<メッセージノート>
光の子となろう アンディ永原
A. 十字架の時が近づいた
1) この時のために来た救い主 (27)
27 「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。
2) それは神さまが栄光をあらわす時 (28-33)
28 父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」
29 そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。
30 イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。
31 今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。
32 わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」
33 イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。
B. イエス - あなたの歩みを照らす光
1) 多くの人にとってメシアとイエスが結びつかない (34)
34 すると、群衆は言葉を返した。「わたしたちは律法によって、メシアは永遠にいつもおられると聞いていました。それなのに、人の子は上げられなければならない、とどうして言われるのですか。その『人の子』とはだれのことですか。」
2) 光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい (35,36)
35 イエスは言われた。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。
36 光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」イエスはこれらのことを話してから、立ち去って彼らから身を隠された。
メッセージのポイント
イエスは自分の世に生まれた目的は十字架で死ぬためだったと言っています。しかも、世界から超越した神としてではなく苦痛も恐怖も感じる一人の人間として、その時を迎えようとしています。十字架は、闇に覆い尽くされた世界にイエスが光としてこられ最高の輝きを放った瞬間でした。復活はそれが幻想ではなかったことの証拠です。それでも残念なことに、見えない人には見えません。ひとときイエスに心を動かされてもついて行くのをやめてしまう人もいます。私たちは、十字架と復活を信じる者として、それが事実であるばかりか、誰にとっても大切な真理であることを伝えていきましょう。
話し合いのために
1) イエスは自分が世に生まれた目的を何だと言っていますか?
2) イエスはなぜご自分を「人の子」と表現されたのでしょう?
子供達のために
イエスは人として耐え難い苦しみの時を迎えようとしています。十字架を記念する金曜日、そして復活を憶える来週のイースター。今週が、一年の中で最も大切な一週間であることを伝えて下さい。十字架の残酷さを際だたせるのではなく、私たちのために誰よりも大きな犠牲を払って下さった方を、いつもよりも多く思う時とすることを勧めて下さい。光と闇の対比は子供にもわかりやすいと思うので、イエスを光として、光の子になることを勧めて下さい。また、受難週にイエスがなさったことを、子供たちと調べてみることもいいと思います。
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<メッセージ全文>
光の子となろう アンディ永原
A. 十字架の時が近づいた
1) この時のために来た救い主 (27)
27 「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。
イエスは十字架にかけられた週の日曜日にエルサレムに入ってこられました。人々はナツメヤシ(日本ではシュロと訳されてきました)の葉を振りながら迎えたことがこの12章の最初に書かれています。2000年間、教会はイエスの人としての歩みの最後の一週間を深く思いながら、毎年この一週間を大切にしてきました。そこで私たちも、今日からの一週間をいつもに増して、イエスの十字架について思う時としたいと思います。
十字架の時はすぐそこまで迫っていました、ここには、なすべきことはわかっている、しかし怖い、逃れたいという気持ちを持つイエスが描かれています。それは尻込みしている自分を鼓舞する言葉のようにも思えます。こんな弱腰のイエスが本当に神なのか?という人もいるでしょう。福音書がキリスト教の宣伝のために書かれたとしたら、この節の前半はカットしていたはずです。しかし福音書は、正直に、できるだけ正確にイエスの言葉を記録しました。それでよかったのです。イエスの気弱な言葉によって、彼が私たちとはかけ離れた近づきがたい神様ではなく、本当に人となって生きてくださった神さまであることを確認できるからです。私たちを作り、愛し、導く、本当の神さまである証拠とは、実は、本当に人となって生活され、私たちが直面しながら生きる苦しみ悲しみの全てを自分のこととして体験されたことなのです。イエス自身が、困難に勝てるのは自分の強さではなく神さまへの信頼であることを身をもって教えて下さったのです。イエスは知っていました。自分は十字架で死ぬために生まれたのだと。それは言い換えれば、私たちに対する愛を貫くために生まれたのだといってもいいのです。あなたは何のために生まれたのでしょうか?あなたも十字架に死ぬために生まれたのです。冗談ではありません。
また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。(マタイ 10:38)
わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。(ローマの信徒への手紙 6:6)
文字通り十字架にかかるという意味ではありません。イエスのように自分を捨てて、人を愛して生きるということです。私たちが神さまに期待されている「愛する」ことの原点が十字架なのです。そしてこの十字架にかかってくださった方に従って生きる以外に、神様の期待にこたえることができないというのが聖書の主張です。
2) それは神さまが栄光をあらわす時 (28-33)
28 父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」
29 そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。
30 イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。
31 今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。
32 わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」
33 イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。
御名の栄光とは、普通なら見ることの出来ない神さまが何らかの方法で、ご自身の存在をあらわされ人々に分かる状態のことです。つまりイエスは「あなたを見せて下さい」と言ったということです。それは自分にというより、自分を取り囲んでいる人々に「見せて下さい」という願いでした。だから群衆にもその声が聞こえ、イエスは「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。」と説明しました。聞こえた声は、「私はすでに栄光を表した」です。イエスの30数年の生涯でご自身を現されたということです。しかしその総仕上げは、この時点ではまだ起こってはいません。神の栄光のクライマックスが十字架と復活です。この二つのことは硬貨の両面のように切り離しては考えられない本質的に一つのことですが、今はその一面である「十字架」に注目すべき時です。それは「復活」のようにウキウキワクワクすることではありません、できれば目をそらせたい、考えたくない一面です。それが最も重要ではないと知っていたとしても、私たちはすでに手に入れているものを失いたくありません。だから家の中が物で溢れるといったことが起こります。心にも同じことがいえます。“私”のもので心を満たしていたら、神さまからの最高に良いものが入る余地はありません。イエスはそれを今日のテキストの直前の部分で次のような言葉で表現しています。
自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。( ヨハネによる福音書 12:25)
十字架は私たちの罪を背負ったイエスの死による赦しだけではなく、私たちが今まで大切だと考えてきた自分中心の生き方を捨て、赦されて与えられた新しい命、永遠の命に生きる決心をした記念碑です。それはイエスとともにイエスのように愛して生きようとする者の出発点です。
B. イエス - あなたの歩みを照らす光
1) 多くの人にとってメシアとイエスが結びつかない (34)
34 すると、群衆は言葉を返した。「わたしたちは律法によって、メシアは永遠にいつもおられると聞いていました。それなのに、人の子は上げられなければならない、とどうして言われるのですか。その『人の子』とはだれのことですか。」
当時の群衆は、大きな権力をふるう王としてメシア(救い主)は登場するという既成概念にとらわれて、イエスがメシアであるとは信じられませんでした。憐れみ深く、人々を癒やし、勇気づけ、その魅力に一時は多くの人々が彼に期待をかけましたが、イエスの教えはあまりにも革新的でした。誰もが、社会の変化を必要だと思っていましたが、自分に心の革命が必要だとは思いもよらなかったのです。彼らは自己弁護するのにいつでも律法を使います。神さまではなく伝統的な教えを引き出して正当性を主張します。人の子とは預言者ダニエルがイエスの昇天の幻をみせられた(7:13)ところで用いられた表現で、イエスが天にあげられると受け取れる箇所です。人々も知らないはずはありませんが、それを無視して律法と外れていると言いはりったり、だいたいなぜあなたは自分をそのような者だといえるのか、と文句を言い続けました。彼らは聞いて知りたかったのではなく、拒絶したかっただけだったのです。イエスはもう質問には答えず呼びかけられます。残りの部分を読みましょう。
2) 光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい (35,36)
35 イエスは言われた。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。
36 光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」イエスはこれらのことを話してから、立ち去って彼らから身を隠された。
光とはもちろん神が現された栄光、イエスのことです。イエスを肉眼で見ることの出来た人々は、その時代のイスラエルの人たちだけでしたが、もうすぐ彼らにもそれができなくなる時が近づいていました。神様の栄光をあらわす「光の子」になることを、イエスは私たちに強くそして切迫感を持って勧めています。誰もに必要な生き方の基本ですが、それはいつでもその気になれば出来るわけではありません。光はいつでも見えているわけではないのです。光が見えなくなる時もあるのです。私たちは皆、闇の中を歩いてきたようなものです。しかし、恵みによって光を見ることが出来ました。今私達はどんなに環境がひどくても、暗闇のように見えても、イエスが共におられることを知っています。だから歩み続けることが出来ます。ですからこのイエスの言葉を、まだイエスと共に歩むということに確信を持てない方にぜひ受け取っていただきたいのです。
「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」
聖書の教える人生の目的とは、伝統的な表現を使えば「神の栄光をあらわす」ことです。今朝、ここにいる皆さんには、それが抽象的な、宗教的なことばとしてではなく、はっきりとイメージ出来たのではないでしょうか?イエスに従って歩むことにより、私たちの周りの人々が「確かに神さまはいて、私たちを愛し、導いてくださるのだ」と気づき、ひとりでも多くの人が、絶望から、無気力から、生きがいを見いだせない苦しみから解放される、という神様の働きを担うということです。あなたは、職場にいようと、学校にいようと、家庭にいようと、病院のベッドの上にいようと、周りの人々に「この人のために十字架に架かって誰よりも苦しむほど、この人を愛して止まない神さまがいるのだ」ということを見せているのです。イエスの呼びかけが分かる時は限られています。イエスに興味をもったけれど、あるいはキリスト教の環境に育ったけれど、いつの間にか、その呼びかけを忘れて、闇の中で自分がどこに行くか分からない歩みをしている人が大勢います。いつか再びチャンスが来ることを願いますが、光があるのに闇の中を歩き続けるのはもったいないことです。有名なイスラエルの王ダビデの知恵に優れた子ソロモンは、
青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。「年を重ねることに喜びはない」と言う年齢にならないうちに。太陽が闇に変わらないうちに。月や星の光がうせないうちに。雨の後にまた雲が戻って来ないうちに。(コヘレトの言葉 12:1,2)
と勧めています。この受難週、イースターに、皆さんがイエスに従って生きる決心が出来るように、また持っているその思いが更に強くされるように願います。主イエスの十字架にフォーカスしてしばらくのあいだワーシップしてゆきましょう。
メッセージのポイント
イエスは自分の世に生まれた目的は十字架で死ぬためだったと言っています。しかも、世界から超越した神としてではなく苦痛も恐怖も感じる一人の人間として、その時を迎えようとしています。十字架は、闇に覆い尽くされた世界にイエスが光としてこられ最高の輝きを放った瞬間でした。復活はそれが幻想ではなかったことの証拠です。それでも残念なことに、見えない人には見えません。ひとときイエスに心を動かされてもついて行くのをやめてしまう人もいます。私たちは、十字架と復活を信じる者として、それが事実であるばかりか、誰にとっても大切な真理であることを伝えていきましょう。
話し合いのために
1) イエスは自分が世に生まれた目的を何だと言っていますか?
2) イエスはなぜご自分を「人の子」と表現されたのでしょう?
子供達のために
イエスは人として耐え難い苦しみの時を迎えようとしています。十字架を記念する金曜日、そして復活を憶える来週のイースター。今週が、一年の中で最も大切な一週間であることを伝えて下さい。十字架の残酷さを際だたせるのではなく、私たちのために誰よりも大きな犠牲を払って下さった方を、いつもよりも多く思う時とすることを勧めて下さい。光と闇の対比は子供にもわかりやすいと思うので、イエスを光として、光の子になることを勧めて下さい。また、受難週にイエスがなさったことを、子供たちと調べてみることもいいと思います。