<メッセージノート>
喜んで生きる 池田 真理
A. イエス様は生きておられる!(36-43)
28 父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」
29 そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。
30 イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。
31 今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。
32 わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」
33 イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。
B. イエス様は私のために死なれた!
1) 神様が計画されたイエス様の死 (44, イザヤ53章)
44 イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」
1 わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。2 乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように この人は主の前に育った。見るべき面影はなく 輝かしい風格も、好ましい容姿もない。3 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。4 彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに わたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と。5 彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。6 わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた。7 苦役を課せられて、かがみ込み 彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように 毛を切る者の前に物を言わない羊のように 彼は口を開かなかった。8 捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり 命ある者の地から断たれたことを。9 彼は不法を働かず その口に偽りもなかったのに その墓は神に逆らう者と共にされ 富める者と共に葬られた。10 病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ 彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは彼の手によって成し遂げられる。11 彼は自らの苦しみの実りを見 それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った。12 それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし 彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成しをしたのはこの人であった。
2) 全ての人の罪を赦すために (45-48)
45 そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、46 言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。47 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、48 あなたがたはこれらのことの証人となる。
C. 聖霊様によって喜びを伝え続ける (49)
49 わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」
メッセージのポイント
イエス様が私たちの人生に、他の人々の人生に生きて働いておられることを体験すること、それが私たちが喜んで生きるための鍵です。でも、弟子たちが復活の主に出会う前にそうだったように、私たちもイエス様を見失い、罪と暗黒に支配されそうになる時があります。そういう時は、その罪と暗黒を全てイエス様は十字架で担い、私たちのために死なれたことを思い出しましょう。それが喜んで生きるもう一つの鍵です。そして、この喜びを伝え続け、分かち合うことができるように、聖霊様を求めましょう。
話し合いのために
1) イエス様は生きておられる!という経験を教えてください。
2) 喜んで生きられないのはどういう時でしょうか?
子供達のために
イエス様は生きておられるということを中心に話し合ってみてください。それぞれの生活の中でイエス様が助けてくださったことや、お父さんやお母さんから聞いた話でもいいと思います。イエス様が十字架で死なれたままではなく復活されたということは、それからずっとイエス様は生きておられるということです。今は目には見えなくても、確かに私たちの中で生きておられるということを覚えてほしいと思います。スタッフの皆さんの体験をお話しするのもいいと思います。
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<メッセージ全文>
喜んで生きる 池田 真理
今日は4月の最初の日曜日です。4月は日本では新しい挑戦が始まる季節です。この教会の中でも、幼稚園に通い始める子、中学にあがる人、高校生になる人、新たな仕事に就く人、何人かいらっしゃいます。大きな節目ではなくても、学年が変わったり、同僚に異動があったり、何かと自分の周りで変化を感じることがあると思います。また反対に、周りがどんどん変化しているのに、自分だけ取り残されているように感じてしまうこともあるかもしれません。病気や問題や、ずっと同じ闘いを続けている方もいます。私たちが置かれている状況は一人一人違いますが、教会の中では今日は一年で最も嬉しい日、イースターです。今日は、私たちがどんな状況にあっても、喜んで毎日を送ることができる鍵を、イースターのお話からご紹介します。鍵は2本あって、2本で1組です。1本だけでは不十分です。まず1本目の鍵について、36-43節を読みましょう。
A. イエス様は生きておられる!(36-43)
28 父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」
29 そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。
30 イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。
31 今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。
32 わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」
33 イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。
三日前に十字架で苦しまれて死なれたはずのイエス様が、弟子たちの目の前に現れました。弟子たちは何が起こったのか把握できていません。自分たちの目で確かに死なれたことを確認し、お墓に納められたはずの主が、なぜ目の前におられるのか。イエス様も、彼らが驚くことを予想していました。でも、確かに自分はこうしてよみがえり、生きておられるということを彼らに知らせる必要がありました。だから、「よく見なさい。幽霊ではない。確かに私だ。」と、手足を見せ、焼き魚を食べてまで、彼らにはっきり教えました。弟子たちは何が起こったかまだ理解できないにしても、とにかく主は生きておられるのだと知りました。主は十字架で死なれて、暗いお墓に埋もれてしまったと思っていましたが、それで終わりではありませんでした。イエス様は生き返り、生きておられるという、ありえないことが現実になりました。この人間の常識では考えられない、恐れすら抱かせる出来事が、弟子たちを喜びで満たし、彼らの人生を根底から覆しました。そして、彼らから伝え聞いた人たちからまた別の人々へ、何代にも渡って伝え続けられて、教会が建てられました。「主イエス様は生きておられる」、これが教会が2000年間、ずっと伝え続けていることです。私たちがこうしてここに集って、毎週日曜日に礼拝を捧げる目的も、イエス様は生きておられることを共に祝いたいからです。皆さん、イエス様は生きておられる、と信じていますか?先週、ご自分の生活の中で、または誰か別の人の生活の中で、イエス様が生きて働いておられる、確かにイエス様は共にいて下さるのだと実感することはあったでしょうか?教会に来て、親しい人たちと顔を合わせることは嬉しいですが、もし教会に来ることがそれだけで終わってしまっているとしたらもったいないです。一番おいしいところを味わっていことになってしまいます。イエス様は生きています。互いの人生の中でそのことを発見できることが、ここに集う一番の目的であり、私たちが互いに提供できる最大の喜びです。そして、これが私たちが喜んで生きるための鍵の1本です。もしイエス様が生きておられることが分からない、分からなくなってしまったなら、今日そのままで帰らないで下さい。教会の誰かに聞いてみてください。そして、イエス様自身に言ってみてください。そして、イエス様がどういう方か思い出してください。イエス様は私たちのために死なれた方です。これが2本目の鍵です。44節を読みましょう。
B. イエス様は私のために死なれた!
1) 神様が計画されたイエス様の死 (44, イザヤ53章)
44 イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」
喜びながらも戸惑っている弟子たちに、イエス様は説明しました。神様の計画が実現するために、自分は死ななければならなかったのだということです。「モーセの律法、預言者の書、詩編」というのは旧約聖書全体を指します。神様は旧約聖書の色々な箇所で、全ての人を救う救い主を私たちに与えるということを教えています。でも、イエス様が来られるまで、多くの人々は救い主は力強い政治的な指導者だと勘違いしていました。私の好きな説教者の言葉を借りると、人々が期待していた救い主は、「大波のように全てを押し流すメシア」、つまり強い力で強制的に全ての人の心を変え、社会を変えてしまう指導者でした。私たちも時々、神様がそういう強い力で私たちや私たちの愛する人たちの疑いや恐れを吹き消してくれればいいのに、と思う時があると思います。でも神様の計画は違いました。旧約聖書の中でも、イザヤ書53章は特に神様の計画とイエス様がどういう方かを示しています。
1 わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。2 乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように この人は主の前に育った。見るべき面影はなく 輝かしい風格も、好ましい容姿もない。3 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。4 彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに わたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と。5 彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。6 わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた。7 苦役を課せられて、かがみ込み 彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように 毛を切る者の前に物を言わない羊のように 彼は口を開かなかった。8 捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり 命ある者の地から断たれたことを。9 彼は不法を働かず その口に偽りもなかったのに その墓は神に逆らう者と共にされ 富める者と共に葬られた。10 病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ 彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは彼の手によって成し遂げられる。11 彼は自らの苦しみの実りを見 それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った。12 それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし 彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成しをしたのはこの人であった。
イエス様は全てを押し流すどころか、互いの罪のためにこの世で溺れ死そうになっている私たちのうちの一人になって下さいました。そして遂に、人間の罪によって、イエス様は殺されました。それは、イザヤが預言した通り、私たちは羊の群れで、道を誤り、それぞれ自分勝手な方角に向かっていたからです。そして、神様はその私たちの罪をすべてイエス様に負わせられたからです。それが神様の計画でした。私たちのために苦しみ、命を捧げられた神様、それが私たちに与えられた救い主です。続きを読みましょう。
2) 全ての人の罪を赦すために (45-48)
45 そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、46 言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。47 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、48 あなたがたはこれらのことの証人となる。
2000年前の出来事が、なぜ自分に関係があると言えるのか、考えてみれば不思議です。でも、今日最初にお話しした、「イエス様は生きておられる」ということを2000年間ずっと教会が伝え続けてきたのと同じように、「イエス様は私たちの罪のために死なれた」ということも教会は伝え続けてきました。そして、イエス様が死なれたのは、特定の時代、特定の民族のためではなく、時間も場所も超えて、全ての時代、全ての人々のためだと伝えてきました。それは、どの時代もどの民族も、抱える問題の根本はいつも同じだからです。人間の抱える全ての悩み、争い、問題の根本は、イザヤの言葉で言うならば、自分が羊飼いから迷い出た勝手な羊だということを知らないということです。自分の力で生きていけると信じて、従うべき方に従おうとしません。ここにいる皆さんの多くは、自分の力で生きていくことはできないという挫折を、人生のどこかで経験したと思います。今思い返せば、それは当時苦しかったにしても、それを通して神様に出会えたという意味では感謝すべき経験だと思います。また、一度きりではなく、神様は私たちに繰り返しこういう挫折の経験を与えます。私たちはいつの間にかまた、自分で生きていけると勘違いして、神様から迷い出るからです。だから、自分の限界を知る経験は、主に従う者にとっては苦しくても喜べる経験です。でも、自分の限界を知ることだけが私たちと神様を結ぶわけではありません。それが入り口であることは確かですが、神様と本当の意味で結ばれるのは、神様が死ななければならなかったほど、自分は間違っていると思い知る時です。人には隠されていても、神様に隠されているものは何もありません。イエス様が命を捧げてくださっていなければ、私たちは神様に滅ぼされて当然の存在です。今でもそうです。ただ、赦されただけで、罪人であることには変わりありません。私たちは自分ではどうしようもなく救いようもない存在だから、神様の憐れみに頼るしかありません。それが聖書では悔い改めるということです。
今日初めに、どんな時でも喜んで生きるための鍵は2本あって、その2本は2本で1組で、1本では不十分だとお話ししました。イエス様が生きておられるということは前半でお話ししましたが、その喜びは、今後半でお話しした、イエス様が私のために死なれたということを抜きにしたら、必ずどこかで分からなくなります。私たちが、自分の人生に、また他人の人生に主が生きておられることを求め、それを喜びとできるのには理由があります。それは私たちが死ぬべき存在だったのに、主は私たちのために死んでくださったからです。主が死なれたから、私も死んだも同然です。そして主が生きるなら、私も生きています。私たちの生活の中で、私たちは死に、主が生きること、これがどんな時でも喜んで生きるための鍵です。最後に、この鍵を手放さないためには、私たちは聖霊を求める必要があるということをお話しします。
C. 聖霊様によって喜びを伝え続ける (49)
49 わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」
神様は、大波のように押し寄せて、手っ取り早く人々の心と社会を変えてしまうことはしませんでした。その方がよっぽど簡単で楽だったと思いますが、あえて神様は、イエス様に出会った一人一人がその喜びをまた他の人に伝えるという地道な方法を私たちに与えました。私たちも皆、一足早くイエス様と出会い、喜んで生きる鍵を先に見つけた人々から、少しずつその喜びを受け取りました。もしかしたら、神様の愛が大波のように迫ってきて、恐れや不安を吹き飛ばしてくれたという経験がある方もいるかもしれません。それも、イエス様は生きておられるという嬉しい経験の一つです。でも、残念ですが、大波がずっと続くことはありません。大抵の場合私たちは、自分の生活の中で、また他の人々の人生の中で、見え隠れしながら、でも確かにそこにおられる主に出会って、喜びます。私の好きな説教者はそれを、「イエス様から、そして彼に従う人々から、ポタリポタリと落ちてくる、憐れみの一滴」と言っていました。喜んで生きるための鍵を見つけても、その喜びはポタリポタリと少しずつ滴るだけのように感じるのがこの世界の現実です。喜びが本当に大波となって私たちを覆ってくれるのは、再びイエス様がこの世界に来て下さる時を待つしかありません。イエス様と直接話すことができた弟子達でさえ、「高いところからの力に覆われるまで待っていなさい」と言われました。私たちも、聖霊様の力によらなければ、神様の憐れみの目立たなさに失望してしまいます。そして、一度手に入れた鍵を、持っていることさえ忘れてしまいます。だから、どうぞ聖霊様を求めてください。鍵が何か、教えてもらい、思い出させてもらい、主が与えてくださっている喜びの一滴一滴を見ることができるように求めてください。
メッセージのポイント
イエス様が私たちの人生に、他の人々の人生に生きて働いておられることを体験すること、それが私たちが喜んで生きるための鍵です。でも、弟子たちが復活の主に出会う前にそうだったように、私たちもイエス様を見失い、罪と暗黒に支配されそうになる時があります。そういう時は、その罪と暗黒を全てイエス様は十字架で担い、私たちのために死なれたことを思い出しましょう。それが喜んで生きるもう一つの鍵です。そして、この喜びを伝え続け、分かち合うことができるように、聖霊様を求めましょう。
話し合いのために
1) イエス様は生きておられる!という経験を教えてください。
2) 喜んで生きられないのはどういう時でしょうか?
子供達のために
イエス様は生きておられるということを中心に話し合ってみてください。それぞれの生活の中でイエス様が助けてくださったことや、お父さんやお母さんから聞いた話でもいいと思います。イエス様が十字架で死なれたままではなく復活されたということは、それからずっとイエス様は生きておられるということです。今は目には見えなくても、確かに私たちの中で生きておられるということを覚えてほしいと思います。スタッフの皆さんの体験をお話しするのもいいと思います。