚えてほしいと思います。